木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 吉本興業の林裕章会長の死去が報じられたのは、年が改まって2005年1月3日のことでした。既に退社していた私に情報が入るわけもなく、新聞で初めて知りました。前年にどこかのタイミングでテレビ番組でチラッと拝見する機会があり、「あれ、どうされたのかな?」と思ったことはあったのですが、「アメフトで鍛えたタフなあの人が!」と軽く見過ごしていたように思います。まだ62歳、前年の7月に中邨会長が退かれ、林さんが会長に就かれてまだ5カ月、あまりに早すぎる死でした。訃報に接したとき「さてこれから!という時に、こんなことになってさぞかし無念だったろうな」とは思ったのですが、その後、日が経つにつれ「もしかしたら、上に中邨さんがおられて、自在に振る舞えた副社長の頃までの方が、本当は幸せだったんじゃないかな?」と思うようになりました。強面を装ってはいても、本当は優しい人でした。いや、優しすぎる人だったと言っていいのかもしれません。

 年が明けて、大ぞの千恵子さんの呼びかけで、開かれた新年会のことでした。場所はたしか法善寺のフグ屋さんだっと思います。講演会終わりとあって、開宴に遅れて席に着き、初対面の山口良治さんにご挨拶をさせていただきました。山口さんは、公立校で当時弱体だった伏見工業高校ラグビー部を、平尾誠二さんや大八木淳史さんを擁して全国制覇するまでの強豪校に導いた監督で、TBSのドラマ「スクール☆ウォーズ」の主人公のモデルにもなった先生でした。定年後は京都市のスポーツ政策顧問をされ、2004年からは、浜松大学の教授となって、ラグビー部の顧問を務めておられました。他にもシンクロ日本の井村雅代代表コーチ、作曲家の大沢みずほさん、ベンチャーコミュニティの山口俊介さん等おなじみの方もおられて、少なくなった「てっさ」(フグ刺)に箸を伸ばしていると、不意に「林さん亡くなったの、木村さんを辞めさせた罰が当たったん?」という声が聞こえて、ふと声の主をみると、井村さんでした。多分私を思いやり、慰めるつもりもあって、そうおっしゃっていただいたのでしょうが、余りの直截な言葉に「いや、そんなことはありませんよ」と返したものの、吉本を辞めて2年以上も経ったこの時期に、どうしてそんなことをおっしゃったのかは分かりませんでした。

 この時期、井村コーチはアテネオリンピックで成果を上げたにもかかわらず、シンクロ協会から「次期代表コーチの契約更新をしない」旨を伝えられておられたというのです。栄光のキャリアに輝く井村さんと私などを一様に論じることは出来ないのですが、おこがましい言い方をさせてもらえば、そんな割り切れないご自身の心情も重なって、あんなふうにおっしゃったのかも知れないと、勝手に思っています。結果、井村さんは2008年に中国に監督として招かれてメダリストを養成、一方の日本シンクロ界は停滞が続きました。その後2016年になって、再び懇願されて日本代表コーチに復帰をされ、リオ・オリンピックでは見事にデュエットとチームで銅メダルを取るまでに再興されました。昔、独立をして井村シンクロクラブを立ち上げた際に、嘗て所属していた浜寺水練学校から「井村にプールを貸すな」という通達が出て、7年後にバルセロナオリンピックで所属の奥野史子さんがソロとデュエットで銅メダルに輝くまで苦労された経験もあり、その都度困難に打ち克ってこられた、鋼鉄の意志を持つハンサムな女性だと思います。

 日を置いて1月26日に大阪ロイヤルホテルで行われた「故林会長 お別れ会」には、松川君と共に私も参列させていただきました。時間待ちをしていた時も、会場の光琳の間でも、誰も私に話しかけては来なかったのですが、そんなことは一切気にもなりませんでした。それよりも、退社する折にもお目にかかることのなかった林会長に、ようやく「お別れ」を言うことが出来て、本当に良かったと思いましたね。

故 林裕章 会長のお別れ会

 

大ぞの千恵子さん

 

山口良治さん

 

「スクール☆ウォーズ」

 

井村雅代さんの著書

 

大沢みずほさん

 

山口俊介さん