木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 明けて2009年、この年は元旦に高輪神社、4日に難波神社へお参りし、10日にはパルコ劇場で志の輔さんの落語会を観て、12日に娘の成人式写真を高輪プリンスで撮り、13日には六本木ヒルズのJWAVEで「LOHAS TALK」に出演、その間に大阪や埼玉、八王子などで講演をしながら、なぜか25日、妻と2人で京阪バス主催の「都七福神巡り」に参加しました。朝、京阪三条を出発して、六波羅密寺(唯一の女神・弁財天)、ゑびす神社(ゑびす神)と、東寺(毘沙門天)、松ケ崎大黒天(大黒天)、赤山禅院(福禄寿)、行願寺・革堂(寿老神)、黄檗山万福寺(布袋尊)を巡り、ここでツアーを離れて、嘗て住んでいた伏見へ出て、またしても弁財天を祀る長建寺へお参りした後、懐かしい南浜小学校や、酒造会社の月桂冠を眺めながら、寺田屋の手前を右折して、竜馬通り(かつての車町)、納屋町、大手筋を歩いて帰宅しました。

 そもそも、「七福神」とは室町末期に唱えられた民間信仰で、七福神を参拝すると、7つの災難が除かれ、7つの幸福を授かると言われます。私が弁財天だけを2度も訪れたのは、他の神が叶えるという商売繁盛や富徳開運、笑門来福、人望、長寿よりも、きっと、弁財天が叶える「財宝」や「縁結び」の方に惹かれたのかもしれません。

 ちょうどこの頃、アメリカの44代大統領にオバマさんが選ばれて、人気を博していました。「変化」や「希望」、「連帯」などシンボリックな言葉を並べ、最後に「YES WE CAN」と締めくくる話法は、格調の高さとレトリックの巧みさもあって、アメリカのみならず、日本の人々の心も捉えていました。21日に行われた就任式の生中継で、演説の始まった深夜2時8分には視聴率が7.2%に達したと言われます。前4週の平均視聴率や、4年前のブッシュ大統領の就任式の視聴率の視聴率が1.5%であったのに比べると破格の数字と言っていいかもしれません。この年に朝日出版社から発売された「オバマ演説集」は40万部が売れ、2009年で、最初のベストセラーとなりました。

 アメリカ人が熱中するのは分かるけど、ここまで日本人が嵌るのはなぜか?さっさとベッドに入り、翌朝の新聞でチェックした私には理解できなかったのですが、嬉々として、「アメリカが変わる瞬間を目撃出来て、良かった!」と語る知人を前にして、「それより、日本が変わる瞬間を見たい!」と心の中で呟いたのを憶えていますが、ちょうどこのオバマ演説が行われた半日ほど前、日本の国会では参議院予算委員会の席で、質問に立った民主党の石井一副代表が、麻生太郎首相に「あなたの漢字力で、この漢字が読めますか?」と、前年11月に発行された月刊誌「文芸春秋」の首相の手記を突き付けていたのです。何たる彼我の差でしょう、オバマさんに惹かれる日本人の気持ちが少し解った気がしました。

 ちょうどこの頃、母が入院しました。灯りの消えた楠葉の実家へ帰ると、人のいる気配がなく、同じ町内にいる姉からの手紙が机の上に置いてあり、電話をかけて、カーペットにつまずいて入院したことが分かりました。10年ほど前に転んで大腿部を骨折して、人工関節を入れてはいたのですが、病院を訪ねると、「さすがに再手術は無理だけど、幹部を固定してリハビリに励めば、依然に近い生活は出来るだろう」とのことで一安心しましたが、私にはもう1つ厄介な問題が生じてしまったのです。たしか、不可侵条約を交わしたはずなのに、母の見舞いを理由に、妻が頻繁に大阪を訪れるようになったのです。こんなことなら、妻子の呪縛から逃れ、安寧の時を過ごすため、いっそ私の方が入院したくなりましたね。

 

 

 

 

 

 

長建寺

 

南浜小学校

 

月桂冠酒造

 

龍馬通り

 

納屋町

 

 

 

麻生さんとオバマさん

 

「読めるか?」と追及する石井一さん

 

 

これは独ソ不可侵条約

 

これも不可侵条約

 

HISTORY

第話

 「5ℓ」のスペシャルインタビューでは、2月10日「5ℓ」に3月号の朝原宣治さん、3月4日には4月号の本木雅弘さん、4月9日に5月号の中尾ミエさん、4月13日には6月号大竹しのぶさん、と続きました。

 朝原宣治さんには、勤務されている大阪ガスへお邪魔をして、前年の北京オリンピック・男子400mリレーで、日本が銅メダルに輝いた話を伺うと共に、100mを人生に例えて、「スタートから40mまでが第一加速区間、トップスピード近くまで上げて、そこからトップスピードに入る60mまでが第二加速区間、60m以降は等速区間で、少し減速するけれど、トップスピードをほぼ維持する区間だ」とおっしゃったのが印象に残っています。自身に置き換えて、62歳の私もまだまだ減速している場合ではないと思いました。

 本木雅弘さんには、ご自身の発案で実現した映画、「おくりびと」を中心にお話を伺いました。このインタビューの直前の、2月20日に第32回日本アカデミー賞で10冠に輝き、2月22日には、第81回アカデミー賞の外国語映画賞を受賞したこともあって、あちこちからインタビューの依頼が殺到する中、よく「5ℓ」のインタビューに応じていただけたものだと思います。本木さんは、とても静かな佇まいの方で、赤坂プリンスホテルの気品のある洋館のクラシカルな雰囲気が似合う方でした。映画の大ヒットに酔うこともなく、更にクオリティを追い求めるストイックな姿は、あたかも求道者を見ているかのようでした。

 中尾ミエさんには、デビューして30年目に、育ててもらった渡辺プロを辞めて独立をされた動機や、マスターズ水泳、書道などに取り組んで、「可愛いBABY」から「可愛いBABA」へ変身を遂げられた秘訣などを聞かせていただきました。ちょうど私と同い歳ということもあって、共感するところがたくさんありました。ちょうどこの日は、ご自身の「遊書展」が開催されていた大阪帝国ホテルのギャラリーでインタビューをさせていただきました。木原美知子さんを通じて、中尾さんと水泳仲間の大ぞのさんを交えて食事をした帰り道、ふと夜空を眺めると綺麗な満月だったのを憶えています。

 そして大竹しのぶさん、気鋭の映画監督や舞台演出家の作品には欠かせない女優さんとして常に注目を集め、ジャンルにとらわれず才能を発揮されている方です。「健康と素敵な恋愛がキラキラし続けられる理由」とおっしゃっていましたが、周りの人からは、「よほど何も考えない人か、外国人でないと」と言われているとのこと。そんな勇気のある人っているのでしょうかね?スタイリストさんには申し訳ないのですが、グレーのニットの私服と、キュートな笑顔で現れた大竹さんは素敵方なでした。これからも、ますますいい仕事に取り組まれて、更に輝きを増していかれるのだろうなと思いながら、インタビュー場所のavex本社会議室を後にしました。

 そうそう、2月13日には、前年の11月に「5ℓ」のインタビューをさせていただいた中村獅童さんが、市川亀治郎さん、片岡愛之助さん、中村勘太郎さん、中村七之助さんら、次の世代を背負う人気花形と共に出演されている大阪の松竹座へ出かけました。「二月花形歌舞伎」と題された公演は11時の「毛抜」に始まり、メインの演目の「女殺油地獄」が終わったのは、午後3時を過ぎていました。終演後、獅童さんの楽屋へご挨拶に伺い、オフィスに戻ったのですが、昼夜の演目を入れ替えて、25日間も演じるというのですから、「歌舞伎役者の方って、すごいな!」と思ったのが正直な気持ちでした。

 次いで、4月4日には、京都の南座で現代劇中村獅童さんが、片岡愛之助さんや黒田メイサさんと共演された「赤い城 黒い砂」を観に出かけました。シェイクスピアの幻の名作と言われた「二人の貴公子」をベースに、脚本を蓬莱竜太さんが、演出を栗山民也さんが担当して創られた作品で、互いに無二の親友でありながら、やがて敵対するようになる二人の英雄を描いた作品で、冷静沈着で、常に頂点を目指す「ジンク」役を片岡愛之助さん、自信家で、自分の感情にまっすぐな「カタリ」役を中村獅童さん、そして二人から愛を寄せられる勇猛な王女「ナジャ役」を黒田メイサさんが演じていました。この二つの公演を見て、「獅童さんって、いいよな!」との思いを更に深くしました。。

 

 

 

 

 

 

 

 

赤坂プリンスホテル旧館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人の貴公子

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 そして迎えた4月17日、いよいよ「2009鳥取・因幡の祭典」を翌日に控え、いつものように、難波から日本交通のバスに乗り、午後2時に鳥取駅に着き、いったん駅前にあるホテル・ニューオータニにチェックインして、開幕式典の開かれる尚徳町の県民文化会館(とりぎん文化会館)に向かいました。式典には祭典実行委員長の瀧本寛さんなど、関係者や招待客など700人が参加、常陸宮ご夫妻を迎えて、観光客100万人増を目指す祭典の開幕を祝い、小学校児童の開幕宣言に続いて、地元の伝統芸能「麒麟獅子舞い」や「因幡の傘踊り」が披露されて」、イメージソング「街から街へ」を歌って幕を閉じました。

 その後、ニューオータニで6時から開かれる祭典祝賀パーティまで、少し時間があるので、職人町まで少し歩き、大阪で馴染みの「丸福珈琲店」を訪ね、名物の濃いコーヒーを飲ませていただきました。「なんで丸福が鳥取に?」と思って尋ねると、創業者の伊吹貞雄さんが鳥取のご出身で、1953年に鳥取店をオープンしたということが分かりました。そう、大阪の日本交通の澤志郎社長も、やはり鳥取県のお生まれで、2008年から鳥取県の県政顧問を務められていました。こんな所にも、大阪と鳥取との深い縁を感じることとなりました。

 祭典の祝賀パーティには、常陸宮ご夫妻の他に、平井伸治知事や竹内功市長も参加されて、会場は実に和やかな雰囲気のなか進行していたのですが、突然なぜか私にスピーチの順が回ってきて、「常陸宮様ご臨席の場で、無礼があってはいけない」とは思いつつ、悲しい性の故か、会場におられた派手なネクタイの田村耕三郎参議院議員をツッコんで、笑いを誘いつつ話し始めたのを憶えています。

 翌朝の9時からオアシス広場で始められた、「世界砂像フェスティバル」のオープニングイベントの席には、田村議員も来られていて、前夜の失礼をお詫びしたところ、「いやいやっ!」と笑顔を返していただいたのですが、着ておられたスーツは、やはり目を引く派手なものでした。海外でも活躍され、とてもクレバーな方だけに、あえて派手なスーツやネクタイを着用されていたのは、自分のキャラをアピールするための戦略だったのではないかという気もしています。

 式典の後は、砂像を見て回り、フェスティバルの総合プロデューサーを務められている茶圓勝彦さんにご挨拶をさせていただきました。茶圓さんにお目にかかるのはこれが2度目で、前年の12月18日に大阪市立科学館北側の公共広場で行われた「OSAKAひかりのルネッサンス」で、鳥取市が、Tottori city prezents「サイレントナイト・サンドファンタジー~鳥取砂丘の国々へ~」というイベントを行った際、鳥取砂丘から260 tもの砂を運んで、「都会に降りた天使像」を造った方として市の方から紹介を受けていたのです。茶圓さんは、WSSAが主催する砂像世界選手権シンガポール大会優勝者で、日本の砂像制作の第一人者と言われ、この2009年7月には、ニューズウィークの「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれました。

 一方、「世界が尊敬しそうもない100人」なら選ばれるかもしれない私は、このあと、11時から行われたブルーインパルスのアクロバット飛行を見て、再び日本交通のバスで京都へ帰り、妻と合流して、妻のリクエストに従って、南座の横4軒目にある「祇おん・松乃」で鰻を食べ、四条木屋町にある、懐かしの「喫茶フランソワ」に立ち寄ってお茶をした後、翌日に上賀茂神社で行われる甥の結婚式に備えるため、ブライトンホテルに宿をとりました。

 

 

 

 

「とりぎん文化会館」とも言われます

 

鳥取の丸福珈琲店

 

伊吹貞雄さん

 

 

 

澤志郎社長

 

 

 

 

 

 

 

 

 

OSAKAひかりのルネッサンス時に展示された茶圓さん制作の砂像作品

 

 

 

砂丘の上を飛ぶブルーインパルス

 

祇をん「松乃」

 

 

 

HISTORY

第話

 4月24日には、厚労省が1998年以降、12年連続で3万人超えを続け、その内の約3割が被雇用者・勤め人であることを踏まえ、「心の健康問題の未然防止に向けた取り組み」を促す施策の一環として設置された、「メンタルヘルス・ポータルサイト委員会」に出席させていただきました。

 例によって、残間里江子さんが主宰されるキャンディッド・コミュニケーションズからのお誘いもあってお引き受けしたのですが、メンバーを見ると、日本産業カウンセラー協会の安藤一重会長や、日本医師会の今村聡常任理事、山本晴義横浜労災病院・勤労者メンタルヘルスセンター長などその道の専門家の方ばかり、「こんな私でいいんかい?」とは思ったのですが、幾分の好奇心もあってお引き受けすることになり、2011年の2月まで務めさせていただくことになりました。

 5月1日には、神戸ポートアイランドにある真正ジムを訪ね、「5ℓ」7月号のゲスト、WBC世界バンタム級チャンピオンの長谷川穂積さんにインタビューをさせていただきました。長谷川さんは、1998年辰吉丈一郎選手をKOで破って以降、14度の防衛を果たしてきた、タイの伝説のチャンピオン、ウイラポン・ナコンルアンプロモーション選手から2005年にベルトを奪取した後、世界ランク1位の選手4人を含む8度の防衛戦に何れも勝利し、4年以上に亘ってチャンピオンとして君臨していました。

 小学校2年の頃から元プロボクサーのお父さんにボクシングを教わったものの、あまりの厳しさに反発をして中学では卓球部に所属したのですが、そのおかげで動体視力が養われたことや、プロテストに2回目で合格したこと、4回戦の頃に2度負けていることなどをお聞きして、その強さが決して天性のものではなく努力の賜物であることや、両親への感謝、対戦相手へのリスペクトを忘れない心根に胸を打たれました。

 この後、7月14日には、お誘いを受けて、神戸ワールド記念ホールで行われた9度目の防衛戦となる、アメリカのネストール・ロチャ選手との試合を見に行かせてもらったのですが、何と1ラウンドでKO勝ち、一瞬「ウソ!まだ2分28秒しか経ってへんがな、金返せ!」と言いたかったのですが、残念ながらご招待とあってそういうわけにはいきません。「相手が弱すぎるのかな?」とも思ったのですが、世界ランク4位で21勝7KO・1敗のボクサーなのですからそんなわけはありません。それだけ長谷川選手の強さが際立っていたということなのです。リング上でもっと、どや顔をしてもいいのに、「1ラウンドで終わってしまってすいません」とお詫びされている姿を見て、改めてそのお人柄に惚れ直しました。

 長谷川選手はその後、2010年4月30日、フェルナンド・モンティエル選手に敗れて、残念ながら、11度目の防衛を果たせなかったのですが、同年11月26日、ファン・カルロス・ブルゴス選手との王座決定戦に勝って、WBC世界フェザー級チャンピオンとなりました。リング上で、1ヶ月前に亡くなったお母様の遺影を掲げて喜びを表現された長谷川さんの姿は今でも目に焼き付いています。残念ながら、2011年4月8日、ジョニー・ゴンザレス選手との初防衛戦に敗れタイトルを失いましたが、どっこい5年半後の2016年9月16日には、ウーゴ・ルイス選手を9回TKOで破ってWBCスーパーバンタム級のチャンピオンに返り咲き、3階級制覇を成し遂げた後、防衛戦を行うことなく、「ベルトを獲る理由はあったけど、ベルトを守る理由が見つからなかった」として、17年間の現役生活にピリオドを打たれました。現役を退かれた今でもトレーニングは欠かすことなく続けられ、スポーツライターの渋谷淳さんによると、その理由を尋ねられて、「長谷川穂積をキープするためだ」とおっしゃっているとか。およそ「メンタルヘルス」なんて言葉とは対極にある人なんでしょうね、きっと。

 

 

 

 

メンタルが弱い人

 

 

 

 

 

辰吉丈一郎選手に6回KO勝ち チャンピオンになったウィラポン選手

 

表情を変えずに強打を打つことから「デスマスク」の異名を持ちます

 

2005年4月、ウィラポン選手に12回判定勝ちしてWBCバンタム級チャンピオンに

 

 

 

母 裕美子さんの遺影とリングへ トミーズ雅さんとともに(2010年11月26日)

 

3階級を制覇しました

 

渋谷淳さん

 

座右の銘はこれだそうです

 

HISTORY

第話

 そうそう、「5ℓ」では、6月号から「木村政雄の発言」というコラムに代えて新しくスタートすることになった「ビジョナリーな人たち」というシリーズにご登場いただく第1回目のゲストとして、日の出町の町長の青木國太郎さんにお会いしました。

 ヴィジョナリー(Visionary)な人とは、「未来からの視点を持った人」のことで、課題を前に佇む人や、既に解決済みの課題を得々と解説する人は多くとも、今まさに起こりつつある喫緊の課題に対して、果敢にING形でチャレンジしている人のことは、存外に知られていないものです。このシリーズは、そうした方々にお話を伺うことで、「課題大国ニッポンの明日」を読者の皆さんと共に考える一助になればという思いで企画したものでした。

 最初のゲストに、青木國太郎町長をお願いしたのは、前年の2008年、9月15日の敬老の日に、「日の出町発!長寿化対策~日本一お年寄りにやさしい街づくり宣言」を発表されて、(1)75歳以上の方が負担する医療費をすべて無料にする、(2)75歳になる方が受ける人間ドッグを無料にする、(3)健康教室を開催し、お年寄り向けスポーツを支援するなど健康管理・増進を図るという施策を、全国に先駆けてこの4月から実行に移されていたからなのです。

 さらにその一方で、若い世代に対する支援も忘れず、少子化対策の一環として、「子育てママさん百人会議」を定期的に開催すると同時に、「日の出町発・少子化対策次世代育成プログラム」を併せて発表し、15歳までの子供を持つ家庭には、町内のみで使用できるクーポン券を毎月1万円配布、さらに15歳までの医療費の全額無料化し、新築町営住宅の8割を若い世代に優先的に貸し付けるというのです。

 インタビュー当日の4月23日、役所を訪れると、玄関に「この町に生まれ、この街に暮らせてよかったと喜ばれる『理想郷(ユートピア)日の出』を創造します」とスローガンが掲げられていました。「いきいき健康課」「まちづくり課」「生活案心課」など、住民の方に顔を向けたセクションのネーミングがとても新鮮でした。聞けば町予算の1%を割くだけでこれらの施策が実現できたとのこと、「国レベルでも可能ですかね?」と青木町長に尋ねると、「十分に可能だと思いますよ」と、爽やかな答えが返ってきました。

 それにしても、東京から西へおよそ50km、新宿から中央線で立川、更に青梅さんに乗り換えて福生で降り、タクシーに乗り継いでようやく日の出町。中曽根首相が1983年11月、レーガン大統領と日米会談を行った日の出山荘の名前こそ聞いてはいたものの、まさかこんなに遠い所だとは思ってもいませんでした。

 次いで5月11日には、7月号の「ビジョナリー」にご登場いただく藤原和博さんにお会いしました。場所はたしか銀座みゆき館ビルの2階にあるダイニングバーの個室だったと思います。当時の藤原さんの肩書は、橋下大阪知事に乞われて着かれた、大阪府教育委員会・特別顧問というものでしたが、藤原さんは株式会社リクルートで東京営業統括部長や新規事業担当部長など要職を務め、「スーパーサラリーマン」の異名をとるようになった後、リクルートを離れ、2003年から5年間、都内では義務教育初の民間校長として杉並区立和田中学校の校長を務められて、世の中について学ぶ「よのなか科」や、学習塾と連携した課外授業「夜スペ(夜間塾)」、土曜日に自主学習のサポートをする「ドテラ(土曜日寺子屋)、地域の協力者で作る「地域本部」など、矢継ぎ早にユニークなプロジェクトを実施して教育現場に新風を吹き込んでこられました。「リクルートのカルチャーと対極にある保守的な土壌で、自分がどれだけできるのか試したかった。まずはこの1校を変えてショールームにして、全国に普及させていこう」と頑張って、2008年には和田中をモデルとした「学校支援地域本部」の全国展開に、文部科学省が50億円の予算を組んだのです。

 インタビューの終わり際、「いずれ、木村さんにもご協力を!」とおっしゃったのですが、あれ以降何の連絡もありません。単なる社交辞令ってことかもしれませんが、それはともかく、青木町長と藤原さん、素晴らしい実績を上げられたお二人からお話を伺うことが出来て、本当に良かったと思いましたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

テレビでも取り上げられました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロンヤス会談

 

 

 

今は記念館として残っています

 

 

 

 

 

銀座みゆき会館ビルの2階にあるアムルーズ

 

アムルーズの個室

 

 

 

HISTORY

第話

 大阪のオフィスを閉じて、家族のいる東京へ遷ろうと決めたのも確かこの頃でしたね。吉本を辞めて7年、「いずれ遷るなら、そろそろ、この辺りで」と思い、松川君に代わって4年間仕事をサポートしてくれた澤君にも5月27日にはその旨を伝え、7月25日には引っ越しを済ませました。もちろん大阪で仕事をする際には、母のいる実家に楠葉に泊まれば済むことで、特段不自由なこともなく移行できたように思います。大阪にいれば、それなりに緩い空気の中で過ごすことは出来たと思うのですが、ここらで環境を変えて、もう一度自らの気持ちを新たにして、出直してみようと思ったのです。

 事務所は、千代田区平河町にある「ライフエンタテインメント社」のオフィスに同居することにしました。「5ℓ」誌の発行もしていて、これまでの電話やメールよりも、実際にスタッフの顔を見ながら話した方が、より意思の疎通が図れると思ったのです。とりあえずその中の女性が、秘書代わりを務めてくれたのですが、とても松川君や澤君のようにはいかず、苦労しました。それよりも苦労したのは通勤時の地下鉄の混み具合でした。白金台から永田町まで6駅、時間にしてたった12,3分のものですが、大阪では経験したことがないほどに、多くの人がひしめく中で過ごす時間は、苦痛以外の何ものでもない気がしました。

 もっと苦痛だったのは、出張の日以外は必ず家に帰らなければならないことでした。当たり前と言えば当たり前のことではあるのですが、大阪にいた時は、原則として週末に帰るだけのショートステイで良かったのですが、これからはそうはいかなくなったのです。もっともこれは待ち受ける側の妻にしても同じことだとは思うのですが、いや、むしろ妻の方がその度合いが上だったかもしれません。満員の地下鉄や、毎日の帰宅に慣れるようになったのは、3か月ほど後のことだったように思います。

 つんく♂さんに「5ℓ」9月号のスペシャルインタビューをさせていただいたのは、引越しの翌々日、7月27日のことでした。場所は、シャ乱Qのヴォーカルや、モーニング娘、ハロープロジェェクト、松浦亜弥さんのプロデューサーとして活躍されたつんく♂さんが、2006年10月に高輪3丁目に設立された、総合エンタテインメント事務所「TNX株式会社」だったと思います。何と、桜田通りを挟んで我が家とは至近距離にあったのです。「こんなことなら、オフィスへ出ないで、直接来ればよかった」と思いつつ、笑顔で迎えていただいたつんく♂さんに、社内を案内していただきました。同じ関西人ということもあって話はスムーズに進んだのですが、どちらかと言うと一流のビジネスマンと話をしているような印象を受けました。論旨が明快で説得力にも長けています。やはり、この人は天性のマーケッターでもあり、プロデューサーなのだと思いました。自身の興味が広がる毎に新しい知識を吸収し、更にそれを仕事やプロジェクトに反映させていく、何とも見事な手腕の持ち主だなと思わされました。

 このインタビューの後日、贈り物を頂いて、「?」と思いつつ中を開けると、前年に新宿でつんく♂さんがプロデュースして、オープンしていた「お好み茶屋 かりふわ堂」さんからの招待券が入っていました。音楽のみならず、お好み焼き店までプロデュースされているとは知りませんでした。

 そんな、つんく♂さんは、2014年に、喉頭がんのため声帯を摘出したことを公表されましたが、作詞家・音楽評論家の湯川れい子さんが、つんく♂さんに曲を依頼され、湯川さんが、つんく♂さんの3人の子供さんに対する心情を汲んだ詞をつけられた、「うまれてきてくれてありがとう」という歌を、2015年学習院大学百年記念ホールでのコンサートで、クミコさんが歌われている横で、涙と共に口ずさむ、つんく♂さんの姿は、多くの人の感動を呼びました。そうそう、このことがあって改めて、当時のスペシャルインタビューのタイトルが、「まけたらあかん!」だったことを思い出しました。

 

 

たくさんの移転祝花をいただきましたが、やっぱり「花よりダンゴ」ですよね。

 

 

 

ブレインサイクル

 

一応、引き継ぎはしました

 

さすがに、ここまでのことはありませんが・・・

 

真ん中の人は押し付けられても、こんな顔です

 

 

 

お好み焼き店までプロデュース

 

 

 

クミコさんの横で涙するつんく♂さん

 

左から、クミコさん、つんく♂さん、湯川れい子さん

 

HISTORY

第話

 続いて、8月8日から17日までは北海道へ。目的地は、函館から西へ60kmほど行った厚沢部町でした。ジャガイモのメークインの発祥の地として知られる、のどかな農村です。もちろん避暑ということもありましたが、この地を訪ねた主目的は、家族4人が揃って自動車の普通免許を取ることだったのです。実は5月に札幌へ行った際に、ある方からの紹介を受けて、北海道商工会連合会が後押しをしている「くらすべ北海道」という、「ちょっと暮らし」プランに興味を抱き、企画立案者である同庁の大山慎介さんにお会いすることが出来て、概略だけは把握していたのです。

 大山さんによると、このプランに参加している83市町村の中から、お気に入りのスポットを選んで、ショートステイをしながら、オプションにある生活体験をするというもので、それぞれの市町村が専用の窓口を設けて支援をしてくれ、一戸建ての住宅やアパートを格安料金で斡旋してくれるというのです。

 たしかに、「スローライフ」の名のもとに、盛んに「田舎暮らし」が喧伝されてはいましたが、都会育ちの人間にとっては思うほど簡単なことではないし、林業や農業など、とてもヤワな都会人にこなせるとは思えず、「完全に移り住むのはリスクが大きいけれど、梅雨の間くらいなら住んでもいいかな?」と考えていた私には興味をそそられるプランだったのです。

 体験プランも、なかなかバラエティに富んでいて、滝川市の「グライダー搭乗体験」、室蘭市の「イルカやクジラとの出会い体験」、新冠町の「乗馬体験」、名寄市の「カーリング体験」,標津町の「忠類川サーモンフィッシング体験」などメニューも豊富に取り揃えられてはいましたが、単にレジャーで行くのではなく、「何か目的があった方がいい」と考えていた私は、自動車の普通免許を取るため、大山さんの出身地でもある檜山郡の厚沢部町へ行くことに決めたのです。

 当初は私たち夫婦2人で行くはずだったのですが、話を聞きつけた子供たちも加わることになり、結局家族4人が皆でチャレンジをすることになりました。私の動機は「自分が今までやらなかったことへの挑戦」だったのですが、妻の動機は、ビデオの会員になる際や、携帯電話の買い替え時に身分を証明するものがないため、わざわざパスポートを持って行かなければならないことにありました。たしかに、いつもパスポートを用意しなければならないというのも煩わしいことです。一方で、子供たちが参加をしたのは、「この際、親の金で免許を取れるものなら、取っておこうか」くらいの軽い動機だったような気がします。

 都合9泊10日かけて、昼夜を分かたず特訓に励んだおかげで、無事全員が仮免まで辿り着いたのですが、もし私だけが落ちていたら、父親としての体面を喪うところでした。それにしても、妻や我が子、近隣の高校生たちと共に机を並べて一緒に勉強をしたのは、とても新鮮な体験でした。

 また、空き時間には隣町の江差町で「姥神大神宮渡御祭」や本場の江差追分に触れることもできましたし、上ノ国町の「蝦夷地の火祭り」も見ることが出来ました。厚沢部町では、日本の遊歩百選に選ばれた「レクの森」を訪ねたり、「中山農園」さんでは、芋掘り体験などもさせていただきました。

 どれもこれも、厚沢部町の人たちのおかげです。たしかに、採れたてのメークインや、ピュアホワイトというトウモロコシも、美味しかったけれど、わが家族にとって何よりのご馳走は、厚沢部自動車教習所の高田一弥社長や、宿泊させていただいた森藤旅館の方々を始め、町の人たちの温かいもてなしだったように思います。。

 

 

大山慎介さんとツーショット

 

大山さんは2014年に道庁を退職した後、関西・中京地区へもネットしている番組のパーソナリティを務め、「北海道田舎プロデュース」代表として全国を駆け巡っています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後ろが高田一弥 社長

 

 

HISTORY

第話

 月が変わって9月1日には、「5ℓ」11月号のスペシャルインタビューを南青山スタジオで行いました。お相手は渡辺謙さん。10月24日から角川映画(配給・東宝)「沈まぬ太陽」の全国ロードショーが始まることもあって、指定された朝の10時半から、お話を伺うことになったのです。以前から「ラストサムライ」の勝元盛次、「硫黄島からの手紙」の栗林忠道、そして今回のインタビューのため、8月20日に試写を見せていただいた「沈まぬ太陽」の恩地元役を演じられた渡辺謙さんを観て、この人の演じる役は、なぜここまでに哀しく、そして素敵なんだろうと思っていました。きっと、作品で演じられた人物が皆、大勢に流されず、あくまでも己が信ずるところに生きた潔さが、人々の心を捉えて離さないのだろうと思ってはいたのですが、ルイ・ヴィトンのスーツに身を包んで現れた渡辺謙さんは、まさにそのイメージ通りにかっこいい人でした。時には真摯に、時にはフランクに、作品の話やお父様の話、ロケ地・ナイロビの話など多岐に亘ってお話を伺ったのですが、その一つ一つに誠実にお答えをいただきました。素敵なお人柄に触れ、渡辺さんに対する私のファン度も一段と上がったように思っています。

 続いて9月5日には、「5ℓ」10月号のインタビューゲストの常盤貴子さんにお会いしました。場所は、常盤さんが映画「引き出しの中のラブレター」でラジオパーソナリティを演じられたこともあって、映画の撮影場所にもなったFMラジオ局のJ-WAVEで行いました。時間的にタイトな条件の中で、1996年から翌年にかけて、主演した連続ドラマが、総てヒットをして「連ドラの女王」と呼ばれていた頃、事務所の社長に直訴をして、活躍の場を映画や舞台へシフトされた思いなどを聞かせていただきました。時折関西弁を交えつつ、柔らかい表現で、「意思を持って生きる」ことの素晴らしさを、当時37歳の彼女から教えていただいた気がします。

 更にこの月の29日からは、TBSが平日のワイド番組大改編の一環として新たにスタートさせた、午後4時55分から6時40分まで、STUDIO Sacasから生放送をする「イブニングワイド」という番組のコメンテータとして、毎週火曜日に出演させていただくことになりました。司会は、NHKのアナウンサーとして2000年から「NHKニュース10」や、2002年「FIFAワールドカップ」、2004年「紅白歌合戦」、2006年に「トリノオリンピック」を担当されて、局次長待遇のエグゼクティブ・アナウンサーにまで上り詰めながら、52歳でNHKを辞めてフリーになられた堀尾正明さんと、昼のニュース番組を13年担当されたベテランのTBS・長峰由紀アナウンサーのお二人でした。私が出演させていただくことになった火曜日は、毎日新聞科学環境部の元村有希子さんと、あとお一人がテーマごとにコメンテータを務められることになっていました。

 同じレギュラー番組とは言っても、今回は「朝ズバ!」の時と違って、放送時間帯が夕方であるということや、司会が奔放なみのさんとは違って堀尾さんで、NHK出身の方らしく、順を守って話題を振っていただけたことや、しっとり落ち着いた長峰さんとのお二人ということもあって、随分と楽な気分で出演をさせていただけたように思っています。番組は11月には視聴率も7%を超えるようになりました。更にこの勢いを加速するため、TBSは2010年4月改編で午後7時までに枠を広げ、新番組「Nスタ」として、新たなスタートを切るようになるのですが、プロデューサーも交代して、堀尾さんと長峰さんのメイン司会を務めるお二人以外は一新をするということで、私が出演するのは、ここまでとなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2004年主演作の「赤い月」

 

六本木ヒルズにあるJ-WAVEの収録スタジオにて

 

STUDIO Sacas

 

イブニングワイド

 

Nスタ

 

 

 

TBSの長峰由紀アナウンサー

 

 

HISTORY

第話

 さて12月9日、気忙しい最中、運転免許取得のために再び北海道厚沢部町を訪ねました。8月とは違って今回は妻との2人旅。いよいよ本免許取得に向けての教習が始まるのです。何せハンドルを握るのは4か月ぶりとあって、当初は不安もあったのですが教官の指導宜しきもあって、思ったよりスムーズに運転できました。何より解放感が心地よく、狭いコースから外へ出て、街中を走っていると、もういっぱしのドライバーになったような気分がしました。江差町まで15kmほど行った時など、あまりの景色の美しさについ気分が高揚して、制限速度をオーバーして教官からチェックを受けたほどでした。

 「俺って、もしかしたら素質ある?」と勘違いをしたほどだったのですが、その感覚も失せて、苦痛の日々が始まるのに、それほど時間はかかりませんでした。そんなこちらの気配を察知されたのか、教習所の高田社長が、地元の人たちと共に、「椰子の木」というレストランで、我が夫婦の慰労会を開いてくださいました。

 大半が農家の人たちで、特産の焼酎「喜多里」を片手に酒宴は盛り上がったのですが、「なんで北海道に焼酎が?」と不思議に思って尋ねると、近頃では芋焼酎の原料となるコガネセンガン(農林31号)というサツマイモが、この地でも獲れるようになったのだとか。メタンガスの燃焼と工場から出た蒸留冷却水を利用する熱交換システムを導入した大型温室で栽培して、北海道で初めてコガネセンガンを栽培出来るようになったと聞きました。おかげで、今では結構な量が収穫できるようになって、品質も鹿児島産と遜色がないものになったそうです。サツマイモは温かい所のものとばかり思っていた私の常識は覆りました。

 もう一つ不思議に思ったのは、厚沢部の人たちの話す言葉が、どうも札幌辺りで聞く言葉とイントネーションが違うような気がしたのです。不思議に思って尋ねると、「この辺りは津軽から来た人たちが開いた所だから」という返事が返ってきました。調べてみると、1871年に施行された廃藩置県で、厚沢部のある檜山郡を含む旧松前藩の所領が、青森県に併合された時期があったようだということが分かりました。ただ、さすがに津軽海峡を挟んで領地を管轄するのは難しいだろうということで、1年後に厚沢部は北海道に帰属することになったと言いますが、北海道に青森県があったことは知りませんでした。当時の松前藩の居城である「館城」は公園となり、国の指定史跡として今も厚沢部に残されています。

 私は妻を残したまま、14日夜に一旦帰京をして、15日にTBSの「イブニングワイド」生出演や、16日にNHKの「イブニングフォーラム」での講演を終えて、17日に再び厚沢部へ戻り、19日に実技の卒業検定を受け、晴れて合格となったのですが、前夜に吹雪く外景を見遣りながら「検定試験、通るかな?」と、やや不安げに呟く私をよそに、ノー天気に「免許取れたら、ついでに国際免許も取ろうかな?」とうそぶいていた我が妻も、共に合格していました。夏の路上教習では前から車が来ないのをいいことに反対車線をいて、教官から「木村さん、ここは日本ですよ!」と注意されていたほどの腕前だったのですがね。

 私は、翌2010年1月29日に東京鮫洲運転試験場で学科試験を受けて無事免許を取得したのですが、妻と長男は住民票を移して函館で、長女は同様に、京都で無事に免許を取ることが出来ました。以来、全員が無事故・無違反。もっとも、この日以来誰も運転をせず、身分証明にしか使っていないのですから、それも当然のことではあるのですがね。

 振り返れば、わが家族にとっては濃密な期間でした。おかげで、この間お世話になった厚沢部自動車教習所の高田社長や、森藤旅館の皆さんとは今もお付き合いをさせていただいております。この貴重な体験をさせていただくきっかけを作っていただいた、大山慎介さんには、ただただ感謝する他ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レストラン「椰子の木」

 

 

 

こんんあ凍結した道でのドライブ訓練もありました

 

HISTORY

第話

 振り返れば、2008年11月5日には「客観力~自分の才能をマネジメントする方法」(祥伝社新書)を、この2009年の3月10日には、「自分をリセットしたい時に読む本」(三笠書房 知的生き方文庫)の2冊を出版させていただきました。

 1冊目は2003年に同社から出した「こうすれば伸ばせる!人間の賞味期限」に加筆・改題をしたもので、あわよくば、一粒で二度おいしいという、「グリコ効果」を狙ったものだったかもしれません。そうなったか否かはともかく、この「客観力」というタイトルを付けた背景には、この年9月の辞任表明の記者会見で、無責任に政権を投げ出したかのように咎める中国新聞の記者に向かって、「他人事のようにと、あなたはおっしゃいましたが、私は自分自身のことを客観的に見られるんです、あなたとは違うんです!」と逆切れして第91代総理大臣を辞職された福田康夫さんの発言がヒントになったことは間違いありません。

 福田発言は、この年のユーキャン主催の「流行語大賞」のベストテンにも選ばれ、挙句の果て「やっくんお菓子」まで発売されるほど世間に知られることになったのですが、私はこの発言を聞いて、「今の時代に欠けているのは、客観力という言葉かもしれない」と思ったのです。やたらと自分の主張を声高に叫ぶ「主観力」に溢れた人や、無関心を装って、手を拱いている「傍観力」に長けた人はいても、第三者の目で自分を見つめる「客観力」のある人が少ないような気がしたのです。どうやらこの辺りに、コミュニケーションが機能不全に陥り、閉塞感を招いている源泉があるような気がしていたのです。「私!私!」だけではなく、「私もOK、あなたもOK」にするためには、一旦外側から自らを、ニュートラルに眺める視点を持つ必要があるのではないかと考えたのです。

 実はこの時に福田康夫さんが辞められた真相は、米国の求める本格的な自衛隊海外派遣と、巨額の資金提供を撥ね退けるためだったということが、2011年6月にウィキリークスで明らかにされたのですが、それを思うと、福田さんは、ご自身で発言されたように、「客観力」を兼ね備えた政治家だったような気がしています。

 この2008年を表す漢字が、12月に、44代次期アメリカ大統領に選ばれたバラク・オバマ氏の掲げた「CHANGE」という言葉であったのに合わせるかのように「変」であったのに対して、翌2009年を表す漢字には「新」という字が選ばれました。日本では7月21日の総選挙で、自民党に代わって民主党が308議席を獲得して、新しく鳩山政権がスタートしました。「変えて新しく」するためには、「上書き」をするのではなく、「リセット」をしなきゃいけない。そんな思いを込めて2冊目の著書のタイトルに反映させました。当時は従来のIQ(Intelligence Quotient・知能指数)やEQ(Emotional Intelligence Quotient・感情指数)に加えて、AQ(Adversity Quotient・逆境指数)やRQ(Resilience Quotient・心の弾力指数)という新しい概念が唱えられ始めていたこともあって、G(元気)・D(度胸)・P(パフォーマンス)を上げるためにも、「人並み症候群」から脱して、「元気の自給率」を高め得る方策を提案したいと考えたのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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