木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 6月20日のレギュラー番組「もっともっと関西」のテーマは何と、「定年夫婦の生き方・暮らし方 ~夫と2人きり!これはもう恐怖です~」(青春出版社刊)を出され、熟年夫婦の直面する様々な問題を語れる先輩として、中村メイコさんがコメントをされるようです。ご挨拶を兼ねて控室でお話をさせていただくと、何と、私より一回り上の戌年で、しかも5月生まれだということが分かりました。メイコのメイはMAYだったのです。映画初出演は「フクちゃん」、何と2歳半の時で、テレビには戦前の実験放送の時から出演されていたといいますから、まるで放送界の生き字引のような方でした。「田舎のバス」や「パルナス」のCMソングは今も私の耳に残っています。そんな伝説の方とご一緒できるなんて、こんな幸せなことはありません。

 聞けば、熟年夫婦の理想のように見えるメイコさんにも、ご主人(神津善行さん)との間に離婚の危機があったと言いますから、分からないものです。えっ私?私は大丈夫・・・だと思いますが、そう思っているのは私だけかもしれませんね。

 そしてこの後、7月3日には、朝10時から、「世界の中の日本・30人委員会」に参加するため、外務省を訪ねました。塩崎外務副大臣の主催で、各界の有識者を招いて、国際社会での日本の存在感や発言力を高めるための課題について議論すべく開かれたものでした。お誘いをいただいた際には気軽にお受けしたのですが、参加されたメンバーを見て、「行くのを辞めよう」と思った程に、著名な方々の名前が連なっていました。怯む気持ちもあったのですが、「いくらなんでも、お受けしたからには1度くらいは顔を出さないとまずいだろう」と覚悟を決めて、出席をさせていただいたのがこの日だったというわけです。

 とはいえ、皆さんお忙しい方ばかりとあって、この日出席されたのは約半数くらいだったように記憶しています。会議は定番通り、副大臣の挨拶から始まって、局長の進行で順次発言。この辺りは農水省や環境省で経験済。議論の行方を見定めるため、発言はできるだけ後半にしようと決め、後出し作戦を取ったのです。議論の行方がどうやら「存在感(プレゼンス)を高めるためには、国家としてのアイデンティティづくりが肝要」という方向に収斂されつつあるのを確かめて、「外務省は、国のイメージに責任を持つ必要がある。企業が信頼関係や正当な評価を受けて行うIR活動のようなものを担うべきで、そのためには、外務省という名前さえも変えてもいいのでは?」と話させていただきました。時計を見ると、閉会15分前、まさに、「ぎりぎりセーフ」というタイミングでした。

 都合5回に亘って開かれた委員会の議論は、9月に政策提言「リーダーシップをもつオープンな日本へ」という形で取りまとめられました。そうそう、参加されたメンバーを見直すと、今話題のカルロス・ゴーンさんの名前が入っています。残念ながら私が参加した際に来られていたのかどうかは憶えてはいないのですが、もし、お目にかかっていたら、91年に国立競技場で開かれた世界陸上の際に、優勝したカール・ルイスさんに向かって「ヘイ!カール」と呼びかけた長嶋茂雄さんに倣って、「ヘイ!カルロス!」と声を掛けていたかもしれませんね。もっとも、私には、声掛けの冒頭、「See you again」という別れの言葉から始めた長嶋さんほどの技量は、ありませんけれどね。

 次いで7月7日には、クラブ関西で開かれた「民放連番組審査会」に出席。この日は関西地区のラジオ・生ワイド番組の審査ということもあって、朝の10時から午後5時まで、さらにその後、隣の全日空ホテルで開かれた懇親会まで加えると7時半まで、実に9時間半という長丁場になりました。選ばれたのは確か、エフエム京都(アルファ・ステーション)の「MORNING KYOTO」だったと思います。長時間にわたった審査のなかで、共に審査員を務めた、漫画「忍たま乱太郎」作者の尼子騒兵衛さんとお話をさせていただくうち、「おいくつですか?」と尋ねると,「くの一に年齢はありません」とあっさりと躱されてしまいました。それにしてもよりによって七夕の夜7時半に、北新地のど真ん中で解放されて、「一体どうせえちゅうねん!」と恨を込めて、夜空を見上げたのを憶えています。

中村メイコさんと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尼子騒兵衛さんと忍たま乱太郎

 

 

 

織姫と彦星

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これも長嶋語録のひとつです

 

HISTORY

第話

 次いで、7月28日には同じ民放連東京地区審査会のため東京へ。今度はテレビ・エンターテイント番組部門の審査で、審査員は私の他に、エッセイストの飯干景子さんと、立教大学でメディア社会学を教えておられる是永論さん。午後1時からTBS会館15階にあるBS-i(現BS-TBS)の会議室で始まった審査会は、ほとんど紛糾することもなく、私と飯干さんが推したBSジャパンの「ムンクを奪還せよ!『叫び』回収までの84日間 おとり捜査官チャーリー・ヒルの挑戦」が選ばれ、3時に終了したのですが、大変だったのは準備の方でした。1週間ほどの間に、地上波とBSを合わせて10番組を見なければいけなかったのです。しかもその間講演が4回、更にテレビラジオ出演や「5ℓ」の次回ゲストの下調べや打ち合わせなどもあって、結構働かせていただきました。

 テレビ番組の審査となると、ボケーっと見ているわけにもいかず、逐一メモを取りながらの作業となり、結構ストレスがかかります。まあ、それでも各局の力作を見られて、おまけに審査料や、高級料理店「ざくろ」の弁当までいただけたのですから、「よし」としなければいけないのかもしれません。

 さらにこの後、8月2日に関西地区のテレビ番組審査会が新阪急ホテルであり、6番組を見たのですから、都合3日間で26番組、総計2158分、ほぼ36時間を費やしたことになりますが、制作された方々の熱い思いを考えると、映像や音声を飛ばすのは失礼にあたる気がして懸命に視聴はさせていただいたものの、さすがに疲れました。総じて言えることは、著名なタレントや、予算をふんだんに使った番組よりも、制作者の明確な意図がはっきり見えた番組の方が、人の心に届くという、ごく当たり前のことでしたね。

 そうそう、動き始めた「5ℓ」を軌道に乗せるため、眞邊君に代わって「ライフエンタテイメント社」の社長として高野壽征さんに来ていただいたのは、この6月、写真家の荒木経惟さんが表紙の、「5ℓ」7月号を制作している頃でした。高野さんは、2003年から広告代理店「大広」の代表取締役専務を務め、この前年から系列の「大広エキスパート」の代表取締役社長をされていたのですが、我々の誘いに乗って、いま一度チャレンジすることを決めていただいたのです。高野さんは、当時たしか63歳でしたから、私より3歳ほど上になりますね。さすが大広時代に、営業統括・国際担当をされていただけに、押し出しも強く、実に頼もしい方に参加していただき、大学の部活動でいえば、「これで、今までの同好会から、ようやく正式の体育会に昇格できるな!」と安堵しました。 

 さらに、このタイミングに合わせるかのように、この8月号からジョインベスト証券さんから広告出稿をいただくことが決まりました。この会社は、野村證券が既存のネット証券への対抗策として2005年に100%子会社として設立されたインターネット証券会社で、あえて、「野村」の名を付けず、株式投資に、楽しんで(JOY)、参加して(JOIN)、投資する(INBEST)という意味でこの社名にされたのだといいます。漫画でわかりやすく株情報を提供する「株LOVE夫婦・夫婦仲よくネット株ライフ」は、初号こそ28ページの別冊付録という形を取りましたが、次号からは見開きの2ページを使って掲載しようということになり、ご挨拶のため、高野さんと共に、品川駅港南口にあるジョインベスト証券へ福井正樹社長をお訪ねしたのは、6月19日のことでした。

飯干景子さん

 

是永論さん

 

 

 

 

 

 

 

睡眠時間は固定費です

 

 

 

 

 

高野さんを迎え、気合いを入れ直すスタッフ一同

 

 

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 「5ℓ」9月号の巻頭インタビューのために、瀬戸内寂聴さんを京都・嵯峨野にある「寂庵」へ訪ねたのは7月25日のことでした。予定より30分歩で早く着いたのですが、もうスタンバイされていて、緊張気味の我々を気遣うかのように、「暑いから上着を脱げば?」「お茶を飲めば?」と声を掛けていただきました。蚊に刺されながら伺ったに話の中で、時折見せられる「いたずらっ子」のような笑顔がとてもチャーミングな方でした。「私が仏に近づいたのではなくて、仏が私を引っぱり寄せた」とおっしゃっていましたが、仏様だって、こんな魅力的な女性を放っておかれるわけはないと思うほど、説得力がありましたね。

 31日には、東京パレスホテルで、日本大学総合科学研究所教授の高木美也子さんと「婦人公論」の対談をさせていただき、「人もエネルギーもバージョンアップしていかなきゃいけない」という話になったのですが、4年間パリ第7大学院に留学された高木さんから「イッツ・オールドというと日本ではマイナスのイメージで捉えられがちですが、ヨーロッパではカッコイイ、値打がある、本物だという意味になる」と教えていただきました。

 さらに、8月7日には「5ℓ」2007年2月号予定の角川春樹さんにインタビューをさせていただきました。自らが俳句誌「河」を主宰されているお立場から、「要は何を詠むかということです。詩人、俳人のほとんどが、生き方を見てもチャッチイんですよねぇ、そんな人間が深い句を詠めるわけはないんですよ。なにを詠むかの『なにを』がないから、どうしても技術論に走ってしまうんです」とおしゃっていたのが印象に残りました。そうそう、「モットーは?」とお伺いした際には、「仕返しと、お返しは早い目に!」とおっしゃっていました。「OH怖!」と思いつつ、「さっそく、どこかで使ってみよう」と思い、しっかりノートにメモったのを憶えています。

 続いて、翌8日には、内堀通り、国立劇場の隣にある「ホテルグランドアーク半蔵門」で、2006年10月号用の志村けんさんのインタビュー。この辺り、結構スケジュールが立て込んだのですが、ゲストにお願いしようと考えた方のスケジュールを優先した結果で、それ自体は止むを得ないこととはいえ、インタビューをさせていただく身としては、資料を読み込む時間を割くのに結構苦労をした記憶があります。志村さんとお会いするのは初めて。予想していた通り、シャイで真面目なお人柄で、「扮装でもしないと、照れるんですよね・・・」との言葉通り、タバコをくゆらせながら静かに語っていただきました。マックボンボンの時代から、ドリフに入って付き人時代をしていた頃に食えなくて、ドリフのメンバー5人の食べ残しのラーメンを集めて食べた話から、「志村けん一座」を結成された理由などをじっくりと伺いました。

 そして、夫婦恒例の夏休みツアーを迎えたのですが、この年は17日から22日まで、以前から興味があったものの、なかなか訪れる機会がなかったロシアへ行くことになりました。モスクワとサンクトペテルブルクの2カ所だけを訪れる5泊6日のツアーで、気温もモスクワが11度~23度、サンクトペテルブルクが10度~23度と温かいこのシーズンがいいと思ったのです。今となってはサンクトペテルブルクでは、3時間を費やしたエルミタージュ美術館やエカテリーナ宮殿、モスクワではトロイツエ・セルギエフ大修道院と赤の広場くらいしか覚えていませんが、問題が起こったのは帰国して3日ほど経ってからのことです。大阪の北新地のクラブで知人と談笑している私に、東京のせんぽ病院(せんぽ高輪病院)の医師から電話が入り、「奥さんが腹痛で救急入院して、診断したところ、どうやらサルモネラ腸炎の疑いがあるので、手術しなければならいので、了解をいただけますか」ということだったのです。思い当たるふしといえば、最後の夜、モスクワのラディソン・スラビヤンスカヤ・ホテルの「Sumosanレストラン」で食べた、ウニの軍艦巻きに添えられていたウズラの卵しかありません。ただすべて2巻ずつオーダーして夫婦でシェアしたはずなのにと思いつつ、後にこれが禍根を残すとも思わず、「どうぞよろしくお願いします」と答えたのです。

 結局妻が頑強に拒んだこともあって、手術をしないで治癒したのですが、今でも事あるごとに、この話を持ち出して私のことを「薄情者」と罵るのは困ったものです。2人とも同じものを食べて、私は何もなかったのに、妻だけが災難にあったのは、よほど彼女の運が悪かったのか、それとも私の普段の行いが良かったのかの何れかだと思うのですが。

寂庵にて

 

 

 

 

 

 

 

ホテルグランドアーク半蔵門

 

 

 

エルミタージュ美術館

 

エカテリーナ宮殿

 

エカテリーナ宮殿でトランペットを吹く私

 

トロイツエ・セルギエフ大修道院

 

赤の広場

 

せんぽ病院

 

ラディソン・スラビヤンスカヤ・ホテル

 

 

 

こんな感じ・・・

 

HISTORY

第話

 そんな騒動の中、「5ℓ」11月号のため、十朱幸代さんのインタビューに臨んだのは8月23日、場所は世田谷の砧公園にある「ル・ジャルダン」というフレンチレストランでした。たしか、文化放送の喫茶で打ち合わせをしている際に、聞き覚えのある声がして、声のした方へ目を遣るとなんと十朱さん。即座にお願いをして出ていただくことになったのです。私にとっての十朱さんといえば、やはり子供の頃に見ていた「バス通り裏」の元子さん。1958年から63年までNHKで夜7時15分から30分まで、月~金で(60年からは月~土)で生放送され、日本の帯ドラマの魁となったホームドラマでした。カラーテレビが普及したのは1964年の東京オリンピック時でしたから、憧れながらモノクロ画面に映る元子さんに見入っていたように思います。1960年5月1日に創刊された広報誌「NHK」(後にグラフNHK、現ステラ)の表紙を十朱さんが飾ったことをみれば、彼女が、NHKの健全なイメージを代表するタレントさんだと評価されていたのだと思います。

 時は流れて、たしか1984年のことでした。東映京都撮影所の奈村協プロデューサーから、宮尾登美子さん原作の「櫂」という作品に島田紳助さんをブッキングしたいというお話をいただいたのです。「櫂」は82年に映画化された「鬼龍院花子の生涯」、83年の「陽暉楼」と共に、宮尾さんの高知三部作と称された作品で、監督・五社英雄さん、脚本・高田宏治さんの手によって東映で映画化された重厚な作品でした。「櫂」は、いわばその掉尾を飾る作品で、主演が緒形拳さんと、十朱幸代さん。紳助さんにオファーをいただいた役は、石原真理子さんが演じる菊という女性に思いを寄せながら、菊の雇い主である女衒の親分、緒形拳さん演じる富田岩伍の目が怖くて言い出せない魚屋の竹市という若者の役でした。本当は、この重厚な作品で、もっと重い役にとも思ったのですが、売れっ子の彼のスケジュールを考えると、余り時間を割くことも出来ず、この役で折り合うことにしたのです。

 そこで、奈村さんに一つ交換条件を出しました。新喜劇に出ていた片山理子というタレントを出して欲しいとお願いしたのです。どう考えても新喜劇には向いていないように思え、83年から大映テレビの野添和子プロデューサーにお願いして、オーディションを大阪のNSCで行っていただいてTBSの「スチュワーデス物語」に出演、東京でマネジメントをするようになっていたのですが、ここらで映画を経験しておくのも無駄にはならないと考えたのです。さっそく本人を呼び、その旨を伝えたあと、「十朱さんのサインをもらってくるように」と密命を下しました。思えば、生涯でタレントさんにサインをお願いしたのはこの一度だけでのことです。ご当人にお話をしても、全く覚えてはおられませんでしたが、目の前にいらっしゃる十朱さんは、嘗て私が憧れた姿のままに優美な方でした。意外だったのは、戦時中にお祖父さんを頼って東京から奈良へ疎開をされていて、その際に同じ奈良に疎開をされていた中村メイコさんと交流があったというエピソードをお伺いしたことです。過日お目にかかった中村メイコさんと共に、くしくも、テレビ創世記から活躍されているお二人の方にお会いできたというわけです。

 片山理子さんは、その後86年に、木村一八主演のフジテレビ月曜ドラマランド「おさわがせ剣士・赤胴鈴之助」などに出演しましたが、芸能界から身を引き、東洋英和女学院へ入り、卒業後はロンドンへ留学して、帰国後はティー・セミナーを開いていると聞きます。

「ル・ジャルダン」

 

 

 

「バス通り裏」のワンシーン

 

右は当時の十朱さんと、左は岩下志麻さん

 

広報誌「NHK」の創刊号

 

 

 

奈村協さん

 

 

 

当時の片山理子さん

 

(木村)MISSION : IMPOSSIBLE ?

(片山)I'M POSSIBLE !!

 

「スチュワーデス物語」

 

原作は深田祐介さんでした

 

HISTORY

第話

 この後しばらく、各地での講演や、テレビ・ラジオ番組の出演、コラムの執筆、更に8月29日には農水省のご飯食テレビ番組審査会、9月7日にはEOY審査会に出席。更に、「5ℓ」関連の打ち合わせなどの合間を縫って、東京に居る時は、妻を「高輪せんぽ病院」へ見舞いに通い、大阪にいる時は、母を楠葉の「佐藤病院」へ見舞いに行く多忙な日が続きました。

 そんな最中、たしか、9月17日のことだったと思いますね、悪夢のような日が訪れたのは。吉本興業時代の後輩、大谷由里子さんの2度目の結婚式が、東京ディズニーシーのホテル・ミラコスタで開かれたのです。実は昨年の末に彼女から再婚する旨を伝えられ、京都のお茶屋さんにフィアンセ共々招待をして、芸妓さんや舞妓さんと共に仮祝言の宴を催して、「これで義理は果たせた」と安心していたら、結婚式の案内が届いたというわけです。

 聞けばこのカップル、この日の他に、長崎や東京、ラスベガスでもパーティを重ねていたのだとか。おまけに、集大成としてこの日を設定するなんて、まるで、新手の結婚詐欺のようなものだったのです。「普通、2回目ともなればもっと細やかにやるだろう!」、最初の結婚式の際に、奈良ホテルで4時間も拘束された苦い思い出と、今回を合わせて2度も祝儀をふんだくられるという腹立たしさもあって、返事を渋っていると、矢のような催促、とうとう根負けして出席せざるを得ない羽目になりました。

 新郎新婦はともかく、チャペルで行われた挙式は神父ではなくメイヤーが執り行い、シンプルさの中にも、エンターテインメント性に溢れたものでした。続いて催された披露宴でもディズニーらしさがたっぷり。私が座った席はミッキーマウス、他にもミニーマウスやドナルドダックやピノキオ、グーフィーなどキャラクターの名前が付いた席があったように思います。メインテーブルの前にはショーエリアが設けられていて、ミッキーマウスとミニーマウスがオリジナルライブで2人の門出を祝福するという趣向が凝らされていました。

 何より良かったのは、新婦の友人のコーラスや、親戚のオジさんの詩吟など、いつも辟易する出席者のかくし芸がなかったことです。2人合わせて85歳のカップルが、てらいもなく見せた幸せそうな顔を見ながら、今日のところは、ミッキーに免じて許してあげようと思いつつ、帰りのタクシーに乗り込みました。

 月が改まって、10月1日には広島国際会議場で、中国新聞と朝日新聞共催で開かれた合同就職ガイダンスに出席をして、400名ほどの学生さんの前で、「なんで新聞社を落ちた私が?」と思いながら、他の論者の方々と共に、パネルディスカッションをさせていただきました。

 大変な思いをしたのはこの後です。かつて渡辺プロにいた中井猛さんから、13日に開かれる伊藤忠グループ経営会議で、28人のグループ会社の社長を前にした講演を依頼されていたのです。中井さんは私と同じ大学の出身で、同学年。69年に渡辺プロに入社後、ロック・セクションの「NONSTOP」を立ち上げ、スターキングデリシャス、ゴンチチ、アン・ルイス、山下久美子、大澤誉志幸といったアーチストを輩出した後、88年に独立をして、「ヒップランドミュージック」を設立、89年から伊藤忠マルチメディア・カンパニーの主導で始められた「スペースシャワー」の取締役エグゼクティブ・プロデューサーを務め、2000年からは、伊藤忠本社の役員になられた篠木廣幸さんの後任として「スペースシャワー」の社長になっておられたのです。音楽のことなど分からない私ですが、既存の仕組みを超えて、新しいチャレンジをされ続けられている中井さんに多々学ぶところがあって、時折食事をさせていただいていたこともあり、お断わりするわけにはいかなかったのです。

 伺うところでは、何でも28人のグループ会社の社長が、順にスピーカーの候補者を出さなければならず、今回は中井さんにその順が回ってきたというのです。「こんな私でいいのか?」という思いはあったのですが、断るわけにもいかず、已む無くお引き受けすることになりました。場所は、たしか六本木の「ノビルデューカ」という名前の店でした。いつものように多人数に対面して話すのではなく、コの字型に座った、少人数に取り囲まれて90分間の話をするやり難しさを実感しました。話し終えてからの質疑応答時に、そんな心中を察してか、代表取締役会長の丹羽宇一郎さんから、あえて柔らかいご質問をしていただいて、ホッとした気分に戻ったのを覚えています。丹羽さんは、かつて債務超過に陥った伊藤忠をⅤ字回復させた、誰もが認めるエグゼクティブでありながら、気さくなお人柄で知られ、社長になられてからも「黒塗りの車に乗っていたら、社会からズレてしまう」と電車通勤をやめられなかったといいます。そんな素敵な方にお目にかかれただけで、次の場所に向かう足取りが軽くなったのを憶えています。

前年に京都のお茶屋で祝宴を挙げた時

 

 

 

 

 

 

 

かと疑ったのですが・・・

 

こんな風に幸せそうな様子を見て

 

 

 

中井猛さん

 

「ヒップランドミュージック」

 

 

 

会場となった「ノビルデューカ」

 

丹羽宇一郎さん

 

HISTORY

第話

 また、10月16日にはキャピトル東急ホテルで、「(株)イ―ウェル」さんと「5ℓ」が共催した、「50代からの人生をワクワクに!~木村政雄の夢中セミナー~」が行われました。イーウェルさんは、東急不動産・住友商事・トヨタグループの豊田シスコムを株主に、2000年に設立された、福利厚生のアウトソーシング事業を目的にした会社で、「5ℓ」を発行するライフエンタテインメント社に出資いただいていたパートナーでもありました。およそ80名ほどの参加者を相手に、「第2の人生を叶える旅」というタイトルで私が講演をして、2部でグループ別に分かれて、「皆さんの夢を教えてください」というワークショップを行い、3部でセミナーのまとめとして、夢の発表、表彰式と懇親会を行うという内容だったように記憶しています。

 次いで10月23日には、11月4日から、新たに始めることになったラジオ番組の収録のために文化放送を訪れました。タイトルは「木村政雄の楽園計画」、サブタイトルに「50代からの人生をワクワクに変えるお手伝い番組」と付けたように、ターゲットを大人に絞ったもので、いわば、私が編集長を務める「5ℓ」のラジオ版ともいえるものでした。放送時間はたしか土曜日の午後7時からの30分だったと思います。スポンサーにはジョインベスト証券さんに付いていただくことになりました。

 「蟹瀬誠一のNEXT」や「やる気MANMAN!」でお世話になっていたこともあって、首藤さんにお話をして、番組のプロデューサーに中根義雄さんが就いていただくことになりました。中根さんは、80年代に聴取率が低迷していた午後の時間帯を強化すべく、87年に夜のワイド番組「てるてるワイド」で人気を博していた吉田照美さんをメインパーソナリティに、深夜のノリでふざけた企画を行う「やるMAN」を立ち上げ、20・30代の男女からの支持を得て、93年には同時間帯トップに立ち、2007年の終了時までV55を達成する礎を築いた方で、96年からは、今も続く「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」というNRN32局ネットの平日10分ベルトの人気番組をプロデュースされた伝説の方でもありました。

 首藤さんを交え、中根さん、ライターの原さんらと、番組のあらましを打ち合わせたのは、たしか10月10日、青山の浪漫亭だったと記憶しています。この日の打ち合わせで番組を2つに分け、前半はCLUB-50というゲストトーク、後半は「楽園メール」というリスナーからのお便りを紹介するコーナーにして、私のお相手を務めていただくのが、石川真紀アナウンサーになることが決まりました。ゲストブッキングは文化放送さんにお任せをして、第1回目のゲストにお迎えさせていただいたのが片岡鶴太郎さんだったのです。

 物まねからスタートし、テレビのバラエティ番組で人気者になった後、俳優に転身、確固たる地位を築く一方で、画家としても高い評価を受け、長野オリンピックでは中継スタジオのアートアドバイザーを務め、群馬県の草津市や、石川県の山中、佐賀県の伊万里に、美術館や工芸館を開かれていました。意外なことに、お話をするのはこの時が初めてだったのですが、そんな不安をよそに話は大いに盛り上がりました。「オレたちひょうきん族」の話や、ボクシングに挑戦されたきっかけなど伺ううちに、急遽2週にわたって放送することになりました。

 爽やかにスタジオを去っていく鶴太郎さんをスタッフと共に見送った後、次のコーナーの収録。秋田出身の石川真紀アナウンサーに、「京都の紅葉の名所は?」と尋ねられ、「高尾か、東福寺」と、京都生まれにしてはありきたりな答えしか返せなくて、悔いが残り、京都に帰った際、タクシーの運転手さんに訪ねたところ、大徳寺の高桐院、大原の阿弥陀寺、長岡の光明寺、詩仙堂・・・」と、留まることなく続く言葉をさえぎって聞くと、観光タクシーのベテランだったのです。その後も「京都の紅葉には緑オレンジ赤黄色のグラデーションがある」「紅葉を美しく見るには午前は西に、午後は東に太陽を受けるように立つのがコツ」など、車内がすっかり紅葉講座となってしまい、どっと疲れたのを憶えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

四ツ谷にあった頃の文化放送

 

 

 

文化放送の石川真紀アナウンサー

 

片岡鶴太郎さんと

 

HISTORY

第話

 11月8日には、大阪国際交流センターで開かれた「21世紀ジャーナリストフォーラム2006」で、講演をさせていただきました。テーマは「グローバル社会における『関西力』の伝播 ~今、メディアに求められるもの~」という何とも大仰なもの。私が受け持つ基調講演が25分、しかもその後、2時間半も行われるパネルディスカッションにも付き合わなきゃいけないという事で辞退しようかとも思ったのですが、どんな人が来られるのかという興味もあってお引き受けしたのです。

 概観したところ、およそ200人ほどの聴衆のうち、一般招待の50人以外はジャーナリストや自治体の関係者ばかり。「さぞかし固い雰囲気やろな?大体25分で何をしゃべれっちゅうねん!おまけに、私は新聞社を落ちた人間なんやで・・・」と複雑な想いを胸にステージに立ちました。ただ、そこはプロ(誰がプロやねん!)、出てしまえばそこは何とかなるもので、時間の寸法にやや戸惑いつつも、何とか無事にノルマを果たすことは出来ました。

 ひたすら真面目に進行されるコーディネーターのYTVの道浦俊彦アナウンサーのもと、真摯に対応される、韓国中央日報駐日特派員の金玄基さん、産経新聞東京本社論説委員長の千野境子さん、読売新聞大阪本社常務取締役編集局長の河内鏡太郎さんのお三方をよそに、私と朝日放送制作局局長・プロデューサーの松本修さんの2人だけはウケ狙いに走っていたように思います。決して不真面目ということではないのですが、ことさらに真っ当な意見を吐くことに衒いを感じてしまうのかもしれません。

 この辺りが、横浜生まれの千野さんや、東京生まれの河内さんと、滋賀生まれの松本さんや、京都生まれの私たち関西人との違いなのかもしれません。それとも、物事を論理的に捉える活字の世界の人と、エンターテインメントの世界に身を置く人間の違いなのでしょうか。ともあれ、松本さんに居ていただいて幸いでした。でなければ、私が一人でボケ役を務めなければいけないところでしたから。

 「5ℓ」に話を戻しますと、12月号には愛川欽也さんにご登場いただいたので、新年第1弾はビジュアル系にしようということで、鳳蘭さんにご登場いただくことになりました。12月2日、会場となった渋谷のセルリアンタワー東急ホテルでお待ちしていると、颯爽と現れた姿は、往年のヅカガールそのまんまで、とても私より4ヶ月歳上とは思えない輝きを放っておられました。やはり、スターは違います。鳳さんは神戸の塩屋のお生まれだけに、会話が自然と関西弁になり、大いに弾んだものになり、心地よく対談を終えることができました。

 さらにこの年には、高野社長の営業手腕もあって、日立製作所さんから特別号を出していただくことになりました。この年は、日立さんが日本独自の技術で製作されたテレビ1号機の「14型白黒テレビF-100」を生産されてちょうど50年、その上、この年に「50V型ハイビジョンプラズマテレビWooo」を発売されるということもあって、地上波デジタル放送が全国をカバーするようになる12月1日にリリースしようというもので、部数はおよそ30万部くらいだったように思います。

 内容は、矢沢永吉さんと志村けんさんのスペシャルインタビュー、藤本義一さんや、赤瀬川源平さんのコラム、横尾忠則さんのページなどは「5ℓ」のままで、後は日立さんの「テレビ50年の歴史」や「木村政雄テレビを語る」というページを加えるというもので、たしかタイトルは「5ℓ & Wooo」にしたと思います。もちろん、この日以来、我が家でもこの日立製のテレビを置かせていただいたのは言うまでもありません。

 加えて、12月27日には、翌年20周年を迎えられる「プルデンシャル生命保険」さんからの特別号のご依頼をいただき、冒頭のスペシャルインタビューで三森裕社長にお話を伺いました。いつものことながら、ホスピタリティに溢れたお人柄に触れ、気持ちよくインタビューを終えることが出来ました。こうして、徐々にではありますが、「5ℓ」の先行きに明るい気配を感じることが出来るようになっていったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳳蘭さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明るい兆しが・・・

 

HISTORY

第話

 「えっ、これってぎっくり腰?」朝ベッドから起き上がる時、あまりの痛さに思わず顔をゆがめてしまいました。2カ月ぶりとなる完全オフの前日(12月9日)に、寒い雨の中を、新京極にあるMOVIX京都へ「武士の一分」を観に行ったのが悪かったのかもしれません。別にキムタクファンでもないのですが、藤沢周平さんの原作を山田洋次監督が映画化された話題作を、この機会に見ておこうと思っただけのことでした。

 さすが、手練れの山田監督だけあって、作品は、倹しい生活の中に、夫婦の情愛が込められた秀作に仕上がっていたのですが、問題が起きたのはこの後です。映画が終わり、感動した余韻に浸りながら、いざ席を立とうとしたら、腰に違和感を感じたのです。おかげで帰りの京阪電車では、空席があるにもかかわらず、立ったままで帰宅をしました。ただこの時は、熱い風呂に入って体を温めた後、磁気治療薬でも貼って寝れば、元通りになると高を括っていたのですが、目覚めてみればこの始末。

 考えれば、ここ何日かは腰の重さを薄々感じてはいたのです。就寝中にこむら返りになったこともあり、攣った足を押さえながら、「何か悪いことでもしたか?」と叫んだこともありました。でも、これしきの事で凹んではおれません。些かの不自由さを感じつつ、この日、お招きをいただいていた林裕章前会長の3回忌法要に出るため、身支度を始めました。ただ、ネクタイを締めるまではうまく行ったのですが、靴下を履こうと身をかがめた途端に「ズキッ!」。まさか、石田純一さんのように裸足に靴というわけにもいかず、やっとの思いで靴下を履き、会場のリーガロイヤルホテル大阪へ駆けつけました。

 てっきり、立席だと思っていたのですが、幸か不幸か着席のスタイルで、同じテーブルの方々と故人の思い出話にふけっていると、突然の指名でスピーチをする羽目に陥り、立ち上がった瞬間にまた「ギクッ!」、今度はさらに強烈な痛みが体を駆け抜けました。何とか痛みをこらえながら、スピーチを終えた後、「実は・・・」と周囲に打ち明けると、「患部を冷やした方がいい」、「針がいい」など、世の中にこんなに「腰痛キャリア」がいたのかと思うほど、いろんなアドバイスを頂きました。

 さっそく助言に従って谷町9丁目の辻外科を訪ね、痛み止めの注射を受け、湿布薬とコルセットをいただき、その後に開かれた、有名塾の卒業記念発表会や懇親会の席でも、塾生さんたちからアドバイスを受け、針とマッサージ治療を受けたのが夜中の1時。ながーい1日がようやく終わりました。

 病気になると、他人の善意が身に沁み、何より自分自身が謙虚になります。「たまには病気にかかるのも悪くないってことか?」と思っていると、また「ギクッ」。その後も一進一退を繰り返し、ようやく完治したのは19日に、住吉のさかもとクリニックで、腰神経叢ブロック注射を打っていただいた時でした。たしかに注射は痛かったのですが、病院からの帰り道、スキップをしながら帰ろうかと思ったほど足取りが軽くなったのを憶えています。

 振り返れば、林正之助元会長の葬儀の際は、気分が悪くなり、林裕章前会長の法要の時は、腰痛。たまたまの巡り合わせといえばそれまでのことですが、この日、3回忌の法要に出させていただいたおかげで、ようやく、亡き林裕章前会長に、「未だ恩に報いずして年月遷りたり」とのお詫びと、来し方お世話になったお礼の言葉を伝えることが出来たのです。

 

 

MOVIX京都

 

 

 

靴下が履けない!

 

石田純一さん

 

辻外科

 

さかもとクリニック

 

イメージ

 

 

 

こんなこともありました

 

HISTORY

第話

 一方、11月から文化放送で始まった「楽園計画」では、初回の片岡鶴太郎さんに続いて、10月30日の収録では、スポーツジャーナリストの増田明美さん、11月20日にはオスマン・サンコンさん、12月4日には元62代横綱大乃国の芝田山親方、18日にはロック歌手、作曲家で俳優でもある宇崎竜童さんをゲストにお迎えました。鶴太郎さんや増田さんは面識もあり、それなりに話の展開は予測がついたのですが、面識のない芝田山親方は、「相撲界きっての食通」と言われ、かつ、大の甘党で「スイーツ親方」や「キングオブスイーツ」の別名があること辺りからお話をさせていただければ、なんとかなるかなと思っていました。

 同様に、宇崎竜童さんも、それまで面識はなかったのですが、75年にダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒットして、「あんたあの娘のなんなさ」というセリフが流行語となり、一世を風靡したことや、作曲家としても山口百恵さんの「横須賀ストーリー」や「ロックンロールウィドウ」、内藤やすこさんのレコード大賞曲「思い出ぼろぼろ」など数多くのヒット曲を世に出されていること、82年に高橋伴明監督が、三菱銀行人質事件を素材に撮られた映画「TATTOOあり」で主演されていることを思えば、お聞きしたいことは山ほどありました。とは言え、限られた時間、さてどこから入ろうか?と悩んでいたら、何とお生まれが私と同じ京都の伏見区、しかもお母さまのルーツが私の父と同じ京田辺市、その上私と同い年、ご本名も同じ姓とあって、とりあえずこの辺りから始めてみることにしたのです。

 もっとも予測がつかなかったのはオスマン・サンコンさんでした。フジテレビの「笑っていいとも」などにも出ておられて、ひょうきんなキャラクターであることは存じていました。たしか、ギニア外務省を休職して来日をされていた時期だったように思いますが、そのお国のギニアがどこにあるのか分からず、礼を欠くことになっては困ると地図を広げて調べていくと、ギニアと名前が付く国が何と4つもあることが分かったのです。まず、西アフリカに旧フランス領の「ギニア共和国」があり、すぐ隣に旧ポルトガル領の「ギニアビサウ共和国」、少し南へ下がって「赤道ギニア共和国」、こちらは旧スペイン領。更にオセアニアへ目を移すと、「パプアニューギニア独立国」があることが分かりました。

 身体にコテカという筒状のペニスケースを身に付けておられないことで、「パプアニューギニア」ではないことはすぐに分かったのですが、ソルボンヌ大学を出られたということから、多分「ギニア共和国」であろうと類推してインタビューに備えました。とてもフレンドリーな方で、「ギニアに居た時は、視力が6.0あって10階のビルの屋上から新聞が読めたのに、日本に住んで視力が1.2に低下した」とか「喫茶店に入ってウエイトレスさんに、アメリカン?と聞かれて答えに困った」、「葬式で焼香の作法が分からず全部口に入れて苦かった」などとサービス精神にあふれたボケをかましていただきましたが、一番おかしかったのは、子供の頃一番の楽しみが、「かくれんぼ」だったとおっしゃった時、我々と同じだなと思いつつ、「でも、電灯のない暗いところで見つかりますか?」と聞くと、「歯が白いからすぐに見つかるんですよ」とおっしゃって、さらに「もしライオンが出てきたらヤバくありませんか?」と続けると、「ギニアにライオンはいませんよ!僕がライオンを初めて見たのは上野動物園なんです」と答えられた時で、その写真をギニアに送ったら、皆で大騒ぎになったといいます。石川真紀アナウンサーと2人で驚きました。アフリカ全体がサファリパークのように思っていた私の勘違いでした。アフリカ大陸はとても広いのです。

増田明美さん

 

ご夫妻と食事に行ったこともありました

 

オスマン・サンコンさん

 

芝田山親方 やっぱり大きい

 

著書も出されています

 

宇崎竜童さんは「5ℓ」にもご出演いただきました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国連大使もコテカをつけて会議に出席します(正装ですから・・・)

 

日本でもコテカは売っています

 

HISTORY

第話

 明けて2007年、初詣は、いつもと趣向を変えようと、家族でバスツアーに参加をして新潟へ出かけました。まず、阿賀野川からお座敷遊覧船に乗って雪景色を眺め、その後、毎年6000羽の白鳥が飛来する瓢湖を訪ねました。その後、五泉市を経て、宿泊先の万代シルバーホテルに入り、ホテルの上にあるレインボータワーから、信濃川にかかるライトアップされた萬代橋などを眺め、夕食に出かけたのですが、あまりの寒さと、街の寂しさに途中で断念をして、早々に床に就きました。翌朝は朝食後、新潟総鎮守の白山神社と、越後一の宮の弥彦神社にお参りをして、七浦シーサイドラインを通って、「魚のアメ横」といわれる寺泊市場へ寄って帰京の途に就いたのですが、総鎮守と一の宮の御神籤が共に吉だったこともあって、いい気分でスタートを切ることになりました。

 1月26日には、カゴメさんが食育支援活動の一環として主催された、「大人の食育パネルディスカッション」に、ご依頼を受けてブッキングさせていただいた遥洋子さんをフォローするため、京都リサーチパークへ出かけました。終了後、カゴメの村松取締役と遥さんと共に京都ホテル(現ホテルオークラ京都)へ移動してお茶を飲んでいると、少し離れた席で打ち合わせをされていた栗塚旭さんと目が合い、ご挨拶をいただきました。栗塚さんといえば、「新選組血風録」や「燃えよ剣」で、土方歳三を演じたら「この人の右に出るものはいない」といわれた名優です。いやー、感激しました。たしか、哲学の道にあるご自宅で「若王子」という喫茶店をされていたと聞いたことがありますが、訪れる機会もなく店は閉じられてしまったようです。しばし、村松さんや遥さんと歓談をした後、訪れた「祇園にしむら」で会食をして、遥さんの車で楠葉まで送っていただきました。

 そして、29日には、文化放送の「楽園計画」のゲストに、江夏豊さんをお迎えしました。江夏さんといえば、阪神時代の1971年にオールスター戦で成し遂げた9者連続三振や、1979年の広島時代の日本シリーズでの名救援で知られ、Yahoo! JAPANが企画した20世紀プロ野球ベストナインの投手部門でも名だたる名選手を押さえて1位に選出されています。その中でも凄いのは生涯防御率が2.49。味方が3点さえ取れば、勝つことができたのです。

 お会いして驚いたのは、お腹は大きいのに手が小さいことでした。これでよくあのカーブが投げられたものだと感心しました。聞けば江夏さんが入団した阪神タイガースは、前年の第1回ドラフト会議で兵庫・育英高校の鈴木啓示投手を指名するはずだったものを、急遽、香川・土庄高校の石床幹雄投手に変更したため、翌年、江夏さんを指名したのだとか。もし江夏さんが巨人に入っていたらどうなったのでしょうね。球団カラーに染まることが出来たのでしょうか?やはり彼には阪神のユニフォームが似合ったのです。江夏投手が王貞治選手を、村山実投手が長嶋茂雄選手を打ち取ろうと、真剣に望む姿に人々は酔いしれたのです。どちらのチームが勝とうが、その真剣勝負が人々の心を捉えたのです。

 考えてみれば、近頃のプロ野球には、こうした侍対決の面白さが欠けているように思えます。「侍ジャパン」といいながら、勝敗にこだわり、チームプレーを重視するあまり、選手の個性を小さく限定してしまっている気がします。いろいろあった江夏さん。リリーフ投手の心得など含蓄あるお話もお聞きすることが出来ました。俳優業などにも進出されていますが、これだけの才能を埋もれさせておくのは、プロ野球界にとって、実に惜しいと思いましたね。

阿賀野川の雪見船

 

瓢湖に飛来した白鳥

 

万代シルバーホテル

 

レインボータワー

 

萬代橋

 

 

 

越後一の宮の弥彦神社

 

寺泊市場

 

新撰組 副長 土方歳三役で有名になりました

 

現在の栗塚旭さん

 

残念ながらクローズした喫茶「若王子」

 

祇園にしむら

 

左から、村松さん、遙洋子さん、私

 

江夏豊さん

 

 

 

名勝負でした