そんな時、私の中に、子供のころから地元のKBSラジオでいつも耳にしていた「暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけましょう」という言葉が浮かんできました。たしか、「心のともしび」というタイトルで、京都司教区・河原教会のジェームス・ハヤット神父が私財を投じてつくられたカトリック教の布教番組だったと思います。キリスト教徒でもない私が、なぜこの番組を聞いていたのか分からないのですが、なぜかこの言葉だけは私の脳裏に深く刻み込まれていたのです。
「明かりを灯す」ということで言うと、この年の3月14日に、「東山花灯路」を見に行きました。2003年から、3月の中旬に10日間ほど開かれるようになった催しで、東山山麓の青蓮院から、知恩院・円山公園・八坂神社・大雲院祇園閣・ねねの道・高台寺・圓徳院・石塀小路・一年坂・二年坂・産寧坂・清水寺まで、4.6キロの道を2400基の行灯で照らし、早春を告げる夜の観光イベントにしようというものでした。名所の神社仏閣が夕方に閉じて、行き場を失っていた観光客にウケて、100万人が訪れるようになったといいます。私が訪れたこの日は雨上がりとあって、濡れた路面に灯された行灯の光がことのほか美しく映えていたように思えました。
鶴田浩二さんの「傷だらけの人生」の歌詞にあるように、「何から何まで 真っ暗闇よ~♪」と悲観ばかりをしないで、「灯りをつけて、何か前向きになれる言葉ってないものかな?」と考えていたところに浮かんだのが、「5ℓ(ファイブエル)」という言葉でした。「人生が10ℓだとしたらまだ半分の5ℓ」という意味でしたが、この5つのℓに意味を持たせて、LIBERAL,LAUGH,LOVE,LINK,LIVE、「寛大な気持ちで、笑ったり、恋したり、人と繋がって、生き生きと、人生を過ごそう!」と提言することにしたのです。
実は、「2007年問題」にはもう一つあって、「熟年離婚が増える」とも言われていたのです。2007年の4月からは、厚生年金の分割支給が出来るようになって、奥さんたちが手ぐすねを引いて、その時を待っているというのです。そんな状況を防ぐためにも、「自らの干物化を防いで、鮮度を保ちましょうよ!」と訴えたかったのです。
マンガの「サザエさん」に登場する、お父さんの磯野波平さんの設定年齢は54歳とされていますが、連載が開始された終戦直後の男性の平均寿命が50.6歳時のもので、当時の定年は55歳でした。まあ、今にして思えば、定年1年前のおじさんなら、あの立ち振る舞いも理解はできるのですが、この2005年時には、男性の平均寿命は78.53歳、定年も60歳に延びていたのですから、(多少の自戒の意も込めて)「従来の組織優先型のマインドから、リセットをしなくてはいけませんよ」という呼びかけでもあったのです。
この世代は、常に新たな市場の担い手として注目され、「少年サンデー」・「少年マガジン」でマンガブームを支え、長じて「平凡パンチ」・「週刊プレイボーイ」を読み漁りアメリカ文化の影響を受けて、Gパン、Tシャツ、パンタロン、ミニスカートなど、それまでになかった若者風俗を定着させました。また、来日したベンチャーズやビートルズの影響などもあって、ロック、コカ・コーラ、長髪などの欧米カルチャーの虜になり、社会に出ては、「ニューファミリー」、「ニューサーティ」として新しい消費をリードし、我が国の主要産業となる電気製品や自動車を購入、マイホームを取得して不動産価格を引き上げ、ファミレスやファーストフード新産業などを支え、大量生産・大量消費で高度成長を支えた存在でもありました。ただその一方で、「戦後経済の復興と、それに続く高度成長期の中で、上昇志向を植え付けられて、それがライフサイクルの中に反映している世代」という批判もありましたが、人口構成上、最大のボリュームゾーンでもあるこの人たちが、「もし、しょぼくれてしまったら、一体この国はどうなっていくのだろう?」という危機意識を抱いてもいたのです。
「暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけましょう」
とはいえ、勝手に火をつけると・・・
罰せられます
ミニスカートブームの源になったツイッギー
ビートルズ来日公演
磯野家の食卓
ニューファミリー
こうして協議を重ねるうちに、「5ℓ」をどこか安手のイメージが付きまとう「フリーマガジン」という言葉ではなく、無料誌ではあるけれどグレード感のある「プレミアムマガジン」と呼ぶことに決め、この「5ℓ」を核に、5~60代に向けて事業を展開する「ライフエンタテイメント社」を設立することになりました。この趣旨にご賛同をいただいた人材派遣大手で、教育事業も手掛けておられた「ヒューマン・ホールディングス」さんや、コンテンツ著作権管理会社の「ジャパン・デジタル・コンテンツ信託」さんからのご出資をいただくことが決まり、社長には、先に株式会社先駆舎を設立し、このアイデアのヒントを提供してくれた眞邊明人君が就いて、私は「5ℓ」の編集長を務めることになりました。今風に言えば、眞邊君がCOO(チーフ・オペレーティング・オフィサー)で、私がCCO(チーフ・コンテンツ・オフィサー)といったところでしょうか。6月22日、ヒューマンアカデミー心斎橋本校で開かれた記者会見には、ヒューマン・ホールディングスの佐藤耕一社長や、ジャパン・デジタル・コンテンツ信託の土井宏文社長にもご出席をいただき、スタートを切ることになりました。ただ、掲載された記事を見ると、その多くが「フリーペ-パー」や「団塊世代」という旧来の言葉で書かれていたのは、いささか残念ではありました。
次いで6月26日には、大阪商工会議所で開かれた、朝日新聞主催の「迫られる自治体改革~大阪市は変われるのか」というシンポジウムに出席して、4月から大阪市改革本部のメンバーに就任された上山信一慶応大学教授の基調講演に続いて、新藤宗幸千葉大学教授の司会で始められたパネル討論会に、関淳一大阪市長、片山善博鳥取県知事、市民団体「見張り番」代表世話人 松浦米子さん、上山信一さんらと共に参加をさせていただきました。討論会が終わって、新藤さんに、「パネラーは思っていることを言ってればいいけれど、それを集約するのって、大変ですね!」と声を掛けたのを憶えています。きっと、手慣れておられたのでしょうが、その手際は見事なものでしたね。
さらに7月5日には、大阪府立大学の理事で、「経済効果の大家」として知られた宮本勝浩教授と共に、前年6月に吉本興業を退職されていた中邨秀雄前会長と会食をしました。場所は、当時府立大学が社会人向けのサテライトキャンパスを開いていた、難波パークスにある「酉の宴」という店でした。実は、中邨さんには、前年の8月26日に、大阪の厚生年金会館大ホールで催された、ブロードウェイ・ミュージカル「ブラスト!」の公演の際に、車いすに乗られた奥様を自ら押してお帰りになられるのをお見掛けして、一緒に行っていた松川君共々、お手伝いをすべく駆け寄ったことがあったのです。その際は「いやいや・・・」と我々を制して、車に乗り込まれるのを、ただ見送っただけのことでしたが、面と向き合って言葉を交わすのは、私が退職して以来、この日が初めてのことでした。中邨会長も既に退職されていたこともあって、前の会社のことよりも、専ら近況のことばかりを話したように記憶しています。
そうそう、この場には、松川君と、もう一人、お茶子さん代わりの大谷由里子君も同席をしていました。どうせなら、もう少し可愛い女性がいればよかったのですが、大谷君の持ち前の明るさが、場の雰囲気を和ませてくれたことは確かでした。ともあれ、おかげで退職の際、中邨さんにきちっとご挨拶をできなかった、胸の「しこり」のようなものが溶け、機会をお創りいただいた宮本先生には感謝の他ありません。宮本先生には、7月1日に開かれた関西民放連主催のラジオ教養部門の番組審査会でも、作家の阿部牧郎さんと共に審査員を務めたこともあり、親しくさせていただいていたので、この際に、中邨会長と私が辞めた「経済効果」をお伺いしようかとも思ったのですが、「大幅にプラスの効果が○○億円も出ます」と返されるのが恐ろしくて、ついにそれを口にすることは出来ませんでした。
「ブラスト!」12種の金管楽器、51種のパーカッションなどを操るヴィジュアル・アンサンブルが魅せます
「酉の宴」
右から、宮本教授、私、中邨さん、大谷君
中邨秀雄さん
宮本勝浩教授
こうした日々を送る中でも、芸能に関するコメントを求められる機会もあり、7月1日の毎日新聞の「ワイド インサイド」というページで、当時の芸能界を席捲していたピンク・レディについてコメントをしたり、7月8日の朝日新聞の「三者三論・笑いの時代到来?」というページでは、放送作家の高田文夫さんや、日本テレビ・エグゼクティブディレクターの五味一男さんと共に、自分なりに思う所を話させていただいたりしていました。
とはいえ、この時期、やはり気になっていたのは「5ℓ」のことで、スタッフと協議を重ねて、9月の創刊記念号に続いて、11月から毎月1日に東京・関西圏を中心に、近畿日本ツーリスト、ツーリストサービス、ツーカーホン関西、ダイソー、大阪日本交通、メガネのパリミキさんや、銀座、神楽坂、神田神保町、北新地、法善寺横丁の他、京都や神戸の名店にも置かせていただくことが次第に固まっては行ったのですが、肝心の誌面作りとなると、専門家が誰もおらず、アドバイスを求めたのが新潮社に居られた宮本和英さんでした。
宮本さんは、ファッションを中心に、思春期の女の子のライフスタイルを扱う雑誌「ニコラ」の創刊編集長で、2000年代にはジュニアファッションブームや、ニコモと呼ばれる専属モデルの人気で部数を急増させ、2002年にテレビ東京で「Party Party」を、2004年にテレビ大阪で「ニコモノ」などの番組を立ち上げる一方、2003年からは伊藤忠と共同でファッションブランド「Girl is Girl by nocola」を展開、その功あって、2003年からは新潮社内に新しく設立された「nicola事業部」の部長職に就かれていました。当時、「ニコラ」の表紙を飾った岡本玲や虎南有香などのタレントを、先駆舎がマネジメントをしていた縁で眞邊君とは近しい間柄ということもあって、以降何かと相談に乗っていただくことになりました。結果、編集業務を新潮社OBの宮島正洋さんのアートデイズに委託をして、アートディレクションをグラフィック・デザイナーの川畑直道さんにお願いすることになりました。
創刊記念号の巻頭インタビューには、私より2歳下、ちょうど5ℓ世代ど真ん中の都はるみさんにお願いすることに決め、7月25日に、私が出演していた「やる気マンマン」の放送終了後に、文化放送から用意していただいた応接室で行うことになりました。京都に生まれ、1964年に16歳で「困るのことヨ」でデビュー、続いて出した「アンコは椿恋の花」がミリオンセラーとなり、20年間でレコードとテープを合わせて630億円もの売り上げを達成した絶頂期に、「普通のおばさんになりたい」と、名セリフを残して引退をされて、5年後に再び復帰された心境などを伺いました。個人的には、復帰後第1作となった「小樽運河」が、しみじみと心に沁みる名曲であったような気がして、のちに小樽を訪れた際に、つい口ずさんだような気がしています。
この他に、特集の「挑戦する人々」では、主婦から役員にまでなられた「東横イン」の5ℓ世代の女性や、5ℓ世代の写真家が着る「秋の休日スタイルはブルーシャツが主役」、5ℓ世代の奥寺康彦さんが関わる5ℓ世代のサッカーチーム「横浜スコーピオン」を取り上げた「素晴らしき仲間交歓」。連載では、「赤瀬川原平の世相ななめ読み」、童門冬二・選「5ℓ川柳大賞」、ラジオ深夜便のアンカーを務めた立子山博恒さんの「愉悦のJAZZ私の名鑑」、オールナイトニッポン初期からのディレクター「中川公夫のリレーエッセイ・気分はRONIN」や、TBSラジオ「荒川強啓デイキャッチ」とタイアップした「笑うしかない不幸な話」「近藤勝重のマンスリーコラム」など、バラエティに富んだラインナップとなりました。
宮本和英さん
岡本玲さん
虎南有香さん
都はるみさん
振り返ってみれば、この2005年というのは歴史的な節目となった年で、第2次世界大戦終結から60年、自由民主党が発足し、いわゆる55年体制が確立してから50年でした。さらに言えば、日銀が山一証券に特別融資をし、山陽特殊製鋼が倒産してから40年、ベトナム戦争終結から30年、プラザ合意、日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故から20年、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、円最高値79.75円から10年、と続き、この年にも、2月に温暖化防止のための京都議定書が発効されたり、3月に郵政民営化法案の国会提出、4月に預金を保護していたペイオフの解禁と続くのですが、実は、私自身にも、大きな出来事が起ころうとしていたのです。
たしか、4月の初めの頃だったと思います。いつものように事務所を後にして、エレベーターを待っている私に、思いつめたような顔をして近づいてきた松川君が、「実は結婚をするので、秋に退職をしたいのですが・・・」と訴えたのです。年ごろの女性が結婚をするのは当然のことで、そのこと自体には驚かなかったので、再度オフィスに引き返して、「なんで辞めなきゃいけないの?新居から通えばいいじゃん」と聞くと、何とお相手が山梨の方だというのです。聞けば、東京で知り合ったとかで、その後、郷里の山梨に帰って、教師をされている方だということが分かりました。
「それにしても、いつの間に?」というのが、正直な感想でした。事務所には私より早く来て、遅くに帰り、「朝ズバ!」などは家で見ていればいいものを、それでは臨場感が湧かないからと、わざわざ、朝早く事務所に出て見るほど完璧に仕事をしている中にあって、どう工夫をして時間を割き、愛を育んでいたのか、私には理解できませんでした。その後、酒好きの彼女の口をなんとか割らせようと、4月18日に阿倍野の松虫にある、元吉本のタレントの佐々木さゆりさんが引退後にご主人の和記さんと、実家の酒屋さん内で営んでいた「おかぽん」や、26日に、かつて任侠映画を見に通った東映会館の跡地に建てられた、ファッションビル「E - MA」内のシネコン7で「サハラ・死の砂漠を脱出せよ」という映画を見た後、ビル内にある「うおまん」という居酒屋さんへ誘い、手を変え品を変えて聞き出そうとしたのですが、酒豪の彼女はケロッとして、それまでのいきさつなどを話すことは、決してありませんでした。
もちろん慶事とあって、そのこと自体は喜ばしいことではあるのですが、彼女の完璧な仕事ぶりを見ているだけに、「その後釜を、どうやって見つければいいのか?」と、途方に暮れるばかりでした。偶然の出会いとはいえ、吉本時代に初めて秘書に付いてもらい、その後、私が会社を辞めてからも、一緒に事務所の立ち上げに力を尽くしてくれ、今日まで曲がりなりにもやってくることが出来たのは、総て、彼女の存在を抜きにしてはあり得なかったからです。彼女の名刺の肩書を「パートナー」としたのも、その意を込めてのことでした。思うに、彼女が結婚式を秋にしたというのも、多分、事務所を開設して3年になるということを考えてのことだったのではないか思います。
「石の上にも三年」という言葉があるように、三年というのは一つの区切りをつける時なのかもしれません。ファッションの世界でも、暖色と寒色の流行は三年ごとに入れ替わるとも言います。今思えば、吉本を辞めて三年経ったこの時、彼女が離れるということは、「基礎は固めましたから、そろそろ次のフェーズへ移行してくださいね、」というシグナルであったような気もします。
そんな彼女に感謝をこそすれ、恨むのは筋違というもの、ここは何としても、笑顔で送り出してあげなくてはなりません。とはいえ、「ポスト松川をどうしょうか?」を考えると、まるで自分が、死の砂漠から脱出しようともがく、トレジャーハンターの主人公ダーク・ピットであるかのように思えましたね。いずれにしても、結婚相手を一発で射止めた彼女の腕の確かさには、「さすがアーチェリー部出身だけのことはあるな!」と感心する他ありませんでした。
「おかぽん」のご夫妻
岡本ファミリー
酒豪で顔色一つ変えない松川君
女主人の小百合さんは、かつては吉本に所属していました
E-maビル
うおまん
こんな感じ
こんな感じ
松川君
こんなことしていていた人も
こうして、松川君の後釜を考えなければならない状況に陥ったわけですが、ただ座して待っているわけにもいかず、それとなく周辺をあたって候補者を探すうち、2人の候補が浮かび、さっそくお会いする運びになりました。まず、お目にかかったのは、テレビ局や広告代理店で、事務職として働いていた方なのですが、即戦力とはなっても、私の仕事にいまいち興味があるようには思えなかったこともあって、お断りをさせていただきました。ただ務めるのなら、先行きの分からない我が事務所などより、安定した企業へ務めた方がいいに決まっています。次に、候補として浮かんだのが、制作会社に勤務している女性で、キャラクターや手腕共に申し分のない方だったのですが、私にとって悪いことに、年末までどうしても離せない仕事を抱えていたこともあって、「来年からなら!」と言ってはいただいたのですが、松川君がいなくなって以降、2カ月あまりの空白期間を置くわけにもいかず、この人も諦めざるを得ないという状況に追い込まれていたのです。
ちょうどその頃でした。たしか5月10日のことだったと思います。たまたま、リクルートの関西支社で営業を担当していた澤直子さんから、彼女が敬愛する「先輩の渡瀬ひろみさんが来阪されるので、一緒に食事をしませんか?」というお誘いがあったのです。渡瀬さんはブライダル情報誌「ゼクシイ」の生みの親で、その後も数々の新規事業の立ち上げにも携わってこられた方で、私が一柳さんから誘われて当時審査員を引き受けていた「EOY」(アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー・ジャパン)で世話人をされている際に、何度かお目にかかっていたこともあって誘いに乗り、松川君共々、北新地の「吹上庵」という薩摩地鶏の店へ出かけました。そうそう、澤さんも、一柳さんが大阪で始められた「ベンチャー・コミュニティ」をお手伝いされていて知り合ったことを考えると、お二人とも一柳さんがらみで知り合ったことになるわけです
私以外の女性陣は、3人とも「いける口」だったこともあって、90種の焼酎と20種の日本酒を揃えた店が気に入ったようで、大いに盛り上がり、私がふと、「実は松川君が、結婚のために秋に退職をするんだ」と伝えたところ、酒の勢いもあったのか、ノリのいい澤さんが「じゃ、私が行こうかな?」と口走ったのです。
それから4日後の14日のことでした。私が大阪の南港にあるATCホールで開かれるリクルート主催の「FC独立開業フェア」で講演をする前に、ぜひ会いたいという電話が、澤さんから入ったのです。「まさか、あの話を真に受けて!」とは思ったものの、「彼女には彼女なりの考えもあってのことだろう」と考えて、近くにある大阪ハイアット・リージェンシーホテルで会うことにしたのです。聞くと、彼女は3年契約で入ったリクルートの営業職を、この春に契約を更新をしたばかりだというのに、既に「退職して我が事務所に入りたい」と直属の上司に伝えたというのです。
思いもかけなかった話に戸惑いつつ、そこまでされては、こちらも後に引くわけにはいきません。彼女の意思を真摯に受け止めて、松川君の後を彼女に委ねることに決め、週明けの23日に、事務所ビル地下にあるワインバーの「イーバン・ミルソン・オンズ」で松川君にその意向を伝えました。10月には結婚式を控えていることもあって、松川君には8月末まで勤めてらうことにして、それまでに澤さんとの引継ぎをしてもらうことになったのです。例え、歩んできた業界は違っても、その前向きな姿勢と、持ち前の明るさで、澤さんならきっと頑張ってくれるだろうという予感もありました。
しばらく経って、いつしか松川君が結婚退職することが皆に伝わり、彼女の人徳もあって、あちこちから送別会の声がかかり、おかげでその都度、私もご相伴にあずかることができました。
そうそう、この年の夏休みは、「朝ズバ!」が世界陸上で放送がないこともあって、8月12日からトルコへ行くことにしていたのですが、前日に、シューズメーカーの「月星化成」(現「ムーンスター」)さんの講演で久留米へ行き、そのまま福岡空港から羽田まで帰るはずが、肝心のパスポートを大阪の実家に置いたままだと気が付いたのは、久留米から福岡空港へタクシーを走らせている最中でした。「さて、どうするか?」、既に予約をしていた19時45分福岡空港発の羽田便を急遽キャンセルして、博多駅に向かい、20時7分発の新幹線のぞみ号に飛び乗り、新大阪に22時28分に着き、実家のある枚方市の楠葉までタクシーで帰宅、パスポートを携えて翌日朝8時40分伊丹発の飛行機で成田に向かい、妻と合流をして12時5分発のエアフランスで、無事に経由地のパリへ向かうことが出来ました。
とっさに、この手を考えることが出来たのは、私がマネージャーをやっていた頃の経験が生きたとも言えますが、妻との詳細な連絡や、実際にチケットの予約などをしてくれた松川君のおかげでもありました。旅行中も、イスタンブールからアンカラまで夜行列車で移動した日を除いては、行く先々のホテルに、先回りをしてその日のレポートをしたFAXが必ず入っていました。今でも、松川君は、最後まで完璧なパートナーを務めてくれたと感謝をしています。
三者問題「どれが正解かなあ?」
(左)渡瀬ひろみさん (右)澤直子さん
北新地 吹上庵
店内には各種の酒が・・・
鶏刺し
鶏なべ
ATCホール
リクルート主催の「FC独立開業フェア」にて渡瀬さんと
大阪ハイアット・リージェンシー・ホテル
月星火成 田中久義 社長
飛んでイスタンブール
(左)松川さん (右)澤さん
イスタンブールからパリを経由して成田に着いたのが8月18日の朝7時50分、自宅で仮眠をとり、午後2時から3時間の5ℓ編集会議を終えて帰宅し、不在時の新聞に目を通すなどして10時には、エコノミー症候群でむくんだ足を抱えつつ、早々と床に就きました。19日は「朝ズバ!」のため3時半に起床、時差ボケと早起きのためボーっとしながら迎えの車に乗り込み、スタジオへ入ると、なんとこの日のゲストが亀井静香さんでした。本番を終えて、ラジオ局へ移動し、「ゆうゆうワイド」の「人生相談コーナー」を3週分収録、11時半からは「東洋経済」誌での産業再生機構COO富山和彦さんとの「日本の教育とキャリア形成」というテーマで対談、新幹線で大阪へ移動して、オフィスで夕刊フジの連載コラムの原稿を書き、7時から、本町の隠れ焼き鳥バー「Birds Bar」で開かれた、先駆舎メンバーによる松川君の送別会が終わったのは、もう日付が変わる頃のことでした。
翌20日はゆっくり寝て、東京へ移動、「ブロードキャスタ―」に出演、この日のアンカーマンは元三重県知事の北川正恭さん、私と共にゲストコメンテータ―を務められたのは、宣伝会議編集長の田中理沙さんでした。生放送が午後11時 46分に終わった後、お世話になっていたAPの石井邦子さん、田中理沙さんらと共に、西麻布の和食居酒屋の「身土不二」で松川君の送別会・東京篇を開いていただきました。終わったのは確か午前3時頃だったと思います。後で聞いたところによると、松川君が石井さんにお願いをして、何とか自分が退職する時までに私をブッキングして欲しいと頼んでいたようなのです。たしかに大阪へお誘いをして、一緒に遊んだことがあったとはいえ、無理な願いを聞いていただいた石井さんや、遅くまで付き合っていただいた田中さんには感謝する他ありません。それにしても、そんなお願いをできるほどの人間関係を、いつの間にか築いていた松川君には驚く他ありませんでした。
8月一杯で松川君は退職をして、9月26日に新郎となる小串吾郎さんと共に大阪の全日空ホテルで落ち合って、北新地の「蘆月」で会食をしました。小串さんは、見るからに真面目そうな方で、私を上司に選んだのはともかく、小串さんを生涯の伴侶に選んだ彼女の選球眼の確かさに感心したのを憶えています。
結婚式と披露宴は9月29日、小串さんの実家のある山梨県・甲府駅前の「ベルクラシックホテル」で行われました。土地の習慣でもあったのでしょうが、青年団や隣組の方々なども参加されて、およそ3時間ほどかかったように記憶しています。東京からは、出版等でお世話になっていた刈部謙一さん、大阪からは、ライフエンタテイメントの森脇達哉さんが駆けつけてくれました。次いで11月12日、今度は、松川君の実家のある大阪・心斎橋の日航ホテルで、再び結婚披露宴が催されました。この際は、私も家族4人で参加をさせていただき、せめてもの餞(はなむけ)になればと、京都から芸妓さんに来てもらって、祝舞を披露してもらったり、元力士の大至さんに東京から来て頂いて、めでたい相撲甚句を歌っていただいたりしました。眞邊明人君や、大谷由里子さんも、わが家族と同じテーブルでしたね。参加人数こそ、甲府には及ばなかったものの、ゲストや、新婦の同級生・友人らのスピーチなどコンテンツの多彩さもあって、やはりこちらも3時間ほどの長い宴となりました。
その後は一旦至近距離にあるオフィスに戻り、家族を心斎橋のホテル「ヴィラ・フォンテーヌ」に泊め、私だけは実家の楠葉へ帰り、翌朝再びホテルへ家族を迎えに行ったのですが、その後は、リクエストもあって道頓堀界隈の探訪に付き合わされて、「極楽商店街」で塩タコ焼きを食べ、階下にあるグリコショップの「ぐりこや」を覗き、「くいだおれ人形」の前で写真を撮り、垂直にしか登れない「ドン・キホーテ」の観覧車に乗り、法善寺横丁の「水かけ不動」や「夫婦善哉」などに付き合わされて、フラフラになりながら皆と一緒に帰京したのを憶えています。
冨山和彦さん
本町の「Birds Bar」
TBS「ブロードキャスター」
田中里沙さん
西麻布の「身土不二」
ホテル「ベルクラシック」
大阪日航ホテル
大至さん
道頓堀
極楽商店街
1階にあった「ぐりこや」
くいだおれ人形
ドンキホーテの観覧車
左から、映画評論家の渡辺祥子さん、石井邦子さん、私、田中理沙さん
水かけ不動
夫婦善哉
一方、8月26日には有名塾の2周年企画として、井筒和幸監督をお招きして大阪日航ホテルでイベントを開催することになりました。ちょうどこの年の1月には井筒さんが監督をされた映画「パッチギ」が公開されて、キネマ旬報でベストテン1位に選ばれ、毎日映画コンクール最優秀作品賞やブルーリボン賞作品賞に輝いたこともあって、ご多忙を極めた中ではあったのですが、スケジュールをやりくりしてお付き合いいただくことが出来ました。セッションの中では、2人の出会いの頃から始まって、「ガキ帝国」や「岸和田少年愚連隊」などの話をさせていただきました。なかでも、91年に「東方見聞録」の撮影中に、エキストラの方が溺死され、制作会社のディレクターズカンパニーが倒産したこともあって、遺族への補償金などをすべて監督である自身が負担されたと聞いて、その過酷さと共に、それを一身で受けられた男気に感動したのを憶えています。イベントが終わって、心斎橋の和風ダイニングの「粋家」という店で10時から始まった打ち上げには、イベントをサポートしてくれた先駆舎の木村英司君や猪瀬君、川口君らと共に、澤君も参加して、しばし映画談議に花が咲きました。イベントの最後に退職する松川君と、次を担うことになった澤君を紹介して終わったのですが、松川君は、この打ち上げには参加することなく会場を後にしました。これも「これからは、あなたがやるのよ!」と澤君を前に出す、松川君の思いやりだったような気がしています。
明けて、翌週の8月31日には、高槻市で開かれた社会民主党の辻元清美さんの個人演説会に出かけました。ところが、これが新聞で報道されたために9月2日~16日まで、都合3回も「朝ズバ!」の出演を辞退することになったのです。前回の選挙の際には、堺市の顧問を辞職する羽目になり、今回は「朝ズバ!」を3回休むことになったわけです。せめてもの慰めは、辻元さんが比例近畿ブロックで当選をして、3年5か月ぶりに議員への復帰を果たされことですが、残念なことに彼女の所属する社民党・前党首の土井たか子さんは、自らを比例最下位にランクしていたために、当選を果たすことは出来なかったのです。
次いで、9月3日には、自民党の選挙に立つことになった中川泰宏さんの応援演説会に、京都の八木町へ出かけました。JA京都の会長としてお付き合いをさせていただいてきたのですが、この選挙では郵政族のドンとして知られた野中広務さんの推す、前亀岡市長の田中英雄さんへの刺客として、大文字の送り火の日に、小泉総理から直々にあった出馬要請に応えたものでした。結果は、わずか156票の僅差での当選となりました。
さらに、9月9日には、山梨市民会館で開かれた民主党の小沢鋭仁さんの決起集会に出かけたのですが、こちらは2000年に自民党の元建設大臣・中尾栄一さんを破り、連続当選中ということもあって、スタッフの皆さん方にも、さほどの緊迫感はなく、無事に山梨1区で連続当選を果たされました。
このように、応援演説に行かせていただいた方々は、政党に関わらず、それぞれに個人的にお付き合いのあった方ばかりで、しかも私自身が投票権を持たない地域ばかりだということもあって、それぞれの政党が違うことなどは、さほど気にも留めてはいなかったのです。ともあれ、台風の日に、降りしきる雨と強風の中、京都で共に食事をさせていただいた、中川泰宏さんと辻元清美さんのお二人共が当選されたのは、私にとって望外の喜びとするところでした。
朝日新聞の掲載記事(2005年7月16日掲載)
「パッチギ」の製作発表
(左)澤直子さん(右)松川真弓さん
辻元さん当選
土井たか子さんは残念ながら・・・
(右下)中川泰宏さん
小沢鋭仁さん
9月11日の第44回衆院選の際には、大雨の中、近くの白金小学校で投票を終えて自宅へ向かっていると、投票所へ向かっておられる小林由紀子さんにお会いしました。小林さんはNHK時代に「おしん」を始め、数々のヒットドラマを手掛けられ、90年には女性初のドラマ部長、91年に制作局長になられた方で、フリーになられて以降も、高倉健さんや、樹木希林さんなどを起用したドラマの制作や、「日経WOMAN」で「サラリーウーマン幸せ研究所」という連載ページを持たれていました。私との接点はドラマ絡みではなく、TBSの「ブロードキャスター」で何度かコメンテータ―としてご一緒したくらいしかなかったのですが、「あら!木村さん」と声を掛けられ、吉永みち子さんや、ドン小西さんに続いて、小林さんも同じエリアに住まれていることに驚きました。
次いで13日には、残間里江子さんが、シニアに向けた新しいライフスタイルを提案すべく設立された、「クリエイティブシニア社」のパーティが開かれる表参道の「アニヴェルセル・カフェ」へ出向きました。会場には筑紫哲也さんや、日本で初めて「デジタル・アーカイブ」という言葉を提唱された月尾嘉男東大名誉教授や写真家の立木義浩さん等の顔ぶれが揃い、いつものことながら、残間さんの交友関係の広さに感心させられました。
さらに、9月17日には、「六本木アカデミーヒルズ40」で開かれた、日経新聞社広告局主催の、個人投資家向けIRフェアで10時から講演。午後には私が文化放送でお世話になったジャーナリストの蟹瀬誠一さんと、トレーダーの若林史江さんのセッションもあったようですが、残念ながら所要のため、それを拝聴することは叶いませんでした。
翌18日には、11月から定期発行をする5ℓ創刊号の巻頭対談のため、千葉ロッテマリーンズを人気球団に変えた秘訣を探るべく、ボビー・バレンタイン監督を千葉マリンスタジアムに訪ねました。超多忙な監督を試合前のベンチで待つうちに、自転車に乗ってグランドに現れた監督のカッコよさに見とれながら、顔なじみの高橋慶彦コーチと話をしているうちに、インタビューの時間が来ました。監督はとてもクレバーな方で、「この人なら、日本のプロ野球のあり方を変えてくれるのではないか」と思いましたね。そうそう、この日はバレンタイン監督とのポスターを撮るために、元監督の金田正一さんも、やはり同じベンチで待機をされていましたね。
また、22日には、三菱商事フューチャーズ主催の「経済セミナー2005」で講演。セミナーは都合4回開かれ、東京と福岡を経済アナリストの森永卓郎さん、大阪を慶応義塾大学教授の島田晴雄さん、お二人とも「日本経済の展望」というタイトルで講演されたのですが、自分の展望さえ描けない私にそんな大きなテーマを語れるわけもなく、ささやかに「木村流オンリーワンのすすめ」とさせていただいて、名古屋の第二豊田ホールでお話させていただきました。
23日には、ようやく辻元さん絡みの謹慎が明けて、久ぶりに「朝ズバ!」に復帰することが出来たのですが、やはり3週間とはいえブランクは大きく、みのさんのファミリームードが漂うスタジオの雰囲気に、やや戸惑いを覚えてしまいました。
翌24日には、23時10分から24時40分まで、5ℓのパブリシティもかねてNHKの「ラジオ深夜便」に出演させていただきました。そうそう、控室で打ち合わせをしていた際に、アンカーを務められた加賀美幸子アナウンサーからお茶を入れていただき、恐縮をしながら本番に臨んだのを今も憶えています。さすが、「朗読の名手」といわれた方だけあって、見事な話の運び方だったのを憶えています。
27日は、テレビ大阪サービスの金井社長の紹介で、「メガネの三城」の多根裕詞会長が主催された、「国際ぬうびじょん倶楽部」の本部総会で講演をさせていただきました。講演後、会場の国際会議場に隣接する、リーガロイヤルホテルで開かれた食事会の席で、多根会長に全国各店舗への5ℓ配置をお願いしたところ、即座にOKをいただき、その上、ライフエンタテイメント社への個人的な出資までを決めていただいたのです。その多根裕詞会長も、2017年10月9日に永眠されました。12月11日、我が家の近くの八芳園で開かれたお別れ会には、生前の氏を慕うかのように多くの人が訪れ、私もその中の一人として参列させていただき、花を手向けさせていただきました。
小林由紀子さん
表参道の「アニヴェルセル・カフェ」
筑紫哲也さん
東大名誉教授の月尾嘉男さん
立木義浩さん
バレンタイン監督と
高橋慶彦コーチ
金田正一さんもいらっしゃいました
加賀美幸子さん
テレビ大阪サービスの金井社長
「ぬうびじょん倶楽部」会報誌
多根裕詞さん
10月に入って4日には、CSの朝日ニュースターの20時から20時55分の生放送番組「ニュースの深層」に出演して、キャスターを務められられていた、情報社会論がご専門の木村忠正・早大教授と、「小泉流が受けるわけ」というテーマで話をさせていただきました。結構話が盛り上がり、本番が終わった後も、佐藤ディレクターを交えて、控え室で1時間近く話を続けていたように思います。
26日には、NHK大阪局のローカルワイドテレビ番組「かんさいニュース一番」のため、日本橋界隈を探訪しました。かつては宿場町として栄えたこの街が、その後、古書街に変貌を遂げ、更に電機街となり、2001年に千日前にビックカメラ、大阪駅前にヨドバシカメラの進出などが進出したこともあって、03年に、地元のマツヤ電気、05年には同じくニノミヤ無線が経営破綻したこともあって、東京の秋葉原と同様に、「オタクの聖地」として、街の姿を変えようとしている最中のことでした。この日本橋が造られたのは1603年と東京の方が古く、大阪は1619年だったのですが、東京は、当初二本橋と名付られ、日本橋と名付たのは大阪が初めてだと言われています。因みに大阪ではこの橋を「にっぽんばし」と発音します。
さらに、29日には東京でNHKの「BSディベート」に出演、あるテーマをめぐって二手に分かれたディベーターが討論する番組で、私にとっては、2年半前に「スーパーサラリーマンとは何か?」以来の出演となりました。今回のテーマは「どうする?紅白歌合戦」というもので、私は批判派と擁護派のどちらに入ろうかと悩んだのですが、何かとNHK批判が多かった時期だけに、むしろ擁護に回る方が「オイシイかな!」と考えて、そちら側に回ることにしました。ディベーターは6人で、擁護派は、放送ジャーナリストのばばこういちさん、作詞家の秋元康さん、それに私の3人。一方の批判派は、ノンフィクション作家の吉永みち子さん、コラムニストの泉麻人さん、かわいい作家の室井佑月さんで、この6人が、「存続すべきか」「どう改革すればいいか」について2時間にわたって激論を戦わせたのです。
「もっと時間を短縮し、メンバーを厳選すべし」「生放送なんだから、サプライズの要素を加味すべき」「4年に1回にして、オリンピックのようなお祭りにすべき」など、多くの意見が出ましたが、皆の意見は押しなべて好意的で、結果的にはエールを送る番組になってしまいました。それにしても、台本を逸脱することなく、忠実に番組の企画意図を貫かれた山口アナウンサーの進行ぶりは見事だったという他ありません。
11月25日は「朝ズバ!」に出演の後、「ゆうゆうワイド」の「人生相談」を2本収録したあと、再びテレビスタジオに移動をして、「R30」の収録をしました。土曜日の0時40分から1時25分まで放送していた番組で、司会の国分太一(TOKIO)さんと、井ノ原快彦(V6)さんが、各界のゲストを迎えて、「30代のためになる話を聴く」という番組でした。今となっては、どんな話をしたか全く覚えておらず、無人のスタジオに組まれたセットがやたら高く組まれていて、「なんでこんな高いところで話をしなきゃいけないんだろう?」と思ったことくらいしか記憶に残っていません。こんなこともあって、この日は、ほぼ一日をTBSで過ごすことになりました。
12月16日には、永田町にあるプルデンシャル・プラザのイタリアン「サルバトーレ・クオモ」で開かれた、みのもんたさん主催の「朝ズバ!忘年会」に顔を出しました。たしか、みのさんご夫妻の他に、毎日新聞主筆の岸井成格さんや、コメンテーターをされていた末吉竹二郎さん、荒俣宏さん、えなりかずきさんなども顔を出しておられましたね。スタッフや、関係者であふれる盛況を目にしただけで、東京駅へ向かい帰阪の途に就いたのですが、みのさんらしい豪気なパーティでしたね。
そうそう、みのさんは、この年末の第56回紅白歌合戦の総合司会を、山根基世アナウンス局長と共に務められたのですが、視聴率は前年より5%近くアップしたのです。まさに「みのもんた旋風」が吹き荒れた1年となったのです。
木村忠正さん
かんさいニュース1番
フェスティバル時に賑わう日本橋界隈
ばばこういちさん
30代限定の「R30」
永田町のサルバトーレ・クオモ
岸井成格さん
みのもんたさんと山根基世さん
独立後3周年となったこの年には、テレビ出演以外にも、10月4日には、青山ダイヤモンドホールで開かれた「EOYジャパン」の審査会や、15日に岩谷産業で開かれた「ベンチャーコミュニティ」6周年記念イベントへの出席、17日に開講した「有名塾」7期での以降6回にわたる講義、9月29日に社会新報で対談をしたこともあって、白金台の「アールデコの館」といわれる、東京都庭園美術館で10月27日に開かれた、社民党の福島瑞穂さんのパーティにも出席。11月2日には、小田原商工会議所で石原良純さんとのパネルディスカッション、12月1日は、日経ホールで、リナックス・カフェの代表で、文筆家でもある平川克美さんが催された、「トップマネジメント・カフェ」に参加して、トレーダーで経済評論家の藤巻健史さんや、マイクロソフトの日本法人MSKK社長を辞め、投資コンサルティング会社「インスパイア」を設立された成毛眞さんらとのシンポジウムに参加。12日は、週刊現代やフライデーの編集長を務めた後、講談社を退職して始められた元木昌彦さんと、月刊ビジネス情報誌「エルネオス」で対談、19日は「日本労働研究」で、法政大学経営大学院イノベーションマネジメント研究科の藤村博之教授との対談などが続いたのですが、中でも印象に残っているのは、11月23日に東京・六本木の「泉ガーデン」、12月3日に大阪・本町の「ヴィアーレ大阪」で開かれた、日経ビジネスアソシエ主催の、大学生・大学院生・第二新卒者に向けた「天職塾」というイベントでした。
司会進行は、東西2会場共にアソシエの渋谷編集長が務められて、パネラーを、東京会場では、スポーツライターの青島健太さん、私、弁護士の橋下徹さん、「タリーズ」の創業者松田公太さん、大阪会場を、青島さんと私と、「サイバーエージェント」の藤田晋さんが務めました。当時の年齢を見てみると。私が最年長で59歳、青島さんが47歳、松田さんが37歳、橋下さんが36歳、一番若い藤田さんが32歳でした。さすがにこの時には自分の年齢を感じましたね。07年には松田さんと藤田さん、09年には橋下さんと3人が共に世界経済フォーラム(ダボス会議)で、「YGL(ヤング・グローバル・リーダーズ)にも選ばれています。その後、松田さんが政界に転じられ、橋下さんが大阪府知事になられ、サイバーエージェントが今日のように発展されたのを見ると、この人たちがいかに優れていたのかが分かります。
かの世阿弥が「風姿花伝」で「盛りの極みなり」と記したのは37歳、芸能界を見ても、秋元康さんが美空ひばりさんの「川の流れ」で作詞家としての地位を確立されたのは33歳のときでした。いわばバイタルエリアともいえるこの年代に、これだけ有為な、モビリティに溢れた方たちが居られることを頼もしく思うとともに、もうすぐ60歳のわが身としては一抹の寂しさを感じざるを得ませんでした。
そんななか、慶応大学から東芝を経て、ヤクルトに入られた元プロ野球選手の青島さんが、「ヤクルト・スワローズにはチームが2つありまして、1つはヤクルト・スワローズで、もう一つは私が所属していたヤクルト・ベンチにスワローズ」と、ベタな自己紹介されるのを聞き、「いまいちだな」と苦笑しつつ、どこかで内心ホッとしていた自分がいるのを感じました。青島さんには誠に申し訳ないのですが、学生さんたちに向けてこのイベントを開催したアソシエ側の真の狙いは、この30代のパネラーの方たちにあって、私や青島さんは、彼らの引き立て役として呼ばれたのではないかとさえ思いました。いずれにしても、普段は、ほぼ同年代の方々とセッションすることが多い私にとっては、とても貴重な体験となったことは間違いありません。
独立後3周年の時の様子
白金台の東京都庭園美術館
アール・デコ風の内装
平川克美さん
藤巻健史さん
成毛眞さん
藤村博之 教授
泉ガーデンギャラリー
ヴィアーレ大阪
東京会場
青島健太さん
橋下徹さん
藤田晋さん
(左から)渋谷編集長、私、三橋副編集長
得点につながりやすい活動が起こる地帯を示します