木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 その後、2月に入って、8日には「5ℓ」5月号のため、田中康夫さんにインタビューをさせていただきました。田中さんは大学在学中に「なんとなくクリスタル」で文芸賞(河出書房新社)を受賞、2000年に長野県知事に就任され、2001年「脱ダム宣言」、2005年に新党日本を立ち上げ、代表を務められていました。場所はたしか、平河町にあった新党日本のオフィスだったと思います。自らをチャッカマンと称されるように、オトナたちがつくった既成概念や仕組みに果敢に挑む姿にエールを送りたくなりました。

 また26日には、京都テルサホールで行われたJAさんの女性大会で講演をさせていただいた後、中川会長と小滝専務と共に、すっぽん料理の「大市」で会食をさせていただきました。江戸時代の中期、元禄時代に創業して340年、18代続くという老舗で、志賀直哉の「暗夜行路」や、川端康成の「古都」にもその名は記されています。場所は上京区六番町千本西入とありますから、水上勤さんが小説に書かれた「五番町夕霧楼」のあった辺りではなかったかと思います。建物は創業当時のままだということで、トイレに行く際には廊下が多少傾いているような気がしました。柱には刀傷も残っていて、店の方に「さすが老舗だけあって凄いですね」というと、「いやー、うちなんか老舗やあらしまへん、まだ340年くらいどすさかい」という言葉が返ってきました。この辺りが実に京都らしいところです。「京都人がこの前の戦争というのは応仁の乱のことだ」という説がありますが、まさにその神髄に触れた気がしました。

 メニューは「〇(まる)鍋」のみというシンプルさ。これが美味いのなんの。今まで他で食べていたすっぽんは、一体何だったのかと思うほどの味でした。中川さんにご馳走になって値段は見なかったのですが、後で値段を知って驚きました。この日以来、「いつか行こう」と思いながら未だにその夢は果たせていないのは情けない限りです。

 翌27日には京阪電鉄の佐藤茂雄社長と対談させていただきました。京都精華大学の理事会でお目にかかっていたということに加えて、生まれて以来2度引越しをして、その何れもが京阪電鉄の沿線だったこともあって、社内報での対談をお引き受けさせていただきました。京阪電鉄は阪急・阪神・近鉄・南海と並んで関西私鉄5社の中で唯一プロ野球に参加しなかったこともあって、関西以外の知名度では及ばずとも、堅実な経営で知られた企業で、1954年から特急電車に「テレビカー」(71年からはカラー化)を導入したり、従来、蓮舫さんや山口智子さん、渡辺満里奈さん等タレントさんを起用していたCMをやめ、2000年から「京阪のる人、おけいはん」というドラマ仕立ての面白いイメージCMに転換したのも電鉄会社としては新しい試みでした。また翌2008年10月19日には中之島線が開通するとあって、夢の広がるお話にはなったのですが、佐藤社長が懸念されていたのが枚方パークでした。

 かつては菊人形で賑わい1974年には年間160万人あった来客数が、2006年に菊人形を止めたことや、2001年にユニバーサルスタジオがオープンしたこともあり、入場客も減少の一途をたどり、2011年にはついに87万人と半減をしたのです。私鉄系遊園地の宝塚ファミリーランドや阪神甲子園パーク、伏見桃山キャッスルランド、近鉄あやめ池遊園地、神戸ポートピアランド、奈良ドリームランドなどが続々と閉鎖に追い込まれましたが、京阪は2000年に大型設備投資をしたこともあって、何とか持ちこたえ、2009年からブラックマヨネーズの小杉竜一さんを「ひらパー兄さん」に起用して、2010年は瞬間的に103万人を達成したものの、翌年には再び減少に転じたのです。そこで、アイマスクを付けて乗る「目隠しライド」という面白いアトラクションを始めると共に、2013年から枚方市出身の、岡田淮一さん(V6)を「超ひらパー兄さん」に起用、更に「園長」の肩書まで付けて、「翌年までに100万人来なければ2つの肩書を外します」というキャンペーンを張ったところ、無事109万人を達成、翌2015年も116万人を超え、今ではユニバーサルスタジオに次いで2番目の動員力を誇る遊園地となったのです。くしくも、この2015年に、京阪電鉄社長から大阪商工会議所会頭に転じ、京阪電鉄最高顧問を務められていた佐藤茂雄さんが成果を看取るかのように、お亡くなりになりました。それにしても、「○○までに○○人来なければ、○○をやめます」というキャンペーン、我々が昔、どこかで行った手法と似てますよね!

 

 

 

 

 

 

 

 

大市のメニューは「○鍋(まるなべ)」のコースのみとなります

 

 

 

 

 

 

 

ひらかたパーク

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 また例年この頃になると、テレビやラジオの改編期を控えて様々な動きがみられるようになります。私の場合で言うと、文化放送でお世話になっていた吉田照美の「ヤル気MANMAN!」が20年間の歴史に幕を閉じることになりました。吉田照美さんは、4月から朝6時~8時半までの「吉田照美のソコダイジナトコ」という新番組を始めることになり、「ヤルMAN」の後はつなぎ番組を挟んで、5月から新番組の「大竹まことのゴールデンラジオ」に代わるというのです。「セイヤング」で深夜を、「夜はこれから てるてるワイド」で夜を、「やる気MANMAN!」で午後帯を活性化した手腕を、今度は朝の時間帯に投入しようというのです。私が関わらせていただいたのは、ほんの2,3年のことでしたが、照美さんと小俣さんのペースに乗って気持ちよく時間を過ごすことが出来、感謝のほかありません。

 今一つは、NHKの夕方の帯番組「もっともっと関西」が、月~金から1曜日減って月~木の放送になり、サブキャスターの青井実アナウンサーも東京へ移動され、コメンテーターにも入れ替えがあって、私は外れることになりました。3月22日には、スタッフをはじめ、わざわざメインキャスターの濱中さんにまで出席していただいて、同じく水曜日のコメンテータを務められていた、「日本一明るい経済新聞」編集長の竹原信夫さんと共に、なんばパークスにあるポンテベッキオで慰労会を開いていただきました。まあ、私の場合は、仕事をセーブして家事に励むサラリーマンを特集した際に、「よく会社が許していますよね」などと憎まれ口を叩いたりして、スタッフに迷惑を掛けたりしていたので、多少の自覚はあったのですがね。

 一方、文化放送の「木村政雄の楽園計画」は、「ジョインベスト証券」さんに代わって、「カゴメ」さんがスポンサーについてくださって、番組タイトルはそのままに、放送時間を土曜日の午後7時~7時半から月曜日の午後8時~6時半へ移して継続することになりました。お相手が石川真紀アナウンサーから、「蟹瀬誠一のNEXT」に出ておられたフリーアナウンサーの小川真由美さんに代わり、ゲストトークの「CLUB 50」は変えず、後半のリスナーからのお便り紹介コーナーのタイトルを「楽園メール」から、「ラブレな人たち」に変えることになりました。

 新たにスタートとなった第1回目の収録は3月26日、「ヤルMAN!」の最終出演を終えて、ゲストにお迎えしたのが元ドリフターズでウクレレ奏者でもある高木ブーさんでした。さらに、翌27日には元女子マラソン選手で日本のプロランナーの草分けでもある有森裕子さんにお話を伺い、4月23日にはタレントの山田邦子さん、5月7日には街のコンシェルジェとして商店街の再生に取り組まれている 沢田藤司之さん、女優・エッセイストで農業従事者でもある高木美保さん、5月21日には、食を通じて地域再生に取り組まれている金丸弘美さん、そして5月28日には、俳優の北大路欣也さんをゲストにお迎えしました。この方たちの中で、有森裕子さんや山田邦子さん、北大路欣也さんには「5ℓ」にもご登場いただいたのですが(いずれも2007年7月号・北大路さん、8月号・有森さん、11月号・山田さん)、中でも印象に残っているのが、北大路さんでした。

 ラジオや「5ℓ」でご一緒させていただいたご縁で、7月11日に東京会館で開かれた、北大路欣也さんの「紫綬褒章を祝う会」にお招きを受けたのです。会場の11階ゴールドルームへ上がると盛花の山、場内には招待客数を大幅に超えた人たちが、立錐の余地もないほど犇めいていました。TBSの井上弘社長の祝辞の後、三木武夫元総理夫人のご挨拶、中村嘉葎雄さんによる乾杯。場内に目を遣ると、放送局や映画会社の社長、広告代理店やクライアントの幹部に混じって、海部元総理や小渕優子議員、伊東四朗さん、星由里子さん、水谷八重子さん、由美かおるさんらに混じって、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんがポツンと立っておられたのです。「あっミスターだ!」と目ざとく見つけ、近寄って2ショット撮影をおねだりすると、快く応じてくださいました。すっかり気分を良くして場所を移すと、目の前に元横綱で相撲博物館の館長の大鵬幸喜さんや、元巨人軍で「エースのジョー」と呼ばれた城之内邦雄さんを発見。城之内さんと言葉を交わしつつ、テーブルに置かれた卵料理をぱくついて、「これじゃまるで、巨人・大鵬・卵焼きだな」と満足しながら、会場を後にしました。こんな幸せな時間を持てたのも北大路さんのおかげ、感謝しなきゃ罰があたりますよね。

「ヤル気MANMAN!」

 

 

 

竹原信夫さん

 

フリーアナウンサーの小川真由美さん

 

高木ブーさん

 

有森裕子さん

 

山田邦子さん

 

沢田藤司之さんの著書

 

高木美保さん

 

金丸弘美さん

 

北大路欣也さん

 

 

 

憧れの「ミスター」とツーショット

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 こうして、4月から生放送での出演が無くなったこともあって、4月27日から5月6日までの大型連休を利用して、妻とイタリアへ旅をすることになりました。食べ物も美味しく、ファッションセンスに溢れたイタリアは、夫婦共々お気に入りの国ではあったのですが、いつもミラノやローマ、あとは、せいぜいベローナくらいしか行ったことがなかったこともあって、この際は今まで訪ねたことがない所へも行ってみようということになりました。

 27日、朝の9時25分に成田を発って、乗り継ぎの北京に着くまでは順調だったのですが、北京の出発が何と6時間も遅れてしまい、ローマ近郊の花の絨毯祭りで知られる、ジェンザーノのグランドプリンスホテルに着いたのが28日の午前1時半。7時間後にはバスで4時間走ってフィレンツエへ。ルネッサンス文化の中心を担い、86年に欧州文化首都に選ばれ、「屋根のない博物館」と異名をとるほどに歴史遺産も多く、サンタマリア・デル・フィオーレ大教会や、ミケランジェロ広場、ポンテベッキオ橋などを見た後、近郊のホテル・パークリベルテに泊。

 29日も同様に8時半に出発、再び4時間弱かけてベニスへ。海と陸、東洋と西洋、キリスト教とイスラム教が交わる場所で、サンマルコ大聖堂やドゥカーレ宮殿などを訪れました。そうそう、むかし、このドゥカーレ宮殿に設けられていた尋問室と牢獄を結ぶ橋を囚人が渡る際に、「この景色もこれで見納めか・・・」とため息をついたことから、「ため息橋」と名付けられた橋が架かっていましたね。自由時間にフィレンツエのブランド街を妻に引き回された私も同様に、この橋で「ため息」をつきましたけどね。

 さて30日は、このツアー参加を思いたったきっかけとなった、チンクエ・テッレを訪れました。リグーリア海岸沿いにある5つの村を総称してこの名前が付いたそうで、切り立った断崖の急斜面に築かれたカラフルな建物が並ぶ絶景ポイントです。背後の急峻な山には、村を取り囲むように段々畑が広がっていて、97年には世界遺産に選ばれました。私もNHKの「探検ロマン世界遺産」という番組を見て、この目で見たいと思ったのですが、番組で紹介されたように海からではなく、ラスベッツイアからチンクエテッ・レエクスプレスで陸路を辿って来たため、街全体を俯瞰で見ることは出来ませんでしたが、リオマッジョーレからマナローラまで、1キロほどの「愛の小径」(愛の横道ではありません)を歩いたり、中世の趣を残したままの建物や、迷宮のように入り組んだ街を散策して楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 5月1日は、フィレンツエからユーロスターでナポリへ。有名な「ナポリを見てから死ね」という言葉があるように、風光明媚な所だと思っていたのですが、治安が悪そうで、街が汚いというのが第一印象でした。ヴェスヴィオ火山や、サンテルモ城、サンタキアラ教会、海に突き出た要塞の卵城(カステル・デ・ローボ)など、一応観光名所といわれる所は訪れたのですが、ガイドさんの注意もあり街を歩くことはなく、ただ車中から眺めただけでした。正直なところ「ナポリを見てからなんて死ねるか!」と思いましたね。そういえば、スパゲッティ・ナポリタンも食べなかった気がします。

 この後2日に訪れたアルベロベッロでは、白い壁にとんがり帽子のような屋根が乗ったトゥルッリと呼ばれる家々が続くさまは、まるでおとぎ話に出てくるような景色でした。その後、マテーラで、旧石器時代からの歴史を伝える洞窟住居群サッシの街を見て、ヴェスヴィオ火山の噴火で埋まったまま、1000年も発掘されなかったポンペイの古代遺跡を訪ねたのですが、これまで訪ねた所はいずれも世界遺産、なにせイタリアは国内に世界遺産が41もある国なのです。不満はないのですが、ちょっと食省気味になってきましたね。

ジェンザーノ「絨毯祭り」

 

サンタマリア・デル・フィオーレ大教会(フィレンツェ)

 

ポンテベッキオ橋(フィレンツェ)

 

ベニス

 

チンクエ・テッレ

 

海沿いを走るチンクエ・テッレ エクスプレス

 

愛の小径

 

ナポリの町

 

 

 

 

 

アルベロベッロ

 

 

 

HISTORY

第話

 そうそう、ナポリで泊まったホテルが、なぜか「アメリカン・ホテル」で、思わず「なんでやねん!」とツッコみたくなったのを憶えています。5月3日は、そのホテルを出て、ナポリの沖合ティレニア海に浮かぶカプリ島の青の洞窟へ行く予定だったのですが、あいにく海が時化ていて、くぐる際に頭を船のへさきより下に沈めないといけない洞窟に入れるかどうか、「行ってみないと分からない」というので、私たちは他の何人かとグループを離れて、ナポリ駅から列車で、次に行く予定のローマへ向かい、テルミニ駅から地下鉄でスパーニャ駅へ出て、スペイン広場前のローマ随一の高級ブランド街コンドッティ通りに差し掛かると、なぜかブータレていた妻の機嫌が一変、お陰で市中引き回しの刑にあいました。

 夜の7時頃に、宿泊先のイビス・ローマ・マリアナホテルで、カプリ島へ行った皆さんと合流して、皆で夕食を済ませたのですが、聞くと、やはり青の洞窟には入れなかったようで、「私たちもカプリ島をスルーしてローマに来ればよかった」という声も聞かれました。ただこればかりは天候のせいですから、ガイドさんを責めるわけにはいきません。このホテルには3・4日と連泊をするのですが、これも「ローマは1日にしてならず」という言い伝えを意識してのことかもしれません。

 4日は気を取り直して、朝8時から小雨の降る中をローマの歴史地区を観光。コロッセオやサンピエトロ大聖堂、パンテオンなどを巡り、映画「ローマの休日」で知られたスペイン広場からトレヴィの泉へ行った際、一応観光客らしく振る舞おうとコイン投にトライしました。噴水を背に、右手で左肩越しにコインを1枚投げると「再びローマに戻って来られる」、2枚だと「告白した愛が叶う」、3枚だと「いやな奴と別れられる」というのです。私は3枚、いや1枚を投げただけなのですが、その後訪れたサンタマリア・イン・コスメディン教会にある真実の口の前に立った時、妻から「手を入れて、何枚投げたか言ってごらん」と言われて、手を差し入れたものの、何事もなく終わりほっと胸をなでおろしました。本当は3枚も投げるのが惜しかっただけなんですがね。こうして翌6日の夜8時10分にローマ空港を飛び立ち、来た時と同じように北京でトランジットをして、夜の9時、10日ぶりに成田に着きました。

 翌日からは、番組収録や会議、原稿執筆、講演という日常が戻ってきたのですが、なぜかその合間を縫って、17日に大阪の松竹座へ芝居を見に行っています。作詞家・星野哲郎さんと奥様の朱實さんとの情愛を描いた物語で、田中健さんと、名取裕子さんが演じて、教え子の水前寺清子さんが本人役で出演していました。星野さんは、「男はつらいよ」の主題歌をはじめ、「黄色いサクランボ」、「兄弟仁義」、「昔の名前で出ています」、「アンコ椿は恋の花」など数々のヒット曲をつくられた大作詞家で、この方が糟糠の妻である朱實さんにあてた「妻への詫び状」というタイトルの芝居だったと思います。この作品に出ていた俳優さんで、予てから顔見知りだった、にわつとむさんから話を聞いて出かけたのですが、ストーリーはともかく、上演時間3時間45分というのは、いささか長すぎる気がしました。帰り際、私もいつか、「妻への詫び状を書く時が来るのかな?」という思いが頭をよぎりましたが、書くならむしろ、元高槻市長の江村利雄さんが書かれて、2001年にNGKで愛川欽也さんに公演していただいた「夫のかわりはおりまへん」の方にしようと思い直しました。

アメリカン・ホテル(ナポリ)

 

青の洞窟(ナポリ)

 

ナポリ

 

コンドッティ通り

 

コロッセオ(ローマ)

 

サンピエトロ大聖堂(ローマ)

 

パンテオン(ローマ)

 

スペイン広場(ローマ)

 

トレビの泉でコイン投げ(ローマ)

 

真実の口(ローマ)

 

2010年にご逝去されました

 

 

 

にわつとむさん

 

 

 

 

 

江村利雄さん

 

HISTORY

第話

 その翌日、5月18日には講演のため、鳥取県米子市へ行きました。新幹線で岡山まで行き、在来線の特急「やくも」に乗り継いだのですが、米子まで2時間あまりとあって、用意してもらった禁煙のグリーン車を離れ、喫煙の自由席に移動をして、紫煙をくゆらせながら、車窓からの景色を愉しむことにしました。

 山間のひなびた風景が続くなか、新見駅を越えてしばらくすると、「列車は間もなくトンネルに差し掛かります。伯備線で最も標高の高い谷田峠(たんだだわ)を越えると、それまで列車の進行方向に逆らって流れていた岡山県の高梁川が、鳥取県側の日野川と名前を変えて、列車の進行方向に流れを変えるようになります」とのアナウンス。外を眺めているとアナウンスの通り、線路沿いを流れていた川は、いつの間にか列車を追いかけるように流れを変えていました。分水嶺とはまさにこのことを言うのです。

 「胸突き八丁を越えると、逆風が順風に変わるなんて、まるで人生のようだな」と感じ入っていると、目に飛び込んできたのが乗越(のりこえ)橋、よく出来ています。かつて財政破綻前に北海道の夕張市を訪れた際に、「ヤリキレナイ橋」を渡って、やりきれない気分に陥ったのとは大違い。さらに列車が蒜山高原に差し掛かると「ムコ駅」を通過、「苦労を乗り越えた娘が、ついに婿と結ばれるのかと思っていたら、武庫駅だったのです。

 終点米子駅へ着いて、「遠いところを、ようこそおいで下さいました」と迎えていただいたのですが、スピード流行りの時代にあって、「たまにはこんなスローな旅もいいのかも!」と思いつつ、帰りは飛行機で東京に帰ったのですが、もしも米子から岡山に向かったら、順風が一転、逆風に代わっていたのですから、これで良かったのかもしれませんね。

 この年の11月12日には再び鳥取を訪れたのですが、今回は米子市ではなく、鳥取市。地元紙の日本海新聞と、経済団体が主催する「鳥取県の地域戦略」という、いかめしい名前のシンポジウムに出席をするためでした。2年後の2009年に鳥取自動車道(通称姫鳥線)が開通することをにらんで、県東部の因幡地方と関西地区の連携を図るべく催されたものでした。自動車道の開通によって、鳥取・大阪間は50分間短縮されて2時間30分となり、しかも無料とあって利便性が高まると大いに期待が膨らんでいたのです。シンポジウムで私に与えられた役割は、60分間の講演と、平井伸治知事や竹内功市長、経済同友会幹事さんとのとのパネルディスカッションへの参加でした。

 旧知の観光交通の社長からの紹介ということもあって、お引き受けさせていただいたのですが、参加の決め手となったのは、この月の6日に漁が解禁されたばかりのカニだったのです。とれたての旨いカニを本場で食す機会など、そうそうあるものではありません。雹(ひょう)が降った寒空の中を、揺れながら飛行機で降り立ったのは午後12時半。迎えの方と合流して、さっそく空港近くの賀露港にある「海陽亭」で、セコ蟹と松葉蟹をいただきました。「あー幸せ、もういつ帰ってもいいや」と思ったのですが、そうはいきません。これからが本番なのです。進行の打ち合わせなどをして、会場兼宿泊場所のホテルニューオータニへ入りました。

 すっかり秋めいた外気とは裏腹に、会場には熱気が溢れ、知事や市長もそれぞれに熱い思いを語っておられました。イベントの後は懇親会、場所を移して2次会、3次会と続いたのですが、総て終わってホテルへ帰る道すがら、何かと気遣っていただいた社長に「町おこしも大事でしょうけれど、事業の方は大丈夫ですか?」尋ねると、「いやーっ」と頭をかきながら、「蟹と一緒で横ばいですわ」という言葉が返ってきました。

特急やくも

 

 

 

谷田峠(たんだだわ)

 

武庫駅

 

分水嶺

 

「海陽亭」

 

カニ カニ カニ

 

シンポジウム

 

姫島線

 

 

 

HISTORY

第話

 また、この年の6月16日には、毎日放送が所有していた大阪・城見のOBPにあるシアターBRABAへ、「落語家生活三十周年 桂雀々十八番」を見に行きました。雀々さんとはMBSラジオの控室で何度かお会いして、顔見知りではあったのですが、それまで落語会には殆ど行ったこともなかったのに、この時には、なぜか行ってみようかと思ったのです。その理由の一つは「俺が雀々を大看板にしてやる!」と買って出たやしきたかじんさんが、ミュージカルを中心に演劇公演を行う1136席の大きなスペースで、果たしてどんな落語会をプロデュースされるのかということ、もう一つは、日替わりのゲストの中に、若村麻由美さんの名前があったことです。以前から、CS放送の「御家人斬九郎」などに出演されて、辰巳芸者の蔦吉を演じられているのを見る度、なんて和服姿の美しい人なんだろうと思っていたのです。どちらかと言えば、雀々さんの落語を聴くというより、若村さんを観たくて行ったようなものです。何せ2002年の手帳の裏には、土佐鶴のCMに出られた若村さんの芸者姿の写真を貼っていたのですから。

 満員の場内に入り、2階の最前列で、「こんちはコンちゃんお昼ですよ!」でお世話になっていたMBSの青木愛アナウンサーと、一緒に行った澤君に挟まれながら舞台を観たのですが、残念なことに舞台との距離があって若村さんの顔がよく見えないまま時が過ぎ、次第に「がまの油」、「仔猫」、「疝気の虫」の3席を演じた雀々さんの芸に引き込まれていくようになりました。

 次に雀々さんにお会いしたのは、たしか、2012年の2月26日のことだったと思います。場所は下北沢にある「アトリエ乾電池」という小さなスペースで、たしか「桂雀々 落語の広場」というイベントだったと思います。場所が分からず、結局タクシーでそこへ向かったのですが、早く着き過ぎて、ふとアトリエを覗くと、柄本明さんが自らモギリをやっておられていたので驚きました。雀々さんは、前年の11月に「大阪でやれることは総てやった、51歳でリセットして東京で勝負したい!」として上京をされたばかりの頃でした。雀々さんと柄本さんとの関係は、シネマフィルムの作品「天使突破6丁目」という作品で共演されたくらいしか分かりませんが、イベントの冒頭に柄本さんから雀々さんの紹介があって、およそ100人程の客を前に、雀々さんが「代書屋」と、創作の「いたりきたり」を演じられて、久々に健在ぶりを拝見することができました。帰り際にふと、前の席を見ると、北野誠さんが居られるのに気が付いて、ご挨拶させていただきました。この人も、この頃にはいろいろあって大変な時期だったのです。

 そして、2015月号8月10日には「5ℓ」(2015年10・11月号)で、雀々さんにインタビューをさせていただきました。場所は赤坂にある「重箱」でしたね。暑い中、鰻は如何なものかという思いはあったのですが、どうしても和風な場所でお会いしたかったのです。当時、「夢は2020年に、日本武道館での還暦独演会をやりたいことです」とおっしゃっていたように記憶していますが、翌2016年4月3日、桜の花が咲き誇った桜坂の先にある渋谷伝承ホールで開かれた「渋谷に福来るSPECIAL」を見に行って「代書屋」を聴き、トリを務めた自称「上手い系の」立川志らくさんより圧倒的に面白いことを確認しました。

 雀々さんはこの後、2017年にはTBSの高視聴率ドラマ「陸王」に出演、2018年2月18日には明治座で独演会、さらに6月22日には、芸能生活40周年記念公演を東京フォーラムで開いて「鷺とり」、「くっしゃみ講釈」などのネタを披露しました。そして今年(2019年)は、2月11日に大阪新歌舞伎座で独演会、次いで、3月21日の浅草公会堂公演を皮切りに、いよいよ全国ツアーをスタートされると聞いています。夢の実現まであと一歩、更にスケールアップした雀々さんを見ることが出来そうです。「必死のパッチ」で頑張って来た甲斐がありましたね、雀々さん。

 

 

シアターBRABA

 

若村麻由美さん

 

若村さんの写真を貼っていた手帳、ちなみに左は愛犬モモ千代

 

青木愛さん

 

アトリエ乾電池

 

 

 

5ℓ対談時のツーショット写真

 

渋谷の桜坂

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 さらにこの後、7月13日には「5ℓ」9月号のインタビューで笑福亭鶴瓶さんにお会いしました。場所は大阪・天満にあるOMMビルの会議室で、お目にかかったのは、フジテレビの「平成日本のよふけ」以来のことでした。

 鶴瓶さんは京都産業大学を出た後、6代目笑福亭松鶴さんの弟子となって、1974年にKGS京都の「丸物ワイワイカーニバル」でデビュー、78年からOBC日曜深夜にノースポンサーで、放送作家・新野新さんと始めたトーク番組「ぬかるみの世界」が次第に評判を呼び、80年には放送で呼びかけたリスナーが、5000人も新世界に集まる「新世界パニック」を引き起こす人気番組となりました。因みにこの番組に協賛でついたお好み焼きの「千房」は、番組の人気が上昇するにつれて各地に店舗を拡大していったと言われています。

 更に82年には、MBSTVで「突然ガバチョ」を始め、タクシー運転手に扮した鶴瓶さんが、ゲストと向き合わないでトークを交わす「つるべタクシー」や、日を「TVにらめっこ」のコーナーが評判を呼び、87年4月には上岡龍太郎さんとYTVでトーク番組「パペポTV」を始め、糸井重里さんのコピーが入ったポスターも話題を呼び、大阪城ホール(89年10月3日・92年5月13日)、や日本武道館(92年5月25日)でイベントを打つ人気番組となりました。そして、この番組のスタートと軌を一にしてフジテレビの「笑っていいとも」のレギュラーとなって、全国的な人気タレントとなっていったのです。

 こうして、日常の世間話をエンターテインメントの域にまで高める鶴瓶噺という独自スタイルを確立する一方、本業の落語家としても2002年9月には春風亭小朝さんの誘いで、国立劇場での「芸の女神が微笑んだ」にゲスト出演して、「子別れ」と「化物使い」をやり、2003年には、落語界の斜陽を憂う、小朝さんや、林家こぶ平(現9代目正蔵)さん、春風亭昇太さん、立川志の輔さん、柳家花録さんらと共に「六人の会」を結成して、有楽町読売ホールで「東西落語研鑽会」をやり、2004年からは「大銀座落語祭」をはじめ、2007年には都合5日間で3万5千人を集めたといいます。

 こうした経緯もあって、この年の10月27日から11月27日まで、第一回落語大秘演会「伊藤園 鶴瓶のらくだ」という全国規模の落語会が開かれることになったのです。場所は、福岡・嘉穂劇場、香川・金丸座熊本・八千代座、東京・歌舞伎座、愛媛・内子座、秋田・健楽館、京都・南座、大阪・松竹座という各地の名だたる大劇場で、8カ所で都合11公演を行うことになったというのです。タイトルに師匠の6代目松鶴さんの十八番のらくだを選んだのも、鶴瓶さんのこの会にかける意気込みの表れなのだと思います。

 「これは何としても見なければ!」と思い、ようやくチケットが取れたのが最終日の11月27日、この日は朝10時半から、(5ℓ、2008年1月号)高橋英樹さんのインタビューが高輪プリンスホテルであり、12時20分品川発の新幹線で新神戸へ移動、神戸オリエンタルホテルでの兵庫トラック協会主催の講演会を済ませて、新大阪駅に着いたのが午後6時過ぎ、開演まであと20分というタイミングで松竹座に滑り込むことができました。およそ2時間のステージでしたが、「らくだ」の他に、「青木先生」や「ALWAYS-おかあちゃんの笑顔」などの鶴瓶噺も聴くことが出来て、楽しい時を過ごすことが出来ました。それにしても、松鶴師匠の写真を大写しにして「もっと芸事に精進します」と涙声で誓われたシーンは感動的でしたね。

 以降ますます活躍されているのは喜ばしいことなのですが、どうして吉永小百合さんの映画から決まって声がかかるのかが不思議でなりません。サユリストではない私ですが、妬けますよね。

「5ℓ」での対談

 

 

 

 

 

京都産業大時には「あのねのね」のメンバーでした

 

 

 

新世界にこんなにたくさんの人が集まりました

 

 

 

 

 

つるべタクシー

 

コピーは糸井重里さんでした

 

「6人の会」

 

 

 

 

 

鶴瓶さんの葬式という設定から始まります

 

 

 

なぜか多い、吉永さんとの共演

 

「母べえ」(2008年)、「おとうと」(2010年)、「ふしぎ岬の物語」(2014年)、「北の桜守」(2018年)と4本に共演しています

 

HISTORY

第話

 また、なぜかこの年は、各地の祭りに出かけることが多かったように思います。まず最初に行ったのは7月25日、日本3大祭りのひとつ「天神祭り」でした。10年ほど前に某新聞社の船に乗ったのはいいのですが、ゴザの上での胡坐座りに足がしびれ、下船の際、うかつな事に靴を大川に落とした苦い経験があって以来、すっかりご無沙汰をしていました。ただ今回は椅子席とのこと。よもや前回の轍を踏むこともあるまいと招待を受けることにしたのです。船は最後尾の神事講乗り合い船43番船。幸いにも好天に恵まれ、勢い込んで早めに乗船したものの、出発まで1時間半ほどかかってしまいました。出していただいた弁当を食べ終わってもまだ50分ほどありました。

 約200人の客を乗せた船がようやく岸を離れたのは、暮れなずむ午後7時近くでした。講の代表の挨拶に続いて、大阪締めのリハーサル。「打ちましょ(パンパン)、もひとつせえ(パンパン)、祝うて3度(パパン、パンパン)」、まるで小学生のように、息が合うまで繰り返し練習させられました。それでも不満の声が出ないのは、さすが神事。神の前では、人はみな素直になれるのです。

 天神橋を離れた船は、大川を遡行して北へ。新淀川大橋の辺りでUターン、約2時間半かけて戻るのです。1000年を超える祭りの伝統美を今に伝える、全長5キロのコースは1953年に誕生したと言われます。元々は大川から堂島川、木津川へと進み、下流の御旅所を目指す船渡御列だったのですが、戦後の地盤沈下によって、船が橋を潜れなくなり今のコースに変更されたといいます。

 「はりげん連」の鐘・太鼓の「天満ばやし」が、止むことな船中に響き渡りました。行き交う船と大阪締めを交わし、橋や沿道から見る人たちと手を振り合う、とてもフレンドリーな大阪らしい光景を目にしました。 何より、鉄橋を通過するJRの列車までが、祭りの見物を促すかのように徐行運転をしていたのには驚きました。「さすが大阪!JRも粋なことをするじゃアーりませんか」。この年から倍に増やしたという1万発の花火を、遠目・近目に楽しみながら船を降りたのが9時半頃でした。

 そして翌週末には、妻とバスで東北へ出かけ、8月4日は青森で「ねぶた祭」を観ました。巨大な武者人形をかたどった19台の山車の美しさもさることながら、闇に溶け込む笛の音や、賑やかな手振鉦の囃に乗って、跳人(ハネト)たちの放つ「らっせ、らっせ、らっせらー」という掛け声が耳に響きました。更に、翌5日には「秋田竿燈祭り」。夜空に映える総計280本の竿燈が掲げられる美しさはもちろんのこと、高さ12m、重さ50キロの竿燈を、平手や肩、額に乗せて 型の美しさを競う男たちの姿に見とれてしまいました。

 続いて9月3日には富山県・八尾で「越中おわら風の盆」を見に、長良川の鵜飼いや白川郷、黒部ダムをめぐるツアーに参加をした中で訪れたのですが、1988年にNHK BS-1のギャラクシー賞受賞作「越中おわら風の盆」(作・市川森一、主演・松本幸四郎)というドラマや、1989年にレコード大賞に輝いた石川さゆりさんの「しのびあう恋 風の盆」で知られるようになり、哀調のある胡弓の調べに乗って、無言の踊り手たちが披露する町流しは人々を魅了して、「日本で一番美しい夜祭」と評判を呼んでいました。

 これとは逆に、勇ましかったのが、9月15日に訪ねた岸和田の「だんじり祭り」でした。元吉本系列の制作会社ITSに居て、当時、岸和田市の都市計画審議委員をしていた奥正孝さんの招きで訪れたのですが、何せ彼が生真面目な性格とあって、(有難い?)ことに朝4時半から行われる「山車の曳き出しから見た方がいい」と勧められて、関空近くのホテルに前泊をする羽目に陥りました。まだ夜も明けぬ朝4時に迎えに来られた奥さんと共に、案内された下野町に着いたのが4時半。2時間ほど居て、「だんじり祭りを見るためにマンションを購入した」というリッチな方の、カンカン場にある自宅特等席から、100mほどの2本の綱を500人あまりで引いて、街を疾走する重さ4トンの山車が、屋根に乗った大工方の指示で後梃子を使ってカーブをする、スリリングな「やりまわし」のシーンを観たのですが、あまりにも八尾と違う、男祭りの豪快さには驚きました。「所変われば品変わる」といいますが、日本は広いなと思いましたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

行き交う船と「大阪締め」を交わします

 

 

 

 

 

 

 

 

 

跳人(ハネト)

 

 

 

 

 

奥正孝さん

 

 

 

 

 

このベランダから見た「やりまわし」

 

岸和田では「一年の計は九月にあり」と言います

 

HISTORY

第話

 そうそう、忘れていました。「越中おわら風の盆」を見る前日、9月2日に、長良川で鵜飼見物をしたのですが、実は前年に妻の病気で断念をしていたいきさつがあったのです。以前から長良川の畔にあるホテルを講演で訪れる度に鵜飼の話を聞かされていて、予てより一度は見てみたいと思っていたのです。ようやく念願が叶い、朝7時発の「スーパーあずさ」で新宿を出発、塩尻に着いた後はバスに乗り換えて中山道から岐阜へ向かうことにしたのです。途中、木曽路の中で最も標高が高く難所といわれた、鳥居峠を控え、多くの旅人で賑わった「奈良井宿」や、浦島太郎が玉手箱を開けたと言われる「寝覚の床」を見た後、国の伝統建造物保存地区に指定されている妻籠宿にも立ち寄りました。高札場からの眺めは格別のものがあったように記憶しています。その後、蘭(アララギ)川を経て、長良川畔の町屋通りの一角にある宿泊先の「十八楼」へ入ったのは午後5時だったと思います。この十八楼は芭蕉が、「もし此楼に名をいはんとならば、十八楼ともいはまほしや」(「十八楼の記」)と名付けたいわれる江戸時代からの老舗旅館でした。部屋へ着くなり、さっそく天然温泉で汗を流し、早めの夕食を済ませて、浴衣のまま歩いて2・3分の船着き場へ向かいました。

 屋形舟に乗って涼やかな川風を浴びながら待つうちに、上流から鵜匠の掛け声とともに、かがり火に照らされた鵜舟が現れました。それにしても、河畔にそびえる金華山頂にある岐阜城と、かがり火に映える長良川のコントラストの美しさは見事なものでした。斎藤道三や織田信長もきっとこの景色を楽しんだに違いありません。現に信長は、長良川の鵜飼いを見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称を授け、鵜匠と同様に遇して各戸に禄米10俵を与えたと言われています。1890年、長良川畔の鵜飼は宮内庁の鮎漁の御漁場に編入されて、式部職である鵜匠に寄って行われています。風折烏帽子、漁服、胸当て、腰蓑、足半という古式ゆかしい装束に身を包んだ鵜匠が操る鵜は12匹。茨城県日立市の伊師浜海岸で捕獲された海鵜を、3年間トレーニングをして、デビューさせるのだといいます。社会人でも一人前になるには3年かかるという、マルコム・グラッドェルの唱えた「1万時間の法則」(1日10時間働くとして×365日×3年=10950時間)という法則がありますから、鵜のトレーニングもこれに合致したものかもしれませんね。

 かがり火でおびき寄せた鮎を鵜に飲ませるのですが、鵜の喉には友綱が掛けられていて、ある大きさ以上の鮎は飲み込むことが出来なくなっていて、鵜匠はそれを吐き出させて穫るというのです。友綱の巻き加減によって漁獲する鮎の大きさを決め、それより小さい鮎は鵜の胃袋に入るのですが、いつも友綱を掛けたままだと、さすがの鵜もやる気を失ってしまうそうで、時々は休養を与えなきゃいけないと言います。

 これを聞いて、「何やら我が身に似ているな」と思わざるを得ませんでした。気持ちよく寝ていたら、かがり火でたたき起こされ、大きい餌は吐き出され、小さな餌だけをチョロッともらえる。もしかしたら、「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」と詠んだ俳聖の松尾芭蕉も、そんな悲哀を感じていたのかもしれませんね。

 聞けば、島根県益田市には、日本で唯一、鵜に友綱を掛けない「放し(放ち)鵜飼い」があると聞きましたが、調べると、結局これも綱を掛けないだけで、鵜の喉に鮎が溜まった頃を見計らって、鵜匠が鮎を吐き出させるのだといいますから、何も変わらないことが判明し、無性に鵜という鳥が愛おしくなりましたね。

特急あずさ(ちなみに狩人は乗っていませんでした)

 

奈良井宿

 

寝覚の床

 

 

 

妻籠宿

 

十八楼

 

十八楼の温泉

 

十八楼の記

 

金華山と長良川

 

 

 

長良川鵜飼 こんなに近くで見られます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 7月号の北大路欣也さんに続いて、8月10日に「5ℓ」10月号のインタビューをさせていただいたのは、同じく東映で活躍された菅原文太さんでした。市川歌右衛門御大の御曹司としてデビューされ、15歳の時に「少年三国志」で主役を務められた北大路さんとは違って、菅原さんは、いわばノンキャリアのたたき上げ。名門仙台第一高校を出て、北大路さんと同様に早稲田大学に入り、劇団四季1期生にはなったものの、学費が払えずに2年で大学を中退、1957年に岡田真澄さんらと、日本初の男性モデルクラブ「ソサエティ・オブ・スタイル」を設立していたのですが、58年に喫茶店で新東宝の宣伝部の方にスカウトをされて入ってはみたものの、マイナーな作品が多く、61年に新東宝はあえなく倒産。その後、松竹に移籍しましたが女優主体の会社とあって、回ってくるのは脇役ばかり、67年に東映に入り脇役からスタートをして、ようやく主役を務めることが出来たのは、69年、菅原さんが33歳になった年に製作され、後の実録映画の先駆けとなった「与太者の掟」という作品でした。

 菅原さんは、その後、73年からの「仁義なき戦い」や、75年からの「トラック野郎」という、日本映画史に残る配給収入を記録した2つのシリーズ作品で主役を務め、ようやく東映を代表するスターの一人に挙げられる存在となっていったのです。以降80年にはNHK大河ドラマ「獅子の時代」、81年には映画「青春の門」(東宝)、「炎のごとく」(東映)でも主役を務める一方で、88年には居を岐阜県大野郡(現高山市)の清見村の別荘に移して、幅広く活躍をされていたのですが、2001年に俳優でもあったご長男を事故で亡くされ、落胆の余り一時は引退も考えられたといいますが、03年のTBSドラマ「高原へいらっしゃい」で復帰、東映の「私のグランパ」では9年ぶりに最後となった主役を務められました。

 私はこの年、2007年の2月から放送されたTBSのドラマ「ハゲタカ」で、大空電気会長の大木昇三郎を演じられた菅原さんの重厚な演技を見てはいたのですが、頭の中には、むかし映画館で見た「仁義なき戦い」で、広野幸三を演じた菅原さんが、「広島の喧嘩いうたら トルかトラレルかの 二つしかありゃあせんので!」と相手に迫るシーンの方が鮮烈に残っていたこともあって、お目にかかるまで「果たしてどんな方だろう?」と幾分ビビっていたように思います。

 インタビューをさせていただいた場所は、日比谷にあり、「森のレストラン」とも呼ばれる松本楼でした。皆で緊張して待つなか、「よっ!」と片手を上げて一人で現れた菅原さん。「よろしくお願いします」とご挨拶を交わしながら、ふと足元を見るとなんと下駄。おかげで写真には上半身だけしか撮ることが出来ませんでした。インタビューにはきちっとお答えいただいたのですが、最後に表紙写真を撮る際、次々にポーズを要求するカメラマンに「もういいだろう!」と打ち切られた時には、大スターの貫録を感じましたね。この時に撮影を担当していただいた瀬戸正人さんは、96年に木村伊兵衛賞を受賞された著名な方だったのですが、どうやら菅原文太さんの前ではそれも通らなかったようです。

 そういえば、むかし横山やすしさんがCM撮影の際に、何度もポーズを求めるカメラマンに「お前もプロやったら、1枚で決めろ!どうせ1枚しか使わへんねんから!」とキレていたことがありましたねえ。その際は、「まあまあ、カメラの人にも、都合ってものがあるんですから」となだめたように記憶していますが、さすがに菅原文太さんにそうは言えず、下駄の音と共に去っていかれる菅原さんを、ただ見送るばかりでした。

 そんな菅原文太さんも、2014年には81歳で亡くなりました。次いで、後を追うかのように、翌2015年には「トラック野郎」で共演された愛川欽也さんも80歳で亡くなったのです。たぶん今頃は、先(2011年)に亡くなられた天尾完治プロデューサーや、同じ2014年に亡くなった鈴木則文監督と4人で、「1番星」こと星桃次郎と、「やもめのジョナサン」こと松下金造に戻って、雀卓を囲みながら、思い出話に花を咲かせておられるのではないでしょうか。

モデル時代

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北大路さんとのシーン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハゲタカ」

 

松本楼

 

対談シーン

 

瀬戸正人カメラマン

 

鈴木則文 監督

 

デコトラ