木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 細谷英二さんは、熊本高校から東大法学部を経て、68年に国鉄へ入り、国鉄改革3人組といわれた井出正敬・松田昌士・葛西敬之さんたちをサポートして、国鉄を分割民営化に導いた立役者のお一人でした。その後93年に取締役、96年に常務と順調に歩みを進まれ、この年2000年6月に代表取締役副社長兼事業創造本部長として、自動改札やビューカードの導入、山形新幹線、成田エクスプレス、駅ナカビジネスなどを手掛けられた人なのです。そんな方に、私ごときの話が響くわけもなかったのですが、笑顔でフランクにご挨拶をいただいて、恐縮したのを覚えています。この時は、まさか03年に、再びお目にかかることになるとは思ってもいませんでした。

 片山修さんには02年12月18日、客員教授を務められていた学習院女子大学へお招きをいただき、講義をさせていただきました。たしか、新宿区の戸山にあり、1887年に設立された華族女学校を前身とするだけあって、卒業生には、女性皇族の他に、犬飼智子さんや津村節子さんなどの女流作家の名前も見受けられました。4年制の女子大になったのはまだ3・4年前とのことで、こじんまりとしたキャンパスを「これが学習院か!」とキョロキョロしながら歩いていると、行き交う女学生さんたちから、「ごきげんよう!」と優雅に声を掛けていただき、同じ「ごきげんよう!」という言葉でも、仁鶴さんの声とは随分違うものだと感心しましたね。

 大学つながりということで言うと、2000年11月3日には母校の同志社大学から依頼を受けて、創立125周年の「ホームカミングデー」で記念講演をすることになりました。同窓生や先輩・後輩・恩師と旧交を温める「ホームカミングデー」はアメリカではポピュラーなイベントではあったのですが、当時日本では、まだあまり行われていなかったように思います。当時は週に1・2日しか東京の自宅に帰らなかったこともあり、妻から「もっと、ホームカミング!」と言われるのが恐ろしくて、内緒にしたまま参加することにしました。場所は中国の「大学ノ道ハ明徳ヲ明ラカニスルニ在リ」という古典から付けられたという明徳館の21番教室。何せ母校を訪ねるのは、卒業して以来の31年ぶりとあって、学帽を被って楽し気に歩くOB達の間を縫いつつ迷いながら、何とかたどり着くことが出来ました。

 ほぼ満員の階段教室での講演を終えて、ふと館内を見渡すと、懐かしい顔が目に入りました。同じ八田ゼミで学び、一時期お付き合いをさせていただいていた山下三穂子さんと田中保君でした。山下さんは南日本放送を辞めた後、京都のKBSにアナウンサーとして入り、同じ職場の制作マンと一旦結ばれたものの、その後離婚を経て再婚、田中君は父の会社を継いで二代目の社長と、互いの境遇は変わりましたが、私が誘った先斗町「一粒庵」での歓談はいつまでも続きました。翌年からこのホームカミングデーに合わせて同窓会を開こうということになり、幹事役をこの田中君と山下さんが務めてくれていたのですが、この後何年か経て急逝してしまいました。そうそう、たまには京都を離れようということになり、09年には日本海テレビの常務を務めていた四宮昭彦君のアレンジで、山陰最古の温泉と言われる鳥取県の岩井温泉へ出かけたこともありました。さすがにこの会は、いつもより7人と少人数でしたが、江戸時代創業の老舗・岩井屋さんの趣はまた格別のものがありました。

 そうそう、翌朝宿を立つべく階下のロビーへ降りると、何と正司歌江さんに遭遇したのです。「ご無沙汰しております」とご挨拶をして、「近くで公演があるから前泊させてもらった」とは伺ったのですが、まさかここでお会いするとは思いもしなかった私の背中に、たらーっと冷や汗が走ったのを憶えています。何せ、「かしまし娘」の歌江師匠と言えば、西川きよしさんが千里丘へ転居された際、誰かが不用意に「師匠のご自宅は、西川さんちの裏ですよね」と聞いた際に、「私の家が表で、あちらが裏です!」ときっぱりとダメ出しをされた、怖いお方だったのですから。

元は華族女学校でした

これはフジテレビの番組

食堂にはこんなメニューもあるとか

明徳館

岩井屋

正司歌江 師匠