振り返ってみれば、この2001年という年は、年明け6日の朝日新聞での美術家・森村泰昌さんとの対談、「ほんま?関西化するニッポン」に始まり、何かと忙しい年となりました。1月27日に戸塚で行われる「横浜女性フォーラム」での講演に行くと一面の雪、長靴を買うにも店は無く、仕方なく会場まで、膝下まで雪に浸かりながら歩いて会場へ。何とか講演を終えて、タクシーで東京の自宅まで帰ったものの、たどり着いたのは3時間も後のことでした。新横浜駅を出るときもたしかに雪が舞ってはいたのですが、大したことはないと、高を括ってJRで戸塚に向かったのが、どうやら裏目に出たようでした。それにしても、靴までが雪浸しになったのにはまいりましたね。
2月17日には、吉本が新たに始めたスポーツプロジェクトの主催する「スポーツサポートシンポジウム211」のため甲子園都ホテルへ、スポーツライターの玉木正之さんや、元バレーボールUSA代表のヨーコゼッターランドさん、元Jリーガーの長島昭浩さん、正道会館の師範代・角田信朗さんらとのトークセッションを行いました。玉木さんとはこの後の3月9日に、雑誌「世界」でも対談をさせていただきました。
また、6月5日には、広島厚生年金会館で開かれた、株式会社デオデオ主催の文化講演会に、女優の岸恵子さん、作家の猪瀬直樹さんと共に講演をさせていただきました。もしかしたら岸恵子さんにお会いできるかも?と秘かに期待をしていたのですが、残念ながらお会いすることはできませんでした。
7月6日には、CR局長の田井中さんからのお招きで、JARO(日本広告審査機構)主催の講演会へ。22日にはフジテレビ「報道2001」に出演をしました。テーマは、トルシェ監督に率いられたサッカー日本代表が6月10日にコンフェデレーションカップで準優勝し、その後7月のキリンカップでパラグアイやユーゴスラヴィアを撃破した直後ということもあって、翌年開催の日韓ワールドカップをにらんだサッカーに関するものだったように記憶をしています。
10月27日には、大阪の岩谷産業さんで開催された、ベンチャーコミュニティ2周年のパネルディスカッションに出席。発足当初から4倍に増えた会員を前に、世話人代表の一柳良雄さん、元コンパック(日本)の村井勝会長、くらコーポレーションの田中邦彦社長と共に話をさせていただきました。そして11月4日には、大阪の南港にあるコスモプラザビルで開かれた「タウンミーティング in 大阪」に特別登壇者として参加。沖縄・北方・科学技術政策担当の尾身幸次大臣、経済財政政策担当の竹中平蔵大臣、国土交通の泉信也副大臣、男女共同参画会議議員で弁護士の住田裕子さんに質問を投げかけました。もっとも私の場合はアドリブではなく、事前に10月4日大臣官房からのレクチャーを受けての発言ではありましたけれど、中には結構鋭いツッコミが竹中大臣に入り、まだ答弁慣れしておられなかった竹中さんを、ベテランの尾身さんがフォローされていたのが印象に残っています。
11月7日にはNHKの「関西クローズアップ」に出演。同19日には一柳良雄さんをコーディネータ―に、ジャーナリストの野中ともよさん、堀場製作所の堀場雅夫会長、ミキハウス三起商行の木村浩一社長と共にパネリストを務めました。「関西・経営と心の開発の会」の主催で、場所はたしか、中之島にあるリーガロイヤルホテルでしたかね。
そして12月に入って3日には読売新聞の「どうなる、どうする!関西文化」では、大阪市大の橋爪紳也さん、日文研の笠谷和比古教授と鼎談。7日にはソフト化経済センター主催のパネルディスカッションが、東京の内幸町ホールで開かれ、博報堂総研の首席研究員の林光さんがコーディネーター、理事長の日下公人さんや、松井証券の松井道夫社長と共にパネリストを務めました。さらに、押し迫った12月21日には、旧知の残間里江子さんからの依頼で、青山スパイラルホールで開かれた「パワーフォーラム」に参加し、評論家の寺島実郎さんをコーディネーターに、アミューズ会長の大里洋吉さん、ぴあ社長の矢内廣さん、イー・アクセス社長の千本倖生さんと共に、再びパネリストを務めました。
残間里江子さん
左から、寺島実郎さん(評論家)、矢内廣さん(ぴあ社長)、千本倖生さん(イー・アクセス社長)、私と、大里洋吉さん(アミューズ会長)
青山スパイラルホール
残間里江子さんにお目にかかったのは、前(2000)年の3月10日のことでした。たしか、3年ほど吉本にいて結婚退職をしていた松岡由里子君に伴われて、NGKホールへ来られた際だったと思います。初対面のご挨拶代わりに、出たばかりの拙著「笑いの経済学」をお渡ししたのを憶えています。残間さんのお名前だけは、ベストセラーになった山口百恵さんの自伝、「蒼い時」をプロデュースされた方として存じてはいたのですが、それまでは接点もなく、お会いするのはこの時が初めてでした。
残間さんとは、その後2001年の8月9日に、予てよりお付き合いのあった三基商事の理事で、健康アドバイザーでもある大ぞの千恵子さんからのお誘いで、株式会社マングローブの今野誠一社長とご一緒に、代官山の「萬葉庭」という店で食事をさせていただきました。名前の通り庭がとても美しかったのを憶えています。
ちょうどこの年の7月20日に、私も見に行った福岡のマリンメッセで開かれた世界水泳選手権で、立花美哉さんと武田美保さんのデュエットが、日本シンクロ界で初の金メダルを取られたこともあって、2人が演じられた作品の「小劇場」を作られた井村雅代コーチと、作曲をされた大沢みずほさんの2人を労うべく、10月23日に、彼の司馬遼太郎さんが「これぞ上方の味」と絶賛された「蘆月」での食事会にも、大ぞのさんと共に、残間さんも参加され、再びお目にかかる機会がありました。
そうそう、この日、会食が終わろうかという時に、私の携帯にダイソーの矢野社長から電話が入り、「今、女性と一緒なので・・・」と返事をしたところ、「いいじゃん!一緒に連れておいでよ!」と言われたので、落ちあい場所の「自由亭」というバーへ皆で行くと、メンバーの数と平均年齢の高さに、一瞬たじろがれた様子でしたが、次第に美形でおとなしそうな大沢さんにターゲットを絞られたのか、大沢さんとばかり話をされるようになり、他の女性軍からきついツッコミが入るようになって、店を出る時には悄然とされていたのが憶えています。何せ、あの井村コーチにかかっては、とても勝算があろうはずもなく、あえなくKO負けを食らったボクサーが退場するかのように、肩を落として帰っていかれました。
そんなご縁もあって、残間さんが主宰された「パワーフォーラム」にも、お声がけをいただいたのかもしれませんが、彼女はその後も、財務省や国交省、厚労省の委員などを歴任され、09年には大人のネットワーク「club will be」を立ち上げ、10年から藤田観光の社外取締役を務められる一方、出版やラジオ出演など、多彩な方面で活動を続けられています。
一方、大ぞのさんは、ご本業のほか、バイクに嵌ったり(もっともこれは、新御堂筋を直進することはできたものの、突き当りの箕面辺りで自力反転をすることが出来ず、早々に断念したとのことです)、近頃は故・木原光知子さんとのお付き合いが縁で始めた、水泳に嵌り、中尾ミエさんと共に、海外で開かれる「ウーマンズ・マスター水泳」に挑んでおられるといいますから、女性は本当に元気だなと思います。「えっ、井村さんですか?」井村さんは、04年アテネオリンピックでデュエットの銀メダルを獲得したにもかかわらず、代表コーチを外され、08年の北京オリンピックでは新たに赴任した中国の代表を銅メダル、続く12年のロンドンオリンピックでも中国代表をデュエット銅メダル、チーム種目銀メダルに導き、10年ぶりに乞われて日本の代表コーチに復帰した15年の世界選手権ロシア・カザン大会では、日本代表の乾友紀子・三井梨紗子ペアを銅メダル、チーム種目も銅メダルに導き、16年のリオデジャネイロオリンピックで、日本シンクロチームはデュエットとチームで銅メダルを獲得し、北京・ロンドンと2大会続いて5位に低迷していた日本のシンクロを再建されたのです。わが母校の創始者・新島襄の言葉を借りて言えば、まさに「ハンサムなウーマン」という他ありませんね。
大ぞの千恵子さん
残間里江子さん
代官山の「萬葉庭」
庭の綺麗な店でした
マングローブの今野誠一社長
会場となったマリンメッセ福岡
金メダルに輝いた立花・武田組
「蘆月」
50種類以上の旬の野菜と7種類の魚を、紙なべでいただきます
井村雅代さん
大沢みずほさん
肩を落とす矢野さん・・・ではなく「ドアラ」
新島襄はアメリカ留学時代の恩人に八重との婚約を報告し、彼女を「She is a person who does handsome」と評しました
年が明けて、2002年。この年は私にとって誠に感慨深い年となったわけですが、それは、おいおい記すことにします。2月4日、予てよりお付き合いのあった一柳良雄さんからお電話をいただき、赤坂の「外松」という料亭で、政治家の亀井静香さんにお会いさせていただきました。別に何をお願いするということではなく、テレビで拝見する亀井さんのキャラクターに魅力を感じていて、一度お会いしてみたいなと思っていたのです。席には亀井さんの他に、一柳さんともう御一方がいらっしゃるくらいの砕けた雰囲気で、私が「亀井先生のマネージメントを吉本でさせていただけませんか?」とお話すると、「いや、公僕としてそれは出来ないが、歌手としてならいいよ!」とおっしゃって、外に控えていた専属バンド、と言ってもアコーディオンとギターの2人を席に呼び込まれたのです。
さっそく歌を聴かせていただいたのですが、あまりのシュールさにたじろぎながら、ふと周囲を眺めると、皆さんにとってはいつものことなのか、ごく普通に談笑をされていました。ひとしきり独唱が終わった後、亀井さんから「どうかね?歌手としては?」と尋ねられて、「1回の出演で500円なら考えてみます」と答えました。吉本では新人のギャラは500円からスタートと決められていたからです。残念ながら交渉はまとまらなかったのですが、亀井さんとはこの後、6月16日にフジテレビの「報道2001」でご一緒させていただいた折、ご挨拶をすると、親し気にご挨拶を返していただき、周囲のスタッフが驚いた目で眺めていたのを憶えています。もっとも、亀井さんは、番組前半の硬派のコーナー、私は柔らかい後半のコーナーと別れてはいましたがね。
番組の終了後にエレベータまでお見送りいただいた、キャスターの黒岩祐治さんに「選挙に出てくださいよ!」と声をかけると、「いやいや!」と手を振っておられましたが、2009年に、29年間キャスターを務められていたこの番組を降板して、フジテレビを退社された後の2011年に神奈川県知事となられました。
亀井さんは衆議院議員を13期務め、運輸大臣、建設大臣、自民党政調会長、内閣府特命(金融)担当大臣など要職を務められた後、2017年10月5日政界を退かれました。
5月27日には、イベント企画会社のリップさんと共に、アナウンサー養成学校の「アナ・トーク学院」を立ち上げ、記者発表を行いました。ギャラの取れる「シャベリスト」の養成を目標に、週1回半年間のカリキュラムでアナウンス技術を基礎から指導し、卒業後は吉本が制作するイベントや公演に出演できるようにサポートをするというもので、学院長には、私が生まれる前からラジオパーソナリティをされていた?ベテランの鈴木美智子さんにお願いをして、特別顧問に私が入り、学院の運営をリップさんに担っていただくことになりました。
更に、この年の1月13日に、小泉首相がシンガポールのゴー・チョクトン首相との間でサインされた「自由貿易協定」(正確には「日本・シンガポール新時代経済連携協定」)に乗る形で、7月に「吉本シンガポール花月」を行うことを発表しました。3年ほど前からこの地に乗り込んで活動を続けていた笑福亭鶴笑さんを中心に、7月7日、ホテルニューオータニ・シンガポールの、フェニックスボールルームで公演を行い、それだけでは面白くないので、本気で「お笑いの自由貿易をしたい」と槙田邦彦大使にお願いに上がったところ、二つ返事で後援を引き受けていただいたのです。前夜、私が6時間20分のフライトを終え、チャンギ空港に着いたのが22時を過ぎていたため、翌7日に槙田大使を尋ねて、大使館の料理長から手造りの昼食までご馳走になりました。
槙田さんは、田中角栄さんが成し遂げた日中国交に尽力されたこともあって、アジア太洋州局長を務められていたのですが、写真週刊誌に美人ホステスさんとの手つなぎデート写真を撮られ、シンガポール大使に転じられて間もない頃でした。それを命じた当時の外務大臣が、田中真紀子さんだったのですから、何とも不思議なめぐりあわせというほかありません。短い時間ではありましたが、ひげを生やした風貌といい、フランクなお話のされようといい、とても人間味に溢れていて素敵な方でした。その後、公演に立ち合って、出演者や、津田君などスタッフと会食、関西空港に戻ったのは、日付の変わった8日朝の6時15分でした。
亀井静香さん
これは歌っているのではありません
一柳良雄さん
「外松」
黒岩祐治さん
笑福亭鶴笑さん
ホテルニューオータニ・シンガポール
槙田邦彦さん
シンガポールの日本大使館
この他、2002年4月8日には、96年11月3日の開局以来、低迷していた「エフエムちゅうおう」(ステーションネーム・YES-fm)を活性化するため、担当者を眞邊明人君に変えて、01年12月に女子小・中生向け雑誌「ニコラ」の専属モデルとしてデビューし、KTVの「バトラク」から派生したダンスユニット「SOUL TIGER」でメイン・ヴォーカルを務めていた虎南有香さんを、「史上最年少の放送局長」に起用するなど新機軸を打ち出すことにしました。併せて、それまで制作部門からの援助で成り立っていた体質を改め、新たにスポンサーを獲得するなどして3か月で単月黒字に転換をすることができたのです。
5月9日には新会社、YTE(よしもと・トラベル・エンターテインメント)の設立発表を行いました。以前「吉本ツアーズ」という会社があったのですが、社内からの依頼をただ待つだけで、自ら積極的に打って出る姿勢に欠けていたように思えたので、新たに外から社長を迎え、社名も変えて再出発を図ることにしました。新社長にはIBM関連の旅行会社にいた平野龍平さんという、見た目には漫画「おそ松くん」に出てくる「チビ太」のような方になっていただきました。なかなかのアイデアマンで、さっそく、橘田君と共に、観光振興策として「よしもと温泉・観光地グランプリ」を企画し、同月の14日には大阪日航ホテル、17日には東京のホテルオークラで、全国からホテルや旅館のオーナーを集めてプレゼンテーションを行い、6月5日には2人の案内で、扇千景大臣にお会いする前段として、国交省の小幡次官を表敬訪問しました。
そうそう、この折に、「例えば大阪で地下鉄を24時間走らせるといったことは、国交省が許可しないんですか?」と日ごろ疑問に思っていたことを次官に尋ねてみると、「そんなことはありません。可能ですよ」と意外な答えが返ってきたのを憶えています。更に、以前鳥取の観光協会に行った際に、私が「砂丘をライトアップすべきだ」と言ったら、「それは環境庁が許可しないから無理です」と返されたことを披露すると、笑いながら「それはきっと、観光協会の人が面倒くさいから、やりたくなかったのですよ。ただのエクスキューズのために言っているだけなのでは?」とおっしゃっていましたね。
そういえば、嘗て私が網走を訪ねた際に、網走監獄を見て「博物館より、いっそホテルにした方がいいのに、名前はプリンス系であるかのように網走プリズンホテルにして、パジャマは囚人服、独房はシングルルーム、雑居房はツインかトリプルルームに、チェックアウトの際に出所証明書を出せば人気が出ますよ」と提案したのですが、「いや、国の有形文化財だからそれは無理」と一笑に付されましたが、2020年に重要文化財の旧奈良少年刑務所が「監獄ホテル」として生まれ変わると聞いて、小畑さんのおっしゃった通りだなと思いましたね。そして、7月12日には橘田君の案内で、林社長や平野君と共に、天王洲アイルにあったJALの本社に兼子社長・羽根田副社長を訪ね、その後同じエリアにあるJTBの本社で佐々木社長を訪ねました。
次いで5月13日には、NGKの1階に「ダイソー」さんに出店をしていただきました。以前同じ場所に、同様の100円ショップはあったのですが、品ぞろえも薄く、賑わいもなかったので、01年9月18に東広島にある大創産業の矢野社長を訪ね、ご担当の石川常務と共に、広島市随一の歴史を誇る老舗料亭「羽田別荘」でご馳走になりながら出店のお願いをした甲斐がありました。
更に6月3日には、「自然堂」の喜多尾将秋社長とお会いしました。場所は赤坂にあった長谷川という料亭だったと思います。喜多尾さんは奈良のお生まれで、79年「ほっかほっか亭」(現・ほっともっと)を関西で初めて独自資本でチェーン展開し、85年CCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)をTSUTAYA書店と折半で出資・設立をして、代表取締役専務を務められた後、94年に「自然堂」を設立し、「極楽湯」ブランドでスーパー銭湯の全国展開を図り、02年秋にジャスダックに上場される少し前のことでした。たしか当時は直営店が5店、FCが18店舗ほどだったと思いますが、FCを長年にわたって手掛けられただけあって、そのエリアマーケティングの緻密さには驚かされました。出資ということではなく、タレントさんたちの活躍の場が広がればと思い、提携という形でお話をさせていただいたように思います。坂田利夫さんと一緒に四谷のスクワール麹町で開かれた自然堂の記者発表に臨んだのは、7月22日のことでした。
YES-fm
虎南 有香さん
「SOUL TIGER」
この中の誰かに似ています
チビ太
平野龍平さんです
ホテルとして活用される奈良少年刑務所
喜多尾将秋社長
東西2本社制になってから、制作部門ばかりではなく、テナント部門を扱う事業部までを管掌するようになった私ですが、部員を見ていると制作部と違って、皆が温和しく、おまけに、銀行出身の谷垣取締役部長も、秘書室長から転じられた温和な方とあって、イケイケの気風の制作部育ちの私には少し物足りなく思えたのです。もちろん、お入り頂いているテナントさんたちと良い関係を維持するのは大切なことではあるのですが、メンテナンスばかりではなく、クリエイティビティのある事業部にしたかったのです。そこで目を付けたのがキリンビールから吉本に転じ、当時東京本社にいた橘田淳史君だったのです。
橘田君は、90年代にキリンビールが、NY帰りの空間プロデューサー・森本泰輔さんに依頼をして、JR大阪駅の高架下に開いて話題を呼んだビアホール「ジャングル・ダ」に関わった、発想力や行動力や突破力に優れた人材だったのです。吉本に入った経緯には関与してはいませんが、彼なら何か新しいことを考えてくれるのではないかと思い、彼に目を付け、横澤さんや大崎君に頼んで、2001年10月に大阪に転勤させて、事業企画部門を任せようと思いました。
ちょうどそんな時に、吉本が、関空やJTBさんから、落ち込んでいる日本人の海外旅熱を回復させるための策の依頼を受けていたこともあって、彼に振ったところ、彼から出てきたのが、JTBが主催し、JALのB747を丸ごとチャーターして、宮川大助・花子さんを隊長に、350名のツアーをハワイへ派遣、関西人のパワーを運んで、ハワイを元気づけようという「ハワイ励まし隊」という企画でした。2002年4月24日から3泊5日で実施されたツアーは、発売当日に完売、大好評を博したのです。このツアーをサポートしたのが縁でYTE(よしもと・トラベル・エンターテインメント)の社長に就いたのがチビ太君こと、平野龍平さんだったというわけです。因みに森本泰輔さんは、その後、東京へ出て、音楽事務所「タイスケ」を設立し、東芝EMIからウルフルズをブレイクさせました。
当時、事業部が抱えていた大きな問題は、NGK地下のスペースをどう活用するかということでした。当初は洋画のロードショーを扱う映画館として建築する予定だったのですが、竣工の間近になって「もはや映画の時代でもあるまい」ということになり、急遽ディスコに転換、「Desse Jenny」(デッセジェニー)として87年11月1日にオープン、明石家さんまさんが「銭でっせ」をもじって名付けたという店名の話題性や、ゴージャスな内装もあって、折からのバブル景気に乗って繁盛していたのですが、92年マハラジャの閉店に象徴されるディスコ冬の時代を迎え、その幕を閉じ、96年5月からは、ゲームセンターの中に競馬場がある「ロンゴロンゴ」を招致していたのですが、この「ロンゴロンゴ」が2002年の2月に撤退をすることになったというのです。
「デッセジェニー」は林さんが社長を務めた、子会社のパシフィックエンタープライズ、「ロンゴロンゴ」は当時事業部を管掌していた平戸さんの手で行われ、私の関与するところではなかったこともあって、さほど関心を持つこともなく過ごしてきたのですが、今度はそうはいきません。皆でミーティングを重ねる中で、橘田君の口から出てきたのが、「オモシロオカシイ・レストラン」を標榜する台湾小皿料理店の、「青龍門」という名前で、経営をするのは「ソーホーズ・ホスピタリティ・グループ」だとわかりました。この会社は、早々に1976年に「月川産業」として設立をされて、ピザハウス「ジロー」の展開を機に、80年代にはイタリアンレストラン「ソーホーズ」、90年に「青龍門」や、「ロイズレストラン」などを積極的に展開し、98年には海外でも著名なシェフ、ノブ・マツヒサの名を冠したレストラン「NOBU東京」を南青山に開店、六本木ヒルズや丸ビルなどの高額テナント物件に相次いで進出をするなど、まさに事業を積極的に事業拡大をしている最中にあったのです。
森本泰輔さん
ロンゴロンゴの地図
デッセ・ジェニー入り口
デッセ・ジェニーの店内
デッセ・ジェニーのスタッフに囲まれた明石家さんまさん
何はともあれ、月川社長にお目にかからねばと、橘田君とオフィスを訪ねたのは2002年1月の28日のことでした。縷々こちらの状況をご説明させていただいた上で、ご検討を頂けるようお願いをして帰阪しました、林社長に報告をして、2月28日、前年3月にオープンをした大阪のユニバーサルシティウォークの青龍門を、林社長、橘田君と一緒に見に行くことになりました。
店の表にはネオンに龍が浮かんで、まるで隣接しているハードロックカフェのギターを抱えているように見えました。混み合う入り口を進み、青龍門行きのボタンを押すとようやく店内に入れ、テーブルに着けるのですが、時間になると、陽気な音楽と共に、店の一角から乗り物が登場して、中を見るとスタッフが必死で漕いでいる様子が見られました。
驚いたのはトイレです。男子用は精一杯口を開けたオジサンに向かって用を足すのですが、なんとその途端にオジサンがガラガラとウガイをして、顔を上下させるのです。そのうち女子トイレからギャーっと叫ぶ声が聞こえて、「何が起こったのか」とスタッフに尋ねると、慌てた様子もなく平然としているのが気になって、後で見せてもらうと、隣の部屋に、人生訓を読みながら、一人で説教をたれているオヤジがすでに入っていて、無視することもできるのですが、壁がないため、このオヤジと向き合ったまま用をたすことになるのです。さらに、突然、このオヤジがズボンを下げたまま目の前ににじり寄ってくるのです。ここで、女子トイレから「ギャー!」という悲鳴が上がるという仕掛けになっていたのです。
この内装は、83年にサントリーオールドのCM、「ウサギのママとアルマジロのバーテンダーのいるバー」のCMでパペットアニメーションを使ったビジュアルが話題となり、CM以外にも大型レストランの空間演出を手掛けられていた李泰栄さんによるものでした。おまけに料理も結構おいしかったことがあって、3月18日には、88年からソーホーズが経営する松久信幸の名前を冠した南青山のレストラン、「NOBU東京」で打ち合わせをしました。
松久信幸さんは、87年にビバリーヒルズに、レストラン「MATSUHISA」を開いた際に、ハリウッドスターたちから支持を得て、有名なレストランガイド「ザガット・サーベイ」の、レストラン人気投票で常に1位を獲得、店の常連客だった俳優のロバート・デ・ニーロさんからの誘いもあって、93年にニューヨークのトライベッカに「NOBU New York City」を共同経営、さらに2000年には、ジョルジオ・アルマーニさんとイタリアのミラノで「NOBU Milan」の共同経営を始め、和を基本にした独自の創作料理「NOBUスタイル」で世界に知られた著名なシェフでした。なぜかチャーリー小林さんと親しくされていて、私より妻の方がよく存じ上げていることもあって、その縁で私もニューヨークや、ラスベガス、ケープタウンの店に伺ったことがあります。そうそう、ニューヨークの店を訪ねた折には、少し離れた席で共同経営者のロバート・デ・ニーロさんが、ポツンと一人で食事をされているのに遭遇したこともありましたね。スタッフに聞くと、道向かいのマンションに住んで居られるとかで、誰もがさりげなく接していたのを憶えています。
話がそれました。次いで4月17日には、東京本社で行われた、林社長と横澤専務、平戸常務を交えた常務会の席に李泰栄さんを招いて、「青龍門プラン」のプレゼンテーションをしていただき、皆の了解を取り付けることが出来ました。それを踏まえて、MYCAL小樽を手掛けた経験のある比企君にも加わってもらって、橘田君や水谷君とミーティングをしたのを憶えています。
月川蘇峰さん
表から見たネオン
入り口
店に入るボタン
店のテーブル
変な乗りもの
男子用便器
女子トイレにいるオジさん
サントリーオールドのCM「ウサギのママと、アルマジロのバーテンダーのいるバー」
「ザガット・サーベイ」
松久信幸さんと俳優のロバート・デ・ニーロさん
4月27日は、午前中に大阪本社で、吉野(取)制作部長や、谷垣(取)事業部長に橘田君を加えて会議をした後、スーパー白兎で鳥取市へ向かいました。駅前にあるニューオータニホテルで開かれた、鳥取東部経済同友会の鳥姫線活性化協議会で講演をした後、予てよりお付き合いをいただいていた株式会社観光交通の社長で、姫路鳥取線活性協議会の会長をされていた福本登社長のご案内で、4月7日に当選されたばかりの竹内功市長と、「まる金」という寿司屋さんで会食をさせていただきました。たしか、この時に「のどぐろ」という魚を食べたように記憶しています。それまで腹が黒い人物に出会ったことはあっても、喉が黒い生物に会うのはこの時が初めてでした。見かけは良くないのですが、けっこう美味で、それ以来、北陸や山陰へ行くと、必ず「のどぐろ」を食すようになりました。この日はニューオータニに泊まり、翌朝には県庁で福本さんと待ち合わせをして、片山善博知事にお目にかかることになりました。
福本さんによると、片山知事と竹内市長は、年齢が同じで、共に東大法学部卒、片山さんが自治省、竹内さんが国交省のキャリア官僚の出身とあってライバル心が強く、竹内さんが「学生時代は自分の方が優秀だった」とおっしゃっていたというエピソードなどをうかがいつつ、知事応接に入って色々お話を伺ったのですが、なかでも県民の方々のことをクライアントとおっしゃったのが今も印象に残っています。
この日はその後、広島へ移動しなければならないこともあって、福本社長が自社のタクシーを用意してくださったのですが、何と運転手さんが2人居られたのです。怪訝に思って聞くと、その距離305キロ、およそ4時間ほどかかると聞いて驚きました。鳥取市役所から高速に乗るには、岡山県の津山インターまで行って、中国道に乗り、北房ジャンクションを経由して岡山に向かい、岡山ジャンクションから山陽道で広島に向かうのだと聞きました。それにしても県庁所在地に高速道路の入り口がないと聞いたのはこの時が初めてのことでしたね。さらにそのあと大阪に帰り、橘田・平野両君と打ち合わせをしたのですから結構な距離を移動したことになりますね。
その後7月27日には、澤昌平君と共に、バンダイさんのパーティにお招きを受けて杉浦会長や、高須社長、東取締役にご挨拶をさせていただき、屋上から隅田川の花火を見せていただきました。およそ100万人見物に来るとかで、人込みの中を縫って帰ったのを憶えています。
7月30日には、橘田君と熊本へ出かけ、大手バス会社の九州産業交通を訪ね、田上社長、山内専務、川田取締役にお目にかかりました。ちょうどこの時期は、九州産業交通が開設したバスターミナル熊本交通センター内にある、久留米岩田屋熊本店が翌2003年早々に撤退をすると通告をされ、それ以降の目途が立っていない状況だったのです。到底我々の手に負えないお話で、その場はただ伺うだけに終わってしまったのですが、その後、官民挙げて必死の招致活動が実って、都市計画家の北山孝雄さんからの紹介で、阪神デパートの三枝輝行社長が引き受けられることになり、「くまもと阪神百貨店」として再生をされることになったのです。三枝さんは、高島屋や大丸、阪急などに囲まれ苦戦する中、どこにも負けない店にするには食品しかないと、売り場をテーマパークのように華やかに変えて、「日本一のデパ地下」」と呼ばれるほどにした方でした。熊本では、地下が狭いため「デパ地下」ではなく、一階を食品売り場に変え、「デパイチ」とするなど、阪神デパートの手法を取り入れたことに加え、この年18年ぶりに阪神タイガースが優勝した相乗効果などもあって、「くまもと阪神カード」の申し込み者が、2003年2月23日の開業初日に1万人を超えたといわれるほどの成功を収めたのです。
私が退職した後の2002年の11月30日に、クラブ関西で「近畿百貨店協会」の講演をさせていただき、大丸の奥田務社長と共に、三枝輝行社長に御挨拶をさせていただいたのは、まさにその最中だったのですね。
片山善博 鳥取県知事
竹内功 鳥取市市長
「まる金」
のどぐろ
腹黒のミッキー
隅田川花火大会
北山孝雄さん
三枝輝幸 社長
くまもと阪神百貨店
大丸の奥田務社長
そのあと熊本県民テレビ(KKT)に西野正夫社長を訪ね、新町にある熊本随一といわれる料亭「新茶屋」で夕食を共にさせていただきました。西野さんは読売テレビに長くおられ、副社長を務められた後、2001年6月からKTTに移られたのですが、YTV時代は営業・編成・制作と多岐にわたって腕を揮ってこられ、とてもお世話になったハートフルな方でした。
KKTの皆さんは、自分たちの局名に、狭い県だけに限定されるような「県民」という名前がついていることに不満を抱いていたようなのです。そんな中、西野さんは、「せっかく県民という名前が入っているなら、いっそもっと、県民に近づこう」と呼びかけ、お客様である県民の方々にサービスをすべく、「テレビ感謝祭」を2002年の5月11・12日、益城町のグランメッセで行い、2日間で8万人を集め、渋滞を引き起こして、当日の「テレビタミン」の生放送で、「来場しないでください」と呼びかけるほどの盛況を博しました。おかげで、番組の視聴率も他局の倍の10%を記録し、社内のモチベーションも上がり、KKTが視聴率3冠王となるきっかけになったと言われています。
この西野社長の、人と人との絆を大切にされる姿勢を見て、県民の方々のことを「クライアント」と呼び、「クライアントの意向にどうこたえるかが知事の仕事だ」とおっしゃった、鳥取県の片山知事の言葉を思い出しました。そうそう、西野社長は食事をさせていただいた際に、初めて訪れる土地へ行った際には、「必ず一番高い所に登って、その土地を俯瞰することにしている」ともおっしゃっていました。ナスカの地上絵が飛行機からでしか見られないように、高みに上がることによって、くっきりと見えることがあるのかもしれませんね。この後、予てよりお付き合いをいただいていた、元県議で、菊陽町で「ホテル・サンロード」を経営されている船津高則さんにお会いして、旧交を温めました。
その後、8月19日に実施した「青龍門なんば吉本店」の記者発表では、今いくよ・くるよさんにも出ていただき、1時間に2回、天井から降りて5分間歌う、全長2.6m、重さ450kgの巨大クモ型ロボット「なにわのりこ」ちゃんも披露されました。何と、ヴォーカルの担当が、あの、映画「もののけ姫」の主題歌を歌った、米良美一さんなのです。店のコンセプトは「食と笑いの殿堂・大阪版ムーランルージュ」というもので、他にも定番の「ビックリ・トイレ」はもちろんのこと、夜7時と9時の2回、若手タレントがステージでパフォーマンスを行う、エンターテインメント・レストランになっていました。8月21日のグランドオープンには、広告代理店やメディア関係の方々以外にも、バンダイの高須社長や、松山英太郎さんなどのタレントさん、取引先の方々など、数多くの方々にお越しをいただいて、盛況の内に、無事スタートを切ることが出来ました。
ところが、このオープニングに、中邨会長も林社長も姿を見せられることは、ついに無かったのです。逆風は、前年の夏くらいから感じていました。詳細は省くとして、明らかに今までとは違うぞという状況が顕在化してきたのです。「ならば、どうする?今までやってきたことを否定するのか?それとも自分が否定されない外の世界へ出るのか?」もちろん、葛藤はありましたが、私が最終的に選んだのは、外へ出る、つまり「会社を辞める」という道でした。
ずっと会社が面白かったし、だからこそ、これまで頑張って来ることが出来ていたのは確かです。「世の中の企業の寿命は30年」と言われますが、考えてみれば、それを超える33年もの間を務めた自分は、吉本という会社の、一番いい時期を過ごすことが出来たのだと思います。いろいろなことを自由にやらせてもらえ、お陰で、少しは世間に知られるようにもなりました。でもここ1,2年は、今までのように楽しく仕事が出来なくなって、会社に対する思いに、「ワクワク感」がなくなっていたような気がしていました。それなら、いっそ一度外へ出て、インターフェースを変えて、何か別の面白いことが出来るのではないかという思いが、次第に広がってきたのです。
KKT 西野正夫社長
「テレビタミン」
料亭 新茶屋
船津さんが経営されている「ホテル・サンロード」
吉本興業は2001年に309億円の売り上げを達成しました。バブルが崩壊して、「失われた10年」と言われた中にあって、逆に売り上げを倍増させたのです。もちろんそれは、主導された中邨社長の経営力があってのことですが、傘下にいた我々も、共に達成感を味わうことが出来ました。さらに、2002年の5月には、ホリプロさんと共に芸能界としては、初の経団連加盟も果たしました。それ自体は、過大に評価すべきことでもないような気もしますが、子供の頃、「勉強せんかったら、吉本へ行くしかないよ」と言われていたのを考えると、まさに隔世の感のある出来事であったと言えるかもしれません。どこかで浮草稼業視されていた業界が、企業として、世間に認知をされる時代になったということでもあったからです。一方で、この頃から、社内でROE(株主資本利益率)やROI(投資利益率)などというカタカナ経営用語もチラホラと聞こえてくるようにもなりました。
「そろそろ、もういいのかな?」という思いが頭を過ぎりました。思えば、それまで過ごしてきた33年間は、芸能界の中でもマイナーとされてきた笑いの世界を、「もっとメジャーにしたい」と頑張って、それが達成された後に「何を目指して頑張ればいいのか」を、考えていなかったことに気が付いたのです。人間の行動の基本は、MUST(しなければならない)、CAN(できる)、WILL(したい・決意する)で、この3つが揃ったとき、人は最高のパフォーマンスをすると言われています。MUSTだけが残り、WILLやCANが萎えた自分が例えここに残っても、お互いが不幸になるだけだと思ったのです。中邨さんや林さんから吹いてきたアゲインストの風は、それを促す風でもあったような気がしています。
グリム童話にこんな話があります。全能の神ゼウスが、ロバ・イヌ・サルと人間を呼んで、生き物の寿命を考えているのだが、みんな等しく「30年にしようと思う」と告げたところ、ロバは「鞭と足蹴に促されながら重荷を運ぶのは辛いから、もっと短くして下さい」と言ったので、12年を減じて寿命を18年にしました。次いでやって来たイヌも「足も弱り、吼える声も衰え、噛みつく歯も抜けるから」と言うので18年を減じて寿命を12年に。更にその後に呼んだサルも、「笑わせるために愉快ないたずらをしたり、おかしな表情をするには長すぎるから」と20年を減じて10年にすることにしたのです。そして、最後に呼んだ人間にも同様のことを告げると、今度は30年では短すぎるというのです。仕方がないのでゼウスは、ロバ、イヌ、サルが返上した12年と18年と10年とを足した40年を人間に与え、寿命を70年にしたのです。お陰で欲張った人間は、本来の寿命である30歳を超えた後の18年間は、ロバのように重荷を背負って働き、その後の12年、つまり60歳までは主人のために懸命にしっぽを振って忠節を尽くさないと、70歳までの、ただ愛嬌を振りまいていればいいだけの老後には至れないのだというのです。
私も、この時すでに56歳。戌年ということもあって、シッポこそ振ってはいませんでしたが、盛んに吠えたり、噛みついたりしていたように思います。「世の中は 左様 然らば 御尤も そうで御座るか 確と存ぜぬ」と、狂歌にあるように、もう少しノンシャラン(柔軟)な姿勢を保つべきだったのかもしれません。いや、よくよく考えると、自分は群れで行動をする習性を持つイヌではなくて、基本的に単独行動を旨とするネコ型の人間だったということだと思います。そういえば、ラトビアのリガで見た、グリム童話で知られる「ブレーメンの音楽隊像」でも、ネコの方がイヌより上位に座っていましたね。
経団連会館
潮時かな?
グリム童話
重荷を背負ったロバ
シッポを振る犬
シッポの動かない私
愛嬌を振りまくサル
「ブレーメンの音楽隊」の像
もちろん、葛藤はありました。中邨会長や林社長にはそれなりの想いがあり、決断を下されたのでしょうが、お二人共に物故された今となっては知る由もありません。ただお二人の決断の背景にあったものは、私の存在が「矩を超えた」などということに尽きるのではないかと推察しています。
たしかに、常務になって以来、私の活動範囲はボーダー(領域)を超えるものであったことは否めません。ただそれは、共に取締役でもあった部長のお二人に現業を任せ、自分は寧ろ社外へ出ることによって、広い意味で会社の認知度を上げるべく、半ば自覚的に行ってきたことでもあったのです。それが否定をされるなら、もはや自分がそこに留まる意味はありません。任命権は代表取締役のお二人の方にあるのですから。
そこに至った事由については、種々の憶測が飛びましたが、一切そのようなことはありません。至ってシンプルな話なのです。なかには、気遣って、「社長と一緒に食事をしようよ!」と誘っていただいた共通の知人もいましたが、辞退をさせていただきました。食事を共にすることによって、コミュニケーションのギャップは埋められても、パーセプション(認識)のギャップは埋められないと思ったからなのです。会社と社員の関係はイーブンで、雇ってもらうのではなく,貰った給料以上の成果を返せばいい」と考えここまで走ってきたつもりですが、それが容れられないとあれば身を引くしかありません。入社以来、いつか来るだろうと思っていた、「辞める時がついに来たと」、中邨会長に口頭で辞意を伝えました。今思えば幸せな33年間でした。たとえ、自分があれ以上、会社に残っっていたとしても、多分それまで以上にいい仕事は出来なかったように思っています。
手続き的には9月30日に開かれた役員会で、10月10日をもって退職することが決まったのですが、私がゲスト出演をした収録済みの「ナンバ壱番館」という番組の放送日を、退職前の9月26日に前倒しすることを依頼したため、瞬く間に噂は広がりました。
妻にはこの少し前、東京の自宅を出る際に、「もしかすると、会社を辞めることになるかもしれない」と伝えていました。反応は至ってそっけなく、返ってきたのは、「どうして?」「これからどうするの?」ではなく、これからも(10年来、恒例となっていた)フロリダへ行けるのかしら?」という言葉でした。私が「たぶん行けると思う」と答えると、「じゃ、辞めてもいいわ」と、暗に「これまでと同じ生活が守れるのね」という意味を込めた、優しさの中にもプレッシャーのかかる言葉を返され、思わず「見事な攻撃だタケちゃんマン」と叫びそうになりましたね。
一方、大阪の枚方市に住む母に伝えたのは、それより少し後の10月2日のことでした。夜中の0時を少し回った頃に帰宅すると、日経新聞の天野さんという女性記者が、我が家を訪ねて来ていたのです。タレントさんが事件を起こしたときにはよくあったことで、「また、誰かが事件を起こしたの?」と尋ねた母に、「いや、多分自分のことだと思う。実は会社を辞めようと思ってる」と伝えると、「あっそう、私には年金もあるし、あんたが会社を辞めて、収入が無くなっても関係ないわ」と、あっさりと承諾してくれました。
ところが、この記事が翌日の朝刊に出たものですから、さあ大変。9時過ぎに出社すると、新聞記者の皆さんが押しかけてきて、「会社を辞めるのに会見するのも如何なものか」と、個別に取材を受けることにしました。
2時間余りかけて、10社ほどの取材を終えた後、名古屋へ向かい朝日ホールでの講演を済ませた後に帰阪、友人と待ち合わせた北新地のクラブへ顔を出すと、なじみのホステスさんから、いきなり「会社辞めるんだってね」と聞かれたのです。ママならともかく、およそ彼女が日経新聞を読んでいるとも思えなかったので、「えっなんで知ってるの?}と聞くと、「店に出る際に見た、マルビルの電光ニュースに出ていた」と言われ、「たかが自分が辞めるくらいのことで、ニュースになるのか」と不思議な思いに駆られました。
このマルビルは、丸の内にあってその名前が付いた東京とは違って、形が円筒形であるところから名付けられ、当時、サントリーの鳥居道夫さんや森下仁丹の森下泰さんと共に、「大阪3ケチ」の1人と言われた、吉本土地建物社長の吉本晴彦さんの持ち物で、吉本興業とは何の関係もなかったのですが、どちらもお金にシビアだということは共通していたのかもしれませんね。
大阪マルビルの電光ニュース
こんな風にニュースが流れていました
吉本晴彦さん