そう、この2009年の10月27日には、加藤和彦さんが軽井沢のホテルで亡くなられました。遺書めいたものが残されていたところから、自殺を図ったとみなされたようです。はしだのりひこさんは、私と同じ同志社大学で、加藤さんが龍谷大学、北山修さんは府立医科大学と、通っていた大学こそは違っても、同じ京都に育った同学年の3人が結成した「ザ・フォーククルセダーズ」は、私にとっては眩しい存在でした。「帰って来た ヨッパライ」がオリコン史上初のミリオンセラーになった時は、メジャーな歌謡界に衝撃が走りました。若者が大人たちを振り回し、しかもたった1年で解散をするという痛快さに、人々は酔いしれたのです。
2005年に公開された井筒監督の映画「パッチギ!」の中で、「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」など、「フォークル」の曲が流れた時には、私も頬を伝う涙を拭うのに苦労をしました。一つには、自分が育った時代や土地への郷愁もあったのでしょうし、今一つは歳を重ねて涙腺が緩んできたということがあったのかも知れません。その際、私以上に涙していた我が妻が、後日に手習中のフルートで、この「悲しくてやりきれない」ばかりを吹き、あまりに音が外れる様を見て、「こちらこそが、悲しくてやりきれない!」と思った日々が続いたのを憶えています。
加藤さんは、「フォークル」を解散した後、ロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成したり、数多くのアーティストに楽曲を提供して、映画やスーパー歌舞伎の音楽なども手掛けておられました。もし叶うなら、今一度、加藤さんが、フォークル解散後に北山さんと2人で作られた名曲の「あの素晴らしい愛をもう一度」を、もう一度聞いてみたかったものです。
明けて2010年の1月7日には、渋谷パルコ劇場で立川志の輔さんの落語「中村仲蔵」を聴きました。江戸中期、勉強家で努力家であった歌舞伎役者の仲蔵さんが、当時名人といわれた4代目市川團十郎丈から才能を見込まれ、梨園の身分や閨閥の壁を乗り越え、トップクラスの名代まで登り詰めたものの、名門の出身ではないこともあって、周囲のやっかみと反発を買い、名代としてのデビュー作の「仮名手本忠臣蔵」では、お軽の父・与一兵衛を殺して金を奪う悪役・斧定九郎という、たった一つの軽い役しか貰えなかったのです。仲蔵さんも悩んだのですが、まさか辞退をするわけにもいかず、考えたのが、黒羽二重に白献上の帯、福草履に朱鞘の太刀という舞台映えのする衣装に白塗りの姿という出で立ちで、水を滴らせながら仲蔵さんの切った所作のあまりの美しさに、客は息を呑んだといいます。それまで、こんな見事な演出をした者はおらず、喝采を浴びた仲蔵さんは、更に精進を重ね、名優として後世に名を残したという感動的な噺なのです。
情の入った語り口に感動して聞き入るうち、仲蔵さんの吐くセリフが、まるで志の輔さんのセリフのように思えてきました。志の輔さんとて、閨閥があって真打になれたわけではなく、落語界に入ったのも29歳、すでに仲蔵さんが名代とわれるトップになった年齢でした。勉強家で努力家という点も同じ。4代目市川團十郎丈が仲蔵さんの才能を見抜かれたのなら、志の輔さんの才能を見抜いてスピード出世をさせたのは、これも名人の立川談志師匠。きっと志の輔さんも仲蔵さんのように、後世まで語り継がれる落語家になられるんだろうなと思いながら、パルコ劇場を後にしました。
遺書
4代目市川團十郎
中村仲蔵