そう、この2009年の10月27日には、加藤和彦さんが軽井沢のホテルで亡くなられました。遺書めいたものが残されていたところから、自殺を図ったとみなされたようです。はしだのりひこさんは、私と同じ同志社大学で、加藤さんが龍谷大学、北山修さんは府立医科大学と、通っていた大学こそは違っても、同じ京都に育った同学年の3人が結成した「ザ・フォーククルセダーズ」は、私にとっては眩しい存在でした。「帰って来た ヨッパライ」がオリコン史上初のミリオンセラーになった時は、メジャーな歌謡界に衝撃が走りました。若者が大人たちを振り回し、しかもたった1年で解散をするという痛快さに、人々は酔いしれたのです。
2005年に公開された井筒監督の映画「パッチギ!」の中で、「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」など、「フォークル」の曲が流れた時には、私も頬を伝う涙を拭うのに苦労をしました。一つには、自分が育った時代や土地への郷愁もあったのでしょうし、今一つは歳を重ねて涙腺が緩んできたということがあったのかも知れません。その際、私以上に涙していた我が妻が、後日に手習中のフルートで、この「悲しくてやりきれない」ばかりを吹き、あまりに音が外れる様を見て、「こちらこそが、悲しくてやりきれない!」と思った日々が続いたのを憶えています。
加藤さんは、「フォークル」を解散した後、ロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成したり、数多くのアーティストに楽曲を提供して、映画やスーパー歌舞伎の音楽なども手掛けておられました。もし叶うなら、今一度、加藤さんが、フォークル解散後に北山さんと2人で作られた名曲の「あの素晴らしい愛をもう一度」を、もう一度聞いてみたかったものです。
明けて2010年の1月7日には、渋谷パルコ劇場で立川志の輔さんの落語「中村仲蔵」を聴きました。江戸中期、勉強家で努力家であった歌舞伎役者の仲蔵さんが、当時名人といわれた4代目市川團十郎丈から才能を見込まれ、梨園の身分や閨閥の壁を乗り越え、トップクラスの名代まで登り詰めたものの、名門の出身ではないこともあって、周囲のやっかみと反発を買い、名代としてのデビュー作の「仮名手本忠臣蔵」では、お軽の父・与一兵衛を殺して金を奪う悪役・斧定九郎という、たった一つの軽い役しか貰えなかったのです。仲蔵さんも悩んだのですが、まさか辞退をするわけにもいかず、考えたのが、黒羽二重に白献上の帯、福草履に朱鞘の太刀という舞台映えのする衣装に白塗りの姿という出で立ちで、水を滴らせながら仲蔵さんの切った所作のあまりの美しさに、客は息を呑んだといいます。それまで、こんな見事な演出をした者はおらず、喝采を浴びた仲蔵さんは、更に精進を重ね、名優として後世に名を残したという感動的な噺なのです。
情の入った語り口に感動して聞き入るうち、仲蔵さんの吐くセリフが、まるで志の輔さんのセリフのように思えてきました。志の輔さんとて、閨閥があって真打になれたわけではなく、落語界に入ったのも29歳、すでに仲蔵さんが名代とわれるトップになった年齢でした。勉強家で努力家という点も同じ。4代目市川團十郎丈が仲蔵さんの才能を見抜かれたのなら、志の輔さんの才能を見抜いてスピード出世をさせたのは、これも名人の立川談志師匠。きっと志の輔さんも仲蔵さんのように、後世まで語り継がれる落語家になられるんだろうなと思いながら、パルコ劇場を後にしました。
遺書
4代目市川團十郎
中村仲蔵
続いて2月4日から7日にかけては、妻と上海・蘇州へ旅行しました。この年の恵方が西南西だったせいでもないのでしょうが、妻とは前(2009)年9月の北京に続いての中国行きとなりました。前年には事務所の移転や、自動車教習所通い、週一の生放送「イブニングワイド」のスタートなどもあり、まとまった休暇が取れなかったこともあって、どうしても近場を選ぶしかなかったのです。私自身、過去に何度か北京を訪ねてはいたのですが、いずれも仕事がらみとあって、純然たる観光をしてこなかったのと、2008年8月に開催されたオリンピック後の北京を見ておきたかったこともあって、その時は妻の言葉に乗ってみることにしたのです。
初日に北京空港に着いたのが午後8時10分とあって、その日は鴻坤国際大酒店(Hongkun International Hotel)で食事をとり、翌早朝に出発、西太后の居所だった「頤和園」や、明代の皇帝や皇后の墓のある「十三陵」など旧跡を見た後、オリンピックスタジアムとなった「鳥の巣」を訪ね、広東飲茶で昼食を済ませ、「万里の長城」へ。その後、「鳥の巣」近くの、竜の形をした「全聚徳」というレストランで北京ダックをいただきました。夕食後はオプショナルツアーに参加をして、天地劇場で「北京雑技団」を見たのですが、区切られた球体の中を7台のバイクが交差する業は見事でした。日本のサーカスでバイク3台が交差するのは観たことがあったのですが、これには驚きましたね。
さらに翌日は、「天壇公園」、パンダのいる「北京動物園」、「天安門広場」、紫禁城に保管されていた歴史的文化財を保管する「故宮博物院」などを訪ねました。この日はたしか、昼食で刀削麺を、夕食では辛―い、四川料理をいただきましたかね。そんなことがありながら、またしても妻と上海・蘇州を旅することになったのです。ただ、何度か行ったことがある上海はともかく、以前から蘇州へは一度行ってみたいなは思っていたのです。蘇州と言えば、「蘇州夜曲」に歌われたロマンチックなイメージを思い浮かべますが、この歌を主題歌にした李香蘭(山口淑子さん)の主演映画「支那の夜」が上映されたのは私が生まれる6年も前の話、なのにどうしてこの歌を知っていたのか分かりませんが、もしかしたら、学生時代に憧れていた花遊小路の「蘇州」というダンスホールのせいなのか、なぜかこの地名には憧れを抱いていたこともあって、妻の誘いに乗ってみることにしました。
人口1800万人、5月に開かれる万博を控え、すっかり近代化された上海からバスで2時間、ようやく「水の蘇州」と歌われた街に辿り着きました。プラタナスの並木、縦横に走るクリーク。どこかのどかで、美しい街でした。無機質な上海と違って、人の表情も心なしか生き生きしているように見えました。
張継の漢詩「楓橋夜泊」で有名な、寒山寺を訪ねた後、山塘街という市場を歩いてみました。詩人でもあった白居易が、この地の知事時代に開いたといわれる商業地で、普段は現地の人しか訪れないと聞きました。驚いたのは「1元ショップ」があったことです。日本円に直すと「15円ショップ」ということになるのでしょうか。「安い、安い!」と、しこたま台所用品を買う妻を横目に見ながら、どこを見ても売り子のいない店内を眺めていると、出口で脚立に乗ったおばさんがいて、首から下げた財布を手に現金を受け渡しているのを発見しました。なるほど、これなら取りはぐれもないし、盗難も防げるというわけです。たしか出かける際、「今回は何も買わない!」と言っていたはずの妻なのに、結局、旅費を上回る買い物をケース一杯に抱えて帰る羽目に陥ったのを憶えています。
帰宅して、私がくつろぎながら、留守の間にたまっていた新聞に目を通し、「小沢一郎氏不起訴」、「朝青龍引退」といった記事に見入っていると、横から「ねえ、兵馬俑って見たくない?西安へ行くツアーがあるんだけど?」と呟く妻の声が、「おいおいまた中国かよ!」
鴻坤国際大酒店
頤和園
西太后
十三陵
オリンピックスタジアムとなった「鳥の巣」
全聚徳
北京雑技団のフィナーレ
オートバイがクロス
天壇公園
パンダのいる北京動物園
天安門広場
クリークの街 蘇州
山塘街
結局その後、4月2日から6日まで、北京を経由して、陝西省の西安を訪れることになりました。人口が1000万人、紀元前11世紀から2000年間、中国の歴代王朝の都として繁栄した街で、今も街の周囲には、唐時代の長安城を基盤に、再興された世界最大の古城壁が残されています。また、シルクロードの起点の地としても知られ、「万里の長城」や「北京故宮」と並ぶ観光名所、「始皇帝陵・兵馬俑」のある所としても有名な所でした。
兵馬俑とは、古代中国で死者を埋葬する際に副葬された、兵士や馬を模った俑(焼き物)のことで、秦の始皇帝が、紀元前210年に亡くなる前に、38年間と70万人の人出を費やして造らせた御陵の傍に設けられた「兵馬俑博物館」では、1号館だけで、14260㎡の中に6000体以上もの歩兵俑と、40台の木造戦車俑が埋葬されていました。このスケールの大きさ、一つとして同じ顔がないという精巧さに驚き、改めて始皇帝の権力が大きかったことを実感しました。
そうそう、西安空港から街に向かうバスの中で、現地ガイドの女性が、「西安の人はみんな兵馬俑の様な顔をしています」と言ってましたが、そんなことは無く、どこか緊張感漂う雰囲気のある北京の人たちに比べて、むしろ大らかな表情をした人が多いように思えました。兵馬俑に似ていたのは、むしろそのガイドさんの方だったように記憶しています。
既に、紀元前91年には、同じ陝西省の韓城市に生まれた司馬遷が、著書「史記」の中で、「始皇帝は自分の墓に大量の兵馬俑を埋めた」と記していたのにも関わらず、この兵馬俑が1974年に発見されるまで、「どうして2000年以上もの間、地下に眠らせたままだったのだろう?」、そんな疑問を抱えながら、博物館の出口に向かうと、発見者とされる農民の方が、椅子に座ってサインをしていましたが、さすがにこれは、マユツバ感が溢れていて、ちょっとサインを求めようという気にはなりませんでした。この他にも、明代の皇帝や皇后を祀った「明十三陵」や、三蔵法師が天竺(今のインド)から持ち帰った経典が収められ、西安のランドマーク的な存在でもある「大雁塔」(大慈恩寺)、玄宗皇帝が寵愛していた楊貴妃のために造ったと言われる離宮の「華清池」などの観光名所を訪ねました。
その間に、「徳發長」という店に入って、ツアーの皆で餃子宴を愉しみました。さすが評判の有名店とあって、店内はけっこう賑わってはいたのですが、中国では生餃子や、蒸し餃子がメインとあって、焼き餃子が好みの私にはいまいちピンと来ず、「やっぱり餃子は、カリカリに焼いた大阪の点天の方が美味いな!」と呟いてしまいました。
そんなこともあって、最終日の夜には、中心部のシンボル的な存在である鐘楼の近くにあって、明代や清代の歴史感を漂わせる「回民街」というイスラム系の人たちの美食街へ妻と出かけることにしました。イスラム系ということもあって、妻はアルコールが出ないことに不満を感じたようですが、私は些かの痛痒を感じることも無く、美味しく料理をいただきました。そうそう、この時に食べた蟹黄灌湯包(カニみそスープ入り小籠包)は、今でも忘れないほどに美味でしたね。さらに、この西安行きの後、同じ4月の29日から5月3日まで、二度目となる富士通労組主催の「青春の船」での講演を行うべく、妻を伴って、再び天津を訪れたのですから、我が夫婦の「俄か中国詣で」は、まだ続いていたことになりますね。
世界最大の古城壁
兵馬俑博物館の内部
兵馬俑
司馬遷
西安のランドマーク的な存在でもある「大雁塔」
楊貴妃像のある「華清池」
楊貴妃
徳發長
餃子宴
西安のシンボルといわれる鐘楼
回民街
ストローをさして熱々のスープを飲みます
さて、5ℓに話を戻すと、2010年は1月号に棋士の羽生善治さん、2月号は日本ハムの梨田昌孝監督、そして3月号で歌手の小林幸子さんにご登場をいただきました。将棋と言えば、子供の頃に遊んだ「山崩し」くらいのもので、駒の置き方すら知らない私が、若くして棋界の頂点を極めた羽生さんに何を聞けばいいのか悩みましたが、幸いなことに、それまでに講演でお世話になっていた富士通の坂本美奈さんからの呼びかけで、参加した席でお目にかかっていたこともあって、千駄ヶ谷にある将棋会館でのインタビューを終えることが出来ました。「将棋のルーツはインドで、元々戦争をモチーフに作られたゲームなので、それが西に行ってチェスになり、東へ行って将棋になった。外国の戦争では、民族や宗教が絡むため相手を仲間に入れるという発想がなく、ひたすら駒を強くすることだけを考えたが、日本では、敵味方関係なく有能な人にはもう一度チャンスを与えようと、駒を再び活かす方法を考えた」と教えていただきました。
現役時代に、強肩とこんにゃく打法で知られた梨田昌孝さんは、2001年、監督就任2年目に近鉄バッファローズをパ・リーグ制覇に導いたものの、2004年に球団は消滅。仰木監督からコーチとしてのオリックス入り要請を辞退されて、現場を離れておられたのですが、2008年にヒルマン監督の後を受け、北海道日本ハムの監督に就任。再び監督就任2年目となる2009年にパ・リーグを制覇。残念ながら日本シリーズでは巨人に敗れたものの、監督としての手腕を高く評価されていた方です。慣れない北海道での生活や、個々の選手のお話などを、東京ドームホテルで伺ったのですが、この号が出る直前の2010年1月17日に、梨田さんの盟友・小林繫さんが心筋梗塞で亡くなりました。巨人から江川選手との劇的なトレードで阪神入りをされ、2009年からは北海道日本ハムで二軍ピッチング・コーチをされていたのです。近い内にインタビューをさせていただこうと、梨田さんご自身のマネジメント会社「トゥルーマサ」を通じてお願いをしていた最中の出来事でした。
小林幸子さんは、小学校5年生時に出したデビュー曲「ウソつき鴎」のヒットから、1979年の「思いで酒」の大ヒットまでの15年に亘る下積み時代のお話を伺い、それを「いい経験だった」と、さらっとおっしゃる芯の強さに感心しました。だからこそ、紅白31年連続出場を誇る歌謡界の大スターでありながら、一旦ステージを降りると、気さくで謙虚、気遣いに溢れた姿に戻られて、今も「幸っちゃん」と親しみを込めて呼ばれるのだろうなと思いました。そうそう、このインタビューは赤坂プリンスホテルの旧館でさせていただいたのですが、いつものように出迎えのために、スタッフが玄関口でお待ちしていると、車で小林さんと一緒に来られたマネージャーから、「誰も、出迎えに来ないでください」と言われて、インタビュールームに引き返してきたのです。「何か失礼があったのか?」とは思いましたがどうやらそれも無く、待つこと暫し、フルメイクで小林さんが現れたのは、なんと!それから1時間以上も経ってからのことでしたね。
ちょうどこの頃、明治安田生命さんから、全国のセールスレディさんがお客様に配布をされるカスタマイズ版のお話をいただき、「舞5ℓ」というタイトルにして、4月号から発行することになりました。これで、本誌に加えて、りそな銀行版の「R’style 5ℓ」、埼玉りそな銀行版の「彩5ℓ」、そして明治安田生命版の「舞5ℓ」が揃い、合せて発行部数13万部を見込めるようになりました。もう一つ、「5ℓ」が通刊で55号となるこれを機に、新たに観光庁さんにもご後援をいただいて、地域の魅力を紹介する「にっぽん日和」という新企画を立ち上げることにしたのです。スタッフとミーティングを重ねるうち、単なる街の紹介のみならず、地域で頑張っておられる「ビジョナリーな人たち」や「首長のインタビュー」、地域の旨いもの店を紹介する「ファイブエル・ミシラン★」なども加え、10ページを割くこととなりました。これでスペシャルインタビューの8ページに加え、新たに、この10ページが加わることになるのですから、都合36ページの半分を占めることになって、私の負担も増えることになるのですが、私自身は、生来の旅好きなこともあって、さほど負担を感じることはなく、むしろこれからの方が、本来目指していた誌面に近くなるのではないかと期待していたように思います。
人差し指で音が鳴らないように取る遊びです
羽生にらみ!
梨田さんのコンニャク打法
空白の1日
2007年、「黄桜」のCMで共演しました
長〜い、待ち時間
2010年4月号から誌面を新たにした「5ℓ」は、スペシャルインタビューを高島礼子さん、「にっぽん日和」を山形県にして、ドラマ「おしん」の舞台となった銀山温泉や天童温泉、将棋の駒をつくる栄春堂本店や老舗割烹料理店「千歳館」、「水車生そば」、「丹野こんにゃく番所」などを訪ね、「ビジョナリーな人たち」には、赤字ローカル鉄道の再建に奮闘する山形鉄道の公募社長・野村浩志さんにご登場いただき、「ファイブエル・ミシラン★」では、激辛ブームの先駆けとなった、からみそラーメン「龍上海 赤湯本店」を紹介させていただきました。5月号では、インタビューに堀尾正明さんを迎え、にっぽん日和は「京都・百万遍」、京大西部講堂や吉田神社、熊野神社、銘菓八つ橋発祥の地と言われる聖護院界隈を訪ね、「ビジョナリーな人たち」にご登場いただいたのは、パッケージソフトウェア会社「アシスト」を立ち上げ、下鴨に住んでおられたビル・トッテンさん。「ファイブエル・ミシラン★」では、祇園「迦陵」というリーズナブルなお値段のお店を紹介させていただきました。
こうして、東奔西走する最中、姉から、89歳になる母が洗濯物を乾燥機から取り出そうとして尻もちをついたという知らせが入ったのです。以前に大腿部を骨折していることもあって、「もしや骨折をしているのでは?」と心配したのですが、幸いにも単なる打撲で済んだようで一安心しました。本人はすっかり入院する気で、準備を整えたうえで病院へ行ったのですが、「打撲では入院させられない。1週間もすれば痛みも無くなりますよと帰されたらしく、不満たらたらだとのこと。思えば、事務所を東京へ移して以来、大阪の実家のある楠葉へはほとんど帰っていない。ここは様子見と心理的メンテナンスを兼ねて、3月13日に久ぶりに実家へ帰ることにしました。
突然に帰ったこともあって、扉を開けると、奥から「章子か?」という母の声。どうやら毎日覘く姉と間違えたらしいのです。襖を開け顔を見せると、「なんだ、政雄か!」との声。「せっかく東京から帰ったのにその言い草はないだろう!」そんな思いをぐっと飲みこんで、「どう痛みの方は?」尋ねると、「ちょっと痛いけど、大丈夫。それより何しに帰って来たの?交通費もかかるのに!」。どうやら、日ごろ、私が感謝の意を素直に表現できないのは、この母から受け継いだDNAらしいことに気が付きました。
それにしても、この年になって名前を呼び捨てにされるというのは新鮮でした。年を重ねてくると、呼び捨てにされることが減ってきて、肩書や、立場、時に、何を間違ってか、先生などと呼ばれると、ついつい己を勘違いしてしまうものです。長生き筋の母のこと、せいぜい長生きをして憎まれ口をたたきながら私を叱咤して欲しいものだと思いましたが、もしかしたら、私の方が先に逝ってしまうかも知れません。父が鬼籍に入った年を既に3年超えていました。男性陣にとって分の悪い我が家の家系を考えると、看取られるのは母ではなく、逆に私の方なのかもしれないとさえ思ったのですが、そんな母も、翌2011年8月18日、入院先の男山病院を見舞った際、私が「また来るからね」と声を掛けて東京へ帰ろうとすると、「もう来なくていいよ、今度来るときは土の中だから」と言葉通りに、翌々日の8月20日に亡くなりました。享年90歳でした。前夜に姉が訪ねた時には、葬式の指示までしていたと言いますから、母には予感があったのかもしれません。自宅に帰った母の顔は穏やかなものでした。頬や唇には赤みがさし、いい表情をしていました。
棺の脇に置かれた母の日記を見ると父との結婚、戦争、2人の子の出産、父との死別など、激動の昭和を必死に生きてきた歴史がつぶさに記されていました。「ゆき子さん、あなたはいい母親だった。あなたの子に生まれてきて幸せだったよ!」そっと囁きながら、何度も顔を撫でました。頼山陽が、亡き母を忍んで詠んだ「中秋無月 母に侍す」ではありませんが、「残された人生を、心配を掛けぬように生きていかねば!」、改めてそう思いましたね。
高島礼子さん
銀山温泉
天童温泉
創業140周年 鹿鳴館の佇まいを残す千歳館
千歳館
赤湯からみそラーメン
山形鉄道の野村浩志社長
堀尾正明さん
吉田神社
京大西部講堂
熊野神社
1869年創業の本家 西尾八ツ橋
ビル・トッテンさん
母が入院していた美杉会 男山病院
母の葬儀をおこなった枚方の飛翔殿
「京大西部講堂」と言えば、やはりこの方を欠かすわけにはいきません。2009年9月号の「ビジョナリーな人たち」にご登場をいただいた木村英輝さんです。木村さんは京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)を卒業して、母校で講師を務めていたのですが、学園闘争の風が吹き荒れる様を見て、「美大の学生は右や左などと言わず、真ん中を突っ走ろう!」と、学生たちを引き連れて独自のパフォーマンスを企画、プロデュースしたのが、1968年に京都会館で行われた、我が国初のロックコンサート「TOO MUCH」でした。これが転機となって、70年には日比谷野音の「MOJOコンサート」を内田裕也さんと共にプロデュース。さらにこの年、未だに語り継がれる伝説の「MOJYO WEST」のオーガナイザーとして、ヴォーカルに沢田研二さんと萩原健一さん、ギターに井上堯之さんで構成された「PYG」を出演させ、これによって、従来は映画や演劇の場であった西部講堂が、ロックとブルースの殿堂へ展開していくことになったと言われています。そうそう、1976年に、西部講堂で天才ロックアーチストと言われたザッパ公演をプロデュースされた際には、プロモーションの一環で東山の如意ヶ嶽山中に、大文字ではなくザッパの「Z」という大文字を仲間と共に懐中電灯で灯してPRに努めたという型破りなエピソードもある方なのです。
同じ京都に育ち、同じ木村姓なのに、私はそれまでこの方とは接点もなく過ごしてきたのですが、7月7日に大阪のヒルトンホテルで開かれた、赤野安さんの喜寿を祝うパーティで同じテーブルになったものの、「怖そうなおっちゃんやな、出来るだけ関わらないようにしよう」と思っていたのですが、聞くともなしに耳に入ってくる木村さんの言葉が実に面白く、さっそく7月30日にアトリエのある岩倉のお宅を訪ねることになりました。この当時、木村さんは「還暦になったら画家に戻る」という宣言通り、絵筆を握られていたのですが、岩絵の具や金箔などの伝統画材は一切使わず、アクリル絵の具やアルミ箔など、敢えて“偽物“を駆使して伝統に反発するロック魂は健在なままでした。「アートもロックも一緒。結果カッコよけりゃええと思う」と、東山の青蓮院門跡・華頂殿、北山のライブハウス、教会、動物園、レストランから、国境を越えて韓国チェジュ島に至るまで、今では、あちこちでこの人の躍動感あふれる絵を見ることが出来るようになりました。そうそう、過日亡くなられた樹木希林さんのご自宅にも、希林さんの依頼を受けて木村さんが板戸に描かれた「蘇る蓮」(Totus Rivives)の絵が残されているそうです。
今一人、「ビジョナリーな人たち」に出ていただいた中で印象に残っているのが、「5ℓ」の2010年3月号でお目にかかった、ハローキティのデザイナー山口裕子さんです。山口さんは1980年、人気の低迷していた中、退職した2代目のデザイナーの後、社命で3代目のデザイナーとなり、その後30年掛けて、キティちゃんを世界130カ国で年間5万種類のグッズが販売される、サンリオのトップキャラクターにまで育てあげた功労者のおひとりなのです。まるでセーラー服を思わせるかのような可愛い服を着て現れた山口さんの姿を見て、こちらは一瞬たじろいたのですが、まさか死んだ振りをするわけにもいかず、覚悟を決めて、お話を伺うことになりました。「キャラクターは芸能人と同じで、売れる・売れないという分岐点もあれば、例え売れたとしても、ずっと同じことをしていたら飽きられてしまいます。だから常に変化が必要なんです」と、アウトラインを外すとか、視線を変えてみる工夫をされたという話や、ユーザーの声を聴くために、山口さんが絵をかきサインをされる「キティのサイン会」を、海外を含めて1000回されたお話などを伺ったのですが、私には、「デザイナー自身がキティちゃんにはこうなって欲しいと夢を語れないとダメだと思うんです。キティはまだ『ピアニストになる』という夢を捨ててはいません。歌手になって紅白に出場したり、女優になってアカデミー賞を取りたいと思っています。私の手でいつか必ず実現させてあげたい!」とおっしゃった言葉が響きました。現にキティちゃんは、1997年から2007年まで11回連続して紅白に出ていますし、2019年3月には、ワーナーブラザースが世界配給をするハリウッド映画に出演することが発表されました。「もしかしたら山口さんも魔法使いの役で出られるのでしょうかね?」さすがに、それはお聞きできませんでしたが、木村英輝さんといい、山口裕子さんといい、外観からは想像もつかぬほどに、ハートフルな方でしたね。
「キーヤン」こと木村英輝さん
制作中のキーヤン
内田裕也さんと
若き日の内田裕也さん
PYGの頃のショーケン(左)とジュリー(中)
前衛ロック・ミュージシャン フランク・ザッパ
如意ヶ嶽の大文字に描かれた、フランクザッパの「Z」
赤野安さん
青蓮院門跡の襖絵
樹木希林さん宅の絵
山口裕子さん
ビビりながらお話を伺いました
キティのNHK紅白歌合戦 出場歴
この人もキティのファンです
「5ℓ」のスペシャルインタビューで、浅丘ルリ子さんと小林旭さんにお会いしたのは、2011年のことでした(浅丘さん6月号、小林さん9月号)。私が吉本興業に入って制作部に異動してからは、仕事柄もあって、著名な方々にお目にかかる機会はあったのですが、それ以前は、映画スターの方にお会いすることなどは無く、私にとっては、ただスクリーンに映った姿を、憧れを込めて眺めていただけの遠い存在だったように思います。私が京都生まれという事もあって、どちらかというと東映時代劇の作品を観る機会が多く、日活映画に触れる機会は少なかったように思いますが、それでも、1969年に封切られた「ギターを持った渡り鳥」などで主演を務め、石原裕次郎さんと共に、黄金期・日活の看板スターと並び称されていた、マイトガイ・小林旭さんの映画を何本かは観ていました。「果たしてどんな人なんだろう?まさかギターを背に馬に乗って颯爽と現れるのでは?」などと妄想に耽ってスタジオで待つうちに、「ヨッ!」という感じでご登場。プレーンな装いなのに、ピタッと決まっています。さすがに大スターと呼ばれる人は違うなと思いました。裕次郎さんへの想いや、美空ひばりさんとの結婚・離婚、30代に入っての事業の失敗から、40代に入って「昔の名前で出ています」での復活までを忌憚なくお話しいただきました。知己のバンドマンから聞いたところによると、小林さんは今でもステージでは、口パクではなく、すべて生歌で通されているのだとか。芸能生活55周年を迎えられた今も、「熱き心」を持った、マイトガイそのものの方でしたね。
今一人は、同じく、黄金期の日活で看板女優といわれた浅丘ルリ子さん。何しろ現れた途端に、部屋の空気がピンと張り詰めたものに変わったのですから、やはりスターの持っておられる独特のオーラは大したものだと思います。浅丘さんは、14歳の中学生の頃に、水之江龍子さんがプロデュースをして、井上梅治さんが監督をされた、「緑はるかに」という作品のオーディションで、3000人もの中から、ヒロインのルリ子役に選ばれた美少女で、その後、小林旭さんの渡り鳥シリーズや、石原裕次郎さんの「銀座の恋の物語」、「赤いハンカチ」などでもヒロインを務められていました。私が浅丘さんのファンになったのは、この頃ではなく、1973年に松竹映画の「男はつらいよ 寅次郎 わすれな草」でリリーというドサ回りの三流歌手を演じられた作品を観た時でした。元々、「男はつらいよ」は1968年から1969年にかけて、当時全盛期だった東映ヤクザ映画のパロディとして企画され、木曜午後10時からフジテレビで放送していた作品で、私も結構面白くて視ていたのですが、ハブ酒で一儲けを企んだ寅さんが奄美大島でハブに咬まれて死んで、あっけなく半年で終了しまい、ファンからの抗議が殺到する騒ぎになったのです。そこで、これに目を付けた松竹が、同69年8月から95年にかけて映画化をして、都合48作で、通算興行収入464億円、観客7957万人を動員する一大人気シリーズになったのですが、私も何作かを観て、その中でも、1973年の11作目となる「寅次郎 忘れな草」で、寅さんと、浅丘さん演じるリリーの孤独な旅人の二人が、網走橋で出会った後、海岸に佇んで共に帽子岩を眺めていた風景にはひとしお感動したのを憶えています。浅丘さんはこの後の15作目の「寅次郎 相合い傘」や、25作目の「寅次郎 ハイビスカスの花」、そしてシリーズ最後の作品となった48作目の「寅次郎 紅の花」にも出演されたのですが、この4作だけは欠かさず観たように記憶しています。
このインタビューの日は、「楢山節考」を撮られた今村昌平さんのご子息・天願大介さんが、同じ姥捨て山をテーマに撮られた、山に捨てられ、死んだと思われていた老女50人が、様々な思いを抱えながら、過酷な状況の中でデンデラという集落を築いて懸命に生き抜いていく映画、「デンデラ」を中心にお話を伺いました。私にとっては、あのリリーさんが70歳の主役・斎藤カユを、どう演じられるのかということに興味があったのですが、メイクの話になった際、「(こんなメイクは)初めて。土汚れと雪焼けとあかぎれを表現した特殊メイクで、顔だけでなく手も汚して、歯は黄色く塗り、その上にお歯黒をしています。ただ、私だけお歯黒はしていません。当初は『してください』と言われたのですが、役作りをする上で違和感を感じまして。私の役柄はやって来たばかりの新参者ですから、それまで塩で歯磨きをしていたはずだから『私はしません』と断りました。」とおっしゃったのを聞いて、「自分がスタッフじゃなくて良かった」と思いました。スターは、やはりいつも輝いていないといけないのです。
テレビ版「男はつらいよ」 さくらは長山藍子さんでした
テレビ版
ハブに咬まれて・・・
テレビ版 最終回
イラストレーター中原淳さんの強烈な推薦があったと言われています
寅さんとリリーさんが眺めた帽子岩
前回の小林旭さん、浅丘ルリ子さんと同様に懐かしい思いでお会いしたのが松島トモ子さんでした。もっともこれは、私が受け持つスペシャルインタビューではなく、2011年10月号から始まる新企画、「佐藤義和のご無沙汰しています」シリーズの最初のゲストに、松島さんがお見えになると耳にしたからでした。一応はもっともらしく、「新企画がどうなるかをチェックしたいから!」などとは言っていましたが、本心は子供の頃に見たアイドルの松島さんにお会いしたかっただけのことでした。当時はテレビがまだ一般にはそれほど普及していなくて、書店に並ぶ少年少女向けの雑誌の表紙モデルが今でいうアイドルのようなものだったのです。中でも、少年画報の設楽幸嗣さんや「ぼくら」の小畑やすしさん、女性では「少女」の表紙モデルを10年間務めた松島トモ子さんが人気を集めていたように思います。我々の少年時代のアイドルは、吉永小百合さんではなく、松島トモ子さんだったのです。
松島さんは、佐藤さんがフジポニー時代にディレクターを務められていた「ハイヌーンショー」で、月曜日から水曜日まで6代目・月の家園鏡(後の8代目・橘家園蔵)さんと司会をされたこともあって、佐藤さんと旧知の仲だったのですが、担当でもない私が便乗をして佐藤さんに付いて新橋ヤクルトホールまで行ったのは、ただ松島さんの顔を見たかったからだけのことでした。
そうそう、思い出しました。この2011年の3月、「5ℓ」5月号の取材で神戸を訪れた時のことです。初日の10日は、新長田駅前に阪神淡路大震災からの復興のモニュメントとして、駅前に巨大な鉄人28号像を立てられた、NPO法人「KOBE鉄人PROJECT」の正岡健二さんにお話を伺った後、スペシャルインタビューのゲスト・「神鋼コベルコ・ステイラーズ」総監督を務められていた平尾誠二さんから、「力はあるけど勝ちきれない」と言われたチームスタイルを、フォワード力を武器にしたものから、バックスを多用する展開主体のオープンラグビーに変えて7連覇に導いた秘訣などを聞かせていただきました。その後、市章山から100万ドルと言われる夜景などを撮影して、皆で食事を取った後、加納町の「BAR志賀」に立ち寄って、「ホテルピエナ神戸」に入ったのですが、予想もしない事が起きたのはこの翌日のことでした。
南京町にある、豚まん発祥の店「老詳記」を訪ねたあと、メリケンパークやポートタワーの取材を終え、「神戸新聞社」へお邪魔して、文化生活部の三好正文部長と石崎勝伸デスクから、16年前に起きた阪神淡路大震災の折に、神戸新聞社ビルが崩壊した中でも、絶やすことなく新聞を発行し続けた秘話などを伺い、次の取材先、中山手にある「にしむら珈琲本店」へ移動している最中のことでした。スタッフの携帯に、奥さんから電話がかかって「東北で地震があて、東京も大変なことになっている」というのです。とは言え、タイトに組まれたスケジュールのこともあり、その後も予定通り、山手通りの「にしむら珈琲本店」やステーキの「KOBE A-1新道店」、フランス料理界の重鎮ベルラーノ・ロワゾ氏お墨付きの「世界一の朝食」で知られた「北野ホテル」等の取材を済ませた後、ようやくNHKの神戸支局に立ち寄って、1階ロビーにあるテレビでニュースを見たのは午後6時のことでした。
その後、すぐに皆で帰京すべく伊丹空港へ移動したものの、予定していた午後8時15分発のJAL便はフライト中止、ならば新幹線と今度は新大阪へ向かったのですが、これも全便が運行中止、仕方なく大阪で1泊をして、翌日9時47分発ののぞみで帰京して、いったん帰宅をしたのですが、妻から、いかに大変だったかを滾々と訴えられ、「こういう大変な時は、いつも家に居ないんだから!」と詰られ、喉まで出かかっていた、「普段の行いが良いからだ!」という言葉をぐっと飲み込んだのを憶えています。それにしても、阪神淡路大震災の取材をしたその日に、まさか東日本で大地震が起きるなんて、思ってもいませんでしたね。
設楽幸嗣さん
小畑やすしさん
こんなこともありました
NPO法人「KOBE鉄人PROJECT」の正岡健二さん
平尾誠二さん
市章山から見下ろした100万ドルの夜景
右が市章山、左が錨山
ぶたまん発祥の店「老祥記」 行列必至の人気店です
神戸新聞 文化生活部の三好部長(左)と石崎デスク
震災後15年目の2010年1月6日 フジテレビ「土曜プレミアム」で放送されました
にしむら珈琲本店
北野ホテル
フランス料理界の重鎮ベルラーノ・ロワゾ氏お墨付きの「世界一の朝食」
震災直後の、我が事務所の様子
この頃、「2012年問題」という言葉が飛び交うようになりました。と言っても、地球大変動を予言した「マヤ暦」のことではありません。たしかにこの年は、中国では胡錦涛さんから習近さん、韓国では李明博さんから朴槿恵さん、北朝鮮では金正日さんから金正恩さん、フランスではサルコジさんからオランドさん、ロシアではメドベージェフさんからプーチンさん、日本でも野田佳彦さんから安倍晋三さんへと、世界的に国のリーダーが激変した年でもあったのですが、私がここで言う「2012年問題」は、本来2007年に生みだされるはずだった団塊世代の大量退職(「2007年問題」と言われました)が、高齢者雇用安定法の改正・施行によって5年先送りをされ、2012年から始まることを指したものでした。
どうりで、この頃あちこちから頻繁に「退職の挨拶状」がやって来る理由が分かりました。関連会社の役員として終える人、そのまま従来の会社で嘱託として終える人、様々ではありますが、40余年にわたるサラリーマン生活に別れを告げる時がとうとうやってきたのです。10年前、勝手に退職した私にとっても感慨深いものがありました。「そうか彼も、もうそんな時を迎えたのか!」、挨拶状を受け取る度に、その人と一緒に仕事をさせてもらった日々を懐かしく振り返ったりしていました。そんなある時、テレビ大阪サービスで社長を務められた金井道夫さんから、「再出発を祝う会」を開くので、ぜひ大阪まで来てほしいというお誘いがあったのです。営業畑一筋に歩んできたこの方のこと故、今までご縁のあった人たちに促されてパーティを開くことになったのでしょうが、ここはぜひとも参加せねばなるまい。幸い、パーティ会場の全日空ホテルは北新地にも近く、ご無沙汰していた店にも顔を出せるという思惑もあって、参加に〇印を入れて返送をすることにしたのです。
7月29日、東京から新幹線で帰阪し、すでに開宴されていた会場に入ると、私が想像していたより盛大なパーティで、スピーチに立たれた方々のお話からも、金井さんの現役時代の幅広い活躍ぶりが窺えました。私にも突然の指名があって、あまりに讃辞ばかりが続くので、「ここらで金井さんの旧悪を暴露しようか?」とも思ったのですが、せっかく盛り上がっている場の雰囲気を壊してもいけないと思い、やや欲求不満ではあったのですが、無難にエールを送ることにしました。大人になったということですかね、私も。
その後、吉本時代からお世話になった中島敏朗元テレビ大阪副社長や、元常務取締役の川越亮さんらと歓談をしているうちに、いよいよ、オーラスを迎え、返礼に立ったこの日の主人公、金井さんのご挨拶の時を迎えました。興奮と幾分の緊張からか、顔に赤みがさした金井さんは、来場していただいた皆さん方に感謝の言葉を述べられたあと、「これからは教育分野と 教養分野に余生を捧げたい」と、いつものファンキーな金井さんらしくない言葉を口にされたので、「?」と思いつつ、さらに耳を傾けていると、「今日行く(べき)所と、今日(やるべき)用事があることを目指します」というオチがついていたのです。ご本人は大爆笑に包まれることをイメージしながら話されたのでしょうが、その割に場内の反応が薄かったことに気落ちして、「せっかく何日も前から準備をしたのに、ウケがいまいちだった・・・」と落ち込んでおられたので、「プロじゃないんだから、ウケを気にしなくても・・・」と優しくフォローしてあげて、パーティがお開きになった後、4人で「今日行くべき所」と「今日やるべき用事」を果たすべく、昔よく通った北新地のミシュラン割烹「松本」と、ひょうきんなママのいるBar「しっぽな」へ顔を出すことにしたのです。この後、団塊世代は、2025年には75歳の後期高齢者となって、国や自治体の社会保障財政の運営に大きな影響をもたらす素因になると言われる「2025年問題」を引き起こすと言われているのですから、何ともはや、「問題多き世代」と言わざるを得ませんね。もっとも私は1946年5月30日の生まれで、厳密には団塊の世代ではないのですがね。
2007年問題
65歳以上の正規従業員はほぼゼロに!
せっかくのネタがスベりました
左から、中嶋さん、私、金井さん、川越さん
割烹まつもとの外観
割烹まつもと
「しっぽな」のみゆきママ
「しっぽな」の店内
「5ℓ」では、スペシャルインタビューのゲストとして、これまで触れさせていただいた方々の他にも、2011年にはジャーナリストの田原総一郎さんや、作詞家に留まらずマルチ・プロデューサーとして活躍されている秋元康さん、歌手の五木ひろしさん、2012年には俳優の山崎務さん、ジャーナリストの竹村健一さん、歌手の西城秀樹さん、マルチタレントの先駆者・大橋巨泉さん、2013年には俳優の橋爪功さん、世界のナベサダ・渡辺貞夫さん、サッカーに留まらずスポーツ界のリーダーとして活躍されている川淵三郎さん、歌手の加藤登紀子さん、俳優の松平健さんをはじめ、各々の世界で活躍されている(準備号を入れて)99人の方々にご登場いただきました。さらに加えて、2010年4月号の山形県から始めた「にっぽん日和」では、2013年12月の横浜市まで全国45カ所を訪ね、地域の魅力紹介と共に、そこで頑張っている人や、美味しい店などを紹介させていただきました。
2014年も、1月号のゲストに市原悦子さんを迎え、鹿児島市を訪ねるところから始まったのですが、4月にメイン・クライアントの「りそなグループ」さんから、「発行を隔月に出来ないか?」という要請があり、6月の小椋佳さん、東京・築地の号から隔月刊6・7月号として発行することになりました。
幸い、これにタイミングを合わせるかのように、我が事務所随一のやり手(と言っても、彼一人しかいないのですが)、池田大作君の働きによって、1877年に設立され日本で2番目に古い歴史を持つ、岐阜のリーディング・バンクの「十六銀行」さんから、カスタマイズ版ではなくオリジナルの季刊誌「TRUST」を発行することになり、2014年6月20日発行の夏号では巻頭インタビューに、岐阜県出身の野口五郎さんにご登場いただくことになりました。以降、秋号には恵那郡福岡町(現中津川市)のご出身で、NHK時代の95年には紅白歌合戦の司会を務め、1997年から2007年までTBSの「筑紫哲也NEWS23」では、サブ司会を務められたフリーアナウンサーの草野満代さんをお迎えし、2015年の冬号には、高山市のご出身で「ものまねの女王」の異名をとる清水ミチコさん、春号には、中日ドラゴンズで、史上最年長の41歳1か月でノーヒットノーランを達成された山本昌さんにお付き合いいただきました。
2月13日に、沖縄キャンプの「読谷平和の森球場」まで出かけ、若い選手と一緒にトレーニングをされた後、湧き出る汗を拭いながらお話される山本さんからお話を聞かせていただいたのですが、残念ながらこの年の9月、シーズン終わりで山本昌さんは現役を引退されました。それにしても、50歳まで現役を続けられたのですから大したものですね。次いで夏号には、今や、警察ドラマには欠かせない俳優となられた内藤剛志さん。この方は大阪のお生まれなのですが、2006年10月15日から、東海テレビで、日曜昼の人気情報番組「スタイル+」の司会をされているご縁もあって、ご出演いただけることになりました。実は私も、この番組の4回目の2006年11月5日に、ゲストとして呼んでいいただいたことがあったのですが、その番組がまだ続いていたことに驚きました。そして、秋号には、大垣市のご出身で、2005年に「仮面ライダー響鬼」の主役としてデビューされ、一方で「家電マニア」としても知られていた俳優の細川茂樹さんをゲストにお迎えしてお話を伺いました。
さらに2016年の冬号には、名古屋市の本城中学ご出身で、フジテレビ火曜夜9時枠の人気ドラマ「ナースのお仕事」で、新人看護婦・朝倉いずみ(観月ありささん)を鍛える指導看護婦・尾崎翔子役を演じて人気を博し、2004年から名古屋の大手企業「フジパン」のCMに起用され、今も出演されている女優の松下由樹さん。春号には、岐阜市の出身で、西武ライオンズと中日ドラゴンズで活躍された、野球解説者のベンちゃんこと和田一浩さんと続いたのですが、これ以降は、十六銀行さんからリクエストされていた東海地区にご縁のあるタレントソースの枯渇などもあって、ちょうど2年で終わることになりました。50歳まで現役を続けられた山本昌さん、内藤剛史さん司会の「スタイル+」、松下さんのフジパンCM、みんな長く続いているのをみて、「TRUST」も長~いお付き合いをしていただけるのではないか?なんて淡い期待を抱いたのですが、世の中は、フジパンの「特撰メロンパン」のように、甘くはなかったということですかね。
「やった〜!」と喜ぶ、池田大作君
我が事務所、唯一の営業マンです
創刊号は野口五郎さんでした
草野満代さん
清水ミチコさん
山本昌さん
内藤剛志さん
細川茂樹さん
松下由樹さん
フジパンのCMに出演する松下さん
和田一浩さん
と、思ったのですが・・・
世の中そんなに甘くない