「くいだおれ」で思い出しましたが、大阪には十三(じゅうそう)、放出(はなてん)、抗全(くまた)、靱本町(うつぼほんまち)など、他県の人では読み取ることが出来ない地名が多くあります。現に私が大阪で住んでいた枚方(ひらかた)も、「まいかた」と読む方が多かったように記憶しています。その中の一つに、西区の立売掘(いたちぼり)という所があります。地名の由来は、大阪冬の陣・夏の陣の際に、伊達政宗がこの地に堀を造り、陣を構えたところから当初は伊達堀(だてぼり)と呼ばれていたのですが、しだいに(いたちぼり)と呼ばれるように変化していき、後にこの地で材木の立ち売りが許されるようになってからは、(いたちぼり)はそのままで、漢字だけを立売堀と改めたのだと聞きました。
私がこの地名を知ったのは、関西テレビが1973年10月に開局15周年を期して始めた、「どてらい男(やつ)」がきっかけだったと思います。福井から出てきて、丁稚修業の後、自ら興した会社の機械産業用機器などを扱う商社の「山善」を、一代で東証・大証1部上場企業にまでに大きくされた、山本孟夫さんをモデルにした立志伝で、週刊アサヒ芸能に連載された花登筺さんの小説を、テレビドラマ化したものでした。山本孟夫さん役の主演・山下孟造(モーやん)役には、歌手の西郷輝彦さんが起用されました。この「山善」という会社が立売堀にあったのです。
「どてらい男」は当初の予想を上回って、放送枠も火曜の10時から日曜の9時に移り、最高視聴率が38%、通算では181話、1977年3月まで、3年半も長く続く大人気ドラマとなり、歌手の西郷輝彦さんがドラマ俳優として活躍の場を広げる大きなきっかけとなりました。別に、吉本のタレントさんがレギュラー出演をさせていただいているわけではなかったのですが、私が別件で関西テレビへ行った折、当時「どてらい男」の演出をされていた内海佑治さんから、「オープニング映像で、モーヤンを乗せるタクシー運転手さん役で西川きよしさんに出てもらえないか」とオファーされたこともあって、阪堺線の走る堺市でのロケに付き合っただけのことだったのですが、以降もなぜか気になって、結構このドラマを見ていたように思います。関西局もまだこの頃は、外注に頼ることなく自前で全国ネットのドラマを作っていたのです。
そんなこともあって、立売堀にはなじみがあったのですが、4月22日、その立売堀にある企業から依頼をされた講演会があったのです。場所はホテルニューオータニ。企業名は「サンコーインダストリー株式会社」さん、1946年にネジの専門問屋として創業されたといいますから、私と同じ歳になる会社です。年商200億円、社員270人の会社ですが、商品アイテム数35万は、業界No.1だとお聞きました。すべてのねじに12桁の商品コードを付けて、35万のアイテムからたった1つの商品を見つけて即納できると聞きました。「ネジ屋さんに一体何を話せばいいのか?」、そう悩んでいた私の懸念は会場に入った途端に消えてしまいました。奥山社長始め、社員の皆さんの元気なこと、そして仲のいいこと。お世話をいただいた玉木康子課長は何と御年77歳、まだまだ若くチャーミングな方でした。こんないい会社が大阪にあるなんて、「まだまだ大阪も捨てたものじゃないな」と意を強くしました。後日、所用があって、立売堀通りと四ツ橋筋が交差する辺りを通りがかった際に、大きく「ねじ」と書かれた看板があって、これは「サンコーインダストリー」さんのものだとすぐに分かったのですが、よく見るとその横に、「太洋ねぢ」と書かれた看板がかかっていたのです。たった1文字の違いに自らの存在をかけて、切磋琢磨をしている様がうかがえて、「大阪らしくていいな!」とは思ったのですが、「ねじ」と「ねぢ」の違いって、いったい何なのでしょうね?
山善の創始者 山本猛夫さん
山善の前身となった山善工具製販株式会社
西川きよしさん、西郷輝彦さんに演技をつける内海佑治ディレクター
機械工具店が並んでいた問屋街
「ねじ」と「ねぢ」の競演
中央が玉木康子さん
「ゴールデンウィークを妻と2人で、どう過ごそうか?」と頭を悩ませながら新聞を見ていたら、「東北三大半島めぐりと五能線ローカル列車の旅」というツアーが目に入り、2人して出かけることにしました。
5月2日、朝に新宿をバスで出て、697キロ離れた八戸ワシントンホテルに着いたのが午後5時、約10時間後のことでした。ホテル2階の三十三間堂という店で、ウニごはんやイチゴ煮の夕食をとって、人影のまばら街中に出たものの、三日町の小野画廊に入って、夫婦ともに好きな弘前出身の現代美術家、奈良美智さんの絵を見ただけで、すぐにホテルに戻って就寝。
翌朝にまず訪れたのが下北半島で、ここには高野山や比叡山と並び日本三大霊山の一つといわれる、「恐山」がありました。むかし見た「飢餓海峡」という映画で、恐山には、神や死者の霊を自身に乗り移らせ、その言葉を語らせる「口寄せ」を行う巫女の「イタコ」が座っていたのを思い出し、自分の目でそれを確かめてみたくなったのです。「果たして、どれほど荘厳な所だろう?」と抱いていた期待は、山門をくぐった途端に打ち砕かれてしまいました。何しろ狭く、高野山や比叡山をイメージしていた私にとって、この狭さは予想もしなかったものだったのです。
たしかに、「修羅地獄」や「血の池地獄」、「賽の河原」、「三途の川」などもありましたが、地獄も火山特有の硫黄臭も、別府温泉ほどのこともなく、あっという間に一回りしてしまいました。何よりがっかりしたのは、てっきり、岩の上にしゃがみこんでいるとばかリ思っていた「イタコ」の姿が見あたらなかったことでした。「これじゃ、まるでキャラクターのいないディズニーランドみたいだ」と気落ちをしながら、出口に向かっていると、プレハブ小屋に「今日のイタコ」と名前や料金の書かれた看板が掛けられ、順を待つ客が待機していたのです。時の流れとは言え、いささか味気ない気分のまま、次の目的地、本州最北端の大間崎に向かい、2000年のNHK朝のテレビ小説「私の青春」でも一躍有名になった、「本マグロの一本釣り」の大間町を訪れた後、牛滝から観光船で神秘的な岩の仏ヶ浦を眺め、「東北の熱海」といわれる浅虫温泉を経由して、青森ワシントンホテルに泊りました。
3日目は津軽半島へ。阿久悠さんが作詞して、石川さゆりさんの代表曲になった「津軽海峡冬景色」で、「ごらんあれが竜飛岬 北のはずれで♫」と歌われた龍飛崎を訪ねました。龍が飛ぶほど強い風が吹くところからこの地名になり、阿久さんも、「風の音が胸をゆする 泣けとばかりに♫」と詞を書かれましたが、さすがにゴールデンウィークの時期はそれほどの風も吹かず、津軽海峡越しに北海道最南端、松前町の白神岬をはっきりと見てとることができました。灯台の近くには、五所川原生まれの「太宰治文学碑」や「津軽海峡冬景色」の歌碑もありましたが、私が面白いと思ったのは、日本で唯一の歩行者専用「階段国道339号線」があることでした。段差362段、長さ388.2mだと聞きましたが、一体どうして、こんな国道が出来たのでしょうかね?
その後はバスで五所川原市へ向かい、鎌倉から室町時代にかけて博多や堺と共に「三津七湊」の一つに数えられ、北の日本海交通の拠点として栄えたと言われる「「十三湖」を訪ねました。岩木川など十三の河川の淡水と、日本海の海水が混じった汽水湖で、大粒のヤマトシジミの産地として知られた所です。到着したのがお昼時とあって、遊歩道橋を渡って中の島へ渡り、発祥の店といわれる「和歌山」で、名物の「シジミラーメン」を食べたのですが、いやー、美味しかったですね。それにしても、青森の店なのに、なんで屋号が「和歌山」なんでしょう?
さらに食事の後は、千畳敷までバスで出て、2005年に水森かおりさんが歌い、人気ローカル鉄道となったJR五能線に乗って深浦駅へ、ここで乗り換えて十二湖駅まで行き、1993年12月に、屋久島と並んで日本初のユネスコ世界遺産に登録された「白神山地」を訪ねました。「大崩れ展望地」から見下ろすと、十二の池が見えることから十二湖と名付けられたそうで、私たちが滞在したのは、ほんの1時間あまりに過ぎなかったのですが、まるで青いインクを垂れ流したように美しい「青池」や、湧水が青森県の名水に指定された「沸壺の池」、「金山の池」などを眺めつつ、ブナの木々に囲まれた遊歩道を歩いているうちに、心身ともにリフレッシュされたような気がしたのを憶えています。
恐山 菩提寺
三途の川
岩の上に座るイタコ
賽の河原
奇岩の仏ヶ浦
中の島 遊歩道
しじみラーメン発祥の店「和歌山」
2005年の作品です
楽天トラベルおすすめローカル列車ランキング」1位の五能線
伝統的料理「ウニとアワビの吸い物」。赤みを帯びたウニの卵巣の塊がイチゴの果実に見えることから名付けられました。
奈良美智さんの作品
白神山地を出た後は、再びバスに揺られながら2時間ほどかけて宿泊先のホテルパールシティ秋田に到着、歩いて市役所の裏にある郷土料理店「芝良久」で、美味しい「きりたんぽ鍋」をいただきました。さすが、本場だけあって、ジュンサイや山菜の天ぷらも合わせて、実に美味しくいただけたように思います。
ぐっすりとした眠りから覚めた5日はいよいよ最終日。最後の半島となる男鹿半島へ向かいました。まず、「なまはげライン」を通って、なまはげの発祥地といわれる真山にある「なまはげ館」へ向かい、「泣く子はいねがー」と家を訪ねて来る「なまはげ」が、日本の無形民俗文化財や、ユネスコの無形文化遺産であることや、怠惰や不和などの悪事を諫め、災いを救いにやって来る来訪神であることを伺い、記念撮影をした後、一の目潟・二ノ目潟という火山湖を見ることが出来る八望台展望台へ向かい、エメラルドグリーンに輝く、二ノ目潟をカメラに収めた後、男鹿半島の最西端にあり、「北緯40度線上の絶景地」といわれ、「灯台50選」や、「日本の夕日100選」にも選ばれている入道崎へ向かいました。
その後再び「なまはげライン」を戻り、男鹿半島のほぼ中央に位置する寒風山を訪れました。パラグライダーのメッカとしても知られている地で、13分間に360度回転する展望台からは、南に鳥海山、北に白神山地、西に真山・入道崎、東に八郎潟を干拓した大潟村を眺めることが出来ました。展望台の周囲に広がる風景は、作家の石川達三さんがこの地の芝の山肌を「うぐいす餅のよう」と評されたように、美しいものでしたが、案内の看板に「世界三景・寒風山」と書かれていて、「おいおい、聞いてないよ、そんなこと!」と叫びそうになりました。
日本三景が、安芸の宮島・天橋立・松島であることや、世界三大夜景がナポリ・香港・函館だというのは聞いたことがあったのですが、寒風山がアメリカのグランドキャニオン、ノルウェーのフィヨルドと並んで世界三景に入っているとは知りませんでした。それにしても、「世界三景」とは大きくでたものです。聞けば、大正時代に地理学者の志賀重昂という人が、ナショナリズムを喚起するため、自著「日本風景論」の中で、「全山輝石、安山岩よりなる。沿岸は日本海の怒波岩石を撃ち、風光の跌宕なる東北に冠絶!」と最大限の賛辞を贈ったことが根拠となったといいますが、多少「言ったもの勝ち」感があったのは否めませんでした。「世界三景」などと大きく出ず、せめて「東北三景」と言ってくれれば」とさえ思いましたね。
この後、10時45分には、再びバスで新宿を目指し出発したのですが、あいにくゴールデンウィーク最終日とあって東北・関越道は大渋滞、常磐自動車道から帰ったのは正解ではあったのですが、ノロノロ運転が進むうちに、妻の口数も徐々に少なくなり、夕食を取るため立ち寄った阿武隈高原サービス・エリアで、「あの寒風山って、むかしは妻恋山って言ったそうだよ」とサービス・トークをしても、スルーされてしまいました。結局、新宿に辿り着いたのは、間もなく日付が変わろうかという頃でしたね。それにしても、あまりに盛りだくさん過ぎて、どっと疲れの残る旅となりました。それにしても、八戸の「イチゴ煮」と十三湖の「シジミラーメン」、秋田の「きりたんぽ鍋」は、もう一度食べたいものですね。
秋田の郷土料理きりたんぽ鍋を提供する芝良久
八望台 展望台
八望台から見た二ノ目潟と戸賀湾
ここにもナマハゲが!
世界三景 寒風山
パラグライダーのメッカです
寒風山の回転展望台
阿武隈高原サービス・エリア
寒風山の麓には妻恋峠が残っています
4日間お世話になったアモーレ交通バス
前回書いた、世界三景や日本三景の流れで言うと、6月27日には、山口県岩国市の岩国川に架かる錦帯橋や、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋と共に、「日本三大奇橋」の一つといわれ、国の重要文化財に指定されている徳島県西祖谷山村の祖谷川に架かる「かずら橋」を訪ねました。平家の落人たちが追跡から逃れる際に、切り落として難を逃れるべく、冬場の厳寒な山野で採取した自生のシラクチカズラを編み連ねて造ったと言われる橋で、「日本三大釣り橋」に数えられる、奈良県十津川村の「谷瀬の吊り橋」に比べれば、高さも、長さも、大したことは無いのですが、揺れ具合といい、足場から垣間見える急流といい、味わったスリル感は結構なものでしたね。
とは言え、私がこの日、徳島県西南端の大歩危・祖谷を訪ねたのは、この「かずら橋」を渡ることではなく、ましてや吉本を辞めたからといって、「大ボケ」が「イヤ」になってしまったわけでもありません。四国の高速網が充実して、この地が通過点になってしまうという懸念から、2000年に地元の5つホテルが一緒に観光客誘致のため立ち上げた、「大歩危・祖谷いってみる会」の観光シンポジウムに出席をするためだったのです。
日本留学中、ヒッチハイクで旅した折に、訪れた祖谷に感銘を受け、藁葺き屋根の古民家を購入して修復し、「篪庵」(ちいおり)と名付け、その再生と維持をされ、近年はその活動を、京都の町屋再生や長崎県の小値賀町、タイにまでに広げ、この2008年から国交省の「Yokoso Japan大使」に任ぜられていた、アメリカ人の東洋文化研究者、アレックス・カーさんの「次世代に残したい大歩危祖谷の風景」と題した基調講演を聞くために行ったのですが、その前にまず彼の篪庵を訪ねてみることにしました。東祖谷の釣井集落にあるこの古い農家は典型的な祖谷様式の建物で、板張りの床、囲炉裏、太い梁などは数世紀にわたって煙に燻され、黒光りしていました。
標高1400mの庭に出てみると、荘厳で、しかも心地よい風に思わず身が洗われる思いがしました。あいにく、アレックスさんは隣家に行っていて不在だったのですが、ポールさんや村松さんら篪庵のフレンドスタッフの話を聞いて、少しはアレックスさんの気持ちに近付けたような気がしました。それにしても、私と違ってこの庵の皆さんの目が澄んでいたこと。
3時から始まったシンポジウムで、アレックスさんは、せっかくの美しい景色をコンクリートやテトラポッドで覆っている現状に警鐘を鳴らしつつ、「佇まいの大切さ」を説かれました。中でも「利便性」と「秘境性」の棲み分けが大切で、「不便であること」は「国土を広げること」になるという指摘は、私にとってはとても新鮮なものでした。
基調講演の後、私もアレックスさんと共にトークセッションを行うために壇上へ上がったのですが、アレックスさんは、「発展途上国が国土の開発に乗り出して、いつまでも発展途上のままだと、地球は一体どんなことになるのだろうか?日本はその一例で、未だに『埋める・建てる』という宿命感を患っている」と、持論を展開されましたが、それは極論で、私は嘗ての日本には、そういう側面があったことは否定できないかもしれないけれど、「成熟期に入った日本では、寧ろこれから、ヴィンテージの価値が見直されるようになるのではないか」という話をしたように記憶しています。
懇親会の後は、宿泊先でもある「ホテル秘境の湯」で疲れを癒し、「大歩危・祖谷いってみる会」の会長を務められている植田佳宏・祖谷温泉観光社長に高松空港までお送りいただいて、羽田まで帰りました。この後、祖谷へは、5ℓの2013年1月号の「にっぽん日和」で取材に伺い、祖谷温泉では、たぶん日本ではここだけだと思うのですが、ケーブルカーに乗って、渓谷にある秘湯に入らせていただきました。そうそう、「いってみる会」の努力もあって、この地を訪ねる外人観光客も増え、2007年には、546名だったものが、2008年には1141名に、2017年には18847名へと右肩上がりに増えていると聞きます。そして、アレックス・カーさんには、2014年4月号で香川県宇多津町を訪ねた際、古民家再生に取り組み、ご自身が宇多津で監修をされたホテルの「臨水」と「背山」で、再びお目にかかることが出来ました。
結構スリルがあります
祖谷の原風景
スタッフの皆さん
篪庵(ちいおり)
植田社長
基調講演を終えたアレックス・カーさんとのトークセッション
会場・宿泊先となった秘境の湯
宇多津町で再会したアレックスさん
大阪・摂津市一津屋にある、横山やすしさん宅を訪ねたのは、7月4日のことでした。思えば、やすしさんの仮通夜が行われた日以来のことですから、およそ12年ぶりのことになります。この日訪れたのは、奥さんの木村啓子さんの霊前にお参りをするためでした。6月23日の夕刻に心筋梗塞で亡くなられた事は、新聞社から知らせを受けて知ってはいたのですが、寝屋川玉泉院で執り行われた通夜や葬儀に参列することが出来ず、この日になって一人で訪ねたというわけです。応対をしていただいたのは、喪主を務めた長女の光さんでした。彼女の話では、啓子さんは自宅で来客の応対をしている最中に倒れ、救急車で病院に向かう際には既に心肺が停止して状態だったとか。この年の1月15日から、NGKでやすしさんの13回忌追悼ウィーク興行を終え、2月に光さんが、娘のさゆみさんとコンビを組む宮川大助・花子さん一家と共に沖縄旅行に出かけ、9月には人間ドックに入られる予定だったのですが、それを待つこともなく旅立たれてしまったのです。
思えば、気の短いやすしさんとは対照的に、おっとりとした方で、前に出ることもなく、一歩引いたところで夫を支え、この奥さんがおられたからこそ、やすしさんがあったと言ってもいいくらい賢い方でした。相棒の西川きよしさんの奥さん・ヘレンさんも賢夫人として知られた方でしたが、啓子さんもまた、ヘレンさんとは違った形の賢夫人と言っていい方だったと思います。1996年1月にやすしさんが亡くなった後は、介護福祉士の資格を取得され、光さんはエステティシャンの資格を取り、自宅でサロンを開業されていた最中でした。ひとしきり思い出話などをさせていただいてご自宅を出たのですが、私には、生来の淋しがり屋のやすしさんが、13回忌という節目を終えて「何しとんねん、早く来い!」と啓子さんを呼ばれた気がしてなりませんでした。
淋しがりやだったと言えば、私は参加していないのですが、やすしさんが自宅に放送局のスタッフや作家さんなどを呼んで、鍋料理に舌鼓を打っていた際に、日付が変わろうかという頃に、メンバーの誰かが、ふと腕時計に目を遣ったのを見咎めて、「お前、今時計を見たな、ワシより時間の方が気になるんか。こんなもんがあるから時間を気にするんじゃ!」と言って、腕時計を煮えたぎる鍋に放り込んだ、有名な「恐怖の時計鍋事件」というのもありましたね。おかげで普段よりいい出汁が出たというオチまで付いていましたが、それは後で付けた話だと思います。
またやすしさんは、時として、「わしは、全国の競艇場に愛人がいる、港々に女ありや!」とうそぶいていましたが、その実、私が見かけたのは2・3人くらいのもので、しかも、やすしさんとあまり年の変わらないような人もおられました。きっと、愛人というより、どこかで母性なるものを求めていたのかもしれません。
東京での収録を終えて、急いで羽田へ着いたものの、搭乗便は既に締め切り、カウンターのスタッフに向かって、「お前ら、落ちる時は勝手に落ちるくせに、乗せる時はうるさくチェックするんか!」と毒づいていたこともありましたね。もっとも、丁寧に「ただいまから墜落します」と言われても困りますけれどね。光さんと話をするうちに、そんな懐かしいエピソードが蘇り、小一時間ほど滞在したように思います。
帰り道、光さんに呼んでもらったタクシーで、街灯がなく暗い、摂津の一津屋から鳥飼大橋に差し掛かり、下を流れる淀川を見るうち、やすしさんがこの地に居を構えたのも、ボートに乗るためで、時には仲間を集めてボートレースをしたり、ここから淀川を下って道頓堀の戎橋までボートで向かい、なんば花月へ通っていたと聞いたことがありました。一級河川でどうしてそんなことが許されたのか分かりませんが、やすしさんには何か特別なスキルがあったのでしょうね。
木村ひかり・宮川さゆみコンビ
若きマネージャー時代
恐怖の時計鍋(イメージ)
アメリカ版 港々に女あり
7月11日には、残間里江子さんから声を掛けていただいたトークセッションのため、浦安のブライトンホテルへ。たしか、大石静さんや、つんく♂さん、霧島かれんさんたちと、ご一緒をさせていただいたと思います。
さらに14日には、「5ℓ」9月号のスペシャルインタビューのため、東京・紀尾井町にある角川映画社を訪れました。お相手は津川雅彦さん。16歳時に日活映画「狂った果実」で、津川雅彦というの名付親となった原作者の石原慎太郎さんからのたってのリクエストで、石原裕次郎さんの弟役としてデビューを果たし、一躍人気スターとして注目を浴びるようになったのですが、叔母の沢村貞子さんから「雅彦、お前は顔がいいんだから、芝居は4倍上手くならないと認めてもらえないよ」と言われていた通り、やがて低迷期を迎えるようになります。そんな折にABCの「必殺」の松本明プロデューサーから、「世の中はみんなお前が嫌いなんだから、殺され役をやれ!」と言われて、悪役を演じるようになって再ブレイクし、99年には東映映画の「プライド 運命の瞬間」で東条英機を演じ、日本アカデミー賞主演男優賞に輝きました。
この日はそんな俳優としての津川雅彦さんではなく、中島らもさんが6代目笑福亭松鶴さんをモデルに描いた、「寝ずの番」の映画化に続いて、2作目の監督を務められたマキノ雅彦として、9月20日から公開される「次郎長三国志」のお話を伺うためだったのです。あえて監督名を津川ではなくマキノとされたのは、「日本映画の父」と言われた祖父のマキノ省三さんや、叔父のマキノ雅弘さんの系譜を継ぐ者としての自負からかもしれません。監督第2作を「次郎長三国志」に選ばれたのも、このシリーズを東映と東宝で合わせて13本作られたマキノ雅弘さんへのオマージュだったような気もします。
キャストを見ると、嘗て東宝では小堀明男さん、東映では鶴田浩二さんが務めた次郎長には中井貴一さん、大政に岸部一徳さん、法印大五郎に笹野高史さん、大野の鶴吉に木下ほうかさんなど、「寝ずの番」でおなじみのメンバーに続いて、森の石松に温水洋一さん、桶屋の鬼吉に近藤芳正さん、他にも小政に北村一輝さん、関東綱五郎に山中聡さんといった2枚目の方や、お蝶の鈴木京香さんや、高岡早紀さん、木村佳乃さん等キレイどころも揃えられていました。主題歌ともいえる「〽清水港の名物は お茶の香りと男だて~」で始まる「旅姿三人男」を歌っているのは、ディック・ミネさんではなく宇崎竜童さんでした。
ただ、今回の次郎長一家はどう見てもあまり強そうではありません。石松に扮した中村錦之助さんや、勝新太郎さんといった強面の大スターがバッタバッタと敵をなぎ倒すというイメージを持っていた私の予想を大きく裏切るキャスティングになっていました。「果たしてこの面々で、佐藤浩市さん演じる黒駒の勝蔵や、竹内力さん演じる三馬政に勝てるのだろうか?」、疑問を監督にぶつけると、「今はブサイクたちの時代だから」という答えが返ってきました。
津川さんは、「当初の熱意と謙虚さを忘れて、監督2作目は必ず失敗する」という映画界にあるジンクスを破るため、母方の叔父・マキノ雅弘さんが創られた「次郎長シリーズ」からエキスを継承するとともに、今までの次郎長が二枚目過ぎて、男が惚れる親分として説得力がなかった欠点を補うために、軽妙な二枚目半のセンスを持つ中井貴一さんを起用し、子分たちにもブサイク系を増やし、親しみを倍加させて、従来の作品にはなかった新味を加えたといいます。違う言い方をすれば、特定のスターがストーリーを引っ張るのではなく、実力のある上手い役者さんたちによる群像劇を描きたかったということなのかもしれません。若い頃、あまりの端正な顔立ちゆえに、悩みが深かったというマキノさんの横顔を見ながら、時代がブサイクに向いているのなら、私も大いに希望が持てるかも?と見当違いの期待を抱いてしまいました。
マキノさんはこの翌年、監督3作目となる「旭山動物園物語 ペンギン空を飛ぶ」(角川映画)の監督を務められ、2018年8月4日、愛妻の朝丘雪路さんの後を追うかのように旅立たれました。ご冥福をお祈り申し上げます。
左が「必殺」のプロデューサー松本明さん
祖・マキノ省三さんは「日本映画の父」と呼ばれました
強そうに見えない次郎長一家
監督3作目となった「旭山動物園物語」
8月6日、三番街から日本交通の高速バスに乗り、鳥取へ向かいました。
3時間ほどかけて終点の鳥取に着き、すぐに案内されて鳥取砂丘を訪ね、砂丘観光促進のため、市長の肝いりで出来た「砂の美術館」を見せていただいた後、市役所で竹内功市長から、翌2009年4月から鳥取自動車道の鳥取・兵庫県作用町間の開通を期して開催される、「鳥取・因幡の祭典2009」のアドバイザー委嘱状を受けました。
竹内市長は、2002年に国交省を退官されて、現職を破って市長になられて2期目。東部1市6町2村を合併して、鳥取市を人口20万以上の特別市へ昇格させ、高速道路が繋がるこの機会に、関西地区からの観光客を増やすべく力を入れておられたのです。元々、嘗て伯耆国であった、県・中西部に位置する倉吉市・米子市・境港市が中国地方と縁が深かったのに対して、因幡国であった東部の鳥取市は、関西との距離が近い(広島から300キロに対して大阪から190キロ、京都から220キロ)こともあって縁が深かったのです。
ただ、私はかつて堺市で苦い体験をしたこともあって、躊躇するところもあったのですが、今回は無報酬で、「フリーな立場から意見を言わせていただくということでなら!」と、カニ5杯でお引き受けすることにしたのです。市役所の方から伺った概略によると、4月にオープニングイベントとして、「世界砂像フェスティバル」を開き、10月には「日本の祭り2009」と併せて「食のみやこ 鳥取県フェスタ」を開催しようというものでした。
この後、一旦市役所を出て、宿泊先のニューオータニに入り、夜は市長や関係者の方々との会食に参加させていただきました。場所はたしか、日本海に面した、道の駅「神話の里 しろうさぎ」の2階にある「銀鱗亭」という、さかなダイニングの店だったように記憶しています。メニューにあった「うさぎ三段跳び丼」に目が行きましたが、「もし兎の肉だったらどうしよう?」と思い、それはオーダーせずにカニや牡蠣、新鮮な魚に舌鼓を打つことにしました。もうこの日だけでカニを3杯いただいた以上、今更後に引くことは出来ません。
翌日は、荒木又右エ門の菩提寺の玄忠寺で、竹内市長と共に、市報の10月号掲載を兼ねて収録された、CATV局の「いなばぴょんぴょんネット」に出演し、その後、喫茶「べに屋」さんで名物の「月の砂漠カレー」を食べて帰阪しました。鳥取市は1世帯あたりのカレールウの年間支出額と購入数量が県庁所在地日本一といわれるカレー都市でもあるのです。なぜこれほど市民がカレーを消費するのかについては、「カレーにつきもののラッキョウの生産高がで全国トップラス」であるからとか、「夫婦共稼ぎが多い」からとか諸説ありますが、真偽のほどは定かではありません。それはともかく、せっかくカレー都市に来てそのまま帰る手はないだろうと思い「月の砂漠カレー」をオーダーしたのですが、ただ月に見立てた煮抜き卵が乗っているだけのことでした。
8月21日は、「5ℓ」10月号のスペシャルインタビューで所ジョージさんにお会いするため、「世田谷べース」へ。所さんの好奇心そのままに、遊び心の溢れたオフィスに目を遣っていると、まるでこちらの不安感を見透かしたかのように、絶妙のタイミングで柔らかく所さんが現れ、カメラのセッティングが整わないままに、もう会話が始まってしまいました。
肩の力を抜いた、いい意味でのいい加減さを魅力にお茶の間の人気者であり続けておられる方で、コメディアン、司会者、歌手、エッセイストなどでマルチな才能を発揮する一方で、車やゴルフ、お茶、様々なコレクションで趣味人としても知られていました。「僕は面白いことを世の中に生みだそうなんて、これぽっちも思ってないんです。こうすると楽しいんじゃない?、こういう見方をすると面白いよという提案に近いかな。突飛なことじゃなく、日常の暮らしの中で、自分が楽しいと思ったことを発表しているだけですから」と言われたのが印象的でした。
科学的、合理的という名のもとに、智ばかりが先行して、情感を軽視する風潮が溢れる中で、人間性の回復を願う者にとっては、所さんの実践されているノンシャランな生き方が、まるで理想形のように思えました。
この日は、その後大阪へ取って返し、NHK・BSTVの「私の1冊・日本の100冊」の収録を行いました。各界の100人に、「私の最も大切な本」を上げてもらい、その本と出合った時の状況や時代背景、どんな影響を受けたかを語ってもらうという番組で、私はもちろん卒論にも選んだ三島由紀夫さんの「金閣寺」を選びました。準備のために、改めて読み直したのですが、結構疲れました。
道の駅「神話の里 白うさぎ」
玄忠寺
収録風景
玄忠寺には地元の写真家・高木啓太郎氏によって描かれた、44枚の羅漢襖絵が展示されています
喫茶ベニ屋
月の砂漠カレー
9月10日、「いよいよこの日がやって来たか!」と、覚悟を決めて乗り込んだ高松行きのマリンライナーの中でも、まだ心は揺れていました。生まれて62年もの間、何だかんだと口実を付けて避けていた人間ドックへ、入る羽目に陥ったのです。
日頃、品川駅で、黙々と職場に向かうサラリーマンの群れを見て、「まるで処刑場へ向かうかのように暗い顔をしてるよな」と思っていたのだが、この日の心境はまさ、正にそれに近かったように思います。
「もし、ガンが発見されたらどうしよう?」何しろ、父方の祖父を食道癌、父を直腸癌で亡くしているガン・エリートである上に、タバコも日に60本は吸っています。もし、「余命3か月!」などと宣告されたら、日頃から公言している「雪の中で、赤い血を吐いて死ぬ」という約束を果たすことも叶いません。
おまけに、訪れる森クリニックは、日本にたった3台しか入っていない世界最高水準であるドイツシーメンス社の画像診断装置(CT・MRI)を備えていて、集団検診では発見できない5ミリ以下の精緻なレベルのガン細胞までを捉えることが出来るというのです。しかも、テーラーメイドの5つの検診が用意されて、受ける人が組み合わせを自由に選べて、問診から検診、結果説明までが2時間半。その上に、医療機関への紹介や、検査画像のCDまで渡してくれるというのです。
思えば、1か月ほど前に知人からその話を聞いた時に、私が「いいですね、そんなところがあるなら、受けてみたいな!何なら予てからお付き合いのある井筒監督も誘ってみましょうか?」と言ってしまったのが、事の始まりでした。こちらとしては、「儲かりまっか?」という問いかけに「ぼちぼちでんな」と返したくらいにしか思っていなかったのですが、その後事態は急速に展開して、あれよあれよという間に、知人と秘書の澤君との間で、私たちの訪問日が設定されてしまったのです。とはいえ、それを聞いた時には、まだ余裕もあったのですが、20日・10日と約束の日が近づくにつれ、自分が落ち込んだ気分になっていくのが分かりました。そんなこちらの動揺を察してか、彼女も「大丈夫!私も受けますから」と妙に明るく言葉をかけてくれるのですが、「そ、そうだね」と虚ろな返事を返しつつも、心の中では「そんなもの、何の慰めにもなるものかっ!」と反発をしていました。
ついに、その日がやってきました。翌朝8時からの検査とあって、前日から高松の全日空ホテルクレメントに入ったのですが、東京から来られた井筒さんを待って、設けられた食事の席でも、「もし明日ガンが見つかって余名3か月と宣告されたら、これが最後の晩餐になるかも?」と思い、一体何を食べたのかは全く憶えていません。井筒さんも心なしか普段より口数が少なかったように思います。泊まるホテルが高松港の前ということもあって、「密かに脱出しようか?」とも思ったのですが、まさか、自分が誘った井筒さんを置いて帰るわけにもいかず、夜半に出る便もないこともあって、神様・仏様・マホメット様(いったい何教を信仰しとるねん!)に祈りを捧げ、仕方なくベッドに入りました。
さて、当日。私と井筒さんは、まるで処刑場へ導かれるかの心境を抱えクリニックへ。覚悟を決めて検診に臨み、MRIで約1500枚の写真を撮られて45分ほどで終了。森俊博院長から伺った結果は「概ねOK!」。恐れていたガン細胞は見つからなかったのです。もし結果が悪ければ、大阪へは帰らず、そのままお遍路の旅に出ようと思っていた事などすっかり忘れて、クリニックから出された昼食に食らいつきました。私の後に検診を受けた井筒さんも、私同様に表情が明るかったことを見れば、さして問題はなかったようです。2人とも「初めから、大丈夫だと思っていた」と一応強がったものの、その声のトーンは前夜とは明らかに違っていたように思います。
聞けば澤君は、最悪のケースに備えて、慰めの言葉をいくつも用意していたらしく、彼女の手には「手塚治のブッダ 救われる言葉」という本が握られていました。最期に検査を受けた彼女は、なんとMRIの中で寝てしまったと聞きました。繊細なのか豪胆なのか、よくわからない彼女ですが、一緒についてきたのは、どうやら、逃亡の恐れのある私達を監視するためだったらしいと気がついたのは、クリニックからの帰り道のことでした。
森クリニックの外観
森俊博院長 集団検診では発見できない5ミリ以下の精緻なレベルのガン細胞までを捉えることが出来ます
不安な心を抱えながら食事の席へ
いよいよMRIへ
一点、晴れやかな表情になった井筒さんと私
のちに、室井佑月さんもご紹介させていただきました
10月3日は東京千代田ビデオで、MXテレビの就職応援バラエティ番組「千原ジュニアのシャインになりたい」に出演しました。たしか、制作していたクリーク&リバー社からのオファーで出ることになったと思うのですが、吉本時代に千原ジュニアの才能に注目して、岸和田少年愚連隊などに出てもらってはいたものの、面と向かって話したのは、実はこの時が初めてのことでした。
次いで10月11日には、京都のKBSホールで開かれた、民放労連青年協議会主催の「Y&Yフェスティバル」に参加して、「KBS京都更生終結報告」に続いて、映画「ピンポン」や「ICHI」の監督を務められたTBSの曽利文彦さんが、「映画監督・曽利文彦が語る放送と映画」という講演をされた後、参加メンバーからの質問に答える形で、フリーディスカッション「木村政雄に何を聞くねーん」で回答者を務めさせていただきました。
また、10月14日は、BSフジで始まった「ネクストウエーブ~一柳良雄の心粋」にゲスト出演をさせていただきました。収録場所となったリーガ・ロイヤルホテルに伺った際に、初めてテレビでMCを務められることになった一柳さんが、従来の野暮ったいスタイルから一変されていたのには驚きました。「スタイリストが、この方がいいっていうから・・・」とやや照れながらおっしゃっていましたが、満更でもない様子が見て取れました。もっとも、おしゃべりの方は、スタイリストが不在で、変らず、くだけた関西弁のままで、心置きなくお話をさせていただくことが出来ました。
さらに、10月28日には、コーディネーターを務められる残間里江子さんからのご依頼で、彼女が理事を務められている「新現役ネット」主催のフォーラムに森本哲郎さんと一緒に出演させていただきました。たしか、場所は淀屋橋にある朝日生命ホールだったと思います。森本さんは、フリーアナウンサー・森本毅郎さんのお兄さんで、日本の文明批評の第一人者と称される方でした。大要、カタカナ語が氾濫して日本語がやせ細っていく風潮は許せないとして、DV(ドメスティックバイオレンス)と書くなら、最初から「家庭内暴力」と書けばいいし、「モラルハザード」というより「道徳が危機に瀕している」と言えばいい、「ハザードマップ」などと言わず、「災害予想図」と言った方がみんなに伝わるでしょう」というお話をされましたが、言葉の専門家でもない私にそんな学術的な話が出来るわけもなく、ちょっとアングルを変えて、「関西弁の魅力と威力」についてお話をさせていただいたように記憶しています。
そうそう、しばらく触れていなかった「5ℓ」のことを言いますと、この年、従来のりそな銀行版の「R‘style5ℓ」とは別に、埼玉りそな銀行さんからも、季刊で埼玉のカスタマイズ版を出したいと要請をいただき、6月から「彩・5ℓ」を出すことになりました。
10月27日には、12月号に掲載する井村雅代さんのスペシャルインタビューを、ホテルラフォーレ大阪で行いました。ちょうどシンクロの中国代表チームのヘッドコーチ(監督)に就任されて、1年8か月後の北京オリンピックのデュエットで中国初の銅メダルを獲得され、16日にホテルニューオータニ大阪で開かれた祝勝会に参加させていただいたばかりでした。「オリンピックで、いざ決戦となった時に不安はなかったですか?」と尋ねると、「なかったですね。だって、メダルを取ると決めていたもの!」といつもながらの男前な返事が返ってきました。
次いで11月19日には、新橋演舞場で中村獅童さん(2009年1月号)にお話を伺いました。私は歌舞伎ではなく、映画「ピンポン」、「男たちの大和」、「スピリット」、「ICHI」などを観て、独特のオーラを放ち、演じられている役が際立っていると注目していた方でした。常に全力投球、そして飽くなき克己心。どこか、昭和の役者さんの香りを漂わせるナイスガイでした。
さらに、12月17日には2009年2月号のスペシャルゲスト、やしきたかじんさんのインタビューを、心斎橋モノリスで行いました。過激な発言、奔放なふるまい、その奥に秘めた繊細な感受性、とても魅力にあふれた方で、暇な頃に毎日テレビを見ていて、「怒る司会者」というポジションが空いているなと考えた頭の良い方でもあったのです。残念なことにたかじんさんは2014年1月3日、まだ64歳という若さであの世へ旅立たれました。インタビューをさせていただいた折には、「爆発する還暦」をテーマに頑張るとおっしゃっていたのですがね。
いずれにしても、このお三方共、ガッツに溢れた方で、とても中味の濃いお話を伺えた気がします。
「民放労連」2008年10月20日(第906号)
結婚式にはかって秘書を務めた田中角栄さんや・・・
宮澤喜一さんも来られました
森本哲郎さん
中国シンクロチームを率いて、新時代を築く!
暮れの12月23日からは、妻とスペインへ出かけました。7月18日から26日までケニアへ行っていたこともあって、2003年8月以来、2度目となるこの地を選んだというわけです。人から「夫婦仲の宜しいことで!」などと言われることもあるのですが、子供たちを誘っても乗ってこないので、仕方なく消去法で残ったのが2人だということかも知れません。2人で旅をすれば会話も増えますし、週に2,3度しか会わない私たちにとっては、コミュニケーションの密度を高めるいい機会ではあったのだと思います。
私にとって、何よりのメリットは、旅というインセンティブを妻に与えておくと、やれ「現地での服装は?」とか、「名所は?」とか、「食事は?」ということに気を取られて、妻の私に対するマークの度合いが緩くなるということです。別段、隠さなきゃいけないことは無いのですが、マークが緩いに越したことはありませんからね。
こうして旅に出ると、いつも新しく発見するものがあるのですが、今回もやはりその通りでした。世界遺産のアルハンブラ宮殿を訪れた時のことです。宿泊したホテルの名前が何とLOS ANGELESだったのです。ロスアンジェルスではなく、ロスアンヘレスと読み、エンジェルの複数形の「天使たち」という意味だと聞かされました。
ガイドさんによると、かつてスペインが支配していたこともあって、アメリカ南部にはスペイン人が名付けた地名が多く残っているそうで、フロリダはスペイン語の「花のような」を意味し、カリフォルニアはカリフォルネで「神秘的な理想郷」、コロラドはスペイン語で「赤色」、ネバダは「雪のように白い」というスペイン語から来ていると聞かされました。
スペインの中南米の植民地化は、子供の頃「いよ、国が見えるとコロンブス」と暗記したように、1492年にコロンブスがサンサルバドル島に到達したことに端を発しているのですが、同時期にこのコロンブスを援助したと言われるイサベル1世が、イスラム勢力最後の拠点となったアルハンブラ宮殿を陥落させ、グラナダを開場してスペイン王国(イスパニア王国)を誕生させていました。718年のイスラム侵入に始まり、1492年に成し遂げられたこのイベリア半島再征服活動を総称して、「レコンキスタ」(Reconquista)と呼ぶそうです。
初めはあまり気に留めてもいなかったのですが、旅行中に、再々この「レコンキスタ」という言葉を聞くうち、いつしか耳にこびりついて離れなくなってしまいました。まるで、落語の「平林」に出てくる、字を読めない丁稚の定吉が、番頭さんから頼まれた手紙の届け先を忘れ、「たいらばやしかひらりんか、いちはちじゅうのもーくもく」と呟きながら探したように、「レコンキスタ、レコンキスタ」と呟いている内、この言葉が何だか「離婚、期した」のように思えてきました。
ちょうど、この1カ月ほど前に、京都のブライトンホテルで、過酷な運命に翻弄される夫婦の絆を描いた映画・「私は貝になりたい」の広告紙面に妻と出させていただいて、夫婦の絆について語りあったのですが、よくよく考えてみれば、わが領土も、イスラム勢力に侵食をされて久しいものがあり、今や安堵できる地は、爪の先ほどしかないことに気が付きました。「そろそろ、私も背水の陣を敷いて、失地を回復するために、再征服活動に乗り出さないといけないのか」とは思ったものの、ただの風車を巨人だと勘違いして戦いを挑んだ「ドン・キホーテの轍を踏んではならない」と自制した年の暮れとなりました。
風車を悪の化身と思い、突進するドン・キホーテ
アンダルシアの邸宅風レストラン前にてドン・キホーテ像とともに