木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 違った出会いと言えば、立命館大学とインターンシップを組んだのは、たしか97年の夏でしたね。関西の子供たちが、母親から「勉強をしなかったら、サーカスか吉本しか行かれへんよ!」と叱られていた時代から考えると、やや違和感のある取り合わせかも知れませんが、低迷していた大学の再興を図る立命館と、若い感性を取り込みたい我々の意向が合致して、事はスムーズに運びました。そのきっかけを作ったのは、大日本印刷を辞めてトラバーユしてきた眞辺明人君でした。彼が転職して2カ月目に、「仕事のネタはないか」と、嘗ての職場のクライアントであった立命館に電話を掛けたところ、事がとんとん拍子に運んで、日の目を見ることになったのです。

 ご担当をいただく田井教授や石崎助教授との協議で、まず初年度は、経営学部と政策科学部から、面談の結果50人から選ばれた15名の学生さんを受け入れ、8月25日から2週間かけて、メディアプロデュース・イベントプロデュース・タレントマネジメント・ライブプロデュースの4部門の現場で働いてもらい、その体験をもとに、社員と共同で新しいプロジェクトの企画・立案をしてもらおうということになりました。まずは、3年間の予定で始め、初年度の結果を見て、研修内容の見直しや、人数、期間を再検討をはかっていこうということになりました。中には「忙しいのに余計なことを」と思った社員もいたとは思いますが、「人に教えることによって、自分が今取り組んでいる仕事の意味を再確認できる」というメリットの方が逆に大きかったのではないかと思っています。短期間ではありましたが、職場のムードが活気を帯びたものになったように思えました。

 こうして瞬く間に2週間は過ぎたのですが、私が感じたのは立命館の田井さんと石崎さんの柔軟な、ものの考え方でした。教授や助教授というと、どちらかと言えば象牙の塔に閉じこもって、社会性のない方が多いように思っていたのですが、このお二人からは、微塵もそんな雰囲気を感じ取ることはできなかったのです。「この人達が教鞭をとっているって、一体どんな大学なんだろう?」以降、私が立命館大学に興味を抱く大きなきっかけになった出会いでした。

 立命館大学は、1869年、西園寺公望翁が私塾「立命館」を創始、1900年、文相時に西園寺の秘書だった中川小十郎氏が、その意志を継ぎ、立命館大学の前身となる私立「京都法政学校」を創立したことに端を発します。西園寺翁が「立命」と名づけた所以は、孟子の盡心章にある「身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり」に由来すると言われている通り、真面目な校風の大学でした。私が今出川にある同志社に学んでいた当時は、まだ広小路に学舎があって、御所で球技をするときなどは、よくグランドの取り合いになった記憶があります。

 関西の私学では、関西大学・関西学院大学・同志社大学と並び称されてはいたのですが、中でも同じ京都市にある同志社と立命のライバル心は、互いが至近距離にあったこともあって、ことのほか強かったように思います。当時の末川総長の影響もあってか、どちらかというとリベラル系の勢いが強く、我々は「暗い・赤い・ダサイ」と、やや上から目線で見ていたような気がします。どうやら、私の記憶は28年前のままフリーズされて、頭の中に残っていたらしいのです。

学祖・西園寺公望翁による「立命館」の扁額

西園寺公望翁

末川博さん

立命館その由来の碑