宋代の仏典・碧厳録に「啐啄同機」という言葉があります。卵が孵化するときは、卵の中のヒナが自分のくちばしで殻を破ろうとし、また親鳥も外からこの殻を破ろうとします。そのタイミングがピタッと一致するからこそ、ヒナ鳥はこの世に生を受けて外の世界に出ることができ、どちらか一方が早すぎても、遅すぎてもいけない、自然の摂理の時を表す言葉なのだそうです。
今にして思えば、この時の私は、まさにこの「啐啄同機」にあったといえるかもしれません。もっとも当時56歳であった私の場合は、ヒナ鳥ではなく、「ヒネ鳥」と呼ばなくてはいけないのかもしれませんが・・・。新聞報道が一段落した後、東京の自宅へ戻った際に、娘から「お父さん、凄い!上戸彩ちゃんより上なんだ!」と言われ、手渡されたスポーツ新聞を見ると、私が辞めるという記事が、上戸彩さんの記事より上に載っていて、「凄いの意味が違うだろ」と苦笑したことがありました。
その後も、週刊誌や月刊誌の取材は続くのですが、その間にお世話になった各局の然るべき方々へのご挨拶もすませ、10月7日に会社へ出ると、吉野伊佐男さんから「制作部会に出て欲しい」と促され、幾分、逡巡するところはあったのですが、会議の冒頭の5分間ほど、別れの挨拶をして部屋を出ました。最後の出社日となった10月9日には昼過ぎに会社を出て、気が付いて駆け付けてくれた3,4人の女性社員たちに見送られて会社を離れました。こうして、33年間の吉本興業での生活は終わったのです。林社長のご長男、林正樹さんが吉本興業に入社されたのは、この翌日のことでした。
会社を出た後、私は京都へ行き、八木町長時代からKBS京都さんを通じてお世話になっていた、JA京都中央会長(現JAグループ京都会長)の中川泰宏会長に催していただいた慰労会に臨みました。中川さんはその後、2005年に小泉首相から推され、JA会長のまま衆院選に出て当選されました。
翌10日に入り京都から東京へ移動をして、八重洲にある全信連ビルで開かれる講演会に向かって歩いていると、すれ違う人の何人かから、自分に向けられる視線のようなものを感じました。そしてこの夜、六本木の全日空ホテルで、ソーホーズの月川社長と会い、今までの経緯などを説明させていただき、吉本興業の人間としての仕事を、総て終えることになったのです。
と、簡単に記しましたが、ここまで来るのは結構大変で、とても自分一人の力ではできなかったように思います。かといって、他の社員に迷惑をかけるわけにもいきません。そこで目を付けたのが、当時私の秘書を務めてくれていた松川真弓さんという女性でした。彼女はこの3年半ほど前から、奥谷禮子さんが82年に設立された、ザ・アールという人材派遣会社から吉本に来ていて、当初は、私の他にも吉野さんや谷垣さんの秘書役を務めてくれていたのですが、お二人が社内におられることが多く、いつしか、あちこち飛び回っている私の専属秘書のようになっていたのです。大阪の八尾市に生まれ住んでいたこともあって、私が金東光さん原作の舞台となった町だけに、映画「悪名」のように、「今でも、駅前でシャモの闘鶏やってんの?」と尋ねると、「ポカーン」としていたのが印象に残っています。今にして思えば、1960年代に作られた作品ですから、20代の彼女が知っているわけありませんよね。大学は立命館の通称「パラ産」と言われている産業社会学部に入り、もっぱらアーチェリーに勤しんでいたといいます。体育会系だけあって体力・精神ともにタフな女性でした。
私の部屋に呼び出したものの、さてどんな返事が返ってくるか?と思いながら「実は・・・」と話を切り出すと、「履歴書を持って行きますから、面接をしてください!」という言葉が返ってきました。おかげで、何とか個人事務所を構え、スタートを切ることが出来るようになりました。今日まで私がこうして、曲がりなりにも、今も事務所を構えていることが出来るのも、みな彼女のお陰と言っていいほどの働きを見せてくれたのです。
中川泰宏さん
全信連ビル
奥谷禮子さん
映画の原作となった「悪名」
1961年から70年にかけて16作つくられたほどの人気作品でした
シャモの闘鶏
もちろん彼女は、ザ・アールを通して吉本に派遣されていたのですから、そこは筋を通さないといけません。さっそく大阪支社の中上支社長にお話をして、契約期間の終わる10月末をもってザ・アールとの契約を終了をするということで、ご了解をいただくことになりました。とは言え、その間にも、新たな事務所を立ち上げ、備品の調達や、挨拶状の送付、名刺の印刷などなど、しなければならないことは山ほどありました。
しかも、既にお受けしていた講演会や、ベンチャー・コミュニティのアドバイザー会議、頼まれて無償で代表幹事代行を引き受けていた京都経済人クラブの例会などもあって、私自身が十分に時間を割けない状況の中、何とかスタートを切ることが出来たのは、彼女の存在があったこそだったと思います。
事務所は松川君の推薦もあり、御堂筋と長堀通りが交差する心斎橋西ビルに決めました。やはり、後に働くようになった千日前よりも、最初に吉本で働いた心斎橋の方に思い入れがあったということかも知れません。大阪に拘ったのも、地盤沈下が囁かれ、覇気が無くなったように見えた、大阪の威勢を取り戻す何かをしてみたかったのだと思います。このビルのオーナーの森浦さんが9階で写真スタジオを経営されていて、娘さんが地階で「イーバン・ミルソン・オンズ」という覚えにくい名前の、洒落たワインバーを営んでおられる、こじんまりとしたビルでした。もしかしたら、酒豪でもある松川君がこのビルを薦めたのは、このバーがあったからかもしれませんね。
さて、次は社名を何にするのかということです。木村企画とか、木村エージェンシーにはしたくなかったので、「木村政雄の事務所」ということにしました。それまで電話を掛ける時は、「吉本興業の木村ですが」と言えば取り次いでもらえたのですが、辞職した以上、もうそれを使うことは出来ません。「木村と申しますが」と掛けても、必ず「どちらの木村さんですか?」と聞かれるのです。といって「心斎橋の」と言うわけにもいかず、悩んだ挙句、「木村政雄の事務所の木村政雄です」と言えば、2回自分の名前が言えると思い、この名前にすることにしたのです。ただ、「これって、普通すぎて、あんまり面白くないな?」という思いもあったのは確かです。そんなある日、大阪の実家から京阪楠葉駅まで向かってバスに乗っていると、窓越しに「R」が鏡文字になっている「TOYSЯUS」の看板が目に入ったのです。(元々はToys are us = おもちゃはぼくたちのという言葉で、これをくっつけた時に、遊び心を入れてRを鏡文字にしたといわれます)これだ!と思いましたね。さっそくそれを真似て、「の」を鏡文字にし、松川君のアイデアで、強調するために、明治から大正にかけて新橋の芸者衆の間でハイカラな色として流行した「新橋色」というブルーにして、「木村政雄事務所」とすることに決めたのです。もっとも登記上は、そういうわけにもいかず、普通の「の」にしましたが、それ以外はすべて、この鏡文字で通すことにしました。おかげで、封筒や名刺の印刷代は少し高めにつきましたが、どこかで遊び心のようなものを、社名にも取り入れてみたかったのです。
この間、彼女は契約期間の残っている吉本興業で日常業務をこなしながら、ランチタイムにオフィスを探し、終業後に事務所掃除、挨拶状の作成と総てをこなしてくれたのですから、まさに同志と言っていいと思います。その意を込めて名刺にもパートナーと記すことにしました。唯一の弱点だった東京の土地勘がなかったことも、私が海外旅行に出ていた際に、深夜バスに乗って東京へ出て、私がよく行っていた東京駅、新橋、赤坂界隈を徒歩で回って、どれくらい時間がかかるのかをリサーチしてくれたといいます。まさに完璧な相棒という存在になってくれたのです。
新事務所への引っ越しが完了したのは、辞職をして2週間後の10月23日のことでした。
事務所を構えた「心斎橋西ビル」
9階がオフィスになりました
ワイン・バー「イーバン・ミルソン・オンズ」
心斎橋西ビルの大家さんの犬で、エサをやるときにしか来ないミニチュアシュナウザー
感性リサーチの専門家・黒川伊保子氏によると、ヒトの脳は7年ごとに位相を変えるそうで、「生殖のために生きる人生」を、49歳に「新たな目的の人生」に切り変えて7年目の56歳に、ヒトの脳は「新たな目的」にも慣れて、ブイブイ言わせるモードに入り、人生の最高潮=出力性能最大期を迎えるのだと言うのです(「成熟脳~脳の本番は56歳から始まる~」新潮文庫)。まさに、当時の私の年齢だったのです。
なるほど、この年の9月には、「吉本興業から学んだ人間判断力」(講談社)を、続いて翌2003年6月には、「五十代からは、捨てて勝つ」(PHP)、10月に、「こうすれば伸ばせる!人間の賞味期限」(祥伝社)、11月に「やすし・きよしと過ごした日々」(文藝春秋社)に加えて、テリー伊藤さんとの共著で「人をつくるという仕事」を出版しています。
それまで、テレビの演出家・伊藤輝夫として、業界ではつとに知られた存在だった方ですが、大手版社がしり込みをした中、敢然と引き受けてくれた中小出版社「コスモの本」から93年に出した「お笑い北朝鮮」がヒット、95年にニッポン放送の「天才テリーのダマスカス」(のちに「テリー伊藤のってけラジオ」にタイトルを変更)でパーソナリティを務めた辺りから、テレビやCM、活字など、表に出て多彩な活動をされるようになっていました。当時はそんなこともあって、超多忙なスケジュールを抱えておられたのですが、有難いことに、「浅ヤン」時のよしみもあって、私との本にお付き合いくださいました。
そうそう、この年の4月には、漫画「ナニワ金融道」で第16回講談社漫画賞や、第2回手塚治虫文化賞優秀賞を受賞された、青木雄二さんの「激刊!青木雄二」で青木さんと対談をさせていただきましたね。90年から講談社のモーニングで「ナニワ金融道」を連載をされ、この漫画を見るためにモーニングを買っていた私にとっては、小学館のビッグコミックで、「ゴルゴ13」を連載されていた、さいとう・たかをさんに並ぶ、憧れの存在でもありました。
青木さんは、鉄道会社に5年勤めた後、役場勤めを僅か3か月で辞め、以降、キャバレーのボーイ、パチンコ店の店員など水商売を中心に、30以上の職種を転々とした後、漫画家に転身、自らの体験をもとに描いた「ナニワ金融道」が、97年に通算1000万部を突破、「一生暮らせるだけの金は稼いだ。残りの人生は遊んで暮らす!」と宣言をして、出筆活動を引退されていました。とてもヘビースモーカーで、私とは意気投合をしたのですが、この年の9月、肺がんでお亡くなりになりました。「青木さんはハイライト(タール17mg、ニコチン14mg)を吸っておられ、私はそれより軽いメビウス(タール10mg、ニコチン0.8mg)だから!」と、勝手に解釈をして、今も止めずに吸っています。
それはともかく、テリーさんのように多様な才能があるわけでもなく、青木さんのように一生遊んで暮らせる金があるわけでもない私は、「さて、これからどうしていけばいいのだろう?」と考えなくもなかったのですが、「一度、職安へ行って、面接官に、個室と美人秘書が付いて、給料はこれくらいを希望します」と言ってみたら、「どんな返事が返って来るかな?」なんて嘯いていましたね。もちろん妻からは「そんなこと、あるわけ無いでしょ!」と言下に否定をされてしまいましたがね。
コスモ・ブックス
美人秘書(イメージ)
もちろん、「次に何をするか」を考えるのは重要なことではあるのですが、せめて年内はゆっくりして、翌年の3月くらいに「大まかな輪郭が見えてくるくらいでいいかな」と思ったのです。考えてみれば、「出入口」という言葉は「出る」方の字が先に来ていますし、「呼吸」という言葉も、静かに息を吐くという意味の「呼」という字が先に来ています。まずは、焦らずにゆっくりと構えて、興味が湧いて、自分がお役に立つことが出来れば、お引き受けをさせていただこうと決めたのです。イギリスの詩人・シェリーの「西風に寄せる歌」の一節に由来する、「冬来たりなば 春遠からじ(If winter comes, can spring far behind)」という心境でした。
当時の手帳を見ると、なぜか、11月24日に道頓堀のKADOZAへ「たそがれ清兵衛」という松竹映画を観に行っています。嘗て私も読んでいた藤沢周平さんの短編を、山田洋次監督が映画化した作品で、初の時代劇に挑戦した真田広之さんが、主役の井口清兵衛を演じていた人情味あふれる作品となっていました。暮らしが貧しく、仕事が終わる黄昏時には、同僚の誘いも断り、そそくさと家に帰る様を見て、同僚たちから「たそがれ清兵衛」と揶揄されていた主人公に思い入れをしたのか、それとも、庄内・海坂藩の、うらなり与右衛門、ごますり甚内、ど忘れ万六、だんまり弥助、日和見与次郎、祝い人助八など、個性あふれる藩士たちを戯画化して描いた各々のキャラクターに惹かれたのかは分かりませんが、「そそくさ」と帰宅したことなどない私が惹かれたのは、やはり後者の方だったように思います。「だんまりは誰で?」、「日和見は誰?」などと、小説に描かれたキャラクターを、嘗ての同僚に当てはめて、懐かしんでいたのかもしれませんね。
仕事をしながら、社の内外からお招きをいただいた送別会や慰労会に顔を出している内に12月も半ばを迎えていました。この頃、私の頭を悩ませていたのは、「正月をどうして過ごそうか?」ということでした。何しろ、33年間の吉本時代には、ついぞ家で過ごしたことなどなかったのですから、どう過ごしていいのか、分からなかったのです。いろいろ考えてはいたのですが、ふと富士山を見たくなり、79年に日本観光地百選の平原部門で1位に選ばれた、静岡の日本平ホテルに泊まることにしました。いつぞや、熊本県民テレビ社長の西野さんから聞いた「初めての場所へ行く時は、高い所に登って町全体を俯瞰する」という言葉が耳に残っていたのだと思います。たしかに、人生は登山と似ていて、高みに向かっていくとだんだんと息切れはするのですが、その分視界が広がっていくのかもしれません。
それなら、いっそ標高3776mの富士山に登れば良さそうなものですが、そこまで体力に自信がなかったこともあって、「これでも一応、高みであることに変わりはない」と、標高300mの日本平を選んだというわけです。今となってはなぜか分かりませんが、この時にふと、北斎の三保の松原から富士山を望む画が頭に浮かんだように思います。私もこの頃には、全国津々浦々を訪れてはいたのですが、日本平へ行くのはこの時が初めてのことでした。年の瀬も迫った頃にそう決めて、ホテルの予約をしようと思ってはみたものの、さすがに年末年始とあって予約は取れず、家族4人で泊まれる部屋が取れたのは、1月3と4日の2泊だけでした。
3日に京都から向かった私が、静岡駅で東京から来た家族と合流したのは午後3時半のことでした。朝に楠葉の家を出る時、珍しく雪が降っていたこともあって、天候を心配していたのですが、日本平もやはり雨。あいにく富士山は全く見えず、この日はホテル内の富貴庵で食事をしただけで、早々にベッドに入りました。明けて4日は、前夜の雨が嘘のようにスッキリと晴れて、念願の富士山を眺めることが出来ました。満更、「私の心がけが悪いせいでもなかった」と気持ちを取り直し、ロープウェイに乗って、徳川家康を主祭神とする久能山東照宮にお参りをした後、嘗てお付き合いをいただいていた地元の物流グループ・鈴与株式会社が経営する、清水市(現静岡市清水区)の「エスパス・ドリームプラザ」へ出かけ、中にある「清水すし横丁」で食事をしようと思ったのですが、満員のためにあきらめざるを得ず、仕方なく、丹青社さんが手掛けられたと思われる、館内のレトロな商店街の方に足を進めると、なんと、「コメディNo.1来たる」というポスターが目に入ったのです。おかげで、早々にその場を離れ、同じ清水の銀座商店街の方に皆で移動するはめになりました。コメディNo.1のお二人には何の恨みもなく、むしろ好きな人たちだったのですが、吉本を離れ、せっかく気分を一新すべく訪れた地で、吉本のタレントさんのステージを観るのも如何なものかと思ったのです。
原作
映画のポスター
うらなり君
ごますり君
ど忘れ君
だんまり君
日和見君
日本平ホテル
部屋から見える富士山
富士山 三保の松原をのぞむ
北斎の富獄三十六景図
久能山東照宮
エスパス・ドリームプラザ
どこかで見たレトロな街並み
正月明けの8日には、ミキハウスさんからご依頼をただいた講演会をリッツカールトンホテルで終え、その後NHKで上方芸能の編集長をされていた木津川計さんの「関西ラジオワイド」にゲスト出演。9日に東京パレスホテル、10日に広島リーガロイヤルホテル、11日にホテル宍道湖、14日に福岡日航ホテルで行われた、岩谷産業さん主催の講演会に連続してお呼びいただき、順調に新年のスタートを切ることが出来ました。岩谷産業さんもミキハウスさんと同様に、一柳さんとのご縁で参加させていただいたベンチャーコミュニティがきっかけでお付き合いが始まったのですから、感謝の他ありません。
そうそう、2月25日には、全く面識のない、ある著名な女性歌手の方が東京から単身で事務所へお越しになり、「マネージメントを引き受けて欲しい」と依頼されたこともありました。全くノウハウのない私などに到底アーチストマネジメントなどができるとも思えず、「いずれ何らかの形でご協力できることがあれば」と丁重にご辞退をさせていただいたのですが、約2時間ほどいてお帰りになったあと、しばし優雅なお人柄を偲んで甘美な思いに浸っていると、いきなり「こんちはっ!」と事務所の静寂を破るかのように、勢いよく訪ねてこられた女性がおられました。
辻元清美さんでした。MBSラジオの「朝はとことん菊水丸」という番組を彼女が降板された後、2002年5月10日から少しの間、私が引き継いで務めていたご縁はあっても、お会いしたのはこの時が初めてでした。いったい何の用件だろうと思って尋ねると、この年の4月23日号の「女性自身」で、私が彼女を表して、「面白いキャラだとは思うけれど、服装のセンスが良くない」と言ったのを根に持って、「一体、どんな、おっさんかを見に来た」というのです。言われてみれば、たしかに、おっさんと呼ばれる年齢には違いないのですが、面と向かって「おっさん」と言われたのはこの時が初めてのことでした。ちょうど、彼女が雌伏を余儀なくされていた時期で、議員を辞職されていたと思うのですが、小学生の頃に、自分のランドセルを弟さんに持たせて心斎橋を歩いた話などを一方的にして帰って行かれました。まるでフランス料理の〆にキムチを食べたかのように、先ほどまで漂っていた優雅な雰囲気が、消し飛んでしまいました。
辻元さんはその後、2004年6月に社民党を離党して、無所属で衆院選に立って、全国の落選候補の中で最多得票数を獲得したものの、当選が叶わなかったこともあり、8月30日台風襲来の日に、JAの中川会長と共に、京都の木屋町御池にある、仏蘭西と京都を融合させた、モダンフレンチ・レストラン「おがわ」で激励会をしたのを憶えています。当初は、私が中川会長からお誘いを受けたのですが、「辻元さんを誘ってもいいですか?」とお聞きしたところ、快くご了解をいただいたのです。この時はまさか、2005年9月の衆議院選挙に、お二人がともに立たれるとは想像だにしておりませんでした。小泉総理から白羽の矢が立って自民党から出られた中川さんは、僅差ながら無事当選、辻元さんは社民党から出て、比例区近畿ブロックながら、無事3回目の当選を果たされました。むろん、私はお二人の立会演説会に行かせていただいたのですが、この年の選挙には今一人、予てよりお付き合いさせていただいていた、山梨1区の民主党、小沢鋭仁さんの決起集会にも出させていただき、この方も無事当選をされたのです。応援させていただいた方、都合3人の全員が当選を果たされたことになります。
中川さんが自民党で、辻元さんが社民党、小沢さんが民主党と、それぞれ政党名は異なっていたのですが、政党名よりも、個人として魅力のある方を優先した結果が、たまたまそうなっただけのことで、私にとっては、何ら矛盾することではなかったのです。
誰がおっさんやねん!!
こんな風に姉・弟で下校していたのですかね
センスが悪かった頃の辻元さん
思えば随分、センスが良くなりました
モダンフレンチ・レストラン「おがわ」
自民党時の中川泰宏さん
小沢鋭仁さん
2003年の手帳を見ると、表紙の裏に2枚の紙が貼り付けてありました。一枚は大阪天満宮の御神籤で、「春風によって月影が晴らされるように、周囲の人の引き立てによって、前途がひらける」と書かれていました。もう一枚は、出典は定かではないのですが、「貴下の運勢は、旭日昇天の象である。(性力ではなく)勢力旺盛、つねに人の意表をつく事業で成功する」、適業という項目には、「一定の型にはめられた仕事ではなく、出張の多い仕事・旅行・演劇関係・スポーツなど活動的方面がよろしい」と記されていたのです。普段はあまり、こういうものを信じないのですが、さすがに、この年だけは「果たしてこれからどうなるのだろう?」という不安を拭えず、自分を鼓舞してくれるかのような文面に惹かれたのかもしれませんね。
予てよりお付き合いのあった放送関係では、福留さんの端正な司会と、品のある番組作りが気に入っていた、TBSの「ブロードキャスター」に、ワンクールに1度ほどコメンテーターとして出演させていただくことになりました。以前に2・3度VTRでコメントを撮りに来られたことがあって、そのご縁で声を掛けていただいたのかもしれません。
ラジオでは、MBSの「こんちはコンちゃんお昼ですよ!」に月1回のコーナー・ゲストとして出ることになりました。パーソナリティを務める近藤光史さんは、私より1歳若く、1971年に早稲田大学を出て、後に大阪市長となった平松邦夫さんらと共にMBSに入社。テレビの「ヤングオー!オー!」や、ラジオの「ヤングタウン」など人気番組に出た後、92年に退社をして、なぜかタヒチに渡り、邦人向け旅行社を経営していたのですが、当時ラジオセンター長を務められていた田中文雄さんの誘いなどもあり、帰国をして、2000年9月からこの番組でフリーのパーソナリティとして復帰され、ご本人が太宰治の言った「胴間声」と自称する、大声の関西弁で個性を発揮されていました。ここだけの話ですが、この方、4度結婚して、4度とも離婚をされているそうで、2013年3月に太平サブローさん夫妻が仲人を務めた4度目の結婚式で、ゲストの明石家さんまさんから「趣味が結婚、特技が離婚」とスピーチを贈られた通りになったというのですから、御苦労様という他ありませんね。
それ以外に、東京では文化放送で3月31日から始まる新番組「蟹瀬誠一のネクスト!」という番組の木曜日のコーナー・ゲストを務めることになりました。ジャーナリストの蟹瀬さんは、まだ不慣れなのか、いささか硬くて、コンビを組んでおられる小川真由美さんが巧みにフォローされていましたね。私にとっての楽しみは、サブで7時台のコーナー・ゲストを務められ、「日本の論点」の編集長をされていた、弘旬館の渡辺一弘さんと言葉を交わすひと時でした。さすが、あらゆるジャンルを網羅した、分厚い本の編集長をされていただけのことがあって、とても博識な方で、ためになるおいしい話をたくさんご教示いただきました。そうそう、今にして思えば「弘旬館」という名前も、「好循環」に因んで付けられたのかもしれませんね。この出演依頼のために、わざわざ、当時取締役営業局長だった三木明博さんが2月4日に、制作部の方と共に、打ち合わせ場所のセルリアンタワーまでお越しになり、恐縮したのを覚えています。たしか三木さんとは編成局長の頃からのお付き合いで、その後、社長を経て今は代表取締役会長を務められておられます。当時、文化放送は新宿区若葉にあり、嘗て聖パウロ修道会として建てられた面影を漂わせた、素敵な雰囲気の放送局でしたね。
そして今1本は、MBSラジオの「ありがとう浜村淳です」に並ぶ人気長寿番組、TBSの「大沢悠里のゆうゆうワイド」の、「ズバリ怪答テレフォン身の上相談」というコーナーの「怪」答者としての出演でした。これは2本撮りで隔週に2本収録をすれば良かったのですが楽しかったですね。結構、嫁姑問題に悩んだ方からの相談が多くて、担当ディレクターに聞くと、その種の相談は、ほとんどが北関東地区の方からで、「昔ながらの保守的な体質が残っている土地柄なんですかねえ」と話されていたのが耳に残っていますね。
ブロードキャスターの司会のお二人
結婚・離婚ともにん4回と嘆く近ちゃん
蟹瀬誠一さんんと小川真由美さん
小川真由美さん
女ねずみ小僧の小川真由美さんではありません
「日本の論点」の編集長で編集プロダクション「弘旬館」社長の渡辺一弘さん
けっこう重い本でした
三木明博さん
1956年に聖パウロ教会に代わって文化放送となった社屋
大沢悠里さん
この他に、夕刊フジやサンケイスポーツ、BOSSやセールス手帖、ストアジャーナルなどの月刊誌からもコラムのご依頼もいただき、お受けさせていただくことにしたのですが、私にとって意外だったのは、母校の同志社や、お付き合いのあった立命館ならともかく、全く馴染みのなかった京都精華大学や、東京の法政大学からアプローチをいただいたことでした。
京都精華大学は、私が同志社時代に教養課程で学んだことのある岡本清一法学部長が、初代学長として1968年、「自由自治」を理念に、左京区岩倉・木野に設立された美術系の短大で、79年に4年制大学となり、日本で初のマンガ学部を創るなど、ユニークな活動で知られていました。2000年11月に、谷垣さんからの仲介もあって、南海サウスタワーホテルの花暦で杉本修一理事長や、中尾ハジメ学長らと会食をしたことがあり、以来さしたる交流もなく過ごしていたのですが、2002年10月末に久しぶりにご連絡をいただき、京都の菊水で、杉本修一理事長、赤坂博常務理事と会食することになりました。菊水は明治の庭師小川治兵衛が作った優美な庭園で知られた料亭で、聞けば杉本さんも岡本清一門下の同志社の先輩であることがわかりました。その上にご馳走になったとあってはお断りをするわけにもいきません。
いただいたお話は、「理事として本学に」とのことでしたが、大学を一度、経営面からみてみたいという気持ちはあっても、せっかく組織を離れて自由の身となったのに、また組織に属するのは如何なものかという思いもあり、年の瀬の12月27日、赤坂さんに「常勤ではなく、非常勤としてなら」ということで、理事に名前を連ねることを承諾する旨をお伝えし、2003年3月29日に開かれた理事会から参加させていただきました。
都合2期、6年にわたって務めさせていただき、年に4回ほど開かれる理事会に参加させていただいたのですが、民間企業と違って、右肩上がりを前提とした収支予測がまかり通っていることには、些かの違和感を覚えました。92年にピークを迎えた18歳人口は漸減傾向にあったものの、この時期の大学進学率が微増傾向にあったという背景があったのかもしれません。
同じ非常勤の理事には、前年まで早稲田大学の14代総長を務められた奥島孝康さんや、精華大前に駅を作った叡電を経営する京福電鉄を傘下に収めた京阪電鉄社長の佐藤茂雄さんがおられ、私などがあまり異論を挟める余地はなかったように思えました。ある時、ご多忙の故か、奥島さんが会議の最中にいびきをかかれたことがあって、誰一人それをとがめられず、まるで何事もなかったかのように議事が進行していったことがありました。後に、第6代目の高野連会長として、甲子園大会でご挨拶される奥島さんを拝見する度に、あの時の、いびきをかかれていた姿を思い出してしまいました。
とは言え、少しは私なりの意見も述べさせていただいて、一応の務めは果たしたと思うのですが、今となって憶えているのは、精華大学へ行く際に、出町柳の名曲喫茶「柳月堂」でコーヒーを飲んだことや、会議の後に大学が決まって用意してくれたのが、敵役から水戸黄門まで幅広く演じられた東映の重鎮、月形龍之介さんが創業者だったことに由来して、屋根に月のマークが掲げられた「葵タクシー」だったことですかね。帰途、深泥池(みどろがいけ)辺りに差しかかった際、運転手さんに「月形龍之介さんて知ってますか?」と尋ねても誰も知らないのです。昭和は遠くなったということなのでしょうかね。そうそう、この深泥池は「幽霊タクシー発祥の地」とも言われているそうです。私は昼間にしか通ったことは無いのですが、興味のある方は一度夜に行かれたら?「そんな奴居らんらんやろ」という声が返ってきそうですがね。
精華大学のキャンパス
菊水
見事な菊水の庭
杉本修一 理事長
赤坂博 常務理事
佐藤茂雄さん
奥島孝康さん
さすがに炎天下の甲子園では起きておられました
葵タクシー
(左)東 千代之介さん(中央)月形 龍之介さん(右)里見 浩太朗さん
一方の法政大学からオファーをいただいたのは、2002年11月21日、サンデー毎日の取材を受けた後、帝国ホテルのランデブーラウンジで、嘗てフォーライフ時代に「ザ・ぼんち」がお世話になって、ユニバーサルミュージックの幹部として転籍をされていた中村龍彦さんと旧交を温めたのち、東京フォーラムにあった吉祥で、トーメンの大塚専務らと会食をした後のことでした。お会いした場所はたしか、次にTKCさん主催の講演を行う都合もあって、会場となる渋谷のセルリアンタワー東急ホテルにしていただいたと思います。
事前にお電話をいただき、この日の面会となったのですが、当時の私には法政大学と言えば、私と同年代の 田淵幸一さん、山本浩二さん、富田勝さんの「法政三羽烏」と呼ばれた人たちや、ジャイアンツでも活躍した江川卓さんの出身大学くらいの知識しかなく、いったい何を依頼されるのかと思いつつ、21階のコーヒーラウンジで、小川孔輔・経営学部イノベーションマネジメント学科教授や、TBSテレビの朝の番組「いちばん!エクスプレス」でコメンテーターをしておられ、メディア文化論や、社会心理学者として著名な稲増龍夫・社会学部教授にお会いしました。
小川教授とは、一柳さんからの勧めもあり、2001年からお引き受けしていたEOY(アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー・ジャパン)審査会の場でお目にかかってはいたのですが、じっくりお話をさせていただいたのはこれが初めてのことでした。お話の向きは、2004年4月から法政大学が始める、日本初の1年制社会人向け大学院「イノベーション・マネジメント研究科の客員教授になって欲しい」ということでした。一瞬、客員とは言え、「教授」という甘美な言葉に惹かれ、学生時代にゼミの八田教授が、かわいい女学生ばかりを研究室に呼びつけていたことなどを思い出し、勝手な妄想にふけっていると、小川教授から、それに冷水を浴びせるかのように「お願いをしている方は皆さんお忙しい方ばかりなので、講義ではなく、年に1回、3月に開く優秀プロジェクト発表会の審査をしていただければ」という言葉が返ってきたのです。
まずは2003年6月28日、ボアソナードタワー26階のスカイホールにメディア関係者を招いて開かれた発表会の席で、パネルディスカッションのパネラーとして出るところから仕事はスタートしたのです。約10年間ほど務めさせていただきましたかねえ。結構高い学費を取っていた割には、スズメどころか、アリンコの涙ほどの報酬しかいただけませんでした。収穫は、同じ審査員として、良品計画の創業社長で、西友の社長も務められた木内政雄さんにお会いできたことですかね。木内・木村と姓は一文字違うのですが、名前が同じということや、フランクなお人柄もあって、親しくお話をさせていただきました。もっとも、あちらは、私などとは比べようもない大人物ではありますが。
そんなご縁もあって、法政大学のことを少し調べると、立命館大学とよく似ていることがわかります。共に、前身が法学校(立命館は私立京都法政専門学校・法政大学は東京法学社)で、どちらかというと左翼色の強い大学とあって、やや低迷傾向にあった時に現れたのが、立命館の場合は川本理事長で、法政の場合は16代総長の清成忠男さんだったのです。清成さんは1970年に、和製英語の「ベンチャー・ビジネス」という言葉や概念を世に送り出したお一人で、総長に就任するや、99年に国際文化学部・人間環境学部、2000年に現代福祉学部・情報科学部、03年にキャリアデザイン学部を新設するなど、「開かれた法政」をヴィジョンに40年ぶりの改革を推進しました。1年制の社会人大学院の創設も、この一環だったというわけです。併せて開学120周年を記念して、市ヶ谷キャンパスに、大学の祖の名を冠した地上26階のボアソナードタワーを作るなど、UI(ユニバーシティ・アイデンティティ)の確立に努めたおかげもあって、首都圏の人気ランキングでトップ(全国では近畿大学に次いで2位)に立つことになったのです。
中村龍彦さん(フォーライフレコードの創業メンバーでもありました)
稲増龍夫 教授
小川孔輔 教授
アリンコの涙
妄想(イメージ)
木内政雄さん
清成忠男さん
ボアソナードタワー
仏法学者・ギュスターヴ・エミール・ボアソナード。法政大学の前身・東京法学校の初代教頭を務めました。
そうそう、大学院と言えばこの年の5月9日、横浜の関内にある「大学院」に行きました。もっとも、こちらは同じ大学院という名前が付いてはいても、正確には「コーヒーの大学院 ルミエール・ド・パリ」という喫茶店でした。扉を開けると、床一面に赤い絨毯が敷かれ、鎧を着た騎士の像が飾ってあり、店の設えに合わせてか、レトロな女性がオーダーを取りに来る店でした。思わず、「ここは小樽のキャバレー現代か!」と叫びたくなる衝動を抑えて、店内を見ると、これまた客の方もレトロな方ばかりという不思議な店でした。おそらく、「現代」と同様に、既に皆さんがお亡くなりになってしまったのではないかと懸念をしています。
実は、この日関内へ行った目的は、この大学院へ行くことではなくて、他にあったのです。京浜東北線の関内駅を降りて、左に横浜市役所、右に横浜スタジアムを見ながら進んだ先にある、「横浜サトウクリニック」という免疫療法で有名な病院を訪ねることだったのです。父方の祖父を食道癌、父を直腸癌で亡くしたこともあって、てっきり自分も癌で死ぬのではないかと思い込んではいたのですが、いくら周りから勧められても、どうしても人間ドッグに行く気にはならず、日々を過ごしてはいたのですが、ある時、妻が当時住んでいたマンションの向かいのビルに入っていた洋品店のママから「ご主人が罹った舌癌を、この病院のお陰で切らずに治した」という話を聞き込んできて、「それなら一度行ってみようか」という気になったのです。年に一度、問診の後に、ただ免疫注射を受けるだけなのですが、都合10年ほど通いましたかね。何ら保証のないフリーの身になって、この先、自分が倒れるわけにはいかないという思いがそうさせたのかもしれません。決して安いとは言えない金額ではありましたが、おかげで、今のところ無事に過ごせているところをみると、やはりそれなりの効果はあったということだと思っています。
診療そのものは、20分くらいで終わってしまうこともあって、終わった後は、先の大学院の他に、1870年に日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」が発刊されたこともあって建てられた「新聞博物館」を訪ねたり、1868年に、関内と、外国人居留地のあった横浜港を結ぶ道として造られ、アイスクリームや街路のガス灯発祥の地とされる、馬車道へも足を延ばしていましたね。そうそう、馬車道は1982年に桑田佳祐さんが作詞作曲をされた中村雅俊さんの「恋人も濡れる街角」にも歌われていました。もっとも私には「馬車道あたりで待つ」女性などはおりませんでしたがね。
出た後は、まっすぐに、「赤い靴をはいていた女の子像」のある山下公園近くにある、「ホテルニューグランド」へ移動しました。関東大震災で壊滅的な打撃を受けた横浜を復興すべく、官民一体となって1927年に造られたこのホテルは、最新式の設備とフレンチスタイルの料理で人気を集め、瞬く間に横浜のランドマークとなるほどの人気を集め、皇族や、イギリス王室の賓客のみならず、チャーリー・チャップリン、ダグラス・マッカーサーなど要人が利用するホテルとなりました。このホテルの厨房から、ドリア、ナポレオン、プリン・アラモードなどのメニューが生まれ、後にホテルオークラの総料理長になった小野正吉さんや、プリンスホテルグループの総料理長になった木次武雄さんなど、多くの人材を輩出したと言われています。こうして横浜でのスケジュールを終えたのですが、東京とは一味違う、横浜という街の持つ文化的な雰囲気にすっかり魅せられた一日となりました。
店内には赤い絨毯が・・・
なぜか騎士像が飾られていました
牛や馬の水飲場もありました
「赤い靴をはいていた女の子像」
山下公園から見たホテルニューグランド
ホテルニューグランド
56歳で会社を辞めた時、私の中には「次に何をするか」について具体的なプランはありませんでした。いきなり、定期収入が無くなるのですから、いささか乱暴な話ではありますが、「まあ、何とかなるだろう」と楽観的に考えていたのです。もっとも、肩書を外した時、いったい自分に何ができるかについて、漠然としたイメージがなかったわけではありません。そもそも自分にできることには限りがありますから、そんなにいろいろ選択肢があるわけもありません。では何ができるのかというと、それまで私がやってきた仕事を集約すると、「人を育てる」ということに尽きるのではないかと思ったのです。
とは言え、「人を育てる」というのは、口で言うほど簡単なことではないのも事実です。もっと言えば、少なくとも自分には、人を育てることなど、できないとさえ思っています。できるのはただ一つ、人が育つための環境を用意してあげることだけです。これは、草や木も同じで、植物は自力で種から芽を出し、茎を伸ばしていくのであって、人間がぐいぐい引っ張ったからと言って成長するわけではありません。人間がしてあげられるのは、育ちやすい土壌や水、肥料といった環境を用意してあげることだけなのです。
私も33年間の吉本時代、多くのタレントさんのマネジメントやプロデュースに関わってきましたが、誰かを育てたと言えるほど何かを教えたことはありません。やすし・きよしさんにしても、彼らが自らの力で日本一の漫才師と言われるまでに成長したのであって、私はただ、そのための環境を整え、チャンスを与えただけに過ぎなかったのです。ですから、独立をした後も、私にできることは、「人が育つためのきっかけとなる場を提供する触媒になることでしかないかな」という思いがあったのです。
一方で、当時は、バブル後遺症の、長い停滞や金融危機を経て、世界最速で進む高齢化や人口減少の元で、閉塞感と不安が社会を覆っていたこともあって、街や、人々の顔から元気が失われていたように感じていました。元気は「元の気」と書くように、人間が本来備えているものなのですが、それが、社会常識や規範といったもので「フタ」をされているのではないか、それならこの「フタ」を外して、○○会社の誰々や、お父さんやお母さんといった役割名ではなく、固有名詞を持つ個人として向き合う場を設ければ、皆が忘れかけていた元気を思い出すことが出来るのではないかと思ったのです。
もちろん、これは私一人だけでとうてい出来るわけもなく、既に吉本を辞めて、先に自らの会社を興していた眞邊明人君や、スタッフ皆の力を借りて、匿名ではなく、自分の名前で勝負する力を養うことを目的にする「有名塾」をスタートさせることにしたのです。若干の不安を抱えつつ、5月26日大阪のホテル・ニューオータニ・鳳凰の間で、中谷彰宏さんをゲストに招いて19時半から開いた、「"個"の時代を前向きに生きる」と題したキックオフ・イベントには、560名もの方々にお集まりをいただきました。私からは「有名塾立ち上げ構想」をお話させていただき、中谷さんには「セルフプロデュース」をテーマに特別講演をしていただきました。その後、2人でディスカッションをさせていただき、終了したのが21時半、お越しいただいた方々をすべて見送った後、事務所ビルの地下にあるワインバー「イーバン・ミルソン・オンズ」で開いた打ち上げの席は、上気した皆の弾んだ声が止むことなく、深夜まで大いに盛り上がりました。
中谷彰宏さん
元気いっぱいの猪木さん
こちらは、須藤元気さん
こちらは、原口元気選手
こんな方もいました
ホテルニューオータニー大阪