木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 問題は「MANZAIプロジェクト」を誰に委ねるかということです。そこで浮かんだ顔が、谷良一君だったというわけです。酒を飲まない時は寡黙で、そつなく仕事をこなしてはいたのですが、そろそろ彼自身が中心になってプロジェクトを立ち上げる時期に来ているのではないかという思いがあったのです。

 2001年が明けて早々、怪訝な面持ちで部屋に入ってきた彼に、「実はこのところ、漫才の顔触れが停滞しているように思う。ついては、君に総てを任せるから、活性化のためのプランを作ってくれないか、大阪各局には、それぞれに演芸の賞があるけれど、それらを総て凌駕するような賞を、我が社で作りたい。12月をゴールに設定して、そこから逆算をして、総ての漫才番組や、イベントを集約するチャート図をつくってくれないか」と頼んで、彼から出てきたのが「MANZAI PROJECT 2001」という企画書でした。

 きっと、あちこちに相談を持ち掛けたのでしょう。後に彼から手渡されたチャート図や企画書には既に、「M-1 グランプリ」というタイトル名や放送する局がABCであることも記されていました。「M-1」は、島田紳助さんの発想だと知らされましたが、私が以前にK1を主宰された石井館長からお聞きした、「木村さん、新しいジャンルを創るこっちゃ」というのは、これのことだったのかと気がついたのはこの時でした。と同時に、「さすが、プロデュース感覚のすぐれた紳助さんだけのことはあるな!」と感心し、彼に相談を持ち掛けた谷君の、目の付け所の確かさにも驚きました。それにしても、もの言わずの谷君が、よくぞ紳助さんに話を持ち掛け、その上、ABCの合意までを取り付けたものです。きっと彼自身の心中に期するものがあったのだろうと推察します。さすがに、このやり取りの中では、谷君が面倒くさげに「ハイハイ」と返事を2度繰り返して、私が「ハイは、1回でええんじゃ!」と投げ返すような事はなかったように思いますね。

 以降は、谷君の主導で話は進んでいたのですが、私に出番が回ってきたのは6月25日、メイン・スポンサーとしてお願いをしている「オートバックス」の本社へ、詰めを図るべく住野公一社長を訪ねた時のことでした。実は2月15日に横浜みなとみらいの「ホテル・パシフィコ」で開かれた、「オートバックス社」の講演会にお招きをいただいて、住野社長から「我が社もカー用品界の吉本を目指しています」と言葉をかけていただき、4月3日には同じグループの「オートセブン社」の講演を、西明石に近い加古郡稲美町にある「いなみ文化の森・コスモホール」で講演していたご縁もあって、谷君と共に、住野社長にお願いに上がったというわけなのです。

 「オートバックス」という社名が、Appeal(アピール)、Unique(ユニーク)、Tire(タイヤ)、Oil(オイル)、Battery(バッテリー)、Accessory(アクセサリー)、Car electronics(カーエレクトロニクス)、Service(サービス)の頭文字をとって名付けられたといわれるように、自動車用品界では最大手の会社で、社長の住野公一さんは、車は無論のこと、チェロの腕もプロ級という趣味人でもありました。

 オートバックスさんは、すでに車関係で、97年から元F1ドライバーの鈴木亜久里さんと提携をして、「ARTA」(Autobacs Racing Team Agri)を立ち上げておられて、世界的に通用する日本人ドライバーを育成すべく、フォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権に参加をされていました。

 果たしてこれ以上、わが方の申し出を受けていただけるか、幾分の懸念はあったのですが、同じ大阪のご出身ということもあって、お笑いが大好きでもある住野社長には、温かく迎えていただきました。これで、メインのスポンサーは、ほぼ「オートバックス」さんということに決まったのですが、実は今一つ懸念がありました。キー局のテレビ朝日の反応が、いまいち芳しくないというのです。

 

 

 

 

住野公一 社長(現・相談役)

チェロの腕もプロ級とか

こんな本も出されています

オートバックスのロゴ

店舗の外観

鈴木亜久里さんとならぶ 住野社長