木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 その後も、9月10日には、EOY(アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー)の総合プロデューサーを2年務められ、アメリカに次いで日本でもビジネス・サポート・インキュベーションを主業務とする「リナックスカフェ」を2000年に設立し、代表を務められていた平川克美さんらと、大阪日航ホテルの「弁慶」でランチをしました。たしか大林組の方もおられ、歓談の中で、翌年から始まる大阪駅北ヤード東側地域の再開発の話なども出て、意見を求められ、思いつくままに、大阪の大学が、阪大や関大が吹田市、府大が堺市、市大が住吉区と周辺地域にあって、大阪の顔でもある北地区で、あまり大学生を見かけないことから、「商業施設ばかりではなく、大学生や、良質の若者が集まる装置を作るべきだ」と話したように思います。平川さんからは、この年の11月25日に出された「反戦略的ビジネスのすすめ」(洋泉社)を贈ってただき、マーカーで真っ赤になるほどラインを引かせていただきました。

 さらに、9月11日には、有名塾4期の塾生でもあった赤野安さんが主宰される「着物ファッションショー・やす あかのコレクション」を観るため、六本木のライブハウス「STB139スイートベイジル」へ妻と共に出かけました。赤野さんは私より14歳上の方で、西宮に生まれ、少女時代にはグラフィックデザイナーで、自叙伝的小説「少年H」を書かれた妹尾河童さんの紹介で、バイオリニストの辻久子さん、12代目片岡仁左衛門さん、作家の谷崎潤一郎さんらと共に、「阪神間モダニズム」の体現者といわれた、洋画家・小磯良平さんのモデルになったほどの美少女だったといいます。やがて、長じてからはオートクチュールや、舞台衣装のデザインを手掛け、独立後は、日本古来の着物地を活かしたオリジナルファッションを主導するオートクチュール・デザイナーとして活躍、サンフランシスコやフランスのエビアン、ドイツのドレスデン、上海など海外や、全国各地でファッションショーを開催、NHK文化センターを始め、多くのカルチャーセンターで講師もされて、1000人を超えるお弟子さんを抱えれていました。会場では、大半の方が、着物生地仕立てのファッションで来場されており、私たち夫婦がともに疎外感を抱きつつ会場を後にしたのを憶えています。

 そして、26日には、アテネオリンピックのシンクロで立花美哉・武田美保組のデュエットと、チームでそれぞれ銀メダルに輝いた井村さん率いるシンクロチームを祝う会に出ました。場所はたしか阪急インターナショナルホテルでしたね。そこかしこに笑顔が溢れ、私も便乗して、立花美哉選手や武田美保選手とちゃっかりツーショット写真を撮らせていただきました。

 続いて12月1日には、ラジオ大阪の、インターネットとラジオを融合させた水曜20時からの生放送番組、「PHPヒューマンライフ」に出演させていただきました。PHP出版の雑誌と連動して、「人と人とのコミュニケーションを改めて考え直そう」という趣旨の良質な番組で、たしか、福井愛美さんがパーソナリティを務めておられていたように思います。この番組には翌2005年の3月に終了するまでに、都合8回も出演させていただきましたが、自分が進行するのではなく、福井さんに仕切っていただいたおかげで、リラックスして出演できたのを憶えています。それにしても、東京と大阪で、くしくも同じ時期に、「元気e」、「ヒューマンラジオ」とPHP出版の関わる番組に出演することになったのは、単なる偶然だったのでしょうか。

 暮れが押し迫った12月22日には、堺市から鶴埜さん、前田さん、池辺さんがお見えになり、堺市が、翌年2月に美原町と合併し、2006年4月に政令指定都市になることや、税収が1997年をピークに落ち込んでおり、映画に投資することは難しくなったとの説明を受けました。もちろん市の支出は抑えて、出資を仰ぐ方策は立ててはいましたが、今更それを言っても詮無きこと。私の中では7月に顧問を辞した時点で、この話は無かったものと諦めておりました。にもかかわらず、ご迷惑をお掛けした私に、律儀にご報告にお見えになったお三方の姿勢には、ただ頭が下がるばかりでした。

 年の瀬の大晦日には、家族そろって、鎌倉時代に曹洞宗の開祖、道元禅師が開いた福井県の永平寺へ行きました、以前から、いつか「ゆく年くる年」で見たこの寺で除夜の鐘を撞いてみたいと思っていたのです。「四苦八苦」を除くという除夜の鐘は、4 × 9(四苦)と8 × 9(八苦)を足した108回の内、107回を大晦日に、残る1回を、年明けに撞くのが本当だと言われますが、多くの人に並んで順番に撞く身の我々には、そんなことに囚われている余裕はありません。ただ順が来るのを待って撞くだけのことでした。果たして、これで1年の厄を払うことが、出来たのでしょうかね。

平川克美さん

 

 

 

赤野安さん

 

 

 

 

 

1998年にオープンしたスイートベイジルは、2014年に15年の歴史に幕を閉じました。

 

妹尾河童さん

 

 

 

 

 

小磯良平さん

 

井村雅代さん

 

武田美保さん(写真はいずれも2001年の世界選手権 金メダル獲得をしたパーティ時に撮ったものです)

 

永平寺の鐘楼

 

HISTORY

第話

 吉本興業の林裕章会長の死去が報じられたのは、年が改まって2005年1月3日のことでした。既に退社していた私に情報が入るわけもなく、新聞で初めて知りました。前年にどこかのタイミングでテレビ番組でチラッと拝見する機会があり、「あれ、どうされたのかな?」と思ったことはあったのですが、「アメフトで鍛えたタフなあの人が!」と軽く見過ごしていたように思います。まだ62歳、前年の7月に中邨会長が退かれ、林さんが会長に就かれてまだ5カ月、あまりに早すぎる死でした。訃報に接したとき「さてこれから!という時に、こんなことになってさぞかし無念だったろうな」とは思ったのですが、その後、日が経つにつれ「もしかしたら、上に中邨さんがおられて、自在に振る舞えた副社長の頃までの方が、本当は幸せだったんじゃないかな?」と思うようになりました。強面を装ってはいても、本当は優しい人でした。いや、優しすぎる人だったと言っていいのかもしれません。

 年が明けて、大ぞの千恵子さんの呼びかけで、開かれた新年会のことでした。場所はたしか法善寺のフグ屋さんだっと思います。講演会終わりとあって、開宴に遅れて席に着き、初対面の山口良治さんにご挨拶をさせていただきました。山口さんは、公立校で当時弱体だった伏見工業高校ラグビー部を、平尾誠二さんや大八木淳史さんを擁して全国制覇するまでの強豪校に導いた監督で、TBSのドラマ「スクール☆ウォーズ」の主人公のモデルにもなった先生でした。定年後は京都市のスポーツ政策顧問をされ、2004年からは、浜松大学の教授となって、ラグビー部の顧問を務めておられました。他にもシンクロ日本の井村雅代代表コーチ、作曲家の大沢みずほさん、ベンチャーコミュニティの山口俊介さん等おなじみの方もおられて、少なくなった「てっさ」(フグ刺)に箸を伸ばしていると、不意に「林さん亡くなったの、木村さんを辞めさせた罰が当たったん?」という声が聞こえて、ふと声の主をみると、井村さんでした。多分私を思いやり、慰めるつもりもあって、そうおっしゃっていただいたのでしょうが、余りの直截な言葉に「いや、そんなことはありませんよ」と返したものの、吉本を辞めて2年以上も経ったこの時期に、どうしてそんなことをおっしゃったのかは分かりませんでした。

 この時期、井村コーチはアテネオリンピックで成果を上げたにもかかわらず、シンクロ協会から「次期代表コーチの契約更新をしない」旨を伝えられておられたというのです。栄光のキャリアに輝く井村さんと私などを一様に論じることは出来ないのですが、おこがましい言い方をさせてもらえば、そんな割り切れないご自身の心情も重なって、あんなふうにおっしゃったのかも知れないと、勝手に思っています。結果、井村さんは2008年に中国に監督として招かれてメダリストを養成、一方の日本シンクロ界は停滞が続きました。その後2016年になって、再び懇願されて日本代表コーチに復帰をされ、リオ・オリンピックでは見事にデュエットとチームで銅メダルを取るまでに再興されました。昔、独立をして井村シンクロクラブを立ち上げた際に、嘗て所属していた浜寺水練学校から「井村にプールを貸すな」という通達が出て、7年後にバルセロナオリンピックで所属の奥野史子さんがソロとデュエットで銅メダルに輝くまで苦労された経験もあり、その都度困難に打ち克ってこられた、鋼鉄の意志を持つハンサムな女性だと思います。

 日を置いて1月26日に大阪ロイヤルホテルで行われた「故林会長 お別れ会」には、松川君と共に私も参列させていただきました。時間待ちをしていた時も、会場の光琳の間でも、誰も私に話しかけては来なかったのですが、そんなことは一切気にもなりませんでした。それよりも、退社する折にもお目にかかることのなかった林会長に、ようやく「お別れ」を言うことが出来て、本当に良かったと思いましたね。

故 林裕章 会長のお別れ会

 

大ぞの千恵子さん

 

山口良治さん

 

「スクール☆ウォーズ」

 

井村雅代さんの著書

 

大沢みずほさん

 

山口俊介さん

 

HISTORY

第話

 この2005年は、ことのほか慌ただしい年になりました。前年にNPO法人「まち・すまいづくり」の方からの誘いもあって、顧問として参加するようになり、この年4月に創刊をする、大阪の歴史発祥の地といわれる上町地区(天王寺区・阿倍野区・中央区東部)で発行する、フリー・ペーパー「うえまち」のコラム執筆や、イベント出演、地区の著名な方との対談を依頼され、引き受けることになったのです。

 都合2009年の7月まで、務めさせていただいたように記憶していますが、その間に、上町台地の歴史や文化の要、和宗総本山「四天王寺」を訪ね、菅長の出口順得猊下から、聖徳太子が建立されたこの寺のある上町台地の歴史が奈良や京都に比べてはるかに古いことを教えていただきました。実は以前から、漫才師2代目平和ラッパさんの「天王寺の亀、豆噛めまんねんなぁ」というボケたセリフで聞いていたこともあって、なんで中心伽藍の北側の池に、たくさんの亀がいるのか不思議に思っていた、まさかそんなことを猊下に聞くわけにもいかず、調べると、元々この蓮池の南東に「亀井堂」という建物があって、捕まえた魚や鳥獣を放す「放生会」の際に、人々が亀井堂の名に因んで亀を放したことから、いつしか亀池と呼ばれるようになったといいます。

 また、「一心寺」では、前住職の長老・高口恭行師から、上町台地のほぼ中心となる夕陽丘の地名が、1185年後白河上皇・慈鎮和尚・法然上人がここで夕日を眺め和歌を詠んだ「日想観」に由来することなどを伺いました。

 「愛染まつり」の際には、阿倍野近鉄百貨店前で、祭りで選ばれた愛染娘たちに囲まれて、宝恵かごパレードの出発式の挨拶をした後、ゴール地点の四天王寺別院の「勝曼院愛染堂」を訪ねました。昭和10年代に上原謙・田中絹代、20年代に鶴田浩二・京マチ子、30年代に吉田輝男・岡田茉莉子のコンビで製作された、恋愛映画「愛染かつら」の舞台として知られるロマンチックな所で、境内には吉田輝男さんが植樹された愛染桂の木がありました。それにあやかって、私も恋愛成就、いや夫婦和合をお願いして帰ったのは言うまでもありません。霧島昇さんが歌った「花も嵐も踏み越えて〜」という歌詞で大ヒットした「旅の夜風」は、この映画の主題歌だったのです。

 夏祭りといえば、天神祭、住吉祭と並んで大阪の3大夏祭りといわれ、「川の天神」「陸のいくたま」と並び称された難波大社・「生國魂神社」の夏祭りにも行きました。境内を練り歩く枕太鼓の迫力を目にした後、中山宮司から、江戸初期には既に多くの参拝客が集まる神社となって、1673年には、井原西鶴が俳人200人を集めて句を詠み継ぐ「生玉万句」や、1680年には1日に4000もの句を詠む「矢数俳諧」を行い、1688年には、米沢彦八が生國魂神社で自作の笑い話を披露、これが上方落語の発祥といわれ所以であることや、同社がかつて大阪城付近に鎮座していた頃から数えて400年を経て「大阪薪能」を復活されたことを教えていただきました。

 また、上町大地の北端にある大阪城を訪ねた際には、大阪城と豊臣秀吉の研究に加え、様々な大阪再発見企画を打ち出されている、大阪城天守閣研究副主幹の北川央さんから、今の大阪城は徳川秀忠が藤堂高虎に命じて天下普請をして、旧秀吉時代の大阪城に盛土して造ったものであることや、巨石を組み合わせる石工の技術の高さもあって、阪神淡路大震災時にも、さほど被害を受けなかったというお話を聞かせていただきました。また、上町台地は、神代の昔から歴史・文化がびっしりと詰まった特別な地域で、「私は大阪の背骨と呼んでいる」ともおっしゃっていました。」

 他にもこの地には、真田幸村に縁のある「茶臼山」や「円珠院」、「三光神社」、「安居神社」、「心願寺」などがあり、玉造の旧細川家屋敷跡にできた、大阪カテドラル聖マリア大聖堂の西端には「細川ガラシャ夫人」の有名な辞世の句を刻んだ碑があり、緒方洪庵の適塾に入門り、塾頭になったのち日本陸軍の創始者となった「大村益次郎の殉難碑」が法円坂にあることを知りました。

出口猊下と聖徳太子の像が描かれた掛け軸前で

 

四天王寺の境内(亀の池の前)

 

天王寺の亀

 

高口恭行師

 

愛染娘たちに囲まれて

 

 

 

愛染かつらの木

 

 

 

生國魂神社の夏祭り

 

 

 

幸村が最期を遂げた安居神社

 

HISTORY

第話

 また、こうした歴史遺産の他に、四天王寺1丁目には、578年に設立され、現存する世界最古の企業といわれる社寺建築の「金剛組」もありました。諸般の事情でここを訪れることは無かったのですが、この地域に根を張って、ビジョンを持って活躍されている方々からのお話を伺うことができました。

 中央区徳井町の山本能楽堂を訪ねた折には、現代に生きる魅力的な芸術として、能の普及に努めておられる山本佳誌枝さんから、「とくい能」や「初心者のための上方伝統芸ナイト」の話を伺い、能には顔を出して演じる直面(ひためん)があることや、小鼓の紐が流派によって違うこと、桜の木の胴に張った馬の皮はとてもデリケートで、張り替えがきかないことなどを教えていただきました。

 また、子供のころから馴染みのあるパインアメのメーカー、「パイン株式会社」の上田豊社長を、天王寺区生玉町に訪ねた際には、お父さんが終戦直後の貧しい時代に、高価だったパイナップルの味を庶民が味わえるようにしたいとの思いで始められた話や、後を継いだ自分はそれに甘んじることなく、鋭意新たなヒット商品を生み出していきたいという抱負を語っていただきました。

 中央区の空堀商店街にあり、雁屋哲さんの漫画「美味しんぼ」にも紹介され、北海道の真昆布を使った「十倍出し」で知られる老舗の「こんぶ土居」さんでは、先代の土居成吉さんと、当代の純一さんから、昆布だしにかける熱い思いを聞かせていただき、後日友人らと共に、純一さんがされている「だしの取り方教室」にも参加させていただきました。

 また文教地区でもあるこの地にあって、「上町3校」と呼ばれる伝統ある公立高校の校長ともお目にかかりました。仁徳天皇が難波の地に皇居と定められた高津宮址にあり、作家の織田作之助や飯干晃一さん、武田薬品の武田長兵衛さん、伊藤忠のCEO・岡藤正弘さん等、俊英を輩出した高津高校の木村智彦校長や、映画脚本家の高田宏治さんや立命館大学の小畑力人さん、谷町で医院を開業し、好角家で、相撲界の後援者を意味する「タニマチ」という言葉の語源となる一方、作家・直木三十五の面倒を見たともいわれる薄恕一さん等を輩出した清水谷高校の富森盛史校長、女優の有馬稲子さんや、吉本の非常階段(シルク・ミヤコ)を生んだ夕陽丘高校の安松秀校長のお三方に加えて、体操の具志堅幸司さんや池谷直樹さん、USENの宇野康秀さん、吉本の今田耕司さんなどを輩出した私立清風学園の平岡秀信理事長からも、お話を伺うことが出来ました。

 また、生國魂神社参集殿で開かれた「上町マイルドHOPEゾーン協議会」主催のイベントで2部のパネルディスカッションに参加させていただいた際、1部で落語「寝床」を口演された6代目笑福亭松喬さんにお目にかかり、それが縁で後日に上町のご自宅でインタビューさせていただいたのも「うえまち」のお陰でした。松喬さんは松竹芸能の芸人さんで、それまでほとんどお付き合いもなかったのですが、奥様とお二人で快くお付き合いをいただきました。残念なことに2013年に62歳で亡くなられました。これからを嘱望されていただけに惜しまれてなりません。

 思えば、長い間大阪の企業に勤務しながら、大阪の歴史に目を向けることもなく、ひたすらキタとミナミを行き来する日々を過ごしてきたように思います。「うえまち」に関わらせていただいたおかげで、実に多くのことを学ばせていただきました。もし、2003年の「まち・すまいづくりコンセプト研究会」時に、これだけのことを知っていたなら「少しは、ましな発言をもできただろうに!」と思いましたが、too rate(もう手遅れ)とはまさにこのことを言うのでしょうね。

 

 

 

 

山本佳誌枝さんから能の道具について説明をお聞きする

 

山本佳誌枝さんとのツーショット

 

パインアメの上田社長と

 

上田社長との会食時

 

パインアメ

 

こんぶ土居の外観

 

土居成吉さん(左)と純一さん(右)

 

 

 

私の左横がABCの松本プロデューサーです

 

だしの取り方教室

 

 

 

 

 

私立清風学園の平岡秀信 理事長とのインタビュー

 

パネルディスカッション壇上の様子。右から2人目が笑福亭松喬さん

 

 

 

法善寺のバーで松喬さんと

 

 

 

HISTORY

第話

 そうそう、この2005年の1月20日には、テレビの収録であの「ホリエモン」ことライブドアの堀江貴文さんにお会いしました。たしか、「賢者の選択」という番組で、矢動丸という代理店がBS朝日とVIVIA(テレビ朝日映像)とで共同製作をして、各界のリーダーが歩んでこられた足跡を辿るという趣旨の、土曜の朝10時から始まる番組だったと思います。矢動丸は大阪の会社だったのですが、それまで私との接点はなく、前田高明社長と初めてお会いしたのは、前年の10月27日のことでした。たしか、吉本時代に女子プロレスの社長をしていた卯木基夫君の紹介だったと思います。卯木君は吉本を辞めた後、「スリーフィールド」という会社を立ち上げていたのですが、彼がOBC時代に付き合いのあった前田社長からの依頼もあって、この番組のお手伝いをしているとのことだったように記憶しています。

 この月、既に始まっていたこの番組は、蟹瀬誠一さんがMCをされていたのですが、スケジュールの都合かどうか分かりませんが、なぜか堀江さんの回と、3月3日収録のダイソー矢野社長の回だけは私にお鉢が回ってきたのです。矢野さんは旧知の仲ということもあって理解できたのですが、堀江さんの場合は、「なんで?」と思い、その場でのお返事は留保させていただいたように思います。その後、私の出演している文化放送まで出向いてくれた卯木君の口説きもあって、お引き受けすることになったのですが、きっと堀江さんには、「苦手なジャンルの人ではあるけれど、どこかでこの人に会ってみたい」と思わせる魅力があったのだと思います。

 前年、近鉄バッファローズの買収に失敗したライブドアの堀江さんは、まさにこの時期、資本金の小さい親会社のニッポン放送の買収を仕掛けて、子会社のフジテレビの買収に乗り出している渦中にあり、その特異なキャラクターもあって、「ホリエモン」の異名で世間の注目を浴びている人物でした。アナログ人間の私などには、到底理解の及ばない思考回路を持つ人物でしたが、怯むことなく、果敢に大人社会に挑んでいく彼の姿勢が何とも面白く、いったいどんな人物なのかを自分の目で見てみたかったのです。

 結果、ライブドア内部の反対等もあって、この件も球団買収と同様に成就することはなかったのですが、その後に楽天がプロ球団を買収して、TBSに触手を伸ばし、ソフトバンクもまたダイエーホークスを買収して、テレビ朝日に手を伸ばしたことを思うと、この人の先見性には端倪すべからざるものがあるように思えます。「せめて、ネクタイを締めて、敬語を使っていればなぁ・・・」、そんな思いを抱えながら、BS朝日のスタジオを気ぜわしく去っていく後姿を眺めたのを今も憶えています。

 2月28日には、六本木ヒルズの森タワー49階で、国交省主催の「コミュニケーション・スキル向上」で講演、3月12日には、新宿にあるエン・ジャパンで有名塾のスペシャル・エデュケーション、18日は築地・浜離宮の朝日ホールで講演、その後、当時フジテレビで「めざまし土曜日」のメインキャスタ―をされていた八塩圭子さんの司会で、ファイナンシャル・プランナーの浅井秀一さんとパネルディスカッション、さらに20日には、大阪日本橋の「でんでんタウン」の活性化のために開催された歩行者天国「日本橋ストリート・フェスタ」に参加をして、「宝恵かご」に乗せていただきました。たった1日のイベントだったのですが、24日に開幕をした愛知万博の初日を上回る13万人以上の人が訪れる賑わいを見せました。もっとも、梨園・花柳界どちらにも縁のない私が、白塗りをすることなどはありませんでしたが、町の再興にかける商店街の人たちの心意気を感じた1日となりました。

 そして3月24日には、同志社大学寒梅館ハーディホールで開催された「プロデューステクノロジー創生シンポジウム」に行き、堺屋太一さんの「次世代の人材育成への提言」という基調講演の後開かれた、「次世代の人材育成に求められているプロデュース能力とは何か」と長いタイトルのパネルディスカッションに、東京大学の原島博教授、マイクロソフトの古川亨さん、同志社大学の山田和人 人文学部教授と共に参加させていただきました。こうしてみると、けっこう忙しく日々を送っていたようですが、本当に忙しくなるのはこの後だったのです。

堀江貴文さん

 

 

 

 

 

前田高明さん

 

蟹瀬誠一さん

 

 

 

 

 

八塩圭子さん

 

浅井秀一さん

 

「宝恵かご」に乗せていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

「プロデューステクノロジー創生シンポジウム」の記事

 

HISTORY

第話

 この年(2005年)の2月14日でした。以前から「ブロードキャスター」でお世話になっていたTBSの森本典嗣ディレクターからお話があって、低迷気味の平日朝のワイド番組を大改編、2002年からTBSで「サタデーずばッと」の司会をされていた、みのもんたさんを起用して、3月28日から、5時半から8時半の3時間生ワイド番組「みのもんたの朝ズバッ!」を立ち上げるというのです。背景には、96年から薬丸裕英さんと岡江久美子さん司会で8時半からスタートしていた「はなまるマーケット」が着実に成功への道を歩んでいくなか、いまいちブレイクしきれないのは前の番組が弱いためで、ここを強化することで他局とのせめぎ合いを制したいという思惑があったようです。

 森本さんは、そのプロジェクトのメンバーに参画をされると聞き、「それは大変ですね、頑張ってください!」と、半ばよそ事のように聞いていると、なんと「自分が担当する木曜か金曜でコメンテーターとしてレギュラー出演をしてくれないか」という言葉だったのです。「えっ!朝5時半に番組がスタートするということは、4時半に局に入らなくてはいけない。ということは、3時半に起きないといけないのか?」と、番組のことよりも、まず時間のことが最初に頭をよぎりました。もちろん、お断りをさせていただいても良かったのですが、お世話になった森本さんから、この私などにお声がけをいただいて、お断りするのも如何なものか?という思いもあり、お受けすることにしたのです。3月7日、赤坂の麦屋で開かれた会食の席には、チーフプロデューサーの吉崎隆さんもお見えになり、濃厚な味の「冷やし胡麻味噌そば」をいただきました。

 実は、お受けさせていただいた理由はもう一つあって、「みのもんた」という人が、一体どんな仕事をされるのかを見てみたいと思ったのです。みのさんが、1989年の4月から、視聴率の低迷していたNTVの月~金ベルト番組「午後は〇〇思いっきりテレビ」の2代目司会を務められるようになってから、視聴率も上がり、フジテレビの「笑っていいとも」に次ぐ人気番組になっていたのです。当時、みのさんはこれ以外にも「ファイナルアンサー!?」という言葉が流行語になった、フジテレビの「クイズミリオネア」やTBSの「動物奇想天外」、文化放送の「ウィークエンドをつかまえろ」などのレギュラーの他に単発番組なども抱え、2004年には芸能人所得番付の1位にランクされる売れっ子になっていたのです。

 さらにその上、月~金の3時間ベルト番組を始められると聞いて、「どうしてこの人は、ここまで仕事をされるのだろう?」という疑門もありました。もちろん、「求められるうちが花」ではありますが、それにしても5時半から8時半までベルト番組の司会をして、その後12時から13時55分までの番組の司会をするなんて聞いたことがありません。おまけに99年からは亡くなったお父様の後を継いで、水道機器メーカーの製造・販売会社「日国工業」の社長まで務められていたのですから、まさに超人というほかありません。

 聞くと、みのさんは立教大学を卒業された後、22歳で文化放送に入り、「セイヤング!」や「ダイナミックレーダー」のパーソナリティとして人気を博したにも拘らず、28歳の時に「若返り」を理由に、販売促進の業務に配転され、34歳で退社。お父様の会社に入り、営業マンとしてライトバンで全国を訪れる日々が続きます。そんな中、小さな工場で昼飯を食べていると、テレビにタモリさんが出、夜に一杯やっていると久米宏さんがテレビに出ていて、「自分もあの世界にいたのに・・・」という思いを抱えながら10年ほどたった時、知人からフジテレビの「プロ野球珍プレー好プレー」のナレーションをやらないかという話が来て、これが面白かったこともあって、同局の「なるほど・ザ・ワ-ルド」の国内レポーターや、「オールナイトフジ」の深夜の家庭訪問のコーナーを受け持ち、コミカル/サブ司会者として認知をされるようになっていったのです。みのさんが、ここまで仕事をされるのは、まさにこの「失われた10年間」の空白を埋める作業でもあったような気がします。

森本典嗣さんと長岡杏子アナ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

CPの吉崎隆さん

 

赤坂 麦屋の「冷やし胡麻味噌そば」

 

 

 

 

 

「クイズ ミリオネア」

 

「どうぶつ奇想天外」

 

 

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 こうして私の「朝ズバッ!」出演は、4月1日から始まることになるのですが、初日は大変でした。迎えの車が来るのが4時半、3時半には起きないと間に合いません。前日から起きたままがいいのか、それとも早く寝て、早く起きた方がいいのか悩んだのですが、起きたままでいると、スタジオのライトに当たっている内に眠くなってしまうような気がして、早起きを選びました。初日から遅れてはいけないという気負いもあって、目覚ましを3時にセット、愛犬と共に飛び起きました。「まだ少し早いんじゃないの」と、やや不機嫌そうに起きてきた妻のつくってくれた朝食を取りながら、迎えの車を待ちました。

 もちろん、辺りは真っ暗で、いつもは渋滞する桜田通りもガラガラに空いていて、4時50分には局に着き、打ち合わせもそこそこに本番に入り、3時間の生放送はあっという間に終わりました。椅子にも座らず、スタジオを自在に歩き、当意即妙に進行する「みのスタイル」に驚いたり、感心している内に時が過ぎ、まるでジェットコースターに乗ったような気分のままエンディングを迎えたのです。みのさんが爽やかな顔で次の仕事場であるNTVへ去った後、スタッフを交えた反省会があり、局を出たのがまだ9時半。出勤してくるサラリーマンと交錯しながら思ったのは、「こちらはもう十分疲れたのに、1日ってこれから始まるんだ」ということでした。それにしても、この番組を入れて週に17本のレギュラー番組をこなす、「みのさんって、どこまでタフな人なんだろう?」と感心する他なかったのを憶えています。

 幸いなことに翌週は、ゴルフ界最高の祭典といわれ、タイガー・ウッズが3度目の制覇を成し遂げた「マスターズ・ゴルフ・トーナメント」の中継のために「朝ズバッ!」の放送はなく、4月15日からは、私も徐々に耐性、いや態勢を立て直して番組に臨むことが出来るようになりました。

 5月27日に、いつものように生放送を終えて反省会に出ていると、プロデューサーの声が一瞬途絶えて明りが消え、「今日は木村さんの誕生日、おめでとうございま~す」の声、予想外の出来事に、照れながら、運ばれてきたケーキに乗った(59歳なのになぜか)4本のローソクの灯を吹き消し、こんな自分にまで、気を配っていただいたことに感謝したのを憶えています。

 既にテレビ朝日を捉えるほどに視聴率が好調に推移していたこともあって、スタッフのモチベーションも上がり、番組もいい雰囲気になりつつありました。聞けば「朝ズバッ!」には月曜から金曜まで、合わせて地方局の総社員数を上回る180人ものスタッフが関わっておられるとかで、TBSがこの番組にかける意気込みが伺えました。別に、ケーキをいただいたから言うのではありませんが、この調子なら、そう遠くない日にトップになれるのではないかと思いましたね。

 お祝いにいただいた好物の「仙太郎最中」「グリコカフェオレ50/50」を手にして楽屋に戻ると、隣の部屋に「泉ピン子様」の名札がかかっていました。ピン子さんといえば、ペーペーの頃からのお付き合い。かれこれ30年ほどになります。ドアも開いていたので、訪ねてみると、ちょうど石井ふく子プロデューサーもおられて、「渡る世間は鬼ばかり」のまんまの笑顔で迎えていただきました。この日は主演ドラマのパブリシティを兼ねて、「はなまるマーケット」出演のために来られたそうですが、今や大女優となられて、私が東急文化会館でお会いした頃を思えば隔世の感があります。ここまで来られるには、並大抵のことではなかったと思います。「ずいぶん、立派になられましたねぇ」と声を掛けると、「私もブロードキャスター見てますよ」。そんな会話を交わしながら部屋を後にしました。幸せな気分に浸れた一日でした。

 

 

ニュース担当でサブ司会を務めた柴田秀一アナウンサー

 

アシスタントを務めた竹内香苗アナウンサー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仙太郎の最中

 

グリコのカフェオレ50/50

 

「渡る世間は鬼ばかり」のピン子さん

 

HISTORY

第話

 環境省からご連絡をいただいて、「夏の新しいビジネススタイル名称審査委員会」に出席させていただいたのは、4月25日のことでした。メンバーは、小池百合子環境大臣の他に、デザイナーのコシノヒロコさん、菊池武夫さん、ドン小西さん、ファッションコメンテーターの四方義朗さん、電通マンで、作家・クリエーター・写真家の新井満さん、漫画家の弘兼憲史さん、宣伝会議編集長の田中理沙さん、ビートたけしさんのお兄さんで淑徳大学教授の北野大さん、そして私というメンバーでした。

 オフィスワークをする時に、「上着+ネクタイ」と「ノー上着+ノーネクタイ」とでは、体感温度で約2度の差があり、冷房の設定温度を上げることでCO2の排出量も削減でき、温暖化対策にもつながるというものです。とは言え、嘗て羽田孜元首相が愛用されていた「省エネルック」のようなダサいスタイルでは普及するはずもなく、小池大臣らしく、スマートな名称、ファッショナブルなデザインを提案しようという試みだったのです。気象庁の予測では、100年後に日本の平均気温は2~3度上昇して、東京は鹿児島並みの気温になると言われていました。かといって、皆が沖縄のように「かりゆしウエア」で過ごすというのも無理、やはりここは、快適に夏を過ごすサマービジネスウェアが必要だろうということなのです。

 しいて言えば、この何か月か前に、羽田から同じ便で伊丹空港に着いて、ターミナルに向かう道すがら、二言三言、小池さんと言葉を交わさせていただいたくらいの私に、なんで声がかかったのかは分からなかったのですが、好奇心も働いて参加することにしたのです。そうそう、あと一人、日常生活におけるコマメな環境配慮の実践を呼びかける「コマメチャン」というキャラクターもいましたね。このメンバーで協議をして、事前審査に応募した約3000通の中から選ばれた「衣類の軽装化キャンペーン」の名称が「COOL BIZ」(クールビズ)だったのです。

 しばらくたって、私が手にした週刊誌のグラビアに、「夏がクール?」の見出しと共に、デザイナーのコシノヒロコさんの前で、直立されているオリックスの宮内義彦会長の写真が載っていたことがありました。「コシノさんのシャープな視線に、宮内さんがビビッて、クールな思いをされているのか?」と思い、先を読み進むと、なんと、軽装スーツのデザインを担当するコシノさんが、宮内会長をモデルに仮縫いをされている姿だったことが判明して、自分が「名称審査会」に参加していたことを忘れて、大笑いしたことがありました。

 当初は、政界でも塩川正十郎さんが、クールビズで閣議に臨む安倍総理を表して、「寝巻で閣議に出るのはやめた方がいい」といったネガティブな反応もありましたが、次第に浸透し、第一生命では、経済波及効果は1000億円、第2クォーターの名目GDPを0.05%押し上げるとの試算を発表しました。

 次いで8月22日には、「 “ 秋冬のCOOL BIZ ” 検討委員会」も開かれクールに対応するホットがいいという意見もあったのですが、「HOT BIZ」がすでに東レさんから商標登録をされていたこともあって、「WARM BIZ」(ウォームビズ)とすることになったのです。この折にメンバーの中で私一人がネクタイで出席して、小池さんから「あらっ!」見咎められたのを憶えています。こちらの方は、同じ第一生命経済研究所では経済波及効果を、2323億円と予測しました。

 おかしかったのは、12月22日に有明の東京ビッグサイトの東 第3ホールで開かれた「クールビズコレクション2006」に顔を出した際のことです。スタッフに案内されたのが、最前列。コシノヒロコさん、菊池武夫さん四方義朗さん、ドン小西さんに並んで私が座り、こんな席に座っていいのかなと思いながら、石田純一さんや元木大介さん、丸山弁護士、コカ・コーラの魚谷雅彦社長、JOC竹田恒和会長に続いて登場されたカゴメの喜岡浩二社長が、気恥ずかしさを抑えながら、堂々とキャットウォークを歩かれているのを見て、「足の長さやポーズの美しさよりも、積み重ねてきたキャリアの方が人を輝かせるんですね!」と隣のドン小西さんに話かけようとすると、「なんで俺のデザインした服がないんだ」と愚痴っておられる声が耳に入って、言葉を飲み込んだまま、そーっと席を離れました。そういえばたしか、4月の委員会でメンバー表を見た時、私や「コマメチャン」に肩書がないのは当然のこととしても、ドンさんの名前の横に、デザイナーと書かれてはいなかったことを思い出しました。

 

 

「夏の新しいビジネススタイル名称審査委員会」

 

名称審査委員会のメンバーの皆さん

 

 

 

 

 

コシノヒロコさん

 

 

 

 

 

これは「クールビズ」ではありません

 

これも「クールビズ」ではありません

 

 

 

 

 

 

 

中央の「ら」が田中理沙さん、左の「ら」が私です。日経新聞(2005年8月23日付)

 

朝日新聞(2005年8月23日付)

 

時には辛いこともあるのです

 

カゴメの喜岡浩二社長

 

HISTORY

第話

 そうそう、4月18日には、あの有名な立木義浩さんに写真を撮っていただきました。といっても、私が選挙に出るためではなく、見合いをするわけでもありません。「サンデー毎日」グラビアの「人間列島」を撮影するためだったのです。立木さんは、NHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」のモデルになった、立木香都子さんの次男として徳島で生まれ、山口百恵さんの自叙伝「蒼い時」を始め、モノクロで女性たちを撮る手法で、半世紀に亘って日本の写真界をけん引されてきた方でした。実は、私が数カ月前に、高輪プリンスホテルのカフェラウンジでお茶を飲んでいた際、窓外の庭で立木さんが助手の方たちと、ベストポジションを探しながら歩いておられ、しばらくしてカフェラウンジに来て、お茶を飲みながら皆と談笑しておられる姿を見かけたことがあったのです。席が離れていたので、ふと目が合ったときに目礼をさせていただいたのですが、帽子のひさしに手をやって、挨拶を返していただきました。残念ながらその後の経過を目にすることなく私は席を立ったのですが、「やっぱり、高輪プリンスともなると、PR誌に高名なカメラマンを起用するんだな。それにしても、あれほどの人ともなると、ポジションだけを決めて、自分ではシャッターを押されないのかな?」という疑問は残りました。

 撮影場所の「六本木与太呂」でお会いした時、真っ先にその話をすると、あの時も、同じ「人間列島」の撮影で、若尾文子さんを撮っておられたそうで、シャッターの件は「僕は自分でシャッターを押しますよ!㊙㊙さんじゃないんだから!」と真っ向から否定されました。もっとも、私の撮影はものの20分くらいで終了、若尾さんとの格差を思い知らされました。

 次いで、5月30日には、久しぶりに結婚披露パーティに出席しました。場所は東京帝国ホテル。あいにくの雨にもかかわらず、200人ほどが集まりました。新郎の木脇祐二さんとは知人に紹介されて2・3度会っただけなのですが、それでも出席したのは、新婦が元マラソンランナーの増田明美さんだったからです。増田さんはこの頃、選手に向けるまなざしの温かさと巧みな話術で、女子のNo1.解説者として定評を得て、ナレーションの仕事もされるようになっていました。

 たしか、94年の4月2日にNTVで放送された春のドラマスペシャル「ブスでごめんね」で、野村宏伸・大塚寧々という美男美女カップルと共に、トミーズ雅君と、ブスカップルとして主役を演じられた時は驚きました。たしかに、おいしい役どころではあるのですが、それでもさすがに正面からブスと呼ばれる役を演じるには、ためらいが生じるものだと思ったからです。まして女優さんでもない増田さんが・・・と思ったのですが、一方でこの人はきっと頭がいい人だろうなという気がしたことを思い出しました。インタビューで「周りからは反対されましたが、人は持って生まれた顔立ちよりも、顔つきが大事というテーマに共感して、役に体当たりした」と答えておられるのを見て納得したのを憶えています。

 パーティの司会は前半が永六輔さん、後半が小倉智昭さん。2人が知り合うきっかけを作ったサンプラザ中野さんの乾杯の後、ゲストスピーチ。評論家の福田和也さんや作家の柳美里さんの、硬めの挨拶の後、言葉を削る仕事をしているにもかかわらず、延々とオチのない話が続く黛まどかさんの冗長なスピーチに、たまらず永さんが割って入ったところで前半戦が終了。後半はスピーカーも陸上界に移り、まず最初に登場したのが瀬古利彦さん、三遊亭楽太郎(現円楽)さんに似たルックスもあって、達者なスピーチで、ブーイング寸前だった場の雰囲気を一気に和ませました。その後「Qちゃん」こと、高橋尚子さんのスピーチなどもあって、最後は新郎新婦のご挨拶。ノセるのが上手い小倉さんの司会よろしきもあって、会場のムードも最高潮。ついには着物姿の新婦が、都はるみさんの「好きになった人」を披露、「さよーぅなら、さよなーら」を身振り手振りを交えて熱唱した姿は、まるで都さんと見間違えるほどの「芸」になっていましたね。同じテーブルに着かれていた、吉永みち子さん等にご挨拶をして、東京駅に向かったのは3時間後のことでした。

立木義浩さん

 

立木義浩さんに撮っていただいたサンデー毎日の「人間列島」(六本木 与太呂にて)

 

 

 

 

 

 

 

増田夫妻と大阪の伊万邑で会食

 

スピーチも短くしましょうね

 

そっくりなお二人

 

最後は着物姿で新郎新婦されるお二人

 

HISTORY

第話

 この年の4月頃ですかねえ、団塊の世代向けのフリーマガジンを出そうという話が持ち上がったのは。ちょうど巷では、1947年~1949年生まれの806万人という最大ボリュームゾーンである団塊世代が、一斉にリタイアをする「2007年問題」という言葉が、あちこちで語られるようになっていました。たしか4月4日でした、某新聞社の方から「55歳社員研修」を依頼されて、新高輪プリンスホテルで講演をしたことがあったのですが、打ち合わせの段階で、この研修の趣旨を尋ねると、「ラインから外れた人たちに、モチベーションを下げることなく、定年まで勤めていただくために行っています」と聞いて驚いたことがあります。この年から翌年にかけては、この新聞社に限らず、某証券会社や、家電メーカーからも同様の依頼があったように記憶しているのですが、モチベーションを維持することの難しさ以上に、その後をどう過ごすのかを、未だ模索しつつある自身に、果たしてそれを語る資格があるのかを突き付けられた体験でもあったように思います。

 「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月をみるかな」(そこへ到達する手段には様々なものがあっても、目指す目的は皆同じである)という一休和尚の道歌ではありませんが、ここは一般論ではなく、それまで会社=人生であった生活から、皆より少し早めに離職をして、その後、「自ら体験したことを正直に語るしかない」と心に決めて臨んだのを憶えています。ご依頼をいただいたいずれの会社も、私のいた会社に比べれば一流といわれた企業ばかり。それだけに、その看板や立場を失ったときの喪失感はより大きなものがあることは、それ想像に難くありません。なら、いっそ「残された時間を、モラトリアム期間として活用して、少し俯瞰でものを見て、「会社 < 人生として考えてみるのもいいのではないか」、大要そのような話をしたように思います。客観視したり、新しい人脈を築くことによって、今までとは違うアイデアが浮かんだりすることもあるからです。

 こんなこともあって、「2007年問題」は、私にとっても結構身近なテーマにはなっていたのですが、その多くが「労働人口の減少」や「技術や技能の伝承」、「退職給与の負担増大」、「経済成長率の低下」、「家計貯蓄率の減少」など、経済的側面からばかり語られる論調が目立ち、肝心の当事者たちのメンタルな側面に言及したものは、あまりなかったような気がしていました。

 そもそも、年齢で人を一様に区切る発想は如何なものかと思っていたこともあって、堺屋太一さんが名付けられて以降、ポピュラーになっていた「団塊の世代」という言葉も、実のところあまり好きではありませんでした。「団塊」とは「土くれ」や「塊」(かたまり)のことで、そこには理念というものが入っていないように思えたからです。笑ってしまうような話ですが、後年、私がどこかの講演に招かれた際に、妙齢の女性司会者がシレっとして、「ダンコンの世代向けの雑誌を出されていて・・・」と紹介されたことがあり、思わず㊙カ所に手が行きそうになったこともありましたね。

 もう一つ、「シニア」という言葉も気に入りませんでした。これは関西生まれの人間の性なのかもしれませんが、「シニア」と聞くと、どうしても「死near(近い)」に聞こえてしまうのです。私自身は1946年の生まれで、厳密な意味ではこの世代ではなく「焼け跡世代」に入るらしいのですが、自身では「焼け跡」を見た記憶もなく、同じ学年に「団塊の世代」が含まれていたこともあって、心情的には寧ろこの世代に近いものを感じていました。

 そうそう、2004年に弘兼憲史さんが「ビッグコミック」に描かれて、文化庁芸術祭マンガ部門最優秀賞に輝いた「黄昏流星群」という言葉もありましたね。こちらは、もう少しターゲットが広くて、40歳代以降を取り上げ、老いゆく過程で光り輝く意味を込めて、恋愛を主軸に人生観を描いたものでしたが、「塊」でもなく、「死が近い」でもなく、「黄昏」もしないで、この世代を表せる、何か「いい言葉はないものか」と考えを巡らせてみることにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

「死 NEAR」人間

 

「シニア犬」

 

こんな本もありました

 

 

 

 

 

1959年にはこんなヒット曲もありました。この「ビギン」はフランス領マルティニクのダンス音楽のことです