こうして「5ℓ」のコンテンツの方は次第に固まっていったのですが、問題は、読者数の獲得と、収益をいかに図るか?ということでした。新橋の駅前でゲリラ的に配布を試みたりもしたのですが、それほどの効果を上げることもなく、「さてどうしたものか?」と皆で頭を悩ませていたところに、営業担当として奔走してくれていた森脇達哉君から、「りそなグループさんに乗っていただけるかもしれない」という朗報がもたらされたのです。
さっそくご挨拶に上がるべく、当時大手町にあった「りそなホールディングス東京本部」のある、りそな・マルハビルを訪れたのは11月11日のことでした。こちらとしては、お目にかかるのは、ご担当の窓口の方と、その上司の方くらいかなと思っていたのですが、通されたのは最上階の会議室で、なんと、細谷英二会長までが現れたのです。
実は細谷さんには、まだJR東日本の代表取締役副社長時代に「一片塾」で初めてお目にかかり、2003年にりそなホールディングスの会長に転じられた後、一度新大阪駅でお目にかかったことがあったのです。のぞみ号に乗り込むべくホームで待機していると、私の視線の先にSPと思しき人を従えて細谷さんが現れ、一体どうされたのかと思いつつ声をお掛けしたところ、「こんな感じで、結構大変なんですよ」としか答えられませんでしたが、経営危機に陥って注入された公的資金を使い切る形で、大幅な不良債権の処理を断行されている最中とあって、不測の事態を防ぐために、SPの方がついておられたのです。結果、2004年には1兆4000億円の赤字を計上したものの、「細谷改革」を断行して、2005年3月期には一転して3800億円の黒字として、結果的には「とても無理だ」といわれていた3兆円規模の公的資金の返済に成功されたのですから、素晴らしい経営者だったと思います。
いつも通りの柔和な表情を浮かべてご対応をいただき、恐縮しながら座を辞したのですが、その後の担当者レベルでの協議で、2006年2月号からカスタマイズ版として「5ℓ- Rスタイル」として、約50000部を全支店に置いていただけることが決まりました。ようやくこれで、愁眉を開くことが出来たのです。
この年の年末、12月10日には、朝日ニュースターの「パックインジャーナル」に出演させていただきました。98年8月から始まったこの番組は、土曜日の午前11時から午後1時までの生放送で、40代男性の接触率が高く、この時間以外にも5回リピートされている不思議な番組でした。タイトルは、司会の愛川欽也さんが嘗てTBSでパーソナリティを務めていた「パックインミュージック」からとったと言われ、テーマ曲も同じ「Route66」を使用していた、社会派の討論番組でした。コメンテーターは、社会評論家で番組構成者でもある横尾和博さん、評論家の田岡俊次さん、朝日新聞の山田厚史さん、経済ジャーナリストの荻原博子さん、それに私という布陣でした。何度かこの番組を見ていたこともあって、気楽に築地の朝日新聞社内のスタジオに入ったのですが、本当になんの打ち合わせもなく本番が始まったのには驚きました。冒頭で愛川さんが私を紹介する際に「5ℓ」のことに触れていただいたので、「もうそれだけでいいや!」と思っていたこともあって、どんな風に番組が進行したのかは全く記憶に残っていません。番組が終わって帰りがけに荻原さんから「いいこと、おっしゃいましたよ」と慰められて帰ったのだけは憶えていますけれどね。
12月26日にはレギュラーの文化放送「やる気マンマン」を終えて、FM東京の午後ワイド「坂上みきのBeautiful」、27日はMBSの「こんちわコンちゃん」、30日はTBSの「朝ズバ」の出演を終えて、ようやく忙しかった2005年の幕が下りることになりました。
その上、この年の5月31日には、大和書房から「35歳革命」に続いて12月31日には「50歳力」を出し、11月18日に洋泉社から「会社は株主のものではない」、12月31日には徳間書店から「プロ論」という共著まで出たのですから、我ながら本当によく働いたと思います。
「5ℓ」のメンバー。私の右隣が森脇達哉君。
大手町にあった、りそな・マルハビル
細谷英二 会長
スタジオの雰囲気