その他にも、この年には魅力的な経営者の方とお会いすることが出来ました。6月3日には、パレスホテルで行われたカゴメ共栄会の講演会で、主催されたカゴメ株式会社の喜岡浩二社長にお目にかかりました。愛知県の企業なのですが、喜岡社長ご自身が兵庫県のお生まれで、大阪市立大学を卒業され、大阪支店長を務められたことや、執行役員でコーポレート戦略室・広報部長の村松才兵衛さんが同志社のご出身ということもあり、どことなく親しみを憶え、その後もしばらくお付き合いをさせていただくことになりました。
2002年に社長になられた喜岡さんは、「リーダーの資質はコミュニケーション能力にあり」と、翌2003年4月に、新しい需要の創造を目指すべく、「食の皆楽化」をテーマに、「自然を、美味しく、楽しく、KAGOME」というブランド・ステートメントや、「カゴメ・ファン株主10万人宣言」などなどの施策を打ち出されていました。
また、9月29日にパシフィコ横浜で全国のライフプランナー1200人を集めて開かれた、「プルデンシャル会」での講演会が契機となって、11月7日にはプルデンシャル生命保険の三森裕社長や阿野安雄取締役と会食をさせていただきました。先のプルデンシャル会の折にはスケジュールの都合、すれ違いになったこともあって、改めて食事の場を設けていただいたというわけです。この年に社長になられた三森さんは、外車のディーラー「ヤナセ」に入社され、同期の中でもビリの成績しか上げらずれなかったのですが、やがて全国でトップクラスの営業成績を上げるまでになられました。ですが、88年にプルデンシャルに転じて、持ち前の手腕を発揮されて、営業畑から始めて社長に登用された方でした。
くだけた雰囲気の中、横から阿野さんが横から「ベンツなどを売る際には、何しろこの車のタイヤにはドイツの空気が入っていますからと勧めていたらしいですよ」とチャチャを入れるなど、和やかなうちに場が盛り上がったのを憶えています。それでも、三森さんがプルデンシャルに入社をされて、渋谷支店長を務められていた頃には、まだ会社の規模もそれほどのものではなく、「営業に出たついでに、自らトイレットペーパーを買って帰ったことがある」とおっしゃっていましたね。2002年に、ホテルニュージャパンの後に建った、38階建てプルデンシャルタワーの威容からは想像もつかない微笑ましいエピソードなどを伺いました。
プルデンシャル生命保険は、代理店や店頭での窓口販売をせず、ライフプランナーが直接顧客に会い、相談に乗りながらオーダーメイドの保険を提案するコンサルティング・セールスに特化した会社で、ライフプランナーには異業種の営業職で活躍をする優秀な人材を厳選して採用し、1995年には1000名だったものを、2002年には2000名、2006年には3000名に増やしていました。そのモットーである「成功の反対は失敗ではなく、妥協である」という言葉にある通り、三森さんは、優しさの中にも厳しさを兼ね備えた、名経営者と呼ばれるにふさわしい方であったように記憶しています。
右が村松才兵衛さん
東京カゴメビル
パシフィコ横浜(横浜国際平和会議場)
中央右が三森社長
阿野安雄さん
プルデンシャルタワー
一方で10月に創刊準備号、11月に創刊号を出した「5ℓ」はいよいよ本格的に動き出し、私も巻頭インタビューのために、10月11日に小池百合子環境大臣(12月号)、24日に漫画家の弘兼憲史さん(2005年1月号)、12月5日には加山雄三さん(2005年2月号)にお目にかかりました。場所は小池さんが議員会館、弘兼さんが文化放送近くの、隠れ家という名前の通り、分かり難い場所にあるメゾン・カシュ・カシュというフレンチレストラン、加山さんが麻布台のラジオニッポンとそれぞれ違ったのですが、例えインタビュー時間が撮影時間を込めて1時間程とは言え、お付き合いいただいたゲストの方に礼を欠くこのないよう、下調べには時間を費やしたように思います。嘗てマネージャーをしていた頃に、何の準備もせずに来て、明らかに礼を欠くような取材をされて、不快感をいだいた経験がそうさせたのかもしれません。表紙を飾っていただく、いわば5ℓ誌の顔となっていただく方には、いい表情で写っていただくことが肝要だと思ったのです。
弘兼さんの場合はご本人ではなく、漫画の黄昏流星群を表紙にして、小池さんや加山さんにはご本人の写真を使わせていただいたのですが、小池さんの号では、デザイナーが大胆にも、顔の上下をカットして、目を中心にした写真を使いたいと提案してきたのです。「おいおいそれはないだろう!」と思ったのですが、編集サイドが恐る恐る打診すると、何とご本人のOKが出たというのです。それより、「目じりの皺を気にされていました」と聞いて、「いや-、女心は分からないものだ」と思った記憶があります。後年には、顔ばかりではなく、あごの皺も消して、その上に腕までを細くして!とおっしゃった女性タレントさんも居られましたが、さすがに腕を細くすることだけは出来ず、断念をしていただいたことがありました。えっ、誰かって?さすがに、そればかりは守秘義務があって明かすことは出来ませんね。
これ以外にも、私は「5ℓ世代への木村政雄の発言」というコラムを持っていたのですが、11月1日には、12月号の「大人のスタイリング術」という特集ページの取材で、南青山3丁目にある、菊池武夫さんがワールドと開かれた「40ct&525」(フォーティカラッツ・アンド・ゴーニーゴ)を訪れました。菊池武夫さんといえば、「MEN‘S BIGI」でDCブームの火付け役となった方で、その後神戸に本社のあるワールドへ移籍をされて84年に「TAKEO KIKUCHI」を世に出し、この年、大人のための「40&525」をプロデュースするため、店をオープンされたばかりでした。私も、「クールビズ」や「ウォームビズ」の委員会でご一緒させていただいたことや、ワールドさんとのご縁もあって、9月30日に開かれたオープニングパーティーには出させていただいたのですが、訪ねるのはそれ以来のことでした。モデルには、ほぼ50代のエッセイストや、経営コンサルタント、サックスプレイヤー、レストランのシェフがスタンバイされ、それぞれに着替えを済ませられていたのですが、見物に行った私も、菊池さんに勧められるままにカシミヤの黒のスーツを買って、一緒に撮影をする羽目に陥りました。なんと18万9千円、「何とか経費で落ちないか?」と編集部に掛け合ったのですが、「それは無理!」とのこと、でも「あの菊池武夫さんに見立ててもらったことを思えば、安いものかもしれない」と思い直すほかありませんでした。因みにブランド名にある525は、菊池さんの誕生日だとかで、なんと私と同じ双子座のお生まれだったのです。
メゾン・カシュ・カシュ
弘兼憲史さんと
2006年1月号
2005年12月号
2006年1月号
菊池さんに勧められるままに購入したカシミヤの黒スーツを着て撮影に。
こうして「5ℓ」のコンテンツの方は次第に固まっていったのですが、問題は、読者数の獲得と、収益をいかに図るか?ということでした。新橋の駅前でゲリラ的に配布を試みたりもしたのですが、それほどの効果を上げることもなく、「さてどうしたものか?」と皆で頭を悩ませていたところに、営業担当として奔走してくれていた森脇達哉君から、「りそなグループさんに乗っていただけるかもしれない」という朗報がもたらされたのです。
さっそくご挨拶に上がるべく、当時大手町にあった「りそなホールディングス東京本部」のある、りそな・マルハビルを訪れたのは11月11日のことでした。こちらとしては、お目にかかるのは、ご担当の窓口の方と、その上司の方くらいかなと思っていたのですが、通されたのは最上階の会議室で、なんと、細谷英二会長までが現れたのです。
実は細谷さんには、まだJR東日本の代表取締役副社長時代に「一片塾」で初めてお目にかかり、2003年にりそなホールディングスの会長に転じられた後、一度新大阪駅でお目にかかったことがあったのです。のぞみ号に乗り込むべくホームで待機していると、私の視線の先にSPと思しき人を従えて細谷さんが現れ、一体どうされたのかと思いつつ声をお掛けしたところ、「こんな感じで、結構大変なんですよ」としか答えられませんでしたが、経営危機に陥って注入された公的資金を使い切る形で、大幅な不良債権の処理を断行されている最中とあって、不測の事態を防ぐために、SPの方がついておられたのです。結果、2004年には1兆4000億円の赤字を計上したものの、「細谷改革」を断行して、2005年3月期には一転して3800億円の黒字として、結果的には「とても無理だ」といわれていた3兆円規模の公的資金の返済に成功されたのですから、素晴らしい経営者だったと思います。
いつも通りの柔和な表情を浮かべてご対応をいただき、恐縮しながら座を辞したのですが、その後の担当者レベルでの協議で、2006年2月号からカスタマイズ版として「5ℓ- Rスタイル」として、約50000部を全支店に置いていただけることが決まりました。ようやくこれで、愁眉を開くことが出来たのです。
この年の年末、12月10日には、朝日ニュースターの「パックインジャーナル」に出演させていただきました。98年8月から始まったこの番組は、土曜日の午前11時から午後1時までの生放送で、40代男性の接触率が高く、この時間以外にも5回リピートされている不思議な番組でした。タイトルは、司会の愛川欽也さんが嘗てTBSでパーソナリティを務めていた「パックインミュージック」からとったと言われ、テーマ曲も同じ「Route66」を使用していた、社会派の討論番組でした。コメンテーターは、社会評論家で番組構成者でもある横尾和博さん、評論家の田岡俊次さん、朝日新聞の山田厚史さん、経済ジャーナリストの荻原博子さん、それに私という布陣でした。何度かこの番組を見ていたこともあって、気楽に築地の朝日新聞社内のスタジオに入ったのですが、本当になんの打ち合わせもなく本番が始まったのには驚きました。冒頭で愛川さんが私を紹介する際に「5ℓ」のことに触れていただいたので、「もうそれだけでいいや!」と思っていたこともあって、どんな風に番組が進行したのかは全く記憶に残っていません。番組が終わって帰りがけに荻原さんから「いいこと、おっしゃいましたよ」と慰められて帰ったのだけは憶えていますけれどね。
12月26日にはレギュラーの文化放送「やる気マンマン」を終えて、FM東京の午後ワイド「坂上みきのBeautiful」、27日はMBSの「こんちわコンちゃん」、30日はTBSの「朝ズバ」の出演を終えて、ようやく忙しかった2005年の幕が下りることになりました。
その上、この年の5月31日には、大和書房から「35歳革命」に続いて12月31日には「50歳力」を出し、11月18日に洋泉社から「会社は株主のものではない」、12月31日には徳間書店から「プロ論」という共著まで出たのですから、我ながら本当によく働いたと思います。
「5ℓ」のメンバー。私の右隣が森脇達哉君。
大手町にあった、りそな・マルハビル
細谷英二 会長
スタジオの雰囲気
明けて2006年は、5回目の戌年となりました。兜町には「辰巳天井、午(うま)尻下がり、未(ひつじ)辛抱、申酉(さるとり)騒ぐ、戌(いぬ)は笑い、亥(い)固まる、子(ね)は繁栄、丑(うし)はつまずき寅(とら)千里を走り、卯(うさぎ)」は跳ねる」という株式相場の格言がありましたが、自分が年男になった戌年に笑ってばかりいたかというと、そんな記憶はなく、「かくあれかし!」という思いを込めて、大晦日から正月にかけて家族と共に能登半島へ出かけました。
まず最初に、北陸最古の神社といわれる白山市の「金劔宮」を訪ねました。何せ、「日本3大金運パワースポット」といわれる所ですから、ここを外すわけにはいきません。次いで、珠洲市にある、日本海一帯の守護神といわれる「須須神社」や、家康が永平寺と並んで能登の国の大本山と認めた、輪島市の「総持寺祖院」にお参りをしました。もちろん輪島の朝市や和倉温泉へも行きましたが、私にとっては「この1年を平穏に」とお願いすることが、何をおいても肝要なことだったのです。
旅行から帰った1月4日からは、再び元の多忙な日々が訪れ、講演やテレビ・ラジオ出演、打ち合わせ等に忙殺される日常が戻り、26日には和歌山県の木村良樹知事と県の広報誌「連」で対談、場所はたしか、海の見えるフレンチ・レストランの「オテル・ド・ヨシノ」でしたね。さらに2月3日には「5ℓ」3月号に向けて、衆議院会館で菅直人さんにインタビュー、10日には福岡の全日空ホテルで開催された「楽天新春カンファレンス2006」で講演、15日には大阪での地元・枚方市のキラキラプラザで開かれた講演会の後、中司宏市長にお目にかかりました。加えて、20日には東京八重洲にある丸善書店で、私が1年間パーソナリティをさせていただいた、ラジオ番組「元気e」を採録して、1月30日に丸善から出版された「プロに訊け」のトークイベントに出席をさせていただきました。
とりわけ大変だったのは、2月23日に自民党本部で開かれた「日本夢づくり道場」で、80人ほどの議員さんたちを前にした講演会でした。なんでも立党50年プロジェクトの一環として開設されたそうで、前年に大量当選をした小泉チルドレンの方や、若手国会議員の方たちの研修の場として、武部勤幹事長自らが主宰をされていました。一体どういう経緯でお引き受けすることになったのか、今となっては全く分からないのですが、多分「どんなところか、のぞいてやろう」という持ち前の好奇心が働いたのだと思います。
些かの緊張感もあって永田町の自民党本部を訪ねると、さっそく部屋へ通され、ほどなく笑顔の武部幹事長が現れました。「テレビでお見掛けしたまんまだなあ」と思っていると、傍らからその日の概略などの説明があり、促されて階下の会場へ向かう際に、武部さんから「木村さん、今度の選挙に出ない?」と囁かれたのです。多分、こちらの気分をほぐすために軽いジョークでおっしゃったのだとは思いますが、もし私が空気を読めず、言葉を真に受けて、「よろしくお願いします」と返したらどうされたのでしょうね。もちろん、自分がその任に堪えないことは、私自身が一番わかっていますけどね。
多少ざわついていた場内も、司会を務められた小此木八郎副幹事長や、続いて行われた逢沢一郎幹事長代理、トリをつとめられた武部幹事長のご挨拶の頃にはすっかり静まり返っていました。中には、旧知の中川泰宏さんや、杉村太蔵さん、井脇ノブ子さん、猪口邦子さん等、テレビで見知った顔の方を見かけるうちに、しだいに緊張感も薄れ、後半には、多少のサービス精神も込めて、「自民党と吉本興業は似ている」という話や、「5ℓ」に引っ掛けて「自民党は落ちている50代の支持率を上げなきゃいけないのではないか」という提言もさせていただいて無事終了、その後、若干の質疑応答を終え、会場を後にしようとしていると、中川さんから食事のお誘いをいただき、赤坂の「維新號」へ。自民党から頂いた薄謝を上回るご馳走をいただきました。
戌 笑う
金劔宮
須須神社
総持寺祖院
和歌山県の広報誌「連」
木村良樹知事との対談
眺望のいいオテル・ド・ヨシノ
枚方市の中司宏 市長
武部勤 幹事長
「日本夢づくり道場」での講演
翌24日にはTBSの「朝ズバ!」が終わった後、慌ただしい時間を縫って、みのもんたさんに「5ℓ」4月号のインタビューをさせていただきました。たしか、報道フロアの一角にある区切ったスペースだったと思います。「僕はラジオで育った人間ですから、テレビでも、イメージを与えるようにしゃべろうと思っているんです。今でも土曜午後のラジオ番組(文化放送「みのもんたのウィークエンドをつかまえろ」)が辞められないんですね。『いちばん生き生きしてますね』と取材の人に言われますよ」とおっしゃっていたのが印象に残っています。
そんななか、3月21日から23日まで、妻と2人北海道へ出かけました。別に愛を確かめたかったわけではなく、道北へ行ったことがなかったのと、奇跡の復活を果たした旭山動物園を見たくて、新聞に掲載されていたツアーに乗っただけのことです。本来は羽田から稚内まで飛ぶ予定だったのですが、あろうことか天候不良のため、稚内空港が閉鎖されて、仕方なくANA便で札幌・千歳空港に飛んでバスで稚内を目指すことになりました。着いたのが夜の8時でしたから、本来なら2時間弱で着くところを、7時間もかけて辿り着いたことになります。おかげでこの日予定をしていた、ゴマアザラシの越冬地・抜海港や利尻富士や礼文島を一望できるノシャップ岬、シジミの産地・天塩町の観光は断念せざるを得ませんでした。
翌日、日本最北端の地で、晴れた日には遠くサハリンまで遠望できる宗谷岬を訪ね、猿払で名物のホタテを食べ、飛来した白鳥で埋まるクッチャロ湖を見た後、紋別に移動して流氷砕氷船のガリンコに乗り込んだものの、流氷は既に溶けて跡形もなし。早々に旭川へ移動して町を散策してみたものの何ら見るべきものもなく、「どうやらこの旅行は失敗だったか」と思いつつ、迎えた最終日のことです。
ようやく、旭山動物園で念願のペンギンパレードを見ることが出来たのです。なんでも、この日がパレードの最終日ということで、既に溶け始めていた雪を、スタッフが懸命にかき集めて作った雪道を、ペンギンがよちよち歩いてくれたのです。規模自体は、想像していたより遥かにコンパクトな動物園でしたが、地下からガラス越しにシロクマが泳ぐ姿や、プールへダイブする迫力のある姿を見ることが出来たり、ペンギンやアザラシの餌やりを、飼育係の解説付きで見せる「もぐもぐタイム」など、ここかしこに工夫が凝らされていて、訪れた我々の目を楽しませてくれました。その後、美瑛やフジテレビのドラマ「北の国から」の舞台で知られた富良野を経由して、三笠から高速に乗り千歳空港に出て帰京したわけですが、「終わりよければすべてよし」の言葉通り、最後に旭山動物園を見ることが出来ただけで、「行った甲斐があった」ように思えました。
ただ、羽田に着いたのが午後の9時半。帰宅して新聞や雑誌の連載記事の原稿チェックなどをして、床に就いたのが12時。3時間半後に起きるのは、さすがに辛かったですね。私より2歳年上のみのさんが、どうしてあれほど元気に仕事をされているのか不思議でならなかったのですが、考えてみれば、私など及びもつかないギャラを取られているのですから、そりゃー、頑張りますよねえ。「朝ズバ!」への出演はこの翌週、3月31日をもって終えることになりました。その知らせを受けた時、残念というより、「ああこれで、もう来週から金曜日が来るたび、3時半に起きなくてもいいんだ」と、むしろ安堵したのを憶えています。
抜海港
ノシャップ岬
宗谷岬
クッチャロ湖
ガリンコ号
ペンギンパレード
シロクマのダイビング
ペンギンのもぐもぐタイム
アザラシのもぐもぐタイム
月曜日コメンテーターの、えなりかずきさんや、木曜日の倉田真由美さんも私同様に1年間で降板されたのですが、やはり私同様、朝3時半起きから解放され、ホッとなさったのではないかと思います。番組の最後に花束をいただいて、スタジオを去ることになったのですが、1年間の最大の思い出といえば、2005年のビオフェルミン事件だったと思います。番組の中で、みのさんが「ビオフェルミンを飲むくらいなら、ビールを飲んだ方がいい」と発言され、私も「みのさんらしいな」と思っていたのですが、なんと、ビオフェルミン製薬がこの番組のスポンサーについておられていたのです。激怒したビオフェルミン製薬さんは、5日後にスポンサーを降りることになったのですが、後日、直接神戸の三宮にあるビオフェルミン製薬へお詫びに出向かれたTBS関西支社の方から、「あの時は参りましたよ」と当時の苦労話をお伺いして、思わず同情したのを憶えています。私自身は、このところ、「ビオフェルミンS錠」を飲むのが日課にはなっていますがね。今一つは、本番中、アナウンサーが話している時に、目を閉じてセットにもたれかけるようにされていることがあったことです。「寝ていた」という説もありますが、私は、そうではなく、きっと、目を閉じて、思案を巡らされていたのだと思っていますけれどね。
とはいえ、番組は2005年6月には視聴率も10%を超え、2006年10月期には月間10.2%を出して、NTVの「ズームインSUPER」やフジテレビの「めざまし」を抜いてトップに立ったのですから大したものだと思います。残念ながら2008年頃からは陰りが見え、2013年10月にはみのさんも、ご次男の事件もあって降板されることになったのですが、予定調和が前提であった朝のワイドショーに、一石を投じた番組であったことは確かだと思っています。
この後私はラジオスタジオへ移動して、「ズバリ快答!身の上相談」の収録を済ませた後、「5ℓ」6月号のインタビューのため、赤坂通りを歩いて檜町交差点へと歩を進めました。1980年に東京事務所を開設した頃にいたこともあって、懐かしい思いに浸りながら交差点を右折すると、高輪に転居するまで住んでいた秀和赤坂檜町レジデンスが目に入りました。振り返ってみれば、いくら事務所から至近距離にあったとはいえ、「よくあの狭い2Kのマンションに住んでいたな」という思いに駆られながらリキマンションの方へ歩を進め、少し行くと、この日インタビューをさせていただく矢沢永吉さんの「oden studio 2nd」が見えてきました。スタッフがまだ到着していないため、駐車場で一人待機していると、そこに1台の車がスーッと入ってきたので、ふと目を遣ると、何と矢沢さんご本人が現れたのです、とはいえ、こちらを見る間もなく、一人でスタジオの中へ入っていかれました。この日の撮影をお願いしたカメラマンの荒木経惟(のぶよし)さんらが現れたのは、それからまだ10分ほども経ってから後のことでした。「ロックのメジャー化の先駆者」、「海外レコーディングの先駆者」、「ライブミュージシャンの先駆者」、「著作権ビジネスの先駆者」等々の称号で語られるこのビッグアーティストが、果たして何を語っていただけるのか?大いなる期待と不安を胸に、指定されたスタジオへ入り、登場されるのを待つことにしました。
最後の出演
ビオフェルミン製薬株式会社
みのさん、せっしょ でっせ!
一見、眠っているように見える、みのさん
寝て・・・ませんぞ
かつて住んでいた、秀和赤坂檜町レジデンス
「oden studio 2nd」
スタジオへ入って、隅っこでカメラを担当していただく荒木さんやスタッフとしばし談笑をしていると、やおらニューアルバム「your songs」が流れ、矢沢さんが現れました。途端に空気が張り詰めたものに一変しました。あとは、「スター矢沢」と「天才アラーキー」の直接対決。まるで剣豪の果し合いを見ているような気分でした。普段、カメラマンの指示に従って被写体であるタレントさんがポーズを取られる姿ばかり見ている私にとって、初めての体験でした。しかも撮影されるのが、かの荒木さんなのですから尚更のことです。私の目には、音楽に合わせて、自在にポーズを取られる矢沢さんを、追うのに懸命になられたのか、荒木さんの額には汗が滲んでいました。「やっぱり永ちゃん、あんたはスゴイ!」と思わされたのですが、さて、今度は自分がその立場になるかと思うと、心の中に些か、緊張感が走りました。
あらかじめ曲を聴き、角川書店から1980年に出た「成り上がり」や、2004年に出た「アー・ユー・ハッピー」などを読んで、この日に備えたものの、通り一遍のインタビューなどをしても、とても通用する相手ではないと覚悟を決めて、矢沢さんの「生き様」に絞って、お話を伺うようにしました。おかげで、とてもフレンドリーにお話をいただいて、何とか役目を果たすことが出来ました。スタジオを出て、皆で緊張感を癒すべく、昔よく行った近くの喫茶室「まつもと」へ入ったのですが、無事入学試験を終えたかのように、皆の顔にホッと安堵の色が浮かんでいたのを憶えています。
この矢沢さんが表紙になった「5ℓ」6月号は、今までにない反響を呼び、その後の部数の増加につながりました。そうそう、ある筋の団体の方から「5ℓを100冊持ってこい」などと電話が入ったことがあり、矢沢ファンの幅広さに驚いたことがあります。とはいえ、無料誌をこちらから届ける謂れはなく、当然お断りさせていただいたのはいうまでもありません。
こうして4月を迎えることになったのですが、4日には大阪でNHKの新番組「もっともっと関西」(通称「ももかん」)という番組に出演をしました。この4月3日から始まった番組で、月曜から木曜まで、午後5時15分から6時までの45分の生放送で、メイン・キャスターを、NHKスペシャルなど、数々のドキュメンタリーのナレーションで活躍されていたベテランの濱中博久アナウンサー、サブキャスターを、NHKきってのイケメンといわれる若手の青井実アナウンサーが務めていました。
もともとあった、「関西ニュース1番」から生活情報部分を独立させて始めた番組で、「夕方の主婦に思いを馳せて」のサブタイトル通り、40~50代の主婦をターゲットに企画されていました。私が出演する火曜日は、関西で活躍するゲストを迎えてトークをする「モモカン‼ガンバリズム」や、「まちかど探検隊」、晩御飯のおかずのヒントになる「今すぐもう一品」といったNHKらしいコーナーで構成されていました。「朝ズバ!」と違い早朝に起床をしたり、長時間でもない事もあって、お受けさせていただいたのですが、濱中さんのお人柄もあって、スタジオが和やかな雰囲気に包まれ、「やっぱり関西はいいな!」と思いながら番組に出演させていただいたのですが、「朝ズバ!」の速いテンポから「モモカン」のホンワカしたテンポに慣れるまでには、しばしの時間を要しました。
そうそう、いつだったか祇園の「てる子」さんに寄った際に、「青井君とテレビに出ておいやすなあ」といわれて驚いたことがありました。聞けば、「丸井」を創業された、おじい様の青井忠治さんからのお付き合いだとかで、なんとその上に、幼稚舎から大学までが慶応、しかも長身でイケメン、その上にスポーツ万能だとか。おかげで、この日以降「一体、どういうこっちゃねん!」と憎しみと羨望を込めた目で彼を眺めるようになった記憶があります。青井さんは目下、月~金の、午後11時10分から11時40分まで放送される「ニュースホット11」のメイン・キャスターとして活躍をされています。でも「神様は、何と不公平なことをなさるのか!」などと嘆いたら、矢沢さんに叱られますよね、きっと。
喫茶店「まつもと」
濱中博久アナウンサー
青井実アナウンサー
「もっともっと関西」の番組出演者の皆さん
「ニュースチェック11」
矢沢さんに次いで、映画「ALWAYS三丁目の夕日」の監督、山崎貴さんに「5ℓ」5月号の巻頭インタビューをさせていただいたのは、4月6日のことでした。場所はたしか恵比寿、この作品のエグゼクティブ・プロデューサーを務められた、阿部秀司さんの企画会社の「ロボット」だったと思います。
私自身、以前から「ビッグコミック」で、西岸良平さんの漫画を読んでいたこともあり、この作品にはなじみがあったのですが、漫画に描かれた「昭和30年代の懐かしい風景を、果たして41歳の監督がどう映像化されるのか」と、やや怪訝に思いつつ作品を見たのですが、ものの数分も経たないうちに引き込まれてしまいました。
まだ建設中の東京タワーの前を都電が走っているシーンがあることを考えると、描かれた時代は、タワーが完成した昭和33年12月23日より前であることが分かります。ということは、鈴木オートの堤真一・薬師丸ひろ子夫妻の長男・一平君は、当時の私とほぼ同年代、しかも毎日のように外で元気に遊ぶ小学4年生とあって、まるで当時の自分の姿が投影されているような気になって、描かれた世界に魅せられていったように思います。「ミゼット」「集団就職」「近所の人たちと皆でテレビを視る」「扇風機に向かって、アーアーッと叫ぶ」、自分が体験してきた懐かしい思い出でがそこかしこに散りばめられていました。
この作品は、「日本アカデミー賞」をはじめ、各映画賞を総なめにして、それまで「大病人」や「静かな生活」など伊丹十三作品でVFXディレクターを務めていた山崎さんを、映画監督として広く世に知らしめるものとなりました。「両親が真っ先に喜んでくれました」とおっしゃっていたのが印象に残っています。それまで、都はるみさん、バレンタイン監督、弘兼謙司さん、加山雄三さん、菅直人さん、みのもんたさん、矢沢永吉さんと50代以上の方ばかりをインタビューさせていただいてましたが、初めて41歳の山崎さんにお話を聞かせていただいて「これからは、年齢だけで括るのは辞めにしよう」と思いました。
その2日後の4月8日には、俳優で演出家でもある井田國彦さんの結婚式に招かれて八芳園へ行きました。井田さんには、嘗て梅田花月シアター時に、「吉本ブロードキャストショー」でお世話になった経緯もあり、出席させていただいたのですが、通された席が新郎新婦の真ん前の席で、周りを見ると俳優仲間の方ばかり、さして共通の話題とてなく、しばしばタバコを口実に席を外し、喫煙スペースへ避難をしていたのですが、席に戻る都度、同じテーブルについておられた、「必殺」に出てくる「組紐屋の竜」風にメイクされた京本政樹さんの存在が気になって、食事がろくに喉を通らなかったのを憶えています。とても長い披露宴で、終わったのが夜の9時前でしたから、ほぼ4時間、この苦行に耐えたことになりますね。
さらに、4月16日には、東京・日本橋の三越本店で開かれた「クールビズファッションショー」に参加をさせていただきました。「チームマイナス6%」のメンバーでもある三越さんが、中央区の企業に勤務するビジネスマン12名をモデルに、「夏の冷房設定を28度にしても、快適でカッコよく働けるビジネススタイル」をコンセプトにした「クールビズ・ファッション」を紹介しようと企画されたのです。環境省の委員でもあった私は、それに先立って、インタビューに答える形で、クールビズの意義をお話しした後、併せて「5ℓ」を発行した意図を説明させていただきました。三越さんの事前告知効果もあって多くの方がお見えになり、この日だけで「5ℓ」を、ほぼ1000部ほどお配りすることが出来ました。日曜日にも関わらず、出席させていただいた甲斐があったというものです。
原作となった漫画の三丁目の夕日
山崎貴監督
みんなでテレビを見ました
真ん中が鈴木一平君
井田國彦さん
スーツ姿でもこんなメイクを・・・
「クールビズファッションショー」の様子
インタビューにもお答えさせていただきました
そうそう、この年の4月29日には、10時半から白金の都ホテルで日本テレビの「ズームイン・スーパー」のVTR取材を受けた後、迎えのタクシーに乗って横浜の大桟橋に向かいました。この頃、年に1度は、横浜佐藤クリニックへ通っていたこともあって、この近辺の風景は多少見慣れたものではあったのですが、この日は免疫注射を打つためではなく、富士通労組さんが単一労組の結成55周年を記念して実施された、海外研修事業の「青春の船」に講師として参加をして、4泊5日で中国の天津へ向かうためだったのです。
富士通さんには、それまでにも何度か講演のご依頼を受けていたこともあり、その縁もあって、今回お声がけをいただいたのだとは思いますが、船内で90分の講演をするために、5日間も拘束されることにやや躊躇したものの、船旅という未知の世界と、船内に4室しかないロイヤルスイートに泊まれるという甘い囁きに負けて、お引き受けすることになったのです。
参加されたメンバーは、本社ばかりではなく、全国にある関連会社の社員やご家族の方々、それに私たち関係者を含めて526名、年齢は1歳から83歳まで、平均年齢は43.7歳だとお伺いしました。諸手続きを終えて、小雨の中、チャーターされた2万6千トンの「ぱしふぃっくびいなす号」に乗り込み、横浜港を離れました。船内では、午後3時から結団式、オリエンテーション、船長主催のウエルカムパーティと、たて続けにスケジュールが組まれていました。私は団長の荒籾一男さんや、副団長の山形進さん、実行委員の方々とお話をさせていただいて、9時頃に部屋へ帰ったのですが、ちょうどこの頃に下田沖に差し掛かり、外洋に出たこともあって、船に多少の揺れが生じた頃、無聊をかこつためにつけたテレビに映ったのが、海難事故を扱った映画「タイタニック」だったのです。縁起でもないと早々に切って、いつもより早く床に就くことにしました。
おかげで、翌30日はいつもより早く6時過ぎには目覚め、船は和歌山・新宮沖、朝食後に開かれた全員参加の避難訓練では、ことのほか真剣に取り組んだ記憶があります。その後8階のメインホールで6月に勇退される荒籾中央執行委員長による記念講演。「一生勉強、一生感動」という内容の感動的なものでした。参加メンバーの方々はそれぞれ10名くらいに分かれて、グループワークなどに取り組んでおられたのですが、私は時間を持て余して、一人デッキに出て外を眺めていると、ちょうど船は明石大橋にさしかかっていました。手を差し伸べれば届くような距離にある橋脚を目にして、つい「ここで降りれば帰れるのになあ」と不埒な思いに駆られたりしていました。
私が講演したのは、その翌日の5月1日、衛星回線を使って電話出演をした文化放送の「やる気マンマン」を終えた後の4時半、ちょうど船が五島列島から、韓国の済州海峡に差し掛かった頃だったと思います。約500人をお相手に話をさせていただいたのですが、務めを終えた解放感もあって、その後開かれた組合の方々との会食の席は、余裕をもって臨むことができたように思います。目的地の天津港に接岸したのは、3日の朝7時頃でした。そのあと入国審査を済ませ、歓迎式典に出た後、5班に分かれて中国内を3泊4日で訪ね、再び船で神戸港・晴海港へ帰られる皆さんと別れ、天津甘栗や天津飯を食べることもなく、一人、車で北京空港へ向かいました。
思えば、スタッフの皆さんや参加された皆さんから、多くの親切と感動をいただきました。その上ギャラまでいただけるのですから、「富士通って、なんていい会社なんだろう」と思いました。2時間程して空港に到着し、午後2時45分発のANA便で成田まで帰ったのですが、空港のイミグレーションの係官が、「朝の9時に入国をして、もう帰るのか、こいつ一体何をしに来たんだ?」と怪訝な顔で私を眺めていたのを憶えています。ツアーの皆さんはこの後、9日に神戸港を経由して東京の晴海ふ頭へ帰られたのですが、私が、西日本地区の方々が降りられる神戸港まで迎えに出向いたことは言うまでもありません。
じつは、この4年後の2010年にもお誘いをいただいて、チャーター船も「ふじ丸」に、団長も山形進さんに代わっていましたが、同じ「青春の船」に再び参加させていただくことになったのです。スイートルームで一人退屈して過ごした鐵を踏まぬようにと、この時、妻を同伴したのはいいのですが、北京へ着いた後、時間のない中、王府井や東方新天地などのショッピング街で引き回しの刑にあい、「こんなことなら、一人でくればよかった」と悔やみましたが後の祭り、「こうかい(航海・後悔)先に立たず」とは、まさにこのことですよね。
「ぱしふぃっくびいなす号」を背に
山形進 団長と
労組幹部とメインスタッフの方々
タイタニック号の沈没シーン
天津での歓迎式典
是為何来中国的?
後悔先に立たず
「5ℓ」8月号のインタビューのため、亀井静香さんを新宿左門町ビルの個人事務所に訪ねたのは5月29日のことでした。赤坂の料亭でお会いして以来、何度かテレビ局でお目にかかっていたこともあって、和やか雰囲気のうちに終えることが出来たのですが、部屋中に所狭しと自作の絵が並べられていたのが印象に残っています。私の発言のせいで歌手への道を断念された亀井さんは、今度は画家への道へ進まれようとされているのかと思いました。帰り際、ふと「この絵は1億円の値が付いたんだよ」とおっしゃっていましたが、その真偽のほどは定かではありません。
明けて30日は、いよいよ60歳の誕生日。ついに還暦を迎えることとなりました。当日は、招かれて、夜9時頃から大阪の桜川にあるライブハウス「MONTAGE」で仲間から誕生祝いをしてもらったのですが、内心「めでたくもあり、めでたくもなし」という複雑な心境ではあったのですが、せっかくの心遣いに乗ってみることにしました。ごく内輪の会を予想していたのですが、扉を開けてビックリ、予想外の顔、顔、顔。なんと、ニューハーフクラブ「リリアン」のオーナーというより、タレントとして活躍されていたリリアンさんまでを含めて、独立後にお世話になった方々の笑顔が待ち受けていました。その上お気に入りの「鮎ラーメン」の出前や、ルビー天禄さん、ムッシュ・ピエールさんによるマジックショーまでがあり、至福の時を過ごすことになりました。加山雄三さんではありませんが、「ボカァ幸せだなあ」と叫びたい心境でしたね。
ただ、この時には「ジジ臭い」イメージの「還暦」という言葉を嫌っていた私の心を忖度してか、出されてきたケーキには「祝60歳力」と言う言葉しか書かれていなくてホッとしていたのですが、翌年4月14日にKOKOPLAZA(大阪市立青少年センター)で開かれた、「有名塾スペシャルエディション」の際には、どうしても、着なきゃいけない羽目になりました。古布のデザイナーで、塾生でもある赤野安さんの作とあっては、どう考えても、お断りするわけにはいきませんからね。
6月16日には、稲増龍夫教授からのご依頼もあって、客員教授を務める一口坂の法政大学大学院ビジネススクールへ出かけました。ここは、1年でMBAを取れることが売りで、受講者はイノベーションマネジメント専攻の院生で、主に企業からの派遣や、起業家を目指す30歳前後の人たちでした。ナビゲーターを務められた稲増教授の「気楽にお話しください」という誘いだったこともあって、軽い気分で出かけたのはいいのですが、タイムスケジュールを見て、少々うんざりした気分に陥りました。「ビジネスコンテンツ論」に沿った話を90分話して、ここで開放されると思っていたのですが、その後、休憩を挟んでもう90分間、院生たちから「団塊の世代向けのビジネスサービスプラン」のプレゼンを受けると書いてあるのです。「講演2回分なら○○円なのに・・・」と頭の中でセコイ計算を巡らせながら、室外の喫煙スペースでタバコを燻らせながら、ここまで来て帰るわけにはいかないけれど、ひょっとして、いいアイデアが出たら「5ℓ」の方で使えるかも?と思い直して再び教室へ戻ることにしました。
プレゼンされたプランは、危惧していた通り、「太極拳を教える中高年テーマパーク」や、「高齢者イベントサークル」などターゲットを取り違えたものが多くてがっかり。なかには、「おやじバンドのレコーディングサービス」や「日本酒造りの杜氏体験」など、もう「5ℓ」で実施しているものもあったのですが、完成度の点ではやはりイマイチと言わざるを得ないものでした。
そんな中で、一人の院生が突然、「個人的には団塊の世代には、酷い目にあってきたので、こんなオヤジたちを相手にビジネスをしたくないと感じています。この世代は、成功体験に酔っている傾向があり、バブルの時代に、能力もないのに社長や役員になっていった失敗未経験者達でもあるんです。」と発言したのです。「えっ?団塊の世代って、そんな風に見られていたの?」予想外の発言に、問い質すと、横にいた稲増教授までが「そうですよ!団塊世代のすぐあと(1952年)に生まれた私も、団塊の世代にはひどい目にあって来ましたよ」とおっしゃったのです。「えーっ、そんな風に思われてたの?知らなかった」と、衝撃を受けてしまいました。
そんな彼が提案したのが「週1回、あなたには社長として弊社に出社していただきます」というサービス、名付けて「社長カフェ」。現役時代に叶わなかった社長としての時間を“もえ系の可愛い秘書”と共に満喫するというものです。一瞬、「なめとんのか!」とツッコみたくなったのですが、そこは理性を働かせて抑えて帰途についたのですが、帰る道すがら、「もしかしたら、意外にイケるかも?」と、思い直すことにしました。
笑顔がとてもチャーミングな亀井さん
自作の絵に囲まれた亀井さん
「MONTAGE」の店内
もうちょっと何とかならんかったん?
お花まで・・・
こんなに多くの人が・・・
何とシャンパンまで・・・
ムッシュ・ピエールさん(左)と、ルビー天禄さん(右)
リリアンさん(左)と、ルビー天禄さん(右)
KOKOPLAZA
ついに赤いチャンチャンコを着ました
団塊の世代に「酷い目にあった」稲増教授
映画でも秘書は美人と決まっています
こんなイメージ
・・・ではありません。