木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 4月30日は翌日の劇場オープンを控えて福岡へ。オフィスに寄った後、全日空ホテルで、同じ交通会館にひとあし早く出店されたナムコさんのレセプションに出て、小樽でもお世話になった丹青社の渡辺社長や、家入取締役、沢田部長にもご挨拶をさせていただきました。夕食は翌日のセレモニーに備えて前乗りされていた西川きよしさんと、大きな生簀で有名な、大名にある博多料亭の「稚加栄」でとりました。福岡場所がある時は力士が通うだけあって、ここでいただいた料理は旨くて、食通の西川さんもことのほか満足されたようでした。

 翌5月1日は、朝10時からビル全体のオープニングセレモニーがあり、次いで11時から劇場のオープン、その後日航ホテルにある「いちょう」でナムコの創業者・中村雅哉社長、立花常務、東取締役と会食をしました。

 我が社からは、中邨社長、林副社長、それに私と、福岡事務所長の玉利寛君というメンバーでした。かねてから丹青社さんに、「ナムコさんと一緒に何かやれないか?」というご提案をいただいて、私も97年5月に池袋サンシャインビルの2階にある「ナムコ・ナンジャタウン」を見に行ったり、98年4月には丹青社さんと打ち合わせをして、共同でソフト開発をすべく動いてはいたのですが、それは実現しなかったものの、同じエンターテインメント業界同士ということで、以降の親睦を図るために、この席を設けたというわけです。

 さて、ゴールデンウィークも明けて7日、大阪リッツカールトンホテルの「花筐」で関西テレビの横田専務、中沢局長、山崎さんたちと会食をしていると、珍しいことに林副社長から私の携帯に、「ONOというクラブにいるから顔を出せ」という電話が入ったのです。ちょうど話も一段落していたこともあって、至近距離にある北新地までかけつけ、店内に入ると、林副社長の他にもう一人若者の姿があったのです。すぐに長男の正樹さんだと気が付きました。まだ心斎橋に本社があったころ、亡き林正之助会長が、お孫さんを背中に負ぶって、愛好を崩しながら会長室から出て来られるのを見て、「あの怖い会長でも、やはり自分の孫は可愛いんだ」と不思議な感慨を抱いたことがありますが、それ以来の対面でした。

 たしか、正樹さんは、97年にパソナの南部靖之さんが、震災復興のため始められた、観光レストラン船「コンチェルト」を運営する、(株)「神戸クルーザー」に勤めておられると聞いていましたが、林副社長からは「息子や!」と紹介されたまま何の言葉もなく時が過ぎ、「一体何のために呼び出されたのか?」分からないままに店を出ました。

 次に、林副社長から呼びだしを受けたのは、決算役員会の前日、20日のことでした。ただし、今度は北新地のクラブではなく、会社の副社長室の方でした。「17日に、中邨さんと話をして、今年の株主総会をもって、中邨さんは91年から不在になっていた会長職に就き、自分が社長になることになった」とのことでした。思えば、私が入社した2年後か3年後に吉本に来られ、以来78年に取締役、84年に常務、87年に専務、副社長に就かれたのは、すでに10年も後の97年のことでした。女婿として吉本に来られ、将来は当然社長になると目されていたにしては、若干時間がかかったような気もしました。私も、途中、「中邨社長からまだ後を任せるという話はないんですか?」と尋ねたことはあるのですが、その都度、憮然としながら「ない!」という言葉が返されてきただけでした。ただ、今回は、禅譲を待つのではなく、意を決して、自分から申し出た!」とお聞きして、「それは、おめでとうございます」と申し上げました。ご本人としては内心忸怩たる思いがあったのかもしれません。してみると、私が先々週に正樹さんに引き会わされたのは、「分かってるな!自分のあと、この会社を継ぐのは、こいつ(正樹さん)だぞ!」ということを、おっしゃりたかったのかもしれませんね。

博多料亭の「稚加栄」

生簀前での板前さんのパフォーマンスでも知られています。

ナムコの創業者・中村雅哉社長

大阪リッツカールトンホテルの「花筐」

神戸港 観光レストラン船「コンチェルト」

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