文化放送の「楽園計画」のゲストに、立川志の輔さんをお招きしたのは8月27日のことでした。志の輔さんは明治大学の経営学部在学中に、落研に入って、5代目紫紺亭志い朝(4代目は三宅裕司さん、6代目は渡辺正行さん)として活躍、卒業後は劇団に入るものの目が出ず、誘われて広告代理店 株式会社ニットーに入って28歳で退職。立川談志さんに入門されたのは29歳の時でした。ところが、寄席での前座修業の直前に立川談志さんが落語協会を脱退したため、師匠から「聞きに来てもらいたかったら、頭を下げるとか、DMを出すとかしろ!落語家だけだ、うちに座っていて、どこからか電話がねえかな、なんて思っているのは」と言われ、「私ほど種々雑多な空間でやった人間はいない」と自称されるほどの苦労を6・7年重ね、85年NHKを辞めフリーとなった草野仁さんをキャスターに、あの前田武彦さんをお天気キャスターに起用した、TBSTVの情報ワイド番組「朝のホットライン」にレポーターとして起用された辺りから、仕事が一気に増えるようになりました。
90年には落語立川流の真打となり、95年からは、NHKTVの「ためしてガッテン」でメインを務める一方、96年から(2016年まで)「志の輔らくご in PARCO」を開催、この年、07年8月には国立劇場で「志の輔らくご ひとり大劇場」を開くなど個人として活躍する一方で、衰退傾向にある落語界を活性化するため、小朝さんや鶴瓶さんらと「6人の会」を結成し、04年からは、銀座創作落語会を開くなどして、師匠の談志さんから「立川流の最高傑作」とまで評されるような存在になっておられたのです。
インタビューをさせていただいて印象に残っているのは、歩んでこられたキャリアの故か、およそ芸人さんらしくない佇まいの中で、「落語というのは、ややもすれば技術論に偏りがちなんだけれど、大切なのは演者本人のメッセージ(論)なんです」とおっしゃったことでした。
「志の輔らくご in PARCO」には、2009年1月10日に呼んでいただき、「ハナコ」「狂言長屋」「柳田格之進」を、続いて2010年1月7日には、「身代わりポン太」「踊るファックス2010」「中村仲蔵」を聴かせていただきました。さらに9月24日には、TBS赤坂ACTシアターで「徂徠豆腐」を、2012年7月19日には下北沢本多劇場で、2時間休憩なしで大作、「リバイバル大河への道 伊能忠敬物語」と、新作に加えて、現代的な再解釈を加えた古典落語を披露する志の輔ワールドに魅了されてしまいました。
そういえば、志の輔さんに文化放送でお目にかかった翌日に、初めて天満天神繁盛亭を訪ねていたのです。思えば、6月に桂雀々さんのライブを見に行ったことや、7月に鶴瓶さんと会ったこともあって、今までどちらかといえば、縁の薄かった落語に目を向けるべく、オープンして間もなく1周年を迎える時期に初めて訪れたのですから、落語に関してはかなり奥手だったといえるかもしれません。
満員の場内を見渡すと、平日の昼間とあって大半が中高年。かくいう私もその一人なのですが、女性が多いのはやや意外でした。プログラムを見ても見覚えのある名前は、中トリを務める露の都さんと、トリの笑福亭松嬌さんくらいのもの、果たして3時間も耐えられるのだろうかと懸念したのですが、杞憂に終わりました。両ベテランの手堅さはともかく、林家笑丸さんのウクレレを使った創作音曲噺や、桂三風さんのオレオレ詐欺噺も面白かったのですが、一番面白いと思ったのは桂勢朝さんの「桃太郎」でした。他にも、歌舞伎役者を思わせる顔立ちの桂よね吉さん等、今まで見逃していた落語界に着実に人材が育っているのを目にして、何やらホッとした気分に浸ったのを憶えています。
立川志の輔さん
TBS「朝のホットライン」
なぜか前武さんがお天気マンに(右上)
NHK「ためしてガッテン」
本多劇場
露の都さん
林家笑丸さん
桂三風さん
桂勢朝さん
桂よね吉さん
繁昌亭の前で
年の瀬の12月17日からは、妻と念願のアフリカ・ケニア共和国へ行ってきました。それまでケニアという名前は、子供の頃に見た山川惣治さんの絵本の「少年ケニヤ」か、難波にある喫茶「ケニアの王様」くらいでしか馴染みがなく、ケニアがアフリカ大陸のどこにあるのかも知らなかったったのですが、この未知の地を訪ねる気になったのには伏線があったのです。そう、かれこれ7・8年前のことでした。イラストレーターの長友啓典さんにお目にかかった際、彼の地に日本人が建てた会員制のサファリ・ロッジなるものがあって、「夜明けに飛び立つ気球に乗って、眼下にサバンナを疾走する動物たちを眺める風景は格別のものがあるよ!」と聞かされ、予てから「いつか機会があれば、行ってみたいな!」と思ってはいたのです。
そんなある日、何気なく航空会社から送られてくる雑誌を家で眺めていると、なんと!載っているではありませんか、そのロッジのことが。ファイブスターという旅行社が主催をする、「ANAマイレージクラブ会員限定ツアー、ムパタ・サファリ・クラブに滞在する8日間」。早速、そう書かれたページを指さしながら、怪訝な顔をしている妻にいきさつを説明して、ツアーに参加する了解を取り付けたのです。
ところが、12月17日、午後5時半に成田を飛びたって、7時間少しで経由地のバンコックに着くまでは確かにANA便だったのですが、その後ナイロビまで9時間余り乗り継いだのは、ANAとアライアンスを組んでもいないケニア航空の便で、その上、我々2人だけでトランジットをしなければならない個人旅行のようなものでした。さすがに、ナイロビのジョモ・ケニヤッタ国際空港には、現地旅行社・SOMACのサリーさんという人が来てくれていて、3・40分ほど離れた国内便用のウイルソン空港までは同行をしてくれました。
ケニア共和国は、日本から直線距離にして11091km。アフリカの東、インド洋に面する赤道直下のイギリス連邦加盟国で、人口は約4500万人、部族数は42。日本の約1.5倍ある国土の大半は、1100mから1800mの高原で、年間平均気温は19度だと聞きましたが、目的地は首都のここナイロビではありません。
我々は、さらにそこから、エア・ケニアの小型プロペラ便で、約300kmの距離を1時間半ほどかけて、キチュワテンポ・エアストリップに辿り着かねばならなかったのです。エアストリップとは言っても、ただ滑走路があるだけで、誘導施設どころか、誰もいない、ただの空き地に杭を打っただけのものでした。幸いなことに、そこにはライオンも居なくて、襲われることはなかったのですが、成田からの合計フライト時間は、すでに18時間20分。ここからは出迎えたロッジのジープで、目当てのムパタ・サファリ・クラブへ向かったのですが、石ころだらけの悪路の中、どこかに捕まっていないと車から飛び出してしまうほどの揺れに身を任せること約45分。ノックアウト寸前のボクサーのような思いで、コーナーポストいや、ムパタサファリクラブに辿り着くことが出来たのです。
ケニア随一の野生動物の宝庫・マサイマラ保護区に隣接し、果てしなく広がるサバンナを眼下に見下ろす、オロロロの丘に建てられたこともあって、気温は15度、思いのほか涼しいことに驚きました。本館と20余室のロッジは建築家・鈴木エドワードさんの設計だと伺いました。ロッジ備え付けのジャグジーで旅の汗を流した後は、2人揃ってさっそくゲーム・ドライブに出かけました。フロリダのディズニー・シーのアニマル・キングダムで体験済みとは言え、本物の迫力はやはり格別のものがありました。シマウマを捉えたライオンが、肉をムシャムシャと食べている姿を至近距離で見られるのは、そう経験できることではありません。他にもインパラ、ガゼル、水牛、アオサギ、ヒヒ、マサイキリン、チータ、マングース 、カバ、ワニ、象などを見て、3時間半後にホテルへ戻り、この日にロッジで結婚式を挙げたカップルらと共に、ステージで繰り広げられるマサイ族の踊りを見ながら、 楽しくディナーをいただきました。そうそう、部屋のベッドには日本人のフロントスタッフ・市原紀子さんの配慮で、湯たんぽを入れていただいて、ぐっすりと眠りに就いて、ようやく長旅の疲れを癒すことができました。
ジョモ・ケニヤッタ国際空港
直線で11091km、時差はマイナス6時間
エア・ケニアの小型プロペラ便
キチュワテンポ・エアストリップ
ロッジの入り口
室内
部屋についているジャグジー
プールもあります
サファリドライブ
水牛(バッファロー)
ステージでのマサイダンス(ジャンプ力がすごい)
翌日はマサイ村を訪ね、外敵の侵入を防ぐため、2・30軒を円形に並べて小枝を組んで作った枠組みを牛糞で塗り固めた家や、火の燻し方のデモンストレーションを見せてもらいました。昔、北海道の白老町のアイヌ民族博物館を見学に行った際、アイヌの男性が自転車に乗って出勤、タイムカードを押してから着替えている姿を見てがっかりしたことがあり、「ここも、そうなのではないか?」と疑って、「もしかしたら内部に洗濯機や冷蔵庫などがあるのではないか」と疑ったりもしたのですが、どうやらそうではないようでした。「マサイは牛やヤギの乳と生き血を混ぜたものしか口にしない」と聞きましたが、彼らのスレンダーな体躯を見ると、どうやらそれも本当のようでした。
その後はロッジに戻り、ゲーム・サファリに出かける妻を見送った後、私だけ部屋に残ることにしました。ロビー階上にある図書コーナー「デン」にムパタ・サファリ・クラブができるまでを描いた伊集院静さんの「アフリカの絵本」があり、どうしても、その本を読んでみたくなったのです。このロッジでは、自家発電をしていることや、環境保全のために、夜間から朝まで停電することになっていて、合わせて686ぺージにわたる上下巻を読むためには、どうしても、日のある内でなければならなかったのです。
この本には「アフリカに初めて5つ星ホテルを建てた男」小黒一三(本では黒田十三)さんの苦闘の歴史が綴られており、アフリカに魅了された彼が出版社を辞めて父の遺産を元手に、友人や知人から金を集めてロッジの建設に乗り出したものの、丘の上のサファリゲートまで12キロの道を造らねばならなかったことや、水源から水をポンプで汲み上げるため、建設費以外のインフラ整備に膨大なコストがかかったことや、契約書などあってないようなこと、詐欺や盗難にあって、完成までに当初予算の10倍近い金をつぎ込んだことなどが書かれていました。
ようやく念願のバルーンサファリに乗れたのは、ナイロビを飛び立って経由地のバンコックへ向かうことなる6日目、12月22日のことでした。本来は前日に乗る予定で、まだ真っ暗の朝4時に起きて5時迎えの車で出発地点のキーコロッジにスタンバイをしたのですが、残念ながら風が吹かず中止となり、この日が2回目のトライとなったのです。もしこの日も同様に風が吹かなかったら、悔いを残すところでしたが、何とかバルーンは飛び立ってくれました。何せバルーンに乗るのはこれが初めてとあって、文字通り「地に足が付かない」状態で15,6人ほどの観光客と共に乗り込みました。イギリス人のキャプテンの説明を受けて、暗闇の中を出発。10分ほど経つと、太陽が地平線から次第に顔を出して、マサイマラの空をオレンジに染めるようになります。いや、感動ものでしたね。しばし上空からサバンナを行く動物たちを見て、1時間ほどで到着地点のフィッグツリー・キャンプに到着。車で案内された小高い丘には、クロスを敷いて並べられたテーブルの上に、シャンパン・ブレックファーストが用意されているというものです。スタッフが風向きを読みながら、ジープでバルーンを追いかけ、着地点を予測してあらかじめスタンバイしていたのです。なるほど、たしかに感動はして、「いい体験をしたな」とは思いましたが、妻はともかく、残念ながら私自身シャンパンを飲めないこともあって、もう一回乗ってみようとまでは思わなかった気がします。
こうして、私たちは再びエア・ケニアでナイロビへ出て、「カーニバル」というアフリカ料理のレストランで昼食をとることになったのはいいのですが、メニューを見ると、ダチョウ・シマウマ・ワニ・ガゼルなどの肉料理ばかり、結局食べられるものが何もなく、ドリンクを飲んだだけで早々に店を出て、土産を買った後、SOMACのオフィスで出されたサンドイッチで夕食を済ませました。
その後、ケニア航空便で経由地のバンコックへ向かい、宿泊先のバンコック・クイーンズホテルで、夕食にタイ風しゃぶしゃぶ料理を食べ、24日の午後4時頃に成田へ帰ったのですが、帰国後しばらくしてテレビを見ていると、12月27日に行われたケニアの総選挙で、現職のムワイ・キバキ候補の当選に納得できない、ライラ・オディンガ候補の陣営や、オレンジ民主運動の勢力が、ナイロビやリフトバレー州で衝突を繰り返して、「ケニア危機」と呼ばれる騒ぎになっているとのことでした。結局この騒ぎは、翌2008年2月28日に前国連事務総長のコフィ・アナン氏の仲介もあって、連立政権を作ることで収まったのですが、もし帰国が後4、5日遅ければ、この騒動に巻き込まれていたことになります。どうやら私の運の良さは、まだ続いていたようですね。
火の燻し方
マサイの家
家の内部
マサイ村の女性たち
白老アイヌ村の長老
ゲーム・サファリ
夜明け
こんなふうにバーナーを噴射して
こんなふうにサバンナを見下ろして
おりた後はシャンパン・モーニング
カーニバル・レストラン
ケニア危機
そんなこともあって、もうしばらくケニアへ行くこともないだろうと思っていたのですが、これ以降、翌年8月を始めとしてその後6回(妻は7回)も訪ねることになりました。もしかしたら、その手にいったん摑まえられた人間は、どんな場所へ行っても、必ずもう一度アフリカの地に戻って来るという「アフリカの手」に掴まってしまったのかもしれませんね。
そういえば、私の海外旅行の行く先も、アジアから始まって、アメリカへ移り、次第にヨーロッパが増えて、年を重ねるごとに、中近東を経てアフリカの方にシフトしているような気がします。生物学者・本川達雄さんが、エネルギー消費量を社会のテンポと考えて、国民一人当たりのエネルギー消費量を元に2009年「国の代謝時間」を計算されたところ、「アメリカの代謝時間は日本の半分で、時間が倍くらい早く、ヨーロッパの代謝時間は日本とほぼ同じ、多くの発展途上国の代謝時間は日本の10倍またはそれ以上だ」とおっしゃっていますから、自分が年を重ねるにつれて、次第にヨーロッパやアフリカの方へシフトしていったのも、考えてみれば、当然のことだったのかもしれません。
テレビもラジオもなく、少々問題が起こっても、さして慌てる風情もなく、ポレポレ(ゆっくり)、サワサワ(OKです)、ハクナマタタ(問題ない)とスワヒリ語で対応する彼らの姿を見て、ゆっくりと流れていく時間を楽しんでいたように思います。そうそう、いつものことながら、ゲームドライブに出かけた妻を見送って、屋外のジャグジーに入り、本を読んでいる内に転寝をしてしまい、ふと目を開けると、ジャグジーの縁から20匹くらいのサバンナ・ヒヒがこちらをのぞき込んでいて、「これじゃ、まるで動物園の逆だな」と驚いたことがありました。市原さんの誘いもあって、2・3度ジュニア・スクールを訪ねたこともあるのですが、マサイの子供たちの運動神経のすばらしさとともに、彼らの目が一様にキラキラ輝いていることに驚きました。
それにしても、いくらニューヨークでキース・へリングなどに代表されるニューペインティングの作品を見て、その原点となった、ケニアのティンガティンガ派のポップアーチスト、サイモンジョー・ジョージ・ムパタに惚れ込んだとはいえ、こんな辺境の地にサファリパーク・ロッジまで造った、小黒一三さんって「一体どんな人なんだろう?」と思いましたね。
1950年東京生まれの小黒さんが、慶應義塾大学を出て入られたのが平凡出版社(現マガジンハウス)で、「ブルータス」編集部の時代にブータン・ニューヨーク・ブラジル・アフリカなどを取材。マスコミ界でつとに知られた「アフリカゾウを購入したからとして、経費で1000万円を落とした」という逸話が生まれたのは、どうやら、この時代のことが脚色をされたエピソードのようです。その後、90年に退社をして、編集プロダクション「トドプレス」を設立。92年にムパタの名前を冠した「ムパタ・サファリ・クラブ」をケニア・マサイマラにオープン。98年に出版社「木楽舎」を設立。99年には、環境ライフスタイルマガジンの月刊「ソトコト」を創刊し、編集長を務め、「スローフード」や「スローライフ」、「ロハス」など、21世紀のキーワードや、ライフスタイルをいち早く提唱し続けておられました。
吉本新喜劇の井上竜夫さんの、会話の途中で居眠りをしてしまう「スローギャグ」しか知らない私などには、ちと難しい概念ではありましたが、2009年1月13日、小黒さんがナビゲーターを務めておられるJ-WAVEの「LOHAS TALK」に呼んでいただき、初めてご対面することが叶い、「僕はビジネスには興味がなく、面白くて新しいことをしたいだけ。分かれ道を目の前にすると、誰もこんなことしないだろうってことを敢えて選んでしまう」と明るくおしゃっていたのを憶えています。ムパタを造る際に、200人もの友人や知人からの出資を得ることが出来た最大の要因が、この時お目にかかった、小黒さんの人間的な魅力にあることがよく分かりました。
アフリカの手
アフリカの手
ソトコト創刊号
LOHAS TALK のスタジオ
坂本龍一さんも出演されていました
イメージです
話している最中に眠ってしまう井上竜夫さん
サイモン・ジョージ・ムパタ
2007年の大晦日は家族揃って京都ツアーに出かけました。ちょうどクラブツーリズムの「京都2連泊で過ごす年末年始」というツアーがあって、それに便乗することにしたのです。31日の朝7時に丸の内を出て、やや太り気味のバスガイドが風邪気味で咳を連発する中、4人で京都へ向かいました。午後2時半頃には京都について、最初に訪れたのは南禅寺、その後自由時間があって、近くのウェスティン都ホテルでお茶を飲んで時間を過ごし、再集合した後、定番の「順正」で湯豆腐の夕食、夜は八坂神社へ行って除夜の鐘を聞き、初詣を済ませた後、吉兆縄を買い求め、おけら火を受け、火が消えないようクルクル回しながら宿泊先のホテルまで持ち帰りました。
明けて1日はホテルを出て、まずは上賀茂神社、次いで嵯峨野の天龍寺、次いで行った伏見稲荷大社は大混雑、その後、祇園の「美登幸」で京懐石の夕食、翌2日は8時にホテルを出て奈良へ、東大寺の大仏殿、春日大社にお参りをして、奈良公園を散策、午後2時前に奈良を出たのですが、あいにく海老名北IC辺りで渋滞に巻き込まれ、東京駅に着いたのは夜の11時半頃でした。慌ただしい3日間でしたが、これだけの観光スポットを効率的に回れるのはバスツアーならではのこと、京都に生まれ育った私と妻はともかく、東京生まれの子供たちに京都や奈良を見せられ、大満足の3日間となりました。
また、1月12日には、福岡のホテルオークラ1階のレストラン「カメリア」で天野周一さんにお目にかかりました。天野さんは福岡県内で70万部を発行するフリーマガジン「リセット」や、タウン誌「福岡モン」の編集長を務める傍ら、99年に、50代のオヤジたちを結集して「いかに上手に妻の尻に敷かれるか」を追求する「全国亭主関白協会」(全亭協)を設立、4500人の会員を集めるまでになっていました。私は書店で、2006年11月にこの方の書かれた「妻の顔は通知表」(講談社)を手に取り、表題につられて読むうちに「全亭協」の存在を知ったのですが、身につまされることも多く是非一度会ってお話を聞いてみたく、チャンスをうかがっていたのです。幸いこの日はある団体から受けた講演会がこのホテルであり、天野さんのスケジュールも調整がついたこともあってこの日お会いする運びになったというわけです。
にこやかに現れた天野さんからお聞きしたところ、全亭協を結成しようと思ったきっかけは、「風呂・めし・寝る」ですべてを済ませる典型的な亭主関白だった天野さんが、ある時些細なことから夫婦喧嘩になり、「出ていけ!誰のおかげでメシが食えているんだぁ」と怒鳴りあげると、実家のない奥さんが部屋にへたり込んで、寂し気に「どこに、帰ればいいの?」という言葉と共に一筋の涙を流されたそうです。その姿を目にして、「自分は何ということを言ってしまったのか」と悟った天野さんは土下座をして、この日を境に、旧亭主関白からの離脱を決め、正しい夫婦のあり方を模索して、ついに「新!亭主関白」像にたどり着いたというのです。
考えてみれば、関白は天皇に次ぐ2番目の位で、家庭内で一番偉いのはカミさんであり、亭主関白は妻を補佐し、チヤホヤともてなす役目であるのが正しい意味だと分かったというのです。以降は、ゴミ出しや風呂掃除、皿洗いなどをこまめにこなし、何とか妻の愛を取りもどそうとする日々が続き、妻はかえって浮気をしているのではないかと疑うのですが、それにもめげず、真人間になると努力を重ねるうちに、奥さんの眉間に深く刻まれた二本の皺がいつしか薄れてきたといいます。飲み仲間にその話をしてみると、既に夫婦間の危機を抱え込んでいた仲間が次々にカミングアウトして、この会が結成されたということが分かってきました。
南禅寺にある「順正」
八坂神社の除夜の鐘
篝火から火をもらう様子
祇園の美登幸
カメリア
これを元に「妻たちからの三行半〜夫たちの㊙︎離婚回避マニュアル〜」としてドラマ化されました。2008.2.1
天野周一さん
天野さんによると、「熟年離婚を回避するためには、亭主が変わるしかない」のだそうです。「なぜなら、妻は絶対に変わらないから」だというのです。それが証拠に、妻の「ごめんなさい」を聞いた亭主は、この世にいないからだとおっしゃるのです。そういえば私も聞いたことがないような気がしないでもありません。さらに続けて天野さんは、亭主には既に妻の尻に敷かれている亭主と、やがて妻の尻に敷かれる亭主の2種類しかなくて、どうせ尻に敷かれるなら、いかに上手に敷かれるかを研究した方が、「家庭内生存率」が高まるとおっしゃるのです。こうして天野さんのお話を伺ううちに、さっそく私もメンバーに加えていただくことになりました。
折しも、前年4月から、離婚後も厚生年金を夫婦間で分割できるように年金法が改正され、阻害要因がなくなり、熟年離婚が予測されていました。これが、団塊世代の大量リタイアに次いで、新たな「2007年問題」と呼ばれていた時期でもありました。これを防ぐには、やはり日ごろのメンテナンスを欠かしてはならないのです。マーケティングの世界では、C.Sといえば顧客満足度のことを言うのですが、同じC.Sでも、家庭ではこれをコミュニケーションの満足度と読み替えなければならないのです。間違ってもギリシャ人のように、接触を意味する「コネクト」や、結合を意味する「コンバイン」と読み替えてはならないのです。
そんな危機感もあって、天野さんにお願いをして全亭協のメンバーに加えていただいたのですが、後日送られてきた書類には、会員が順守しなければならない、2つの原則が記されていました。1つは、「ありがとうをためらわず言おう」、「ごめんなさいを恐れず言おう」「愛してるを照れずに言おう」という愛の三原則なるものが書かれていました。この3つの言葉こそが、凍った妻の心を溶かす魔法のワードだというのです。妻が三行半を突き付ける最大の理由が、亭主からこの言葉を何十年も聞かなかったからだというのです。
そして、もう一つが、「勝たない」、「勝てない」、「勝ちたくない」という非勝三原則で、なぜ勝たないか?というと、喧嘩に勝てると思って反論すると、1時間で済む喧嘩が2時間になるだけだから。なぜ勝てないのか?というと、もし喧嘩になっても、敵は20年前の浮気を引き合いに出してくるという最終兵器を持っているから。更に、なぜ勝ちたくないのか?というと、たとえその喧嘩で勝利を収めたとしても、次の喧嘩ではそのツケが5倍10倍になって帰って来るだけだからと、理由が書き添えられていました。
天野さんには、さっそく「5ℓ」の4月号からコラムページを持っていただくことにして、私は入会審査を受けて,下から2番目の二段と認定されました。実は会長の天野さんも五段で、それ以上に昇段をするためには、論文の審査と、新技や荒技を提供しなければならないのだというのです。因みに八段以上は全国に十数名しかおらず、最高位の十段に至っては、板橋嘉道さんお一人しかおられないと聞きました。この方は大企業の社長さんで、無数の技を身に付けておられ、既に即身成仏となり、強い奥さんの前では常に自分の気配を消して生きる、無我の境地にある方だと聞きました。
4月26日、RKBラジオの永田伊久万ディレクターから声を掛けていただいた「あべちゃんトシ坊・こりないふたり」という生ワイド番組に出た後、午後2時半から天神のアクロス福岡に1300人を集めて開かれた「全亭協全国大会 in 福岡」に出席させていただき、天野さんの基調講演に続いてお叶われた「OJISANシンポジウム」にパネラーの一人、木村二段として出演させていただきました。
ちょうどこの年の1月からゴルフ界でも、ドライバーの高反発規制ルール(SLE規制ルール)が施行され、フェースの反発係数が0.83を超えるクラブが全面的に使用できなくなっていたのです。時代はまさに、高反発から低反発へとシフトしていたと言えるのかもしれませんね。
天野周一さん
こんなに右肩上がりで増えています
熟年離婚をテーマにした著名な3作品「熟年離婚(テレビ朝日)」
「2012年の作品」
「2016年の作品」
アクロス福岡
でも、この日に参加をしてなんといきなり九段に出世したのです(どないやねん!!)
ゴルフ界にも高反発を規制する動きが
そうそう、あれはたしか1月30日のことでした。フジサンケイグループの広告大賞・クリエーティブ部門の審査会を終えて、井筒監督としばし、我々関西人が選ぶ作品がいつも選ばれないのは、審査基準にある「大衆性」の捉え方が、東京の審査員と違うのかもしれないという話をした後、車に乗りこんで次の目的地、「白金の都ホテルまでお願いします」と告げたところ、運転手さんから返ってきた言葉が「せいこうしょうの先ですね」。一瞬、何を言っているのか分からなかったのですが、どうやらホテルの横にある、加藤清正公を祀った鶴林寺、通称・清正公(せいしょうこう)のことを言い間違えたのではないかと気づきました。
「性交渉って、誰がこんな時間からHをしに行くねん!」「だいいち、清正公に失礼やろ!」、聞けばこの運転手さん、鹿児島から上京したばかりで、うろ覚えの地名を口にしたばかりに、ここぞとツッコまれた理不尽さに落ち込んでいたかもしれません。少しばかり自責の念に駆られながら、秘書を務めてくれていた澤君に電話を入れると、「このはなくから電話がありました」とのこと、「いったい大阪の此花区から何の用があって電話が入ったのかな?」と思いつつ、告げられた番号に電話を掛けると、「はい木ノ葉のこです」。木ノ葉さんとは、お仕事をしたことは無かったのですが、かつてNTVの「噂のチャンネル」やドラマに出ておられたのを拝見していたこともあって、偶然お目にかかった赤坂プリンスの喫茶でご挨拶をさせていただいたばかりだったのです。
思わず、弘兼謙司さんが週刊朝日で連載されていたコラムに紹介されていた、「パプアニューギニア」を「パパは牛乳屋」、「バングラデシュ」を「ぼんくら亭主」と聞き違えたエピソードを思いだしてしまいました。そうそう、まだ私が吉本にいた頃、当時入社したばかりの女性マネージャーに、「今日は滋賀県の何処へ行くの?」と尋ねたら、「はい、よねはらです」と答えたので、「そら、米原(まいばら)や!」と教え、「誰を連れて行くの?」と聞くと、「はい、さんにんやつさんです」と答えたので、「そら、三人奴(さんにんやっこ)さんやろっ!」とツッコんだことがありました。たしか道下君というその女性社員は、その後に結婚をして退職しましたが、今でも主人を囚人と取り違えているのではないかと密かに心配をしています。
ちょうど、この年の3月1日から、上京したてのタクシーの運転手さんや、澤君や道下君でなくても、名前を間違えそうな「タスポ」(taspo)という、ややこしい名前のカードが導入されました。未成年者の喫煙防止策の一環としてつくられた、タバコ自販機専用の成人識別ICカードで、宮崎と鹿児島の両県から始めて、近畿では6月から、関東では7月から導入され、それ以降はこのカードがないと、自販機でタバコを買うことが出来なくなるようになるというのです。どこか、釈然としないままに私も申し込んだのですが、それにしても、落語の前座噺の「寿限無」に出てくる「パイポ パイポ パイポのシューリンガン」のくだりを思わせる、このややこしい名前はどこから来たのでしょう?たしか、タバコへのパスポートという意味で、TobacooとAcces(Age)とPassportを足して付けられたものらしいと聞いたのですが、発行されて2年後の2010年には、全喫煙者の37.3%にあたる971万枚が発行されたといいますから、日本人って本当に真面目な民族だなぁと思います。もっとも、今では、タバコを自販機ではなく、コンビニで買う人が増えて、私もコンビニで購入する際に「私は未成年ではありません」という画面にタッチをして、「はい」と押すのを求められるのですが、その都度、「この私が未成年に見える?」と聞きながらタッチをするのを愉しんではいるのですがね。
これは性交渉(せいこうしょう)
清正公(せいしょうこう)
三人奴さん
3月12日には大相撲春場所を見に府立体育館へ出かけました。ここ何年かは千秋楽に行くのが恒例になっていたのですが、小泉アパレル株式会社の植本勇社長(現会長)から砂被りにご招待をいただいて、行くことにしたのです。何しろ正面の3列目で間近に迫力のある取り組みを見ることが出来るのです。心がはやり、いつもより早めに館内に入りました。ちょうど十両の取り組みの半ばだったと思います。北桜や玉乃島、大学の後輩の土佐ノ海など、かつて幕内の上位で活躍したベテラン力士に声援を送るうちに幕内力士の土俵入り。続いて両横綱の土俵入りとなって、雲竜型の朝青龍、不知火型の白鳳。やはり、東西に両横綱が揃うのはいいものです。
その後、トイレ休憩と、ニコチンの摂取をかねて地下の食堂へ。やはり、升席と違い、飲食ができない砂被りは不自由なものです。コーヒーだけで済ませるつもりだったのですが、つい、おでんを頼んでしまい、席に戻ったのは6番目の取り組み、危うく人気者で「角界のロボコップ」と異名をとる高見盛の一番を見損なうところでした。懸賞もかかっていて、5本すべてが永谷園の「さけ・たらこ・・・」と続くお馴染みの、お茶づけ海苔のヘヴィ・ローテーションでした。目当ての豪栄道や稀勢の里に加え、白鳳までが負けてしまったのはショックでしたが、時折、向こう正面辺りにいた綺麗どころに目を遣ったりなどして、幸せな気分に浸っていたのですが、いざ帰る段になって、隣に座っていたおばさんの手が私の目に当たりそうになったのです。危うく体をかわして、難を逃れたのですが、その顔を見たら、何と雅山にそっくり。「よかった!このおばさん、正面じゃなくて」と思いながら、帰途に着いたのを憶えています。
翌週の3月17日には、念願の福島県・会津若松を訪ねました。これまでに、日本の主だった都市へは殆ど行っていたのですが、どういうわけか、これまでこの会津若松と、下関だけには縁がなかったのです。くしくも、賊軍の汚名を着せられて敗れた会津藩と、それを打ち破った官軍、長州藩の2つの都市です。望まざる任務の中、知略家たちに翻弄されながらも、一貫して誠を失わなかった松平容保の生き方に惹かれる私としては、まず会津若松に行ってみたかったのです。子供の頃に観た、市川雷蔵さんと勝新太郎さんの出演した「花の白虎隊」という大映映画の影響が少なからずあったのかもしれません。
お招きをいただいたのは、翌18日に行われる富士通・会津若松工場が主催をするオープンセミナーだったのですが、無理にお願いをして前日乗り込みにして貰ったのです。まず東京から新幹線「やまびこ」で郡山へ出て、ここで磐越西線に乗り換え、猪苗代湖の辺りで雪に覆われた磐梯山を眺めながら、1時間と少しで会津若松に着いたのですが、私には「森と水とロマンの鉄道」といわれる磐越西線が、「森と水とガマンの鉄道」にしか思えませんでした。それほどに、列車の運航スピードが遅くて、車両が揺れたのです。
とりあえず、駅のそばのホテルでチェックインを済ませ、すぐに白虎通りを直進して飯盛山を目指したのですが、思ったよりも距離があり、着いた時には、既に夕方の5時を過ぎていました。おかげで、当てにしていた動く歩道はストップしていて、171段もの階段を歩いて登る他ありませんでした。山頂の広場にある石灯篭の奥には、自刃した19基の白虎隊士の墓があり、右わきに置かれた31基の戦死した隊士の墓と共に、並んで据えられていました。その中には14歳の少年もいたといい、涙を誘われました。さらに右手には、君主・容保の哀悼の碑があり、「幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々に朽ちじとぞ思う」と詠まれていました。その後、今度はタクシーに乗って、名城とされる鶴ヶ城を訪ねて、ホテルへ帰ったのですが、幼い隊士の純な心情に触れて、心が洗われたような気がしました。
そうそう、この飯盛山を帰る際に、参道にある売店で、「七転八起の精神」を表す会津郷土玩具の「起き上がり小法師」を買い求めました。いつだったか、ご当地の出身で、「会津のケネディ」を自称されていた、民主党最高顧問の渡部恒三さんが、当時党首を務められていた前原誠司さんに小法師をプレゼントをされ、その際に何度トライしても起き上がらなくて、渡部さんが困惑されている姿をテレビで見かけたことがあるのですが、私の場合には、転がすたびに小法師は起き上がってくれましたね。
植本勇社長(現会長)
府立体育館
朝青龍 土俵入り
ロボコップの異名をとった高見盛関(現 振分親方)
永谷園のヘヴィ・ローテーション
綺麗どころ
雅山関(現 二子山親方)
残念ながら動く歩道はPM5:00でストップ
イメージ
白虎隊 自刃の地
鶴ヶ城
起き上がり小法師をプレゼントするも
起き上がれず・・・
続いて、3月30日の日曜日には、降りしきる雨の中を、午後2時から開かれる、関西テレビ放送労働組合主催、民放労連近畿地方連合会共催の「放送フォーラム」に出るため、大阪大学中之島センター10階にある佐治敬三メモリアルホールへ出向きました。
フォーラムの全体は2部に分かれ、前半の1部はタイトルに「発掘!あるある大事典Ⅱ」のねつ造問題から1年~関西テレビの取り組みと現状の検証について~」とあるように、前年1月7日に「納豆を食べると痩せられる」というテーマで放送をした際に、「納豆にダイエット効果がある」と証言したアメリカの大学教授のコメントや、実験データが改ざんされたものであることが発覚して、バッシングを受け、番組は打ち切られ、1979年10月7日の「花王名人劇場」以来この枠を一社提供していた「花王」さんは番組を降りることになりました。千草宗一郎社長は退任、関西テレビはFNSの会員資格の停止こそ免れたものの、民放連から4月に除名処分を受ける大事件となった番組の経緯や、その後の取り組みについて関西テレビ労組の田中淳委員長や石岡雅樹書記長、第三者機関の関西テレビ再生委員会委員の音 好宏上智大学助教授から、委員会としての見解のご説明がありました。私の出番はその後に開かれる2部のパネルディスカッションということもあって、それまでは客席の後方で聞いていたのですが、一般の方が混じっておられる会場にしては、話があまりにインナー向けに終始し過ぎているのではないかという気がしていました。たしかに、放送活性化委員会を設けて再発防止策を講じたり、個々の制作者の自覚を促すことも重要だとは思いますが、事は意欲や仕組みで片付くほど単純なものではなく、もっと大きな構造的な問題が背後にあると思えたのです。
「さて、何をしゃべろうか?」と考えを巡らせながら、2部の「関西テレビへの提言~番組作りのあり方・在阪局のあり方」というタイトルのパネルディスカッションに臨みました。コーディネーターは、「放送レポート」編集長の岩崎貞明さん、パネラーは先ほどの音 好宏さん、嘗て「テレビスクランブル」でお付き合いのあった、ATP理事で「クリエーターズ」代表でもある高村裕さん、それに、私と、在阪局の若い制作現場の方たちでした。各々自己紹介をした後、コーディネーターからふられた際に、私は、少し流れを変えるために「いっそ、準キー局などという陥穽を解いて、金はないけど、面白い番組をつくりまっせ!という所に立ち戻った方がいいのでは?」と発言してみました。在阪局にとって東京キー局との向き合いは重要で、全国ネットの番組を制作する際の視聴率への圧力は、かなりのものがあるといいます。それに抗するためには、実績のあるタレントや、そのタレントをハンドリングできる制作会社に頼らざるを得なくて、おのずと局のイニシアチブを発揮し辛い状況に陥らざるを得ないのです。現に問題になった「発掘!あるある大事典Ⅱ」の場合も、前シリーズの「発掘!あるある大事典」が視聴率低下傾向にあり、そのテコ入れのためにコンセプトを「分かりやすく、面白く、お役立ち感のある番組」に変え、大手広告代理店から相談を受けたキー局であるフジテレビが、関西テレビの制作部門ではなく、編成や営業部門に提案をしたものだと聞きました。しかも実際に制作をするのも、キャスティングをするのも前シリーズと同様「日本テレワーク」、ここから同社が実際に制作をする複数のプロダクションに再委託をするという構造も同じだというのです。
私が嘗て吉本興業にいた時も、関西テレビの「花王名人劇場」でも、テーマやキャスティングを決める際に、関西テレビのプロデューサーに相談したことは一度もなく、もっぱら制作会社の東阪企画さんとばかり決めていたように記憶しています。これでは局の担当プロデューサーのモチベーションなど上がるわけがありません。この構造を変えるには、関西の局が準キー局などという変な見栄を捨てて、いっそ「こっちで、面白いもん創ったるから、ネットしてやってもええで!」というくらいのプライドを持った方がいいと思ったのです。音 助教授たちの調査によると、この番組の粗利益率は関西テレビが3.7%で、日本テレワークが18.62%だったといいます。関西テレビは3.7%の粗利益を得るために、実に大きな犠牲を払うことになったのです。
納豆(ナットウ)くんも納得(ナットク)できません
音 好宏 上智大学助教授
放送後はこんな状態だったのに
発覚後は、全く売れなくなり茨城県では大量廃棄も・・・
4月9日、大阪に激震が走りました。「グリコ」の看板や、「かに道楽」の動く巨大カニ看板と共に、ナニワの顔として知られていた、くいだおれ太郎がいる店「くいだおれ」が、建物の老朽化と周辺環境の変化もあって、7月8日をもって店を閉じるというのです。ニュースを報じた新聞紙面には、「道頓堀の顔 60歳定年」や「くいだおれ人形 第二の人生探し」、「太郎波乱60年 余生どうする」などの文字が踊っていました。戦後、焼け野原となった大阪の復興に寄与すべく食堂を創業して59年、サラリーマンなら、ほぼ定年を迎える年ではあったのです。1952年には、当時まだ大阪市内に50台しかなかったテレビ受像機を店内に設置し、59年には建物をビルに改造をして、いち早く空調設備を整えた先進性もあって一躍、人気を集める店になったといいます。1階が総合食堂、2階が居酒屋、3階が日本食堂、4階から8階が割烹座敷となっていたのですが、それまで表の道頓堀を通ることはあっても、2,3度くらいしか店に入ったことがなかった私も、このニュースに触れたからには、「一度は行っておかねば!」という気になり、翌日には店を訪れました。
心斎橋から御堂筋を南下して、宗右衛門町でタクシーを降りると、「ホリデイイン」は「CROSS HOTEL」に代わり、「ハマムラ」も、戎橋の「キリンプラザ」も無くなっていました。すっかり様変わりした界隈を抜けて、道頓堀に入ると「かに道楽」の先に「くいだおれ」が見えて一安心。店の前には、閉店のニュースを見た人たちが、別れを惜しむかのように黒山の人だかりを作っていたのですが、意外なことに、店内は人の気配もまばらだったように思います。食事にはまだ早い午後3時頃とはいえ、表にある「くいだおれ太郎」をカメラに収めただけで、去っていく人が多かったように思えました。私?私は、もちろん店内に入り、「日本味紀行 春」という膳をいただきました。そうそう、6月5日には、東京から来られた方を誘って再び店を訪ねて、仲居さんの「たこ焼き音頭」に乗りつつ、自分で焼いた「たこ焼き」を食べて、名物の「たこやき終了証書」をいただきました。
そうそう、この道頓堀では、1985年阪神タイガースの優勝時に、ケンタッキー・フライドチキンのマスコットである「カーネル・サンダース」人形が、歓喜したファンによって道頓堀川に投げ込まれた事件があったのですが、実はこの「くいだおれ太郎」君にも阪神ファンに投げ込まれるかもしれないという危機があったのです。1992年、ようやく「カーネルサンダースの呪い」も解け、長い低迷を脱し、阪神が優勝にあと一歩と迫った際のことでした。前回の轍に懲りたケンタッキー側が、予めサンダース人形を鎖止めをしておいたこともあって、その代わりに、千日堂の「すっぽん太郎」と、「くいだおれ太郎」が投げ込まれるターゲットになったというのです。ところが、「すっぽん太郎」の方は、早々にどこかへ出張をして姿を消してしまい、困ったくいだおれ側は、社内に「阪神タイガース対策委員会」を設けて皆で協議を重ねたのですが、なかなかこれという案が出ず、女将の柿木道子さんの一言で「わて、泳げまへんねん」と記した吹き出しを人形に付けることにしたのです。これが「面白い!」と評判を呼び、テレビや新聞に取り上げられ、さらに、阪神優勝の目が無くなった翌日には、「わて、かくごしておりましてん!」に吹き出しを付け換えたところ、「なかなか面白い!」と、さらに店の評判が高まったといいます。以前、オットー靴店の時にも書いたように思いますが、こうして世間とのコミュニケーションを図るところが、商都大阪人の真骨頂なのだという気がします。いっそ、オットー靴店の様に「やっぱり、やりますわ」とオチを付けてくれれば!とも思ったのですが、7月8日には、予告通り、「永いことありがとう おおきに」の吹き出しと共に、店は幕を閉じてしまいました。
「これも時の流れ」といえばそれまでのことですが、関西大学・宮本勝浩教授の試算によると、「くいだおれ人形」の経済効果は年間16億7千万円にも上るといいますから、道頓掘り商店街は、またしても大きな街の資産を喪ってしまった気がする出来事でした。
名残を惜しんでカメラに収める人たち