この月からは、2001年の省庁再編で「通産省」から「経産省」の外局となった、中小企業庁が主催する「創業・ベンチャー・国民フォーラム」の「夢・鑑定団」の審査員を委嘱されて、11月11日の札幌後楽園ホテルを皮切りに、19日に新潟の朱鷺メッセ、12月10日に大分東洋ホテル、17日に神戸松方ホール、明けて2004年の1月21日東京国際フォーラム、27日に徳島プリンスホテルで開かれた地区予選から参加をして、選ばれた人たちによって行われる、2月3日の全国大会までお付き合いをさせていただきました。全国大会の会場は、関東地区大会と同じ、東京国際フォーラムではありましたが、予選時とは違って、約1000人ほど収容出来る大きな会場に代わっていました。
各会場を巡り、ユニ・チャーム会長・高原慶一朗さん、ボストンコンサルティンググループの社長を辞め、2000年に「ドリームインキュベータ―社」を設立されて東証1部上場を果たされていた堀紘一さん、ドコモ会長の大星公二さん、インテルの会長を99年に辞め、02年に丸の内ビジネスアカデミー(西岡塾)を立ち上げられていた西岡郁夫さん、「紅虎餃子房」をはじめ多くの店舗を展開し、「外食業態開発の奇才」と言われた「際コーポレーション」社長の中島武さんなど、錚々たる方々に混じって審査員の末席を汚していました。
これは、当時私が関わらせていただいていた、「EOY(アントレプレナー・オブ・ザ・イヤージャパン)」や、大阪の「ベンチャー・コミュニティ」、「法政大学・イノベーション・マネジメント研究科」の発表審査会でも同様なのですが、さして専門的知見があるわけでもない私が、こうした会の審査員にキャスティングをされたのは、他の方々にはない、独自の見解を求められているように思ったのです。考えてみれば、私が33年身を置いていた芸能界、とりわけ「笑い」の分野でも、関わる人間には、何より創造的に燃え、高いリスクに果敢と挑む「アントレプレナー・シップ」や「ベンチャー・スピリット」が求められていたのです。それなら、例え起業の経験や、経営的な専門知識がなくとも、「人を見る」ことを主眼に審査をすればいいのではないか、いや、寧ろ「そうしなければ、自分がそこにいる理由がないのではないか?」と考えたのです。
もちろん審査結果は、必ずしも私が最高点を付けた人が反映されたわけではありませんが、私にとっては、その中で、幾人かの魅力的な経営者の方にお会いできたのが何より嬉しい出来事でした。中でもに印象に残っているお二人を挙げさせていただくと、「株式会社テンポスバスターズ」の森下篤史さん。東芝テックのトップセールスマンを辞めて、97年に中古厨房機器を販売する「テンポスバスターズ」を設立し、閉店する飲食店から定価の1割で買い取った厨房機器や備品をリサイクルし、1割の利益を乗せて販売する「たまげる安さ」で圧倒的な支持を得、2002年12月にジャスダック上場を果たし、全国23店舗を展開していました。その後リサイクルばかりではなく、飲食店への総合支援を行うビジネスプロデュースにも手を広げられていたのですが、私が面白いと思ったのは、2003年に、社長自らが提案をして、会社の保守化を防ぐために「社長のイス争奪戦」を始められたことです。もちろんその際は森下さんが選ばれたそうですが、4年ごとに「争奪戦」を行うことになって、今ではプロパーの方がその席に座っておられるようです。社員のモチベーションを上げる、何とも遊び心に溢れたアイデアではありませんか。
もうお1人は、越智直正さんです。どこでお目に掛かったのか、今となっては定かではないのですが、越智さんは瀬戸内の小さな村の農家に生まれ、11人兄弟の末っ子ということもあり、中学を卒業してすぐに15歳で大阪の靴下専門問屋へ丁稚奉公をした後、28歳で卸売りの「式会社ダンソックス(現タビオ)」を設立されました。その後小売りにも進出して、メイド・イン・ジャパンに拘りつつ、「靴下屋」や「Tabio」「Chaussettes」などのブランドで海外にも展開、2000年には大証2部上場を果たされました。その実績もさることながら、「御社がどうしてここまで伸びたと思われますか?」と尋ねた質問者に、「靴下一筋にかけてきた男の熱い思いを、君らに分かってたまるかい!」という本音を、ややはぐらかすかのように、大阪人らしく、「それは、私がアホやったからです!」と答えられたのが面白く、「この人、ただものではないな!」と思ったのを今でも覚えています。
高原慶一朗さん
堀紘一さん
大星公二さん
西岡郁夫さん
森下篤史さん
2003年の11月9日には、関西テレビ報道局から依頼されて、第43回衆院選の「選挙特番」に出演させていただきました。たしか1部が20時54分~23時45分、2部が24時15分~25時50分という長丁場の生放送でしたが、刻々と入って来る速報に見とれている内に、あっという間に時が経ち,何とコメントしたのか、今となっては思い出せません。もちろん解説員の方がおられて、何ら支障はなかったのですが、私は「これこそテレビの醍醐味だ」とばかりに楽しんでいた気がします。たしか、第1次小泉内閣の下、「マニフェスト解散」と名付けられて行われた選挙で、自民党が73歳定年制を敷いたこともあって、中曽根康弘さん、宮澤喜一さんといった元総理や、塩川正十郎さん、奥野誠亮さん、三塚博さんなど自民党の大物議員が引退をされ、相沢英之さん、山崎拓さん、村岡兼造さんといった有力議員も落選の憂き目にあった選挙でした。結果は自民党が10議席の減、菅直人さん率いる民主党が40議席を増やして、「いよいよ、二大政党時代の到来か」と期待を集めたのですが、民主党が政権を握るまでには、今少し時を要しました。
そして、12月15日には、予てから前田参事から説明を受けていた通り、朝から堺市の木原市長と共に、5世紀の中頃に20年かけて建造され、エジプトのクフ王のピラミッド、中国・秦の始皇帝陵と共に世界3大古墳の1つに数えられる仁徳天皇陵を訪ねました。船で約2750mの三重壕を1周させていただいたのですが、残念ながら横からでは、日本独自の形である前方後円墳の形を捉えることは出来ませんでした。クフ王のピラミッドが146mあって、遠くからでも眺められるのに対して、高さが35mしかない造りでは空撮した写真でしか、その全容を眺めることが出来ないのです。もちろん古墳ですから、みだりに手を加えることなどは到底出来ないのですが、熊本や松山、姫路、松本、会津若松らの美しい街並が、城をランドマークとして成立しているのを見ると、やや残念な気がしたのは否めません。
かつて堺は、海に面していない三方を高い塀で囲い、戦から守る環濠都市として、津田宗及、今井宗久、千宗易(のちの千利休)ら、36人の会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる豪商たちの合議による自治を目指して発展し、1561年に訪れたポルトガル人の宣教師ガスパル・ヴィレラから、ヨーロッパ随一の貿易都市・ヴェネツィアに例え、「日本で最も豊饒な土地」と評されるほどの隆盛を誇っていました。そんな堺の歴史を考えると、この街に武家の象徴たる城がないのは当然のことではあるのですが、後に起きた堺の悲劇は、むしろ豊かであったことに端を発したともいえるのです。
畿内制圧を目指していた織田信長は、それを阻害する要因として、石山本願寺・一向宗と共に、自由独立機運の盛んな都市・堺を警戒して、軍用金二万貫、今で言えば何百億円という大金を差し出すよう求めたのです。更にその上に重い年貢を課しつつ、堺の持つ機能を利用したのですが、本能寺の変の後を継いだ豊臣秀吉は、制圧した石山本願寺の後地に、新しく築城した大阪城周辺の商工業を発展させるために、堺の商人を強制移住させたのです。嘗て、今の御堂筋に代わる前にメインストリートであった堺筋はその名残であるとも言われています。伊勢商人・近江商人と並び称される日本三大商人の大阪商人のルーツは堺にあったのです。ところがこの堺は、1615年大阪夏の陣の際、豊臣方の将・大野治長の弟、大野治胤の手によって焼き討ちをされてしまうのです。
不幸なことはまだ続きます。1703年に行われた大和川の付け替えです。大和川は奈良の都祁村から、もともと肥沃な河内や摂津、平野地区を流れていたのですが、しばしば洪水を起こすため、住民が藤井寺・松原・堺方面への付け替えを江戸幕府に嘆願をして、幕府がその嘆願いを入れて公儀普請をしたものだということが解りました。そのため、付け替えによって土地を失った住民は、ほかの地へ移住をしたり、小作人に身を落としたりし手苦労を重ねたといいますが、これによって堺は、住民ばかりではなく、新川が運ぶ大量の砂が堆積するようになったため、港湾都市としての機能までをも失うことになったというのです。
マニフェスト解散
堺市の木原市長とともに
前方後円墳
大和川付け替え工事
大野治胤(はるたね)
信長を恐れぬ意気の会合衆
会合衆
環濠都市遺跡
もちろん、港湾機能が低下した背景には、それ以外に、徳川幕府が鎖国政策を採り対外貿易が禁じられたこともあったのですが、堺市にとって不幸だったのは、江戸後期に日米間で行われた「開市・開港交渉」で、「近畿地区は京都と大阪が望ましい」とするアメリカ側に対して、幕府側が、御所のある京都を回避して、「開市は大阪、開港は堺」とし、一旦は双方が妥結をしたかに見えたのですが、外国人が自由に出歩ける「遊歩地域」を十里四方にしたため、天皇陵のある奈良が含まれることに幕府が難色を示して、開港するのが、次善の策として用意していた神戸に決まってしまったことです。その後の神戸市の発展ぶりを見れば、やはり、痛恨の出来事であったと言わざるをえません。
かつての栄光の歴史はやや薄れたとはいえ、1868年(明治元年)には、旧幕府領と周辺地域を合わせて「堺県」となり、1876年(明治9年)には奈良県全域までを併合する大きな県となり、人口も55万3773人の大阪府に対して、93万7315人を数えたと言われています。
ところが、堺にとって、またしても不幸な出来事が起こりました。東京や京都と共に、「県」より格上の「府」を構成する大阪府が、域内面積が狭量なうえに、新政府が決めた銀目廃止令による両替商の相次ぐ倒産や、大名貸しの不良債権化による経済地盤の沈下に陥っていたため、政府は大阪府を救済すべく、1881年(明治14年)に堺県を大阪府に併合してしまったのです。因みにこの6年後(明治20年)に、余りに管轄が広すぎるとの理由で、奈良は大阪府から切り離されて、今の奈良県となりました。
こうした幾多の試練にもかかわらず、けなげにも堺市は紡績や煉瓦産業を中心に次第に工業都市へと変貌を遂げ、阪神工業地帯の一角を占める経済的地盤を築いていくのですが、これがまた、次の試練への導線となっていくのです。1945年第二次世界大戦で、隣接する大阪市と車両生産などで密接な関係を持っていたため、軍需産業都市として5次に亘る空襲を受け、当時の人口18万人の内、7万人が被災し、中心街の62%が焦土と化す被害を受け、近代アーバン・リゾート都市としての側面まで失ってしまうことになるのです。
「歴史にifという言葉はない」とは、イギリスの歴史家、E.H.カーの言葉ですが、「もし今も堺が国際貿易港であれば?」、「もし堺県のままであったら?」「もし、空襲を受けていなかったら?」そんな思いが頭を過ぎりました。それにしても、「よくぞ、これだけの試練を乗り越えて来たものだ」と、堺という街の持つ逞しさに、今更ながら感動しました。
遅まきながら、堺の歴史を概観して、歴史遺産が残っていない理由がわかりました。あるのは与謝野晶子の像や歌碑、それに千利休の屋敷跡に残された椿の井戸くらいのものです。キャラクターの濃い大阪と隣接しているのが、それが果たして「メリットなのかデメリットなのか?」、埋没せずに堺市として「キャラ」を立てるのはどうしたらいいのか?思案を重ねている内に年の瀬が迫ってきました。12月29日、この年の10月から、月一のレギュラーゲストとして出演させていただいていた、MBSラジオの「こんちはコンチャン お昼ですよ!」の生出演を終えて事務所に帰ると、堺市から、鶴埜理事、前田参事、池辺部長が年末の挨拶に見えていました。とりとめもない話をするうち、アドバイザーをお引き受けしてまだ3か月とはいえ、まだ確たるヒントを示せていない自分に向かって投げかけられるお三方から浴びせられた視線が、まるで「さて、その心は?」と、なぞかけの答えを迫る桂歌丸さんのようであったのを、今でも記憶しています。
こんなに広かったのです
空襲により焦土と化した堺市内
池上病院(戦時中と現況)
E.H.カー
堺駅前の与謝野晶子像
千利休の屋敷跡に残された「椿の井戸」
そうそう、そんな最中、この年(2003年)の12月22日には、「都市公団」(都市基盤整備公団)から依頼を受けて、大阪・天王寺区の筆ヶ崎地区再開発の「まちづくりコンセプト研究会」のメンバーに名を連ねることになりました。ちょうど翌2004年7月1日に、「独立行政法人・都市再生機構」と名前を変える直前のことでした。事業構造を、従来の企画・構想から基盤整備や建築物整備までを行うフルセット型から、民間投資を最大限に引き出すバックアップ型に転換しようという狙いがあったのだと思います。大阪赤十字病院が、建て替え費用を捻出するために、都市公団に土地を売却し、都市公団は効率的に土地を運用するため、コーディネート業務に徹してソフトを提供し、ハード部分や事業は民間業者が担うことになり、おそらく賃貸住宅がメインになるだろうとのことでした。
「なんで門外漢の自分に声がかかったのか?」とも思ったのですが、メンバーを見てすぐに合点がいきました。座長・コーディネーターとして、過去に都市公団の依頼で東京・江東区の「東雲キャナルコートCODANプロジェクト」をプロデュースされた残間理江子さんのお名前が入っていたからです。他には関西大学大学院建築計画学科を出て、当時東洋大学助教授をされていた白石真澄さん、タレントで作家として「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」や「恋愛と介護」などの著作のあった遥洋子さん、スタンフォード大学のアジア太平洋研究センターで、医療問題の日米比較研究プロジェクト・マネージャーをされていた社会学者の西村由美子さん、大阪赤十字病院の本田孔士院長、ランドスケープ・アーキテクトとして多くの受賞に輝かれていた、奈良女子大教授の宮城俊作さん、そこに主催者の都市公団関西支社長の鈴木貴雄さんがお入りになるという形で会は進められることになりました。
まずは、委員会のメンバーが当該地区を視察すべく、大阪赤十字病院の屋上から街を眺めることになりました。最寄り駅の近鉄上本町駅には都ホテルもあり何度か来たことはあるのですが、JRの鶴橋駅や桃谷駅が至近距離にあるのには驚きました。赤十字病院があって、再整備のため、赤十字社が費用を捻出するため、隣接地を処分して、その跡地に高級マンションをつくった例は広尾ガーデンヒルズにもあるのですが、彼我のロケーションの違いに、やや戸惑いをみせた方もおられました。
この後、場所を「ホテルアウィーナ大阪」3階の「二上の間」に移して行われた会議では、「この辺りは、じゃりン子チエの世界だから・・・」とつぶやかれた方が2人ほどいらっしゃいましたね。はるき悦巳さんの「じゃりン子チエ」ファンで、中でもチエちゃんの親友で、「ウチ、ドン臭いねん!」と呟く平山ヒラメちゃんのファンの私としては、「あの漫画に描かれたのは、西成区(原作では頓馬区)西荻町です」と訂正をしたかったところですが、そうおっしゃった背景には、「三丁目の夕日」と同じく、「懐かしい昭和の世界を思わせる風景が残っていますね」とおっしゃりたかったのだろうなと思い直しました。
因みに、公立学校共済組合の経営するこのホテルは、以前、「なにわ会館」という鄙びた名前だったのですが、いつのまにか「アウィーナ」という名前に変っていました。AWINAの由来が知りたくて、フロントで訊ねると、「NANIWAを反対から読んだだけ」と答えてくれました。このいい加減な所が大阪らしいのです。東京ならたとえこの名前で稟議を上げても、まず通らなかったと思いますね。
それは余談として、この日の会議では、赤十字病院が近接しているメリットを活かした「メディカル・タウン構想を核に、この地をグッドアドレス化する」方針を決め、次回以降に地区のゾーニングやネーミングを話し合うことになりました。
チエちゃんの親友、鈍くさいヒラメちゃん
鈍くさいくせに相撲は強いヒラメちゃん
チエちゃんが住んでいるのは、こんな町並みです
「まちづくりコンセプト研究会」はその後、2回目を2004年1月23日にホテルグランビア大阪20階の「孔雀の間」で開いて、四角の敷地を4つの街区に分け、東西に貫いて、近鉄上本町駅と赤十字病院を結ぶ病院の門前町を形成して、医療関連施設や来院者を対象とした物販・飲食施設が立地する「ホスピタリティの軸」とし、南北は居住者がメインに使う、歩車共存の潤いや季節感に溢れた「ウェルネスの軸」として、敷地の南側の辺を赤十字病院が桃の木を植えることから「桃坂の辺」、病院と隣接する東側を「病院の辺」、大阪市が指定する歴史の散歩道に接する西側を「歴史の辺」、近鉄に接する北側を「鉄道敷の辺」とすることが決まりました。このあたりは、ランドスケープ・アーキテクトである宮城俊作さんの独壇場でした。ともすれば抽象論に傾きがちな我々の声に耳を傾けつつ、具体的なプランに落とし込んでいく技は、「おぬし、プロやのう!」と叫びたくなるほどの手際の良さでした。
聞けば、宮城さんのご実家は、宇治の平等院だとかで、そのあと宮城さんに「あやかりたい」と思って、世界遺産の平等院を訪ねたことがあったのですが、あまり御利益はなかったように思います。もっとも、その際の私の賽銭が、表面に平等院を描いた十円玉ではなく、裏面に平等院の鳳凰像を描いた一万円札であれば多少効果は違ったのかもしれませんが、宮城さんが京大大学院で造園学を学ばれた後、ハーバードでデザインを学ばれたキャリアを考えれば、ハナからあやかることなど到底無理なお願いだったということが分かりました。
この間、堺市とは、2月4日に堺市役所東館3階会議室で、局長・部長や議員の方々110名を相手に講演をさせていただき、2月9日には、堺市の宿院にある「割烹もち月一味庵」で鶴埜さんたちと食事をした後、千利休が修業し、夏の陣で焼失した後に沢庵和尚が再興したと言われる名刹・南宗寺を訪ねました。そうそう、この南宗寺には、大坂冬の陣で落命したとの説があり、山岡鉄舟がそれを肉筆で認めたと言われる「徳川家康の墓」がありました。ところが、これも堺大空襲の折に被災し、由来を記して脇に埋められていた石碑共々、刻まれた文字が判読できぬくらいのダメージを受けたのです。
その後、3月6日には、高さ80mで、21階に360度の景色が愉しめる展望台ロビーを備えた堺市役所の新庁舎を訪れ、竣工式に臨みました。展望台からは遠く六甲山や、生駒山・金剛山までを眺めることは出来たのですが、残念ながら仁徳天皇陵は、ただ森が見えただけでした。さらに3月11日には、事務所まで来られた鶴埜理事と前田参事に紹介されて、新しい提案をすべく食事に訪れたのが、1階がAMBOROSIAというフレンチで、2・3階がL’HISTOIREというイタリアンの、「堺筋倶楽部」というレストランでした。クラシックな外観に惹かれて尋ねると、ベルリンで建築学を学んだ矢部又吉さんによって1932年に造られ、川崎貯蓄銀行大阪支店として使われていた建物だということが分かりました。なるほど銀行だっただけに、エントランスの天井が高く、床に敷かれたモザイクの入った絨毯も印象的で、会議室をワインセラー、電話交換室を個室ダイニングに使用しているとのことでした。小樽の銀行跡をホテルにしているレトロな風景に感動していながら、こんな近くに、銀行を改装したレストランがあると知ったのは、この時が初めてだったのです。
続いて、3回目の「まちづくりコンセプト研究会」が開かれたのは3月16日のことでした。場所は都ホテル大阪3階の「葛城の間」で、はぼ2時間ほどかけて過去2回の総括をした後、地区の名称案を検討し、ほぼ全員の支持を得た「桃坂コンフォガーデン」に決め、木戸健一郎副支社長の締めのご挨拶を以て、「コンセプト研究会」はお開きとなりました。その後に都市公団主催で懇親会が催されたのですが、訪れた店が、なんと、たった5日前、堺市の方々と訪ねたばかりの堺筋倶楽部だったのです。
宇治 平等院
「もち月一味庵」
女将と堺市の鶴埜理事
被災した家康の墓
家康の墓
堺筋倶楽部の外観
個室ダイニングとなった電話交換室
ワインセラーとなった金庫
堺市役所 新庁舎
森にしか見えない仁徳天皇陵
森から見えただけの仁徳天皇陵
一方でこの年(2004年)の1月28日には、「フジ・サンケイ広告大賞」クリエイティブ部門の審査員をさせていただきました。メンバーはお目にかかったことのある糸井重里さんや残間理恵子さん、井筒和幸監督の他に、アートディレクター界の巨匠・浅葉克己さん、写真家の加納典明さん、脚本家として「セカンドバージン」などを手掛け、ラブストーリーの名手といわれた大石静さん、ハイパーメディアクリエーターの高城剛さんという方々でした。各々が候補作品を見て、講評をしながら採点するという形で進められるのですが、何の専門知識もない私は、他の審査員の方々がしっかりとしたコメントをされるのを眺めて感心しつつ、「加納さんの顔って大きいな!」とか、饒舌にコメントされる高城さんを見て、「よくしゃべるけど、何を言っているのかよく分からないな?」などと思っていた気がします。そんなわけで、翌年からは声も掛からず、「そりゃ、そうだよな」と自分でも納得はしていたのですが、なぜか2007年には再び審査会に呼ばれて参加しています。多分誰かの穴埋めだったと思うのですが、2008年に「大企業の広告ばかりが選ばれる」ことに疑問を呈された井筒監督に同調するコメントをしたこともあってか、これ以降は審査会に呼ばれることはありませんでした。
次いで2月19日には、わざわざ東京から来阪されたメディアライツの中村由紀人さんと小林元之さんから、4月からTBS系BSデジタル放送・BS-iのラジオ番組「元気 e ! 」に、パーソナリティとして出演してくれないかという依頼があり、前年の7月1日に、当時パーソナリティを務められていた渡辺邦昭さんのゲストとして、出演させていただいた経緯もあり、お引き受けさせて頂くことにしました。自分づくりのヒントや元気の秘訣を、ゲストを通して学ぶ「人生の応援番組」で、制作を中村さんが出向されていた母体のPHP出版と、小林さんが出向されていた母体の松下電器産業が共同出資をして設立した「メディアライツ」が担い、日本生命系の「星和ビジネスサポート」がスポンサードをするというスキームでした。
3月24日には、さっそく第1回目の収録がTBSで行われ、残間恵理子さんと和田秀樹さんにご出演をいただきました。以降、翌2005年3月末までに、(多人数のため以下敬称は略しますが)ダイソー社長の矢野博丈さん、青島幸男さん、黒鉄ヒロシさん、由紀さおりさん、森田健作さん、ドラマプロデューサーの武敬子さん、大石静さん、スポーツジャーナリストの二宮清純さん、秋元康さん、サッカーのセルジオ越後さん、吉村作治さん、「0007は2度死ぬ」で日本初のボンドガールを務めた浜美枝さん、シンクロの井村雅代コーチ、武田美保さん、不肖宮嶋で知られる報道カメラマンの宮島茂樹さん、経済学者の金子勝さん、井筒監督、実業家で文筆家でもある平川克美さんといった著名な方々に、ゲストとして出演をしていただきました。番組を通して、素敵なお話をいただいたゲストの皆さん、星和ビジネスサポートの阿知羅英夫社長と制作プロジェクト担当の壱岐國芳さん、メディアライツの中村さん、小林さんには感謝のほかありません。この際に培った経験が、後に編集長として創刊することになった「5L」の巻頭インタビューをする際に大いに役立ったのです。
そうそう、「元気 e ! 」の1回目の収録を行った3月24日には、そのあと「弘旬館」を訪ね、文藝春秋社から出される「第二の人生・私のプレリタイアメント」の取材を受けた後、「日本の論点」編集長でもあった渡辺一弘社長と、文化放送の首藤淳哉さんとで、文京区水道2丁目にある「石ばし」という店で一緒に鰻を食べたのを憶えています。何でもこの店は1910年創業の老舗で、ミシュランの常連だといいます。「フランス人に鰻が分かるのか!」という思いをぐっとこらえつつ、美味しい鰻に舌鼓を打ちました。
4月から私は、文化放送では金曜朝の「蟹瀬誠一ネクスト!」ではなく、月曜午後の「吉田照美のやる気MANMAN」という番組のコーナーに出させていただくことになって、その打ち合わせを兼ねての食事会でもあったのです。吉田照美さんが小俣雅子さんと共に、深夜放送のノリでふざけた企画を行う「白昼の深夜トーク番組」、として、従来の高齢者ばかりではなく、20・30代の若いリスナーを取り組んだと言われた人気番組でした。やはり私には、真面目な蟹瀬さんの番組より、いい加減な(もちろん計算されたいい加減さだとは思いますが)この番組の方が性に合っていたようで、スタジオへ向かう足取りが、随分軽くなったように思います。
浅葉克己さん
加納典明さん
高城剛さん
中村由紀人さん
小林元之さん
矢野博丈さん
青島幸男さん
黒鉄ヒロシさん
由紀さおりさん
森田健作さん
武敬子さん
大石静さん
二宮清純さん
秋元康さん
セルジオ越後さん
吉村作治さん
浜美枝さん
武田美保さん
宮島茂樹さん
金子勝さん
平川克美さん
(左から)カメラマンの花井さん、壱岐さん、浜菜さん、私、阿知羅社長、小林さん、中村さん
「元気 e ! 」の内容は2006年1月30日に丸善で書籍化され、私は監修者として名前を連ねました。
渡辺一弘さん
首藤淳哉さん
石ばし
文化放送の「やる気 MAN MAN」
そうそう、2004年の1月31日に発行された小学館の「総務部総務課山口六平太」にコラムが載ったのはいいのですが、なぜかカメラマンの指定した場所が公衆トイレの中だったのです。観覧車の中という経験はあっても、トイレの中で撮影したのはこの時が初めてでした。指定したカメラマンの意図は分かりませんが、もしかしたら、「クサイやつ」と思われたのかもしれませんね。
また、この頃は、2000年に「笑いの経済学」(集英社新書)を出した経緯もあって、お付き合いをいただくようになった編集プロデューサーの刈部謙一さんとの親交も深まり、2002年9月には「吉本興業から学んだ人間判断力」(講談社)、続いて2003年6月に「五十代からは、捨てて勝つ」(PHP研究所)、更に10月に「人間の賞味期限」(祥伝社)、11月に「やすし・きよしと過ごした日々」(文藝春秋社)と出版が立て込み、2005年には大和書房から5月に「35歳革命」、12月に「50歳力」を出す予定もあって、折に触れてお目にかかり、次第に刈部さんからアドバイスをいただく機会も増えていくようになりました。
当時、私の抱えていた一番の問題は、「どうすれば堺市の魅力を発信できるのか?」ということでした。たしかに堺市には「ものはじまりゃ、何でも堺」といわれるように、海外の優れた技術や文化の窓口として発展した歴史があり、今も、自転車の「シマノ」や「堺化学」、「サカイ引越センター 」、ホームセンターの「コーナン商事」、「ラウンドワン」、くら寿司の「くらコーポレーション」、「タマノイ酢」、「タケモトピアノ」、虎印バットの「美津和タイガー」、都昆布の「中野物産」、あたり前田のクラッカーの「前田製菓」など本社を置く個性豊かな企業の他に、新日鐵、日新製鋼、シャープ、ライオン、クボタ、コニカミノルタ、ダイキン工業など大企業の工場もあり、一人当たり製造品出荷額では、全国にある政令指定都市の中で1位に輝いていました。ただ、その一方で、都市の魅力度は京都が1位、札幌が2位、横浜が3位なのに比べて堺は17位、認知度は京都が1位、大阪が2位、横浜が3位で、堺は何と18位で、「よう知らんさかい」と揶揄されるほどの存在でしかなったのです。
最大の問題は、堺市が誇る過去の栄光の歴史の流れと、今の堺市のイメージが線として繋がっていないということなのです。もちろん幾多の不幸な出来事の故とは言え、現存しているのは、御陵や石碑のみでは、アピールのしようがないというのが正直な所でした。そこでふと、思いついたのは「なければ造ればいいのでは?」ということでした。とは言え、やみくもに造ればいいというわけにもいかず、「果たしてどうすればいいものか?」と刈部さんに、相談を持ち掛け、いただいたヒントを元に、「黄金期の堺を舞台にした映画を作り、そのセットをそのまま残して観光施設に転用しては?」というアイデアが浮かんだのです。
打ち合わせを重ねるうちに構想はさらに膨らみ、刈部さんのルートで、ロンドン在住のプロデューサー山本貴志子さんにも加わっていただいて、三浦按針をモデルに描いた「さむらいウィリアム」の著者、イギリスの作家ジャイルズ・ミルトン氏に原作を依頼し、イギリス映画として公開をしてみようというものでした。嘗て堺にあったと言われるイギリス人のための常宿「平野屋」を核に描く、ラブストーリーやアクションを取り入れた物語で、大阪夏の陣で平野屋が焼失するまでを描こうというものです。
監督・脚本・撮影などはイギリスのスタッフで、主役もイギリスの俳優ですが、堺市民にもエキストラとして参加をしていただき、堺の祭りなども入れ込み、堺という街がいかに活気に溢れ、日本で最も進んだ町であったかを再現します。日本映画と考えなかったのは、広く世界にアピールしたかったからです。上映後はBBCやNHKで放送すれば、さらにその効果は倍増すると考えました。
思えば前年9月2日、期の半ばに顧問委嘱の辞令をいただき、3月12日に、堺筋倶楽部で、鶴埜理事や前田参事に映画の話を持ち掛けた時は、まだアイデアだけのレベルでしたが、年度月の改まった4月9日に再度委嘱の辞令をいただき、28日にコンベンション協会で堺まつりの打ち合わせをしたり、5月12日に第一ホテル堺で、堺勤労福祉協議会で講演した後にセッティングされた食事の席では、お二人を相手に構想の進捗状況をお伝えしつつ、夢の膨らむ話に花を咲かせたように思います。
なんでトイレやねん?
刈部謙一さん
その後、刈部さんとのミーティングは進めつつも、6月7日には、東京全日空ホテルのギャラクシーで開かれた、民主党・小沢鋭仁議員の「環境委員長就任を祝い、今後のさらなる活躍に期待する会」に出席。その後、6月8日にシティクラブTOKYOのメイプルルームで開かれた、元レバノン大使の天木直人さんの出版記念会に出ました。14日には、この年で3期務めた参議院議員を引退すると表明した、「西川きよしさんと参院選」というテーマで、NTV「ザ・ワイド」のVTR取材を自宅近くの白金台都ホテルで受け、さらに22日には「経済人クラブ」の代表幹事として、京都全日空ホテルへ行き、ゲストにお招きしていた横田滋・早紀江ご夫妻のお話を聞かせていただきました。
この「経済人クラブ」は、講演をメインに、企業人の親睦を図る目的で1953年に、当時代表幹事を務めていた同志社大学で同窓の畑本誠さんの父君が設立された歴史ある団体で、過去には歴代の総理経験者や、細川隆元さん、大宅壮一さん、田原総一朗さん、塩月弥栄子さん、金田正一さん、アントニオ猪木さん、大松博文さんといった各界の著名人をゲストに招いていました。誠さんが2代目の代表幹事となってからは、更にゲストスピーカーの幅も広がって、私などにも声がかかるようになってはいたのですが、なぜかある日、畑本さんから呼び出しを受け、自分は拠所ない事情で本業に専念しなきゃいけなくなったので、しばらくの間、代わりに代表幹事を務めてくれないかと頼まれて仕方なく引き受ける羽目になっていたのです。
もちろん報酬は無く、それどころか行き帰りの交通費を入れると、逆に持ち出しではあったのですが、都合5年ほど務めさせていただいたおかげで、野中広務さん、早坂茂三さん、森永卓郎さん、佐々淳行さん、宮嶋茂樹さん、玉木正之さん、須田真一郎さん、江本孟紀さん、辺真一さん、拉致被害者の横田夫妻、前述した天木直人さんといったゲストスピーカーの方々からお話を伺うことが出来、その上、「京つけもの富川」社長の富川恭裕さんや、情報通信コンサルタント会社「プラスネット」社長の藤田久和さん等多くの友人が出来たのは、以後私の財産となったように思っています。
そして6月23日には、大手町のJA会館で開崔された食糧庁の「ご飯食推進対策外部委員会」に出席をしました。食糧庁から依頼を受けたのは前年のことで、その後、7月1日に省庁再編で食糧庁が廃止されて農水省食糧部と改組された後も、9月3日に需要が減り続けるコメの需要を喚起すべく、農水省・全国米穀協会・JA全中が提供をして始めたものの、やや視聴率が停滞していた、テレビ朝日の「隠れ家ごはん〜メニューのない料理店」(日曜18時~18時半放送)の収録を砧のメディアシティで見た後、代理店の電通さんを交えた席で感想を求められ、私にはメインの西村雅彦さんと吉田恵さんのやり取りがぎこちなく思えたので、「キャスティングに問題が・・・」と答えたように思います。
さらに、10月28日には農水省のPR誌「AFF」で、大臣官房審議官の岡島敦子審議官と対談をしました。たしかこの日は、前年にお話をいただいた当時は食糧庁におられて、既に情報課長として本省に戻っておられたていた涌野佐斗司さんらと共に、農水省の食堂で会食をさせていただいたように思います。その後、翌2005年8月までに何度か開かれた「ごはん食推進活動外部評価委員会」に参加させていただき、米穀協会を代表して出席されていた「株式会社神明」の藤尾光也社長や、「オレンジページ」の女性編集者、40店を運営する外食店を運営し、幅広く食にかかわるサポート事業も展開されていた「株式会社フードワークス」の宮本圭一さんらと意見交換をさせていただきました。そう、この宮本圭一さんは、あの宮本亜門さんのお兄さんだったのです。
加えて6月25日には有名塾4期のスタートをさせ、7月2日にクラブ関西で開催された「民放連ラジオ番組審査会」に出席、夜は京都全日空ホテルへ移動して、立命館大学を辞めて転身される小畑力人さんの壮行会に出席。これらに加えて、北は仙台、南は長崎からお招きをいただいた講演会や、レギュラー番組への出演、さらに新聞・雑誌の取材と結構多忙な日々を過ごしていた私に、思いもよらぬ電話がかかってきたのはそんな最中のことでした。
小沢鋭仁さん(2009から2010年に環境大臣を務められました)
元駐レバノン日本国特命全権大使の天木直人さん
畑本誠さん
経済人クラブで挨拶する私
森永卓郎さん
佐々淳行さんとの対談
玉木正之さん(右)
右から天木直人さん、江本孟紀さんと一人おいて私
横田夫妻
左から藤田久和さん、私、富川恭裕さん
ちょっとスケべな富川さん
経済人クラブを辞めることになり皆で記念撮影
農水省の広報誌AFF。「AFF」は「Agriculture(農業)」と「Forestry(林業)」と「Fisheries(漁業・水産業)」の頭文字を取って作られた言葉です。
岡島敦子 審議官
涌野佐斗司さんはこの後、北陸農政局長になられました。
株式会社神明の藤尾光也 社長
株式会社フードワークスの宮本圭一さん
お電話をいただいたのは、そういえば、この1カ月ほどお目にかかっていなかった堺市の鶴埜理事でした。いつになく改まった口調で「ぜひ、お会いして早急にお伝えしたいことがある」とのことで、わざわざ上京していただいた鶴埜さんとお会いしたのは、2004年に行われた第20回参院選投票日の7月11日のことでした。場所は、当時自宅から程近いということでよく利用していた白金・都ホテルのロビー・ラウンジのバンブーだったと思います。助役の方と共に、いつになく硬い表情で現れた鶴埜さんを見て、「いったい何の話だろう?」、と思っていた私に向けられたのは、「実は、自民党市議から、市の顧問を委嘱されている私が、辻元清美さんの推薦者として名前を連ねていることに異議が出て・・・」という話を切り出されたのです。思えば、それまであれほど密に連絡を取り合っていたにもかかわらず、この1カ月ほど堺市の方から連絡がなかった理由はここにあったのです。
思えば、ご案内をいただき、この年の3月28日に、灰谷健次郎さんや石坂啓さんが呼びかけ人となった、「辻元清美さんの裁判をさせる会・活動報告会」に参加するため、高槻現代劇場へ出向いたのが事の始まりでした。私自身は満員の会場の中で、ただ一人の聴衆として、話を聞いていただけなのですが、後日、辻元さん側から、そのお礼と共に「7月11日に行われる次期参院選に、社民党を離党して無所属で出るので、推薦人の一人になって欲しい」という依頼があり、引き受けていたという経緯があったのです。当時は山梨県選出の民主党衆議院議員・小沢鋭仁さんや、経済人クラブを通じて知り合った、京都の民主党衆議院議員の福山哲郎さんや堺の西村眞悟さんとも交流があり、5月28日発行のリクルートの雑誌Bingでは自民党議員を辞めて、東洋大学総長を務められていた塩川正十郎さんと対談をさせていただいてます。大阪選出の共産党の宮本岳志議員に服装のアドバイスをさせていただいたこともありました。このように、人物本位でお付き合いをさせていただいていて、その方がどこの政党かということはあまり気に留めてもいなかったのです。政治的信条はともかく、一人のか弱い人間が苦境に陥り、たった一人無所属で、立候補しようという時に「背を向けることは出来ない」と思っただけのことなのです。
ただ、そのことが、市の方々にこれ以上の負担をかけるということであれば、身を引くしかありません。「お世話になってきた皆さんに、これ以上ご迷惑をお掛けするわけにいきません。誠に残念ではありますが、そういう事情なら、せっかく委嘱していただいた顧問職を辞職させていただきます」と申し出ることにしたのです。吉本を辞めて以来、生涯で2度目の辞職願を書くことになりました。
その決断自体を悔いる気持ちはありませんが、一方で、せっかく堺市の皆さんたちと進めてきた「自由都市堺再生計画」が、ここで頓挫してしまうことになったのは痛恨の極みというほかありません。辛い役目を終えて、幾分安堵の表情を背中に浮かべて帰られる2人を見送った後、すぐに刈部さんに連絡を入れて、事の次第を報告したのは言うまでもありません。刈部さんの落胆した様子が、電話の向こうから伝わってきたのを憶えています。ただ、事がこうなった以上は、「まだ机上のプランの段階で、イギリスへ打ち合わせに行く前の時期だったのが、せめてもの幸いだった」と思い直す他ありません。
一方、参院選の方は、私自身の住民票が東京にあり、残念ながら辻元さんに1票を投じることは出来なかったのですが、大阪選挙区から無所属で出馬した辻元さんは、71万8千もの票を集めたものの、あと一歩及ばず、残念ながら、全国最高得票での落選者となってしまいました。
都ホテル「バンブー」
灰谷健次郎さんの著書
漫画家の石坂啓さん
石坂さんの著書に登場する辻元さん
福山哲郎さん
西村眞悟さん
宮本岳志さん
塩川正十郎さんとの対談
71万8000票を獲得するも、あと一歩及ばず。
2度目の退職願
この2004年の9月2日、私は大阪帝国ホテルで開かれた「大阪の未来を考える会」に出ています。6月13日に明らかになった、近鉄バッファローズのオリックス・ブルーウェーブへの吸収合併問題に端を発する球界再編が、ファンや選手を無視して1リーグ制へ加速する中、それに反発したファンたちが、近鉄バッファローズの磯部公一会長以下、選手全員を集めて、ファンと共に決起集会を催したもので、巨人ファンの私がなぜ参加したのか分かりませんが、そんなことより、プロ野球ファンとして「これは許せない」という心情が働いたのだと思います。会場には、会の発起人の一人でもあり、「虎エコノミスト」としても知られていた大阪学院大学教授の国定浩一さんや、ハイヒールのモモコさん、和泉修さんらの懐かしい顔もありましたが、私は元阪神のサイド・ハンドの川尻哲郎投手から、自分の登板日の直前まで熱心に合併反対の署名活動をされている熱い思いを聞かせていただいたように思います。
この翌日の9月3日に東京地裁から合併の承認が下り、9月8日に開かれたオーナー会議で、球団名がオリックス・バッファローズ、本拠地は大阪ドームと発表されるのですが、それに異を唱える古田敦也会長率いる「労組・日本ロ野球選手会」との調整は難航して、ついに古田敦也会長率いる日本プロ野球選手会は、9月18・19日、70年の歴史上初のストを決行することになりました。このプロセスの中「球団代表ではなくオーナーと話したい」発言した古田会長に対して読売新聞のナベツネさんが「たかが選手が・・・」と返したエピソードは、後々まで語り続がれることになりました。
一方でプロ野球の持つ抜群の知名度に魅力を感じて、吸収合併される近鉄バッファローズの買収に名乗りを上げた企業がありました。堀江貴文さんが率いる「ライブドア」です。6月30日に記者会見をして発表したものの、近鉄側から断られたこともあって、すぐさま新球団の設立に切り替え、8月5日「ライブドアベースボール」社を立ち上げ、9月18日に宮城県・仙台を本拠地にすると発表したのです。ところがこの4日後、9月22日になって、新たに三木谷浩史社長の率いる楽天が同じ仙台を本拠地にする新球団を立ち上げるという発表を行い、9月25日には両社の社長が同じ仙台で鉢合わせすることになりました。以降、新監督は10月13日に田尾安志さん、14日にライブドアがトーマス・オマリーさん、球団名は10月22日に楽天が「東北楽天イーグルス」、26日にライブドアが「ライブドア・フェニックス」と次第に拮抗していくのですが、11月2日に開かれたオーナー会議で「永続的な経営が可能な、安定的体力がある企業が望ましい」という理由から楽天が選ばれることになりました。新球団にライブドアが選ばれなかったのは、その後ライブドアショックのあおりを受け06年に上場廃止になったことを思えば、その判断は間違ってはいなかったのでしょうが、コンサバティブな大人たちから見て安心感を抱ける三木谷さんと、ナベツネさんに「俺の知らない奴は入れられない」と言わしめた堀江さんという2人の社長のキャラクターの違いも大きかったように思えますね。
オリックスとの選手の配分も終わり、楽天イーグルスには新たに、中日から山崎武司選手、阪神から関川浩一選手、ヤクルトから飯田哲也選手、さらにオリックス入団を拒否した岩隈久志選手が加わって、新しいスタートを切ることになったのです。
いずれにしても、この出来事が2005年にソフトバンク、2012年にDNAという新しい分野の企業がプロ野球界に参入する大きなきっかけとなったことは確かです。時代は変わりつつありました。
選手会長の磯部公一 選手
国定浩一 教授
トラキチでこんな本も書いていました
川尻投手は阪神時代にノーヒットノーランを達成していました
こんなファンの声も空しく
意見は分かれ・・・
こんな発言もあって
ついにスト突入
堀江貴文さん
三木谷浩史さん