木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 キックオフの日から始めた入塾性の募集は、インパクトのある新聞告知の効果もあってか、あっという間に、東北や中国地方から応募された方を加え、18歳から80歳まで、職業も経営者、企業人、公務員、主婦、学生、フリータ-と属性もばらばらな人たちから、定員(100名)を上回る数のご応募をいただきました。残念ながら今回漏れた方たちには、次回ぜひ参加をしていただくようにお願いして、納得をしていただき、場所を心斎橋の大丸百貨店本店の向かいにある「御堂筋ホール」に決めたのはいいのですが、肝心なのは、2ヶ月、6回にわたって行う講義内容をどう進めるのかということでした。どこにもない塾を目指す以上、どこにもないユニークなものにしなければなりませんからね。

 仕事の合間を縫いながら、スタッフの皆と協議を重ねて出来上がったプランは、まず100人を10組に分け、最終の6回目に、チームごとに「世の中を元気にする!」というテーマに沿った「新しいビジネスプラン」を発表してもらおうというものでした。プレゼンまでは、それ以前と同様に御堂筋ホールで行い、審査結果の発表は、打ち上げを兼ねて、近くの「ハートンホテル心斎橋」に場所を移して行うことが決まりました。

 さて、問題は講義の内容をどうするのかということです。そこで、講演の経験はあっても、5回の講義の経験のない私が、毎回引き受けるのではなく、それまでお付き合いをさせていただいて、素敵だなと思った方にお願いをした方がいいのではないかと考えたのです。もちろん、その分、コストは膨らみますが、なにより、参加していただいた方に、「参加してよかった」と思っていただけることの方が大事だったのです。ご多忙の中、薄謝にもかかわらず引き受けていただいた講師の皆様には感謝する他ありません。

 まず、6月26日の1回目は、私が「個の時代を生き抜くための人間力」というテーマでお話をさせていただき、2回目の7月10日は、音楽プロデューサーの森本泰輔さんには、自ら91年にウルフルズを連れて上京し、95年「ガッツだぜ!!」でブレイクするまでの4年間、レコード会社の人間から「エレベーターはスターが乗るもの、君たちは階段を歩きなさい」と言われるような辛い状況からどのように伸し上ったかという「メンタルタフネス」を、3回目の7月24日は、関西電通・堀井チームの中核を担うCMプランナーとして、数々の国際賞を受賞され、翌2004年に、大滝秀治さんと岸部一徳さんを起用したキンチョーのCM「お前の話はつまらん」で、TCCグランプリに輝かれた石井達矢さんから「タレント性」についてお話をいただきました。

 そして4回目の7月31日には、場所を大阪府立体育館に変えて、演出家の湊裕美子さんから、座学ではなく実践編として、自分の意見を相手にわかりやすく伝えるための、滑舌や発声の仕方を教えていただきました。さらに次の5回目の8月21日には、再び御堂筋ホールに戻り、立花美哉・武田美保さんのデュオを2000年のシドニーオリンピックで銀メダル、2001年福岡世界水泳で日本人初の金メダルに導いた、シンクロ日本代表コーチの井村雅代さんから、自分の考えを相手に伝えるための技術やプレゼンスキルについてお話をしていただきました。

 まだ海のものとも山のものともわからないものに、応募されてこられただけあって、塾生の皆さんは好奇心の強い人たちが多く、会場からは、毎回楽し気な笑いが飛び交い、それなりに「やってよかった」という達成感もあったのですが、ただ5回目までを開いていた木曜日は、朝7時台の文化放送での生出演を終えてから始まり、会場の片付けを待ってから開かれる反省会が終わる深夜1時まで続く長―い1日となって、結構、疲労感は残りましたね。

 

御堂筋ホール

 

 

 

森本泰輔さん

石井達矢さん

 

大日本除虫菊「水性キンチョール」CM

堀井さんとのツーショット

湊裕美子さん

井村雅代さん

 

立花美哉・武田美保ペア

 

発表会で審査員としてコメントする湊裕美子さんと私

 

HISTORY

第話

 私自身が今までにこういう経験がなかったこともあって、余り細かいルールを決めずに1期を終えたのですが、反省を込めて次回から修正をしなきゃいけないと思ったことはありました。まず、100人という人数が多すぎて、どうしても、塾生の方々とのコミュニケーションが取り切れなかったのではないかという反省がありました。積極的な人は、講義の終わった後に誘い合って飲み会に行くなどをしていたのはいいのですが、どうしてもシャイな人が孤立をしがちだった気がしたのです。たしかに、経験を積まれた講師の話には説得力もあり、それはそれで素晴らしい体験だとは思うのですが、どうしても一方通行になって、塾生の方々がただ聞くだけに終わってしまっていたように思えたのです。そこで、2回目からは、ツーウェイ化するためにも、人数を50名程度に抑え、会場も広く部屋の中に柱が立っていて死角の出来る御堂筋ホールから、天満研修センターに変え、6回の講義の前半3回は2期以降、(各期によって、時にフリーアナウンサーの近藤光史さんや、名古屋のペアレンツ代表の横田佳代子さん、タレントのパリー木下さんから、転身してカラーセラピストになった木下代理子さんなどにお願いをしたこともありましたが)原則的に私が受け持ち、30~40分の講話をした後に、塾生さんたちとの質疑応答を行うように変えました。

 加えて、後半の2回は演出家の湊裕美子さんにお願いし、全員が参加して滑舌・発声からグループでのエチュードまで、豊富な演出経験に基いた「湊メソッド」による訓練を行っていただくことにしました。もちろん各講座の後半のグループ・ディスカッションはそのままで、最終日6回目には各グループごとに、企画の提案と、その趣旨を織り込んだパフォーマンスを発表していただくようにして、私と湊さんが審査して表彰することにしました。なかには、「なんでそんなことをしなきゃいけない」と拒否をされた高齢の男性経営者の方もおられましたが、結局まわりのグループメンバーの皆さんに説得をされて、発生や滑舌こそされなかったものの、最後の発表会までグループのメンバーとして残られました。最終発表が迫ってくると、近くの公園などで自主的にパフォーマンスの練習を行うなどグループの絆も一気に深まっていきました。今までの頭だけの座学に、体を使って行う講座が加わって、一気に熱い塾となっていきました。合わせて研修所のあった天満橋駅近辺は、少し気取った心斎橋と違って、市場や日本一の長さのアーケード商店街が密集する庶民的な盛り場にも近く、飲み屋さんや食事処に事欠かなかったのも幸いしたのかもしれませんね。

 こうした定員や場所の変更、講座のカリキュラムの改革に加えて、有名塾ならではのコミュニケーション・ツールとして、私とのツーショット写真と共に、「自ら考えたオリジナルな肩書入りの名刺」や、塾生の皆さんと私のコミュニケーションを深めるための手段として、「交換日記」の用意をしました。自分で積極的にどんどん前へ出るような人はいいのですが、シャイな人はどうしても人前で話すことが出来ず、こちらの目にも留まらないで、欲求不満を抱えたままに、終わってしまうような事態を回避したかったのです。毎回の講義の後には、必ず「交換日記」に記入をしていただき、次回の講義の始まる前には皆に返却をしなくてはならないのですから、結構エネルギーを要する作業ではありましたが、何度か繰り返すうちに、だんだんと楽しくなって、塾のある前の日に約2時間ほどをかけて、一気に書き上げていたように思います。およそ学生時代にもしたことない「交換日記」が、まさかこれほど楽しいものになるとは、夢にも思っていませんでしたね。

 

 

有名塾ならではのカリキュラム

天満研修センター

フリーアナウンサーの近藤光史さん

横ネエこと、横田佳代子さん

パリー木下さん

 

カラーセラピストになった木下代理子さん

駅近辺の飲み屋さん

結構エネルギーをいる作業でした

交換日記イメージ

HISTORY

第話

 塾生さんたちとの気持ちの交流を図る手段として、今では到底考えられない、アナログな「交換日記」という手段を思いついた背景には、若い頃にみた、あるテレビドラマから受けた影響があったように思います。原作は、たしか、大和書房から前年末に出版されて、160万部を売り上げ、1964年度のベストセラーになった「愛と死をみつめて」でした。共にタイガースファンということで知り合った、河野實(マコ)と大島みち子(ミコ)の2人が、それぞれ東京と京都の大学に進学した後も遠距離恋愛を続け、ミコが、軟性骨肉腫という難病に罹り、顔の半分を失って、マコの22歳の誕生日の前日に、自分のメモリアルデーを刻んで去って逝くという感動的な物語で、生前に2人が交わした3年間に及ぶ手紙集を書籍化したもので、70年に作られたアメリカ映画「ある愛の詩」同様、純愛と離別をテーマにした感動的な物語でした。

 テレビでは、4月にTBSが、石井ふく子プロデューサー、脚本を橋田壽賀子さんという名コンビの手によって、大空真弓さんと山本学さんを主人公に、東芝日曜劇場で2週にわたって前後編として放送され、すっかり(みこを演じた)大空真弓さんのファンになりました。更に7月には、酒井政利さんが手掛けた初のプロデュース作品として手掛けた同名のレコードが出版されたのです。作詞は土田啓四郎さんで、作詞が大矢弘子さん、歌ったのは、12歳で第6回コロムビア全国歌謡コンクール1位に輝き、前年に「青い山脈」でデビューしていた、当時18歳の青山和子さんでした。作品はこの年のレコード大賞に輝き、紅白歌合戦初出場まで果たしたのです。歌詞にある「たとえこの身は召されても 二人の愛は永遠(とわ)に咲く みこの命を生きてまこ」という歌詞に感動して、同じ京都生まれの、同い年でもあった青山和子さんにファンレターを出して、今から思えば、おざなりの印刷された葉書をもらって感激したのを憶えています。

 さすがに、1月に放送されたニッポン放送のラジオ劇場や聴いたり、9月に吉永小百合さんと浜田光男さんが主演した、斉藤武市監督の日活映画まで観ることはなく、きっと今なら「難病と離別って、悲劇の定番じゃん!」などと、可愛げのないことを嘯いたりするのでしょうけれど、信じられないことに、当時の私には、まだそんな汚れを知らない、ピュアな心が溢れていたのかもしれません。

 その上、ヒロインの大島みち子さんが通われていたのが同志社大学の文学部の新聞学専攻で、なんと私と同じだったのです。もっとも、大島さんは罹病されていたこともあって、高校を5年かけて卒業され、入学後わずか5カ月で他界されたこともあって、入学後にお目にかかることは無かったのですが、それを知って、「愛と死を見つめて」をさらに身近に感じるようになっていたのかもしれません。

 この作品のお陰もあって、「交換日記」という言葉が、これ以降ポピュラーになっていきました。そんなこともあって、塾生の皆さんたちと気持を通わすためにも、この「交換日記」を是非使ってみようと思い立ったというわけなのです。思えば、高校3年の修学旅行で南九州を訪れた時には、バスガイドさんから、当時ヒットしていた舟木一夫さんの「高校三年生」を聴かされ、大学に入って「愛と死をみつめて」を聴かされたのですから、まさに「コロムビアレコードに左右された青春期だった」と言えますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

酒井政利さん

HISTORY

第話

 「この人たちは一体何を求めてこの有名塾へ来られたのだろう?」、そう考えながら期を重ねるうち、次第に私の頭の中で明らかになってきたことがありました。この人たちが、資格を取れるわけでも、ノウハウが得られるわけでもないこの塾に来られるのは、「他の人と関わりたい」、そして、「自分という存在を他の人から認めてもらいたい」ということではないかと思うようになったのです。

 人間を定義して、ホイジンガはホモ・ルーデンス(遊戯人)、リンネはホモ・サピエンス(英知人)、ベルグソンはホモ・ファーベル(工作人)という言葉で表しましたが、私の心に最もフィットしたのは、太田肇さんの唱えられた「ホモ・リスペクタス」(人は認められたい存在である)という言葉でした。

 総てがシステム化され、効率化が極限まで進んだ現代社会にあっては、個人がコモディティ化されて、総ての人が匿名の中で生きることを余儀なくされていたように思えたのです。

 本来、人は誰もが「自分の存在を他の人に認めてもらうために生きている」のだと思うのです。それなら、この有名塾という場を、参加したすべての人たちが、個人として認められるようなハレの場にしようではないかと考えたのです。塾生さんたちとの意思疎通を図るツールとしての交換日記は、そのためにも欠ことかすことができないものとなりました。

 2006年の9月23・24日には、更に親交を図るべく、修学旅行と称して27名の塾生さんたちと、1泊2日のバスツアーで和歌山県日置川町(正確にはこの年の3月1日に隣接する白浜町と合併して西牟婁郡白浜町日置となってはいたのですが)まで出かけたこともありました。チャーターしたバスで近鉄難波ビルを出たのが朝8時、現地に着いたのが12時半ですから結構な行程でしたね。さっそく宿泊する「リヴァージュ・スパひきがわ」で昼食を取り、町内をバスで散策した後、午後2時から役場でIターンを実践された鈴木さん夫妻から皆で話を聞き、その後4グループに分かれ、カヌー、漁業、陶芸など体験型観光「ほんまもん体験」に参加。熊野古道大辺路の富田坂を下った安居(あご)集落から仏坂へ、日置川を越えて渡す船にも乗りました。

 その後、「リヴァージュ・スパひきがわ」に戻り、海・山・川の幸いっぱいの夕食を取った後、「大好き日置川の会」の皆さんたちや、和歌山県「新ふるさと推進課」の方々と意見交換をして、各グループごとに、深夜まで翌日提案する「町の振興案」についてのミーティングを重ねました。

 翌日におこなったプレゼンの場には、審査員として「大好き日置川の会」の奥山沢美会長の他、当時、改革派の知事として知られていた木村良樹和歌山県知事や、議員の方もお見えになり、都会から子供を受け入れる「心の交流案」や各市町村による「和歌山元気祭り案」、ほんまもん体験やボランティアをすると貯まる「ヒッキーカード案」、南紀日置川よいところ、心も体もリフレッシュと歌う「日置川音頭案」などを提案、好評のうちに終わることが出来ました。

 その後に審査員の方々と地域のボランティアの皆さんを交えて、日置川畔の向平キャンプ場でおこなわれた交流会では、天然の鰻や鮎、川海老、地元の名品「川添茶」を使った茶粥などに舌つづみをうったのは懐かしい思い出となって、今も脳裏に残っています。塾生の皆に、「大好き日置川名誉観光大使の名刺までいただき、感動の内に幕を閉じることが出来ました。

 実は、木村良樹知事とは、これ以前に、ある方のご紹介で2000年7月21日に、南海サウスタワーホテル(現スイスホテル南海大阪)の花暦で会食をしたことがあったのです。確か当時は、大阪府の副知事をされていて、横山ノックさんがセクハラ事件で知事の職務停止に陥った後、大阪府知事職務の代理者を務められていたのですから、当然のごとく次期大阪府知事候補になられると思っていたのですが、「セクハラ事件の後は男性ではなく、女性候補の方がいい」という声があったのか、それまで大阪とは縁のなかった、元岡山県副知事でもあった呉市出身の太田房江さんが候補となり、そのあおりを受けて、木村さんは、急遽和歌山県知事選に回らざるを得なくなったのです。その結果、この2006年の暮れに、2期目の任期中に和歌山県知事職を辞任せざるを得なくなった経緯を考えると、(責めを負うのはご本人であるにしても)この方も、ノックさんに、自身の運命を翻弄された、お一人だと言えるのかもしれませんね。

 

 

 

ホモ・ルーデンス

周囲から認められることを求め、承認欲求によって動機づけられる人間を「承認人(ホモ・リスペクタス)」と太田肇さんは唱えられています。

これは知らなかった

これは関係ありません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木村良樹知事とツーショット

和歌山県の広報誌「連」で対談させていただきました

南海サウスタワーホテル

「花暦」

HISTORY

第話

 知事つながりで言うと、2003年1月23日には、ハイアット・リージェンシー・オーサカで開かれた「関西圏元気づくりフォーラム」に出席して、基調講演と、主催された三重県の北川正恭知事や、立命館大学副学長の田中道七さんらと共にパネルディスカッションに参加させていただきました。北川さんは当時岩手県の増田寛也さん、宮城県の浅野史郎さん、鳥取県の片山善博さんと並んで改革派の知事として名を馳せられていた方でした。田中さんは、産学官連携の実践者として知られた学者で、この翌年に総長顧問となられてから、「経済産業大臣賞」を受賞されました。控室でお目にかかった北川知事はとてもフランクな方で、まさかこの年を最後に「長く務めると癒着を生む」として知事職を退いて、早稲田大学大学院の教授に転身されるとは思ってもいませんでした。いつだったか、TBSの「ブロードキャスター」のアンカーマンとして出ておられた北川さんとスタジオでお会いした時、「朝、ジョギングをしていて、木村さんの家の前を通りましたよ」と声を掛けていただきました。とても目に留まるような家でもなく、「ハズキルーペ」もなかった時代のことですから、よほど視力がいい方なのだと思います。

 3月15日には、88年に結成された社会風刺コント集団の、「ザ・ニュースペーパー」新宿コマ劇場公演のゲストに招かれ、公演後に舞台に上げられて感想を聞かれたのですが、「もっと笑いが取れるのに、単にパロディだけで終わっているのがもったいない」と辛めことを言ったような気がします。本当はもっと温かいことを言えば良かったのでしょうが、この夜は「ブロードキャスター」の初出演を控えていて、気もそぞろだったのかもしれません。初出演を終えた後は、予てから取材でお付き合いをいただいていた森本ディレクターや、長岡杏子アナウンサーと、「赤坂うさぎや」という店で食事をして、家に帰ったのはたしか、午前3時頃だったと思います。そうそう、一ツ木通りから浄土寺の境内を入った所にあるこの店では、食事の合間にテーブルマジシャンが部屋を訪ねてマジックを披露するのですが、ただマジックをするだけで、間を繋ぐ喋りがとんでもなく拙いのです。これは赤坂東急ホテルにある「NINJA AKASAKA」でも同様で、私のように、大阪の北新地にある「バーノンズ・バー」で、オーナーのルビー天禄さんや、ムッシュ・ピエールさんが、笑いと共に披露するマジックを見慣れている者にとっては、エンターテインメントとして論外という他ありませんでした。「ザ・ニュースペーパー」にも、きっと同じようなことを感じたのではないかと思います。

 そして3月19日には朝の10時から、大阪第一ホテルで「産経新聞社員研修会」に招かれて講演を行いました。入社10年目の社員だけを対象にした研修会で、30名ほどの社員の方々に、自分が入社できなかった嫌みを込めつつ、エールを送る話をさせていただきました。歴史にIFはないと言いますが、「もし自分が産経新聞に入っていたら、果たして、どんな人生を歩んでいたのだろう?」と考えると、とても感慨深い講演となりました。

 さらに、3月29日には京都精華大学で初の理事会に出席した後、大阪高石市まで移動をして、アプラホールで開かれた、由紀さおりさん・お姉さんの安田祥子さんのお二人による「童謡コンサート」を鑑賞。「月の砂漠」や「赤とんぼ」などを、美しいハーモニーに乗せて表現されるお二人の姿に心が洗われる思いをしました。

 4月に入って、13日には、NHKのBSディベート・アワー「スーパーサラリーマンの条件」に、4月26日、7月5日には「ブロードキャスター」に出演。7月27日には、赤坂プリンスホテル五色の間で開かれた、自民党全国研修会で、約1000人の聴衆の前で講演をさせていただきました。横に広い会場で、果たしてどれだけの人に、聴いていただけたのかは分かりませんが、いい経験にはなりました。そうそう、この時、当時小泉政権下で総務会長を務められていた、堀内光雄さんにもお目にかかりましたね。

 

 

ザ・ニュースペーパー

長岡杏子アナ

「赤坂 うさぎや」へは、ここから入ります

 

店内で披露するテーブル・マジック

AKASAKA NINJAの店内

忍者がマジックを披露

ルビー天禄さん(左から2人目)

ムッシュ・ピエールさん

 

安田祥子さん(左)、由紀さおりさん(右)

 

HISTORY

第話

 そして8月に入って14日から19日まで、久方ぶりに家族と共にラスベガスへ旅行する前のことだったと思います。堺市の木原敬介市長が事務所までお見えになり、「月に1度、市役所や観光施設を訪れて、広報や人材育成のアドバイスをして欲しい」と依頼を受けたのです。思えば、この年の1月に発行された、市の広報誌「グラフさかいVIEW」のインタビューを受けて、思いつくままに話したことが市長の目に留まったのかも知れません。

 とは言え、私が堺市を訪れたのは、音楽評論家で、ラジオパーソナリティでもあった白藤丈二さんから、「半年前に予約を取らないと入れないおでん屋があるんだけど、行ってみない?」と誘われて、2度ほど行った寺地町の「たこ吉」くらいのものでした。この店には、やしきたかじんさんや、元南海ホークス投手で「最後の30勝投手」と言われた、皆川睦雄さんなどもよく通われていたそうで、表通りではなく、ごく普通の住宅街にある一軒家でした。店に入ると、わずか10席ほどのカウンター席しかなく、メニューにはコース料理しか書かれていなかったと思います。順を追って出されるおでんはいずれも美味で、なるほど評判を呼ぶのも宜なるかなとは思いつつ、難波からタクシーで20分程かかるのが億劫で、それ以降は次第に足が遠のいていました。その他に堺へ行ったのは、講演のため、南海電鉄堺駅に隣接した、堺リーガロイヤルホテル(現 ホテル・アゴーラ・リージェンシー・堺)へ何度か訪れた位のもので、終わり次第、すぐさま大阪に戻っていたのですから、当時の私には、堺市に対する予備知識など、ほとんどないに等しかったのです。

 「さてどうしたものか?」とためらっていると、2週間ほどして、市長公室理事の鶴埜清治さんからお電話をいただいて、堺リーガロイヤルホテルへ出向くことになりました。8月27日、わざわざ事務所まで迎えに来られた前田参事と共にホテルへ着き、色々お話をお伺いして、「どこまでお役に立てるか分かりませんが、微力ながらお受けさせていただきます」と言ってホテルを後にしたのは、4時間半ほど経った後のことでした。多分真摯に口説かれるお二人の人柄に惹かれて、後へ引けなくなり、「こんな私で良ければ・・・」と口走ったのだろうと思います。

 9月2日には、朝からオフィスで取材を受けた後、元フジテレビの能村庸一さんがお見えになりました。能村さんは、アナウンサーとして入社された後、時代劇のプロデューサーに転向されて、「鬼平犯科帳」や「剣客商売」、「御家人斬九郎」など、いまだに私が観ている時代劇の人気シリーズ物を約20本、単発を約100本も手掛けられた名プロデューサーで、99年にはギャラクシー賞を受賞された著名な方でした。私との接点は全くなかったのですが、突然お電話をいただき、翌年に能村さんが思文閣から出版される、「役者のパートナー・マネジャーの足跡」という本のため、私にインタビューをしたいとおっしゃったのです。何を聞かれ、どう答えたのか、今となっては全く覚えてもいませんが、能村さんにお目にかかれたひと時は、まさに至福の体験ともいえる貴重なものになりました。以降CS放送などで時々御姿をお見かけはしていたのですが、残念ながら2017年の5月に、76年の生涯を閉じられたようです。

 続いてこの日は、午後3時に堺市役所へ出向いて、木原市長からアドバイザーを委嘱する旨の辞令をいただき、市役所にある記者クラブで会見を行いました。その後、いったんオフィスに戻って、午後6時から阿倍野の近鉄百貨店で講演、その後広告代理店の方と打ち合わせをして、家路についた時には既に日付が変わっていました。長い、でも、とても幸せな1日でした。

木原敬介 堺市長

 

 

 

 

 

たこ吉

たこ吉の店内

皆川睦雄さん(68年に31勝し、それ以降30勝投手は現れていません)

 

能村庸一さん

 

HISTORY

第話

 そうそう忘れていました。ラスベガスといえば、私がこの地を訪ねたのは実に8年ぶりだったのですが、以前とは異なり、すっかり家族向けの街の変貌していたことに驚きました。おかげで、かつては禁じられていた、子供たちとも一緒にショーを楽しむことが出来ました。たった4日間の滞在にもかかわらず、欲張って4つのショーを観たのですが、さすがに旅の疲れもあってか、初日の「フォーリー・ベルジュール」というレビューの時は、眠気に勝てず船を漕いでいたように思います。ただ、ランス・バートンのマジックショーや、「オー」「ミスティア」などシルクドソレイユ系のパフォーマンスはそれなりに楽しむことは出来ました。

 「マダム・タッソー」という、かつてロンドンで入った記憶のある蝋人形の館を訪れ、ジェームス・ブラウンが「ゲロッパ」と歌っているのを耳にした時には、思わず井筒監督の顔が目に浮かびました。

 ショッピング街も充実していて、ビア・ベラ-ジオなどの高級ブランド街へは妻に手を引かれ何度も訪れる羽目になりました。そうそう、このベラージオホテルで、「K1ワールドグランプリ2003ラスベガスⅡ」を開催された石井館長と谷川貞治プロデューサーにもお目にかかりましたね。

 ただ、食事だけはイマイチで、3・4日目には「ノブ」を訪ね、日本食をいただくことにしました。満足感に浸りながら食後のデザートをいただいていると、チーフシェフの中野さんから、北米で4000万人、カナダで1000万人に被害の出た「北アメリカ大停電」のニュースを聞かされたのです。「よかった!」例年なら間違いなくニューヨークを訪ねていました。カンが働いたのか、なぜかこの年は早くからラスベガスへ行こうと決めていたのです。すぐに、ニューヨークのチャーリー小林さんに電話をすると、「29時間も停電が続いて、電車がストップ、人が大渋滞する中を、ブルックリン橋を歩いて家まで帰った」と言います。おまけに気温が30度を超す中、エアコンも使えず大変な思いをしたとかで、行かなくて本当に良かったと思いました。

 そういえば、阪神大震災の時、私は東京に居たし、サリン事件の時は大阪に居ました。無意識のうちに災から逃れていました。よく言われるように、先祖が守ってくれているのかもしれないとさえ思いました。そんなことを考えながら帰国して、翌朝テレビを視ていると、「ラスベガス、洪水で民家が孤立」というニュースが流れました。何と1日で1年分の雨量があったといいます。もし私たちの出発が、あと1日遅れていれば大変な目に巻き込まれていたかもしれないのです。この時はさすがに、「災難が妻だけで、いや妻の買い物だけで済んで良かった」と思いましたね。さらにその次は、「京阪電車踏切事故で脱線」というニュースが続いたのです。大阪にいる時はいつも私が利用している電車です。時間帯が違うとはいえ、やはりこれも逃れることが出来ました。私の「普段の心がけが良かった」からなのでしょうか、いやいやそんなことは間違ってもあるわけがありません。ここはやはり「先祖のお陰」と、謙虚な思いに至って墓参りをしなきゃとは思ったのですが、「暑いし、蚊に刺されるしな・・・」などと躊躇している内に、日は過ぎていきました。

「フォーリー・ベルジュール」

ランス・バートン

 

「オー」

 

「ミスティア」

「マダム・タッソー」

ジェームス・ブラウン像

ビア・ベラ-ジオ(高級ブランド街)

K1館長 石井和義さんと谷川貞治さん

NOBU ラスベガス

人でごった返すブルックリン橋

HISTORY

第話

 その後、9月11日に堺市の前田参事のご案内で、まず北野田地区を訪ねるところからアドバイザーの仕事は始まるのですが、一方でこの時期は結構タイトなスケジュールで動いていた気もします。9月9日には横浜のインターコンチネンタルホテルで開かれた、EOY(アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー・ジャパン)の審査員として、セミファイナリストに残った8社の審査を一柳さんや法政大学の小川教授ら他の審査員と共に行い、続いて開かれた審査結果の発表を行うジャッジ・レセプションにも参加をしました。17日には、渋谷にあるセルリアンタワーで、公募ガイド社の川原社長らとお会いして、翌月に「公募ガイド」と「シニアコミュニケーション」共催で開催される「定年に代わるネーミングコンテスト」の審査員を引き受けることになり、その後たしか料亭金田中でご馳走になったように思います。

 また10月3日には、大阪のリッツカールトンホテルで行われた、テレビ大阪主催のWBS(ワ-ルドビジネスサテライト)「都市を元気に」という公開エクステンション・イベントにも出演。司会が大阪生まれのフリーキャスター・小谷真生子さんで、ご一緒させていただいたのが、当時大阪大学大学院教授で、経済諮問会議の民間議員や、政府税制調査会委員を務められていた本間正明さん、大阪生まれの「エイチ・アイ・エス」の社長で、パソナの南部さん、ソフトバンクの孫さんらと共に「ベンチャー三銃士」と称されていた澤田秀雄さんだったのですから、私など刺身の端のようなものでしたが、テレビ大阪さんからのご依頼とあってお引き受けさせていただきました。イベント終了後は「小谷さんを囲む会」と称した宴が催され、記念撮影の後、テレビ大阪の中島常務ら関係者の方々としばし歓談の時を過ごしました。

 10月10日には、創作カジュアル・フレンチの北新地にある「星家」で、慌ただしく過ぎた1年を振り返り、支えてくれた松川君への感謝の意を込めて、ささやかながら「二人の独立一周年」の宴を催しました。料理はもとより、ソファに座りながら、ガラス張りの天井越しに見えた星空の美しさに酔いしれたひと時でした。

 21日には、土砂降りの大阪から快晴の長崎へ移動して、嬉野温泉で講演、空港へ移動するタクシーの中で、運転手さんから「嬉野まで来て、日帰りする人なんていないよ」と言われながら東京へ戻ったのを憶えています。「日本三大美肌の湯」とも言われる、歴史のある名湯だったのですが、聞くとどうやら、その一方で歓楽街としても名を馳せていたことがわかりました。井伊直弼が「茶湯一会集」の中で、名残惜しさを表現して「余情残心」と言ったそうですが、私も文字通り、心を残したまま長崎空港を飛び立ったのです。

 さて、翌22日は「定年に代わるネーミングコンテスト」の本番日です。「あいおい損保」渋谷ビルの8階で開かれた審査会で協議をした結果、応募作37,000通の中から、千葉県市原市在住の主婦・本間ゆき子さんの作品「翔年」が最優秀作品に選ばれ、優秀賞には「達年」や「央年」などが選ばれました。私は密かに、「これからや年」や「って、いい年」がいいかな?と考えていましたが、共に選考にあたった、「公募ガイド社」の川原社長、「シニアコミュニケーション」の山崎社長や、他の真面目そうな審査員の方々には、とてもご理解をいただけなかったようです。

 実はこの後、25日に再び、嬉野温泉近くの佐賀県小城町まで、商工会議所20周年の記念講演に出かける機会はあったのですが、あいにく、この日は後ろにTBS「ブロードキャスター」の生出演を控えていて、再び彼の地に心を残したまま、帰京することになってしまったのです。

小谷真生子さん

本間正明さん

澤田秀雄さん

「星家」

イメージ

独立1周年記念(2003年10月10日)

江戸時代から栄え、今も60軒の宿があります

「茶湯一会集」

 

公募ガイド

シニアコミュニケーション 山崎伸治社長

HISTORY

第話

 その後、10月31日から11月1日にかけて、「いつもの会」のメンバーの」中曽根純也さんと鈴木修美さんを誘って、長野県の小布施町を訪れました。長野県北東部、千曲川の東岸にある人口1万人ほどの小さな町で、晩年をこの地で過ごした葛飾北斎をはじめとする、歴史的遺産を活かした町づくりで人気を呼び、北信濃有数の観光地として、とみに認知度を高めていたのです。ちょうど、この年の2月11日に開かれたパーティにお招きをいただいたこともあって、その際に、初めてこの地を訪ねたのですが、すっかり魅了されて、お二人に伝えたところ、「ぜひ行ってみたい」ということになったというわけです。

 そうそう、その折、長野駅で「あさま515号」から降りるべく歩を進めていて、2000年から長野県知事を務められていた田中康夫さんと会い、改札口へ向かいながら、「これから小布施町へ向かいます」と言うと「小布施はとてもいい街ですよ、でも、いま県が進めている長野市との合併は拒否してるんですよね」とおっしゃったのを憶えています。

 私が田中さんにお会いしたのは、かつて私がプロデューサーを務めていたKTVの「さんまのまんま」に出ていただいた時以来でした。改札口まで来て、迎えが誰もいないのを怪訝に思って尋ねると、「いや、いつも一人なんです」とおっしゃって、大きな紙袋を抱えながら去って行かれました。一瞬、「よほど人徳がないのかな?」という思いが頭を過ぎりましたが、そんなことがあるはずもなく、ただ職員に余分な負担を掛けまいとする親心の故だった・・・のだと思います。

 もう一つ、私の心の中には、どこかで、「堺市の町づくりの参考になれば?」という思いもあったように思います。もちろん、人口80万人の堺市と、1万人の小布施町を一様に論ずることは出来ませんが、小布施という町から、何かヒントを得られるかもしれないという気がしたのです。

 実は、この小布施を訪ねる気になった背景には、セーラ・マリ・カミングスという女性の存在があったのです。2000年10月20日に、東京のホテルグランドヒル市ヶ谷で、私が日本酒造組合連合会の講演をさせていただいた際のことでした。セーラさんが聴衆として参加されていて、講演が終わった後に、理事をされていた伏見の酒「月の桂」の増田社長から紹介をされて名刺交換をした折に、肩書を見ると「桝一市村酒造 取締役唎酒師」と書かれていたのです。青い目をした彼女と、唎酒師というタイトルのギャップに驚き、聞いてみると、彼女はアメリカのペンシルベニア州の出身で、オリンピックが開かれる予定の長野に来た際に、小布施の町に魅せられて、94年、栗菓子を製造販売する小布施堂・社長の市村次夫さんに、3時間の面談を経て入社されていたということがわかりました。

 晩年の北斎を支援した豪商・高井鴻山に因んで、「現代の高井鴻山」とも称される小布施堂の17代目社長である市村さんとしては、80年代から始めた「町並み修景事業」が一段落ついて、どこかで皆が安堵感に浸っていた現状に危機感を覚えられていた時期でもあり、「ここらで新たな異分子を投入して再活性化を図らなければ!」と考えられたのだと思います。

 入社後、セーラさんは、96年に外国人としては初となる「唎酒師」の資格を取り、97年から小布施堂が経営する枡一市村酒造の改革に取り組むようになります。2月に冬季オリンピックの開催された98年の4月には、「第3回国際北斎会議」を小布施で開き、10月には、酒造職人の蔵人が酒造りの期間に食すという、伝統の「寄り付き料理」を提供するレストラン「蔵部」をオープン、併せて桝一の屋号を象徴する新しい銘柄酒「スクエアワン」を世に出しました。次いで99年には、50年ぶりに木桶仕込酒を復活させました。たしか「白金」という名前だったと思います。こうして彼女は、時として起こる周囲との軋轢をものともせず、目まぐるしい成果を上げていくようになったのです。

 また、2001年8月には、月に1回、各分野からゲストを招いて地域の若者との知的交流を図る文化サロン「小布施(オブセ)ッション」を、03年1月には「1530(市ごみゼロ)運動」を、同年7月には「小布施見に(ミニ)マラソン」を始めるなど、市民の方々との交流も深め、その活躍もあって、「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002大賞」(日経ウーマン)や、「人間力大賞2003・地球市民財団特別賞」(日本青年会議所)を受賞されていました。

中曽根さん(左)と鈴木さん(右)との3ショット

しなの10号

田中康夫さん

小布施の町並み

「月の桂」増田徳兵衛 社長

木桶の前に立つセーラ・マリ・カミングスさん

 

枡一市村酒造場の外観

市村次夫 社長

 

レストラン「蔵部」

 

HISTORY

第話

 あいにく、我々が訪ねた折は、セーラさんが主導していた「茅葺屋根を復活させるプロジェクト」の最中とあって、じっくり彼女と話をすることは出来なかったのですが、市村社長とは「蔵部」で食事をした際や、その後にお招きいただいたBARでいろいろとお話を伺い、セーラさんがあれほど素晴らしい成果を上げられた背景に、「人と人を繋ぎ、文化を紡ぎ出すのが趣味」と自称される、市村社長のご配慮があったことが分かりました。町おこしには、客観的なモノの見方が出来るよそ者、しがらみなくチャレンジできる若者、信念を持ち活動に打ち込めるバカ者の力が不可欠だと言われますが、それを束ねた市村社長の経営力もまた、大したものだと思いました。

 江戸時代に、扇状地とあって米が採れないことを逆手に取って、市で栄え、北斎を招くなど文化の花を咲かせた小布施も、明治以降は織物産業も出来ず、産業といえば果樹園くらいのもので、半ばゴーストタウン化していたのですが、幸い江戸時代の蔵や寺院、風光明媚な景色がそのまま遺されていたこともあって、観光資源としての街並みを揃え、栗の入った和菓子を作り、北斎など歴史に根差した固有の価値を磨きつつ、セーラさんのような異文化を取り入れて、常に革新しつつ、国内外に発信し続けることによって、わずか人口1万人の町に、年間200万人もの観光客を呼ぶようになったのです。社長が小布施に「枡一客殿」というホテルを作られたのは、この後の2007年のことですから、我々は小布施に泊まることもなく再び長野へ戻り、「ホテル犀北館」に宿を取りました。しばしの歓談の後、めいめい部屋に入ったのですが、「若者でも、バカ者でもない、よそ者の私としては、小布施で学んだことをどう堺に生かせばいいのか?」という思いで、なかなか寝つけなかったように思います。

 翌日は、皆で、日本最古の仏像といわれる、一光三尊阿弥陀如来を本尊とする善光寺にお詣りをしました。江戸時代には、「一生に一度はお参りしたい」と言われ、今でも「日本人が死ぬまでに一度は行きたい所」ランキングで、富士山に次いで2位に入っている人気スポットです。日本に諸宗派ができる以前にできた寺院で、宗派の別なく宿願が可能な霊場としても知られていました。ケチな婆さんが川で布を洗濯して干していたら、一頭の牛がそれを角にかけたまま走り出し、婆さんがその牛を追いかけるうち善光寺まで来てしまい、日が暮れて牛が入っていったお堂に婆さんが入っていったところ、光明に照らされて、牛のよだれが「牛とのみ 思い過ごすな仏の顔に 汝を導く己の心を」と読め、婆さんの心に仏心が芽生えてすっかり信心深い人間に生まれ変わったという、「牛に引かれて善光寺参り」の昔ばなしでも知られた所でした。もちろん仏心などのない我々は牛ではなく、まっすぐタクシーで向かったのですが、ウィークデーとあってか、さほど混んでいなかったのはラッキーでした。

 しばし、皆で門前町を散策したり、お茶を飲んだりした後、東京へ帰る新幹線に乗る中曽根さんや鈴木さんと別れて、なぜか私一人だけ、中央本線のアプト式特急「しなの10号」で、3時間もかけて名古屋へ出ています。もしかしたら、サラリーマンとして順境を歩まれた、お二人が乗られた平坦な線路の新幹線より、急な曲線が多く、揺れ幅も大きい軌道列車の方が、私の性に合っていたということかも知れませんね。

 そうそう、この後、名古屋駅で「のぞみ10号」に乗り継いで東京へ帰ったのですが、何と、同じ車両に、あの小泉総理が乗っておられたのです。もちろん何人かのSPが付いていて、面識もない私が田中康夫さんのように話しかける余地などはなく、ただ遠巻きに眺めただけのことでしたがね。

 

「ホテル犀北館」

日本最古の仏像といわれる「阿弥陀如来像」

本堂

牛を追いかける婆さん

 

「しなの10号」