その後「5ℓ」は、準備号を入れて通刊119号となる、2016年の10・11月号をもって11年の歴史に終止符を打つことになるのですが、これまでご登場いただいたゲストの方々、そして2010年から始めた「にっぽん日和」で2度もお訪ねさせていただいた堺市・福岡市さんを始め、全国66カ所の皆さま方には、感謝の他ありません。それまでに、講演などで、ほぼ全国の都市を訪ねてはいましたが、ただただ駅や空港と会場を往復するばかりで、景勝の地を訪ねたり、腰を据えて地元の皆さまとお話をさせていただくことが出来たのは、私にとっても貴重な体験となりました。
中でも、火口近くまで行った阿蘇山や、南房総にそそり立つ断崖の絶壁・鋸山、八甲田山の樹氷などの素晴らしい景色や、阿南市で「野球のまち阿南構想」実現のため東奔西走されている「小さな巨人」の田上重之さん、防衛大学の指導教官から僧侶に転じられ、今も堺市の妙法寺で住職を務められている佐々木宏介さん、立山登山の拠点・室堂ターミナルで、富山県警山岳警備隊員の皆さんから「山の母」と慕われている青山絹子さん、ハローワークから応募して、1300年の歴史を持つ鵜匠の世界に飛び込んだ犬山市「木曽川うかい」の稲山琴美さんなど、素敵な方々にもお会いすることができました。
また、宮崎市を訪ねた折には、戸敷正市長が、その後、春季キャンプに訪れた巨人軍の歓迎セレモニーに出席されることもあって、宮崎空港のVIPルームでインタビューをしたのですが、おかげで、ターミナル広場で宮崎市民の方々を前に原監督がご挨拶をされる姿を見ることが出来ました。結構多くの人が押し寄せていて、とても正面から見ることは出来ず、後ろ側に回って見るしかなかったのですが、それにしても臨時コーチとして参加されていた松井秀喜さんの背中の大きかったことには驚きましたね。宮崎ではMRT(宮崎放送)を訪ね、お昼の人気ラジオ番組「GO!GO!ワイド」で上岡信夫さんと共に司会を務めている吉野あやさんに会いました。昔、彼女が吉本でセクシー・グラビア・アイドルとして活躍していた時以来ですから、およそ20年ぶりに再会したことになります。この夜、取材を兼ねて皆と訪れた宮崎地鶏専門店「やまぢ」での食事会には、彼女も参加して昔話に花が咲いたのを憶えています。
市長つながりで言いますと、横浜市長の林文子さんには、創刊号でダイエー会長CEO時に次いで2度も「5ℓ」にお付き合いをいただきましたし、同じく女性市長では、市役所の応接室ではなく倉敷未来公園まで走ってこられた伊東香織市長も素敵な方でした。他にも「野球のまち阿南構想」を打ち出して町おこしをされた、岩浅嘉仁・阿南市長、レトロな風景を活かして「昭和の町」として再生された永松博文・豊後高田市長、唐戸市場の「ふくのせり人」から転じて下関市長になられた中尾友昭さん、インタビュー当初、ボヤキながら始まって、写真撮影になっていきなり肩を組まれた名古屋市長の河村たかしさん、対照的に着物姿でジェントルにご対応をいただいた京都市長の門川大作さん等が印象に残っています。残念なことに、取材をさせていただいた川口市長の岡村幸四郎さんは、2013年5期目の在任中に、雲仙市長の奥村慎太郎さんは2015年国政へのチャレンジを模索される中、共に60歳という若さでお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。
一方で、大分放送のアナウンサーから転じて、逆風の中、36歳の若さで初当選を果たし、8年で福岡市を、人口増加率1位、地価上昇率を東京、大阪の2倍、政令都市で唯一5年連続過去最高税収、スタートアップ開業率4年連続1位などにするなどの成果を上げて、「最強」と言われる都市に改革された高島宗一郎・福岡市長や、東京都職員から転じて財政再建団体となった夕張市の市長となり、「日本一給料の安い首長」と言われる中、夕張を、将来他の地域の良き前例とすべく、「借金のみえる化」を図り、「コンパクトシティ」構想や、「夢を主語に挑戦する街へ変える」という方針を掲げて、353億円あった負債を140億円減らし、今年2019年4月には、何と38歳で北海道知事となられた鈴木直道さんのような優れた若い市長からもお話を伺うことが出来ました。「5ℓ」の掉尾を飾る2016年10・11月号で、この方にご登場いただいたのも、何かのご縁というものかもしれません。
阿南市の小さな巨人・田上重之さん
佐々木宏介さん
青山絹子さん
稲山琴美さん
戸敷正・宮崎市長
セクシー・グラビア・アイドルだった吉野あやさん
林文子・横浜市長
ダイエー会長兼CEO時代の林さん
伊東香織・倉敷市長
岩浅嘉仁・阿南市長
打ち上げの席で馬に変身されたのは、たしか・・・
永松博史・豊後高田市長
中尾友昭・下関市長
河村たかし・名古屋市長
門川大作・京都市長
岡村幸四郎・川口市長
高島宗一郎・福岡市長
鈴木直道・夕張市長
借金の「見える化」
そうそう、たしか「5ℓ」の「にっぽん日和」で福岡市を2回目に取り上げさせていただいた2012年7月号のことでした。博多の夏の風物詩・祇園山笠を取材させていただいて、インパクトを与えるために、山笠の舁き手が必ず着用する水法被姿を見開きページに載せたのですが、カスタマイズ版を出していただいている「りそなグループ」さんから、見開きページではなく、もう少し小さな写真に変えて欲しいというご要望があって、りそなさんの「R’style5ℓ」だけレイアウトを変更したことがありました。後姿ではなく、前から映した写真であれば良かったのかもしれません。お聞きした時には、「女性のTバックは許されても、男性のTバックはダメなの?」とは思ったものの、大事なクライアントさんからのご要望とあっては、致し方ありません。取材の窓口になっていただいた福岡市・東京事務所の皆さんからは、この写真をシールにして、あちこちに配られた程のご好評をいただいたのですが、やはり銀行さん側にしてみれば、この写真には「インパクトがありすぎて・・・」ということだったのも知れません。
「5ℓ」のスペシャルインタビューにはその後も、田原総一朗さんや竹村健一さん、渡辺貞夫さん、川淵三郎さん、五木ひろしさん、加藤登紀子さん、松平健さん、高橋真梨子さん、風間杜夫さん、秋元康さん、三國清三さん、里見浩太朗さんなど、各界で活躍されている方々に出ていただき、皆さんから、いいお言葉をいただいたのですが、ここで逐一、ご紹介していたのでは、あと数年を要してしまうことになりかねず、「これからの生き方」について、示唆を与えていただいたお二人のお話の一端をご紹介させていただくことにして、この「私的ヒストリー」を終えたいと思います。
まず、おひとり目は、2011年11月号に出ていただいた内田樹さん。哲学研究者・思想家・翻訳家・コラムニスト・神戸女学院大学名誉教授で、尚且つ武道家(合気道・凱風館館長)でもあり、第6回小林秀雄賞受賞作の「私家版・ユダヤ文化論」や、2010年新書大賞受賞作「日本辺境論」など多数の著作を出されるなど、幅広い活動ぶりもあって「当代の碩学」とも称されている方でした。そんな内田さんと、私との共通点は、喫煙者であることと、共に2度目の結婚であることくらいしかなかったのですが、こちらのレベルにまで降りていただいて、興味深いお話を伺うことが出来ました。
中でも、「アンチエイジングというのは、若さ信仰で、年を取ることは惨めだ、恥ずかしいことだという考え方です。ただ、今は自分の周りにいる皴のよった老人たちを見下して、俺は若いと気張ることは出来ても、いずれ若作りの年寄りも実年齢相応になる。少しの間は老いと距離を取れても、最終的に老いを出し抜くことをできた人はなく、いつかは追いつかれる。だから、アンチじゃなくて、どういう風に快適に年をとるかを考えた方がいい。アンチエイジング(抗加齢)ではなく、オプティマル・エイジング(最適加齢)を狙った方がいい」と指摘されました。その言葉を耳にして、密かに、「膨らみがちな腹を、スレンダートーンで凹まそうか、と考えていた己が安直さを恥じ、そっと息を吐いたのを憶えています。
今一つ、夫婦円満の秘訣をお尋ねすると、「基本的に配偶者は謎の人だということです。お互いに。その謎を解明しようとしないことです。ずっと謎のままです。7割以上、よくわからない人と一緒に暮らして、一緒に食事をし、テレビや新聞を見ながら、「ああだこうだ」と言い合って、それで十分じゃないですか。一致点を増やそうとすると、どんどん不一致点が増えてきます。余計不仲になりますよ。相手と自分の違うところや、相手の言動の良く理解の及ばないところは、とにかく面白がることです」ともおっしゃっていましたね。これなどは私も日々体感していることでもあり、バカボンのパパではありませんが、素直に「これでいいのだ!」と肯けました。このインタビューの後、2013年1月には、刈部謙一さんのご尽力もあって、宝島社から「内田さんに聞いてみた 正しいオヤジになる方法」を出版させていただきました。
渡辺貞夫さん
川淵三郎さん
田原総一朗さん
五木ひろしさん
松平健さん
高橋真梨子さん
風間杜夫さん
秋元康さん
三國清三さん
里見浩太朗さん
内田樹さん
合気道着の内田さん
神戸市住吉にある凱風館
内田さんとの共著
バカボンのパパ
いまお1人は、作詞家、作曲家でシンガーでもある小椋佳さん。東大法学部を出てメガバンクに入社。開店以来、本部表彰に縁がなかった浜松支店に支店長として赴任し、わずか半年で2度も本部表彰を受けるなど手腕を発揮して、将来を嘱望されていたにもかかわらず、49歳で「見るほどのことは見つ!」と退職されました。人事担当の副頭取からは、3度に亘って料亭に呼ばれ遺留されたと言いますから、誰からも遺留されなかった私などとはわけが違います。もっと違うのは、メガバンクを辞められた翌年に、再び母校の東大に戻られたのですが、単位をあまりに取り過ぎて1年で卒業せざるを得なかったというのです。そのため翌年、1年間を費やしてフランス語を習得して文学部を再受験、思想文化学科で学び、大学院の哲学専攻で修士課程まで進まれたのです。その上、指導教授に、教え方のアドバイスまでされていたというのですから、「手に負えない」とは、まさにこの方のようなことを言うのだと思います。東大の赤門どころか、大阪の黒門市場くらいしか知らない私などにとっては、何とも縁のない、遠い世界の出来事にしか思えませんでした。
それにしても、退職の動機を、平家物語の平知盛の辞世の句「見るべきほどのことは見つ」を引用されるなんてニクイですよね。私も会社を辞める際に「辞めたくなったから!」ではなく、これくらい洒落た言葉で表現できていれば、少しは「カッコよかったかも?」と、今更ながらに自身の教養の乏しさを思い知らされました。平知盛は壇ノ浦の戦いに敗れ、このセリフと共に碇を抱いて玄界灘に身を投じ、後に「碇知盛」と呼ばれるようになったのですが、小椋さんはこれ以降、銀行マン時代から関わっておられた音楽の世界に、本格的に身を投じられることになりました。それまでに私は、小椋さんが作詞・作曲をされた、美空ひばりさんの「愛燦燦」や、布施明さんの「シクラメンのかほり」、梅沢富美男さんの「夢芝居」、堀内孝雄さんの「愛しき日々」、五木ひろしさんの「山河」、中村雅俊さんの「俺たちの旅」等は聴いたことはあったのですが、小椋さんご本人が歌われるのを聴いたのは、真行寺君枝さんを起用した資生堂のCMソング「揺れるまなざし」くらいのものでした。
お会いしてみると、さすが「歌う哲学者」と言われる方だけあって、時として蘖(ひこばえ)や眦(まなじり)など難しい言葉が飛び交ったりはするのですが、「生きている以上、一生懸命に生きていきます。僕は命を活かす『活命』と言っているんですが、そういう暮らしをやっていきます」とおっしゃったのが印象に残っています。この後、さらに小椋さんの世界観を探るべく、4ヶ月後の2014年9月15日、デング熱騒動の発端となった代々木公園にほど近いNHKホールへ妻を伴って、小椋佳さんの「生前葬コンサート」を観に行きました。4日間で100曲を歌うというコンサートの最終日で、この日は25曲の他にアンコールでさらに2曲を歌われたのですが、途中15分の休憩を挟んだ都合4時間のコンサートだったように記憶しています。気の向いた曲を歌い綴る、ソング&トークショーのスタイルで、たっぷりと小椋佳さんの世界を堪能することが出来ました。
そういえば、この前年暮れに、ファイナルアルバムとしてリリースされた「闌~Takenawa」の「闌」(たけなわ)という言葉について伺った時、「真っ盛り」という意味の他に、近年では「宴、闌ではございますが、そろそろお開きに」というように、「終わりへ向かう」という意味でも使われるようになった」とおしゃっていたことを思い出しました。してみれば、「真っ盛り」ではない私に当てはまるのは、そろそろ終わりへ向かう方の「闌」ということなのか。
振り返れば、これまで「5ℓ」でインタビューをさせていただいた118 名の方々の中で、愛川欽也さん、菅原文太さん、やしきたかじんさん、平尾誠二さん、西城秀樹さん、坂東三津五郎さん、大橋巨泉さん、マキノ(津川)雅彦さん、市原悦子さんは既に泉下の客となられました。やしきたかじんさんは、私より4歳、西城秀樹さんは9歳、坂東三津五郎さんは10歳、平尾誠二さんに至っては17歳も若く、まだ53歳という若さで亡くなったのです。ご冥福をお祈りいたします。小椋さんの「顧みれば 今」の一節をお借りすれば、「込み上げる思い 私の運命に関わった 全ての人々に ありがとう」の言葉を捧げたいと思います。
小椋佳さん
アルバムのジャケット
第一勧業銀行の浜松支店長を務められてました
下関市にある碇知盛像
愛川欽也さん
菅原文太さん
やしきたかじんさん
平尾誠二さん
西城秀樹さん
坂東三津五郎さん
大橋巨泉さん
津川雅彦さん
市原悦子さん