そこで考えたのが、梅田花月シアターを、活動の拠点となる小劇場にできないかというプランだったのです。そこで、3年にわたって映画を上映していた「シネマワイズ」を、2001年の3月20日に一旦閉じて、7月から「よしもとrize-1シアター」として再開することにしたのです。ただ当初は他の小劇団に頼らざるを得ないにしても、やはり「自前の劇団を持たないと!」ということで、所属俳優の井田國彦さんを座長に、女優のちすん、漫才コンビ「ジパング上陸作戦」や「ピース」、なかやまきんに君などに加えて、ダンス&ボーカルの「OSAKA 翔 GANGS」も参加した劇団「よしもと ザ・ブロードキャストショウ」を10月に立ち上げ、12月13日から16日まで、元劇団四季でPHYTHM OF LIFE代表の佐竹毅さんの演出で、同じく劇団四季出身のミュージカル俳優の堀米聰さんにも出演していただいて、共同プロデュース作品を上演することが出来ました。さらに、それに先立って、7月には未来の戦力を養成する「アクターズ&タレントスタジオ」を始めてもいたのです。
92年に梅田花月シアターとして再スタートして以来、こうして試行錯誤を重ねてきたわけですが、その背景には、大人から子供までをターゲットにしたメジャーなNGKと、86年から99年3月まで、若者に特化して人気を集めた心斎橋2丁目劇場、そして99年9月にNGKの向かいのYES NAMBAビルで新たなスタートを切った、「base よしもと」の存在がありました
86年5月16日にオープンした「心斎橋2丁目劇場」は、大崎君や中井君、竹中君が担当し、初日:ダウンタウンの「2丁目物語」、2日目:憂歌団の「2丁目ライブショー」、3日目:明石家さんま主演・演出の「SAMMA劇団」でスタートし、以降、ダウンタウンらの「お笑い探検隊」や87年から89年までMBSで放送した『4時ですよーだ』もあってブレイクし、ダウンタウンをはじめ、数多くのタレントを生み出しました。
90年代に入って、ダウンタウンらが東京へ本拠を移した後は、天然素材が担った時期もあったのですが、比企君や新田君が担当し、「2丁目エブリ亭」や「WACHACHA LIVE」、95年から始まったABC「すんげーBEST 10」で千原兄弟やジャリズムが台頭しました。
そして、99年9月に本拠をYES NAMBAビルへ移して、劇場名を「base よしもと」と改めた後は、新田君や雪だるまこと大木君が担当して、KTVの「紳助の人間マンダラ」企画でレコードデビューしたダンスユニット「WEST SIDE(ランディーズ・ロザン・キングコング)」のブレイクや、陣内智則・シャンプーハット・FUJIWARAなどが司会を務めるMBSの番組「?マジっすか!」などもあって、関西を中心に一大ブームを起こしつつあったのです。02年8月31日には、WTCのオープンエアスタジアムで開かれた「02 base SUMMER SMILE」には30,000人もの観客を集めました。私も大木君に誘われて参加したのですが、会場の人いきれに耐えかねて、早々に近くのハイアット・リージェンシーホテルに逃げ込んで、お茶を飲んだだけで立ち去った苦い記憶があります。
このように若者に特化した勢いのある「base よしもと」と、看板劇場となった「NGK」の間に挟まれて、何を目指すのか、試行錯誤は続きました。いっそ、落語専用劇場にでもすれば良かったのでしょうが、何せ急勾配の劇場とあってはそれもかないません。それなら、「NGK」や「base」のマイナー版を創るのではなく、「NGK」や「base」にい来ない人たちをターゲットにしてはどうかと考えたのです。
更に、表現の場として「rise-1」のバリューを上げるべく、10月から、「家庭教師のトライPrezents 第1回よしもとrize演劇祭 〜来たれ。エンタテインメントの宝石箱へ!〜」を開催することにしたのです。全国各地から203団体の応募があり、そのうち二次予選を突破した7劇団が覇を競いました。
井田國彦さんと劇団集団「よしもと ザ・ブロードキャストショウ」
「OSAKA 翔 GANGS」
佐竹毅さん
base よしもと
WEST SIDE
会場となったWBC オープン エア スタジアム
ハイアット・リージェンシーホテルOSAKA
そこで考えたのが、梅田花月シアターを、活動の拠点となる小劇場にできないかというプランだったのです。そこで、3年にわたって映画を上映していた「シネマワイズ」を、2001年の3月20日に一旦閉じて、7月から「よしもとrize-1シアター」として再開することにしたのです。ただ当初は他の小劇団に頼らざるを得ないにしても、やはり「自前の劇団を持たないと!」ということで、所属俳優の井田國彦さんを座長に、女優のちすん、漫才コンビ「ジパング上陸作戦」や「ピース」、なかやまきんに君などに加えて、ダンス&ボーカルの「OSAKA 翔 GANGS」も参加した劇団「よしもと ザ・ブロードキャストショウ」を10月に立ち上げ、12月13日から16日まで、元劇団四季でPHYTHM OF LIFE代表の佐竹毅さんの演出で、同じく劇団四季出身のミュージカル俳優の堀米聰さんにも出演していただいて、共同プロデュース作品を上演することが出来ました。さらに、それに先立って、7月には未来の戦力を養成する「アクターズ&タレントスタジオ」を始めてもいたのです。
92年に梅田花月シアターとして再スタートして以来、こうして試行錯誤を重ねてきたわけですが、その背景には、大人から子供までをターゲットにしたメジャーなNGKと、86年から99年3月まで、若者に特化して人気を集めた心斎橋2丁目劇場、そして99年9月にNGKの向かいのYES NAMBAビルで新たなスタートを切った、「base よしもと」の存在がありました
86年5月16日にオープンした「心斎橋2丁目劇場」は、大崎君や中井君、竹中君が担当し、初日:ダウンタウンの「2丁目物語」、2日目:憂歌団の「2丁目ライブショー」、3日目:明石家さんま主演・演出の「SAMMA劇団」でスタートし、以降、ダウンタウンらの「お笑い探検隊」や87年から89年までMBSで放送した『4時ですよーだ』もあってブレイクし、ダウンタウンをはじめ、数多くのタレントを生み出しました。
90年代に入って、ダウンタウンらが東京へ本拠を移した後は、天然素材が担った時期もあったのですが、比企君や新田君が担当し、「2丁目エブリ亭」や「WACHACHA LIVE」、95年から始まったABC「すんげーBEST 10」で千原兄弟やジャリズムが台頭しました。
そして、99年9月に本拠をYES NAMBAビルへ移して、劇場名を「base よしもと」と改めた後は、新田君や雪だるまこと大木君が担当して、KTVの「紳助の人間マンダラ」企画でレコードデビューしたダンスユニット「WEST SIDE(ランディーズ・ロザン・キングコング)」のブレイクや、陣内智則・シャンプーハット・FUJIWARAなどが司会を務めるMBSの番組「?マジっすか!」などもあって、関西を中心に一大ブームを起こしつつあったのです。02年8月31日には、WTCのオープンエアスタジアムで開かれた「02 base SUMMER SMILE」には30,000人もの観客を集めました。私も大木君に誘われて参加したのですが、会場の人いきれに耐えかねて、早々に近くのハイアット・リージェンシーホテルに逃げ込んで、お茶を飲んだだけで立ち去った苦い記憶があります。
このように若者に特化した勢いのある「base よしもと」と、看板劇場となった「NGK」の間に挟まれて、何を目指すのか、試行錯誤は続きました。いっそ、落語専用劇場にでもすれば良かったのでしょうが、何せ急勾配の劇場とあってはそれもかないません。それなら、「NGK」や「base」のマイナー版を創るのではなく、「NGK」や「base」にい来ない人たちをターゲットにしてはどうかと考えたのです。
更に、表現の場として「rise-1」のバリューを上げるべく、10月から、「家庭教師のトライPrezents 第1回よしもとrize演劇祭 〜来たれ。エンタテインメントの宝石箱へ!〜」を開催することにしたのです。全国各地から203団体の応募があり、そのうち二次予選を突破した7劇団が覇を競いました。
井田國彦さんと劇団集団「よしもと ザ・ブロードキャストショウ」
「OSAKA 翔 GANGS」
佐竹毅さん
base よしもと
WEST SIDE
会場となったWBC オープン エア スタジアム
ハイアット・リージェンシーホテルOSAKA
問題は「MANZAIプロジェクト」を誰に委ねるかということです。そこで浮かんだ顔が、谷良一君だったというわけです。酒を飲まない時は寡黙で、そつなく仕事をこなしてはいたのですが、そろそろ彼自身が中心になってプロジェクトを立ち上げる時期に来ているのではないかという思いがあったのです。
2001年が明けて早々、怪訝な面持ちで部屋に入ってきた彼に、「実はこのところ、漫才の顔触れが停滞しているように思う。ついては、君に総てを任せるから、活性化のためのプランを作ってくれないか、大阪各局には、それぞれに演芸の賞があるけれど、それらを総て凌駕するような賞を、我が社で作りたい。12月をゴールに設定して、そこから逆算をして、総ての漫才番組や、イベントを集約するチャート図をつくってくれないか」と頼んで、彼から出てきたのが「MANZAI PROJECT 2001」という企画書でした。
きっと、あちこちに相談を持ち掛けたのでしょう。後に彼から手渡されたチャート図や企画書には既に、「M-1 グランプリ」というタイトル名や放送する局がABCであることも記されていました。「M-1」は、島田紳助さんの発想だと知らされましたが、私が以前にK1を主宰された石井館長からお聞きした、「木村さん、新しいジャンルを創るこっちゃ」というのは、これのことだったのかと気がついたのはこの時でした。と同時に、「さすが、プロデュース感覚のすぐれた紳助さんだけのことはあるな!」と感心し、彼に相談を持ち掛けた谷君の、目の付け所の確かさにも驚きました。それにしても、もの言わずの谷君が、よくぞ紳助さんに話を持ち掛け、その上、ABCの合意までを取り付けたものです。きっと彼自身の心中に期するものがあったのだろうと推察します。さすがに、このやり取りの中では、谷君が面倒くさげに「ハイハイ」と返事を2度繰り返して、私が「ハイは、1回でええんじゃ!」と投げ返すような事はなかったように思いますね。
以降は、谷君の主導で話は進んでいたのですが、私に出番が回ってきたのは6月25日、メイン・スポンサーとしてお願いをしている「オートバックス」の本社へ、詰めを図るべく住野公一社長を訪ねた時のことでした。実は2月15日に横浜みなとみらいの「ホテル・パシフィコ」で開かれた、「オートバックス社」の講演会にお招きをいただいて、住野社長から「我が社もカー用品界の吉本を目指しています」と言葉をかけていただき、4月3日には同じグループの「オートセブン社」の講演を、西明石に近い加古郡稲美町にある「いなみ文化の森・コスモホール」で講演していたご縁もあって、谷君と共に、住野社長にお願いに上がったというわけなのです。
「オートバックス」という社名が、Appeal(アピール)、Unique(ユニーク)、Tire(タイヤ)、Oil(オイル)、Battery(バッテリー)、Accessory(アクセサリー)、Car electronics(カーエレクトロニクス)、Service(サービス)の頭文字をとって名付けられたといわれるように、自動車用品界では最大手の会社で、社長の住野公一さんは、車は無論のこと、チェロの腕もプロ級という趣味人でもありました。
オートバックスさんは、すでに車関係で、97年から元F1ドライバーの鈴木亜久里さんと提携をして、「ARTA」(Autobacs Racing Team Agri)を立ち上げておられて、世界的に通用する日本人ドライバーを育成すべく、フォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権に参加をされていました。
果たしてこれ以上、わが方の申し出を受けていただけるか、幾分の懸念はあったのですが、同じ大阪のご出身ということもあって、お笑いが大好きでもある住野社長には、温かく迎えていただきました。これで、メインのスポンサーは、ほぼ「オートバックス」さんということに決まったのですが、実は今一つ懸念がありました。キー局のテレビ朝日の反応が、いまいち芳しくないというのです。
住野公一 社長(現・相談役)
チェロの腕もプロ級とか
こんな本も出されています
オートバックスのロゴ
店舗の外観
鈴木亜久里さんとならぶ 住野社長
本来なら予てよりお付き合いのあった皇達也さんにお願いをするところだったのですが、あいにく、次の株主総会で、子会社の「テレビ朝日サービス」社長として転出されるとの知らせが入っていたのです。すぐにアポイントを取って、お目にかかったのは、外苑前の「URAKU青山」で、バブル期には入会金が1000万円とも噂になった、セゾングループ・コンチェルト運営の高級会員制クラブでした。私などにはとうてい縁のない所だったのですが、ホテルのラウンジと違って、顔がささないということで、ここを選ばれたと思いました。お目にかかった6月1日は、内示からやや少し時間が空いていたこともあって、一見、恬淡とはされていましたが、私には、やはりどこか不本意な思いがあったように見えました。
皇さんは、天皇を表す古い言葉の「すめらぎ」という姓もあって、さぞかし高貴な方ではないかというイメージがあったのですが、結構フランクにお付き合いをさせていただいたように思います。
誰から聞いたのか憶えていませんが、当時東京のテレビ局ではジョークを交えて「三大プロデューサー」と呼ばれていた方が居られて、一人は態度の大きいNTVのOさん、今一人が声の大きいTBSのIさん、最後の一人が顔の大きい皇さんだと聞いた通り、昔の映画スターのようにたしかに顔の大きい方でした。でも「大きな顔をした人」なら困りますが、「顔が大きいだけ」なら、向かいに座っても、こちらが席を後ろへずらせばいいだけのことですから、支障はありません。
皇さんは、広島大学で学長を務められた教育学者、皇至道さんの長男として生まれ、慶応大学からNET(現 ANB)に入社して、バラエティを担当され、当時、日本教育テレビ(NET)という名前の通り、外部との付き合いが上手くないと言われた社風を破って、積極的にプロダクションやレコード会社、他局との交際を図って、萩本欽一さんやタモリさん、武田鉄矢さん、ビートたけしさんたちの番組を作り、大手プロダクション社長や、石原プロの小林専務など実力者とのお付き合いも深く、顔が大きいばかりでなく、とても広い方でもあり、同じ時期に情報・報道系の番組をプロデュースされていた小田久栄門さんと共に、「テレ朝の天皇」と呼ばれた実力者でもあったのです。
フジテレビが「おもしろくなければテレビじゃない」を標榜して視聴率三冠王を誇っていた時代に、「報道と情報のテレビ朝日」と謳っていたこの局にあって、86年10月に「ミュージックステーション」を立ち上げた時には、局内の諮問委員会から、「わが局には『題名のない音楽会』という良質な番組があるのに、そんな番組はいらない」と反対されたというエピソードがあります。皇さんは「例え数字は取れなくても、いい番組を作ればいい」というそんな局の体質を、何とか変えようとして戦ってきた人でもあったのです。私が初めてお会いしたのは、たしか95・96年頃だったと思います。渡辺プロの杉山恵さんから、制作局長になられる前、スポーツ局長か事業局長の頃に、皇さんを紹介されたように記憶しています。もちろんそれ以前から、お名前だけは存じ上げてはいたのですが、番組ではさしたるご縁もなく、お目にかかったのは、この時が初めてだったように思います。
以降、何度かお目にかかって、食事をさせていただいたり、相談に乗っていただいたりしていました。そうそう、98年3月には、広島市・薬研堀にある徳永寺で催された、亡きお母様のお通夜に出させていただいたこともありました。社外役員をされていた東映の京都撮影所や、系列局のABCへ来られた時などは、決まってお呼びがかかり、北新地へ繰り出したりしていましたが、実はこの皇さんも、私同様に酒が飲めないのです。いつだったか、銀座へご一緒した時タクシーが捕まらず、「日本一値段の高い喫茶店へ行こう」といわれて立ち寄った「ON」というバーで、2人してコーヒーだけ飲んで帰ったことがありました。電通通りの7丁目にある、リーフパイで有名な、「銀座WEST」本店の近くにあるバーで、2人でなんと1万円を取られ、「暴力バーだ!」と、ママに悪態をついて店を出たのですが、その後もなぜか、結構この店に通った記憶がありますね。
URAKU青山
これに乗って
会員専用ラウンジで話をしました
普通に正対すると、これくらいしか視野に入らない皇さん(イメージ)
1/30に縮小した皇さん
1/50に縮小した皇さん
お父様の著作
「欽どん」
「スポーツ大将」
「ミュージックステーション」
広島・薬研堀にある徳永寺
銀座WEST本店
そもそもABCはTBSとネットを組んでいたのですが、1975年3月に腸捻転解消と言われたネットチェンジがあり、NETとネットを組むようになったのです。当時はTBSの番組が強力とあって、互いに東西民放の雄として君臨していたのですが、NETは(Nippon Education Television という名前の通り、教育番組を50%以上、教養番組を30%以上作ることを義務付けられた教育専門局としてスタートしたこともあって、どちらかというとエンターテインメント番組でヒットしたものが少ない局だとされていました。おまけに、ABCの方が設立年度も早く、ヒットした番組も多いということもあって、「NET何するものぞ!」という風潮が漲っていたように思います。おかげで、当時数少ないNETの人気番組「大正テレビ寄席」でさえ、大阪にはネットされず、大阪のABCでは、同じ時間帯に「あっちこっち丁稚」を放送していたのです。まあ、吉本にすればどちらの番組にもタレントさんが出ていたのですから、有難いことではあったのですがね。
その後、73年、同じ教育専門局としてスタートした東京12チャンネル(現テレビ東京)の経営不振などもあって、総合局免許が下りたのですが、硬いものは得意だけれど、柔らかいものは苦手という体質は、まだ残されたままだったのです。77年に意識変革を図って社名をANB(Asahi National Broadcasting: :全国朝日放送)と名前を変えたのですが、これまで朝日放送という名前にプライドを持っていた人たちからは、「俺達、朝日放送の前に、なんでわざわざ全国という名前をつけるのか」と反発を呼んだことは想像に難くありません。
当然、同じことはANB側にもあって、土曜日の23時台に放送されて、関西では時に30%台の視聴率を記録していた人気番組の「探偵ナイトスクープ」でさえ、88年のスタート時にはANBにネットされず、ようやく千葉テレビが放送していたくらいだったのです。ANBがこの番組を取り上げたのは、91年1月に放送した「アホ・バカ分布図」が民放連賞を受賞して、「受賞した番組は放送しなくてはならない」という規則があるために、しかたなく放送したのが初めでした。東西の嗜好性の違いや、編成上の都合もあったのでしょうが、外から見ていると、「いまいち、しっくりいっていないな!」と感じることがありました。
もちろんANBにしても、東西間の癒合を図るため98年から「サンデープロジェクト」をABCと共同で製作をしたり、プロデューサーとしてABCの和田省一さんに加わってもらうなどして人材の交流を図ってはいたのですが、ドラマや、報道番組ならともかく、「M-1」のように、ABCからの発案で、漫才のコンテストを、しかもゴールデンで、2時間の生放送をするということには抵抗感があるのかな?」という気がしたのです。フジテレビやNTVのように、嘗てMANZAI番組で成功した体験のない局だから、仕方がないと嘆いていても始まりません。何とか叶える手立てはないものかと思案していた、ちょうどその頃、ABCの和田さんからお電話をいただいたのです。
和田さんは、この年の1月からANBの取締役として出向されていて、「7月12日、ホテルオークラで、ANBの河合久光取締役から頼まれた講演会があるので、そこで話してくれないか?」とのお話でした。なんでも、スポンサー企業の管理職に向けての講演だと伺って、即断でお受けすることにして、普段の話もそこそこに、最後の3分の1くらいは「M-1」の話をさせていただきました。その後、和田さんを交えて、はじめてお目にかかった河合さんともじっくりとお話させていただきました。河合さんは、皇さんと同じ慶応のOBでも、大きな顔でも、広い顔でもない普通サイズの、とてもジェントルな方で、真摯に耳を傾けていただきました。もちろん和田さんをはじめABCさんのお力があってのことだとは思いますが、少しは私も、役に立つことができたのではないかなと思っています。こうして「M-1グランプリ」は、無事、ANBさんでも中継をしていただけることになったのです。
和田さんは02年ABCに戻って、取締役、以降13年に代表取締役副社長になられ、河合さんは02年に常務、06年からはテレビ静岡の代表取締役社長と会長を務められました。
59年 2つに分かれ
75年 ねじれて(腸捻転)いたものが、青線のようになりました
「大正テレビ寄席」
「あっちこっち丁稚」
ABCプロデューサーの松本修さん
河合久光さん
和田省一さん
こうして01年の9月9日から始まり、12月2日まで行われた予選を経て、12月25日、いよいよ決戦の時を迎えることになりました。私もこの時ばかりは、生中継の行われる、砧の東京メディアシティ内のレモンスタジオに顔を出して、ABCの方、ANBの方、島田紳助さんやスタッフの皆さん方にも挨拶をして、18時30分から20時54分までの本番生放送に立ち会いました。
司会を島田紳助さん、赤坂泰彦さん、菊川怜さんの3人が務め、島田紳助さん、松本人志さん、鴻上尚史さん、ラサール石井さん、春風亭小朝さんに加え、都知事を退職された青島幸男さん、現職参議院の西川きよしさんの7人が審査員を務め、札幌・大阪・福岡にある吉本興業の劇場に集まった一般審査員の票を加味するというものでした。
全国から1603組が参加した第1回「オートバックス〜M-1グランプリ」の栄冠を勝ち得て、優勝賞金1000万円を獲得したのは、審査員票600ポイントを含め、計829ポイントを獲得した「中川家」、2位が「ハリガネロック」、3・4位がいずれも松竹芸能の「アメリカザリガニ」「ますだ・おかだ」という結果に終わりました。吉本の主催する番組だから吉本所属のタレントが受賞して当然だと思われる方もあるとは思いますが、誓ってそんな密約はなかったのです。それより他の事務所のコンビが受賞した方が、フェアさがアピールできて、参加者が増えていいとさえ思っていたくらいなのです。
ただ純粋に、漫才の復興を図りたいとの思いで、参加資格も「結成10年未満」というだけのシンプルなものにして、プロ・アマも、所属事務所も、国籍も問わないということにしたのです。ただ、初回の視聴率は関西で21.6%を稼いだものの、関東では9%とANBが懸念した数字しかあげられなかったのですが、谷君をはじめ、スタッフの尽力もあり、視聴率も8回目には関西で35%、関東で23.7%をあげるようになり、参加組数も、4489組を数えるようになったのです。このあたりのプロセスも、ルールをシンプルにして発展を遂げた、「よさこいソーラン祭り」と似ているような気もしています。
本番後の余韻に浸るスタジオを後に、私は西川きよしさんと、昔「西川きよしのABC学園」というコメディで、ディレクターとしてお世話になり、番組宣伝部長をされていたABCの田中驍さんを誘って、赤坂5丁目にあった「梓」という割烹で夕食をとることにしたのですが、なんとその店に、小泉総理の秘書官として知られた、飯島勲さんが居られたのです。律儀な西川さんは挨拶に出向かれ、私たちまでご紹介をいただいたのですが、お願いすることとて頭に浮かばず、ただただ、「この人があの飯島さんか!」と眺めるばかりでした。
田中さんは、たしか阪神電鉄の16代目の社長を務められていた田中隆三さんの息子さんで、持ち前の大らかな性格もあって、タレントさんからも慕われていた人でした。ちょうど、横山やすしさんが事件を起こして謹慎中に、西川さんがお世話になったこともあって、3人して当時の思い出話に花が咲きました。私も何度かリハーサルの終わった後、「ABC〜梅田」と書かれたタクシーチケットを、「ABC〜神戸」と書き換えて間寛平さんらと遠出して、ご迷惑をおかけしたことがありました。チケットに書かれた名前が作家の三原和人さんになっていて、田中さんから三原さんが注意され呆然とされているのを横目に、名乗り出ることもせず、間さんと笑いをかみ殺して眺めていたことがあります。
もっとも、その昔、「てなもんや三度笠」の収録後に「ABC〜伊丹」と書かれたタクシーチケットで熱海まで乗って、あとで咎められた際に「俺はイタミと言ったのに、運転手さんがアタミまで行ったんだ」と強弁したといわれるトニー谷さんほど悪質ではありませんでしたがね。いくら何でも途中で気がつくと思うのですが、それが笑い話として語り継がれるほどに、大らかな時代でもあったということだと思います。
こうして第1回目の「M-1グランプリ」は無事に終わったのですが、このあとに、まさかと思う出来事が起こったのです。
レモンスタジオのある東京メディアセンター
M-1の企画者で、司会・審査委員長でもあった島田紳助さん
谷良一君
第1回 M-1の優勝者は「中川家」でした
飯島勲さん
トニー谷さん(谷良一君とは関係ありません)
伊丹(A)と熱海(B)は411km離れ、陸路で5時間14分もかかります
「割烹 梓」店内
年が明けて、たしか2002年の1月末のことだったと思います。ラジオ大阪(OBC)の担当者の方から連絡があって、4月12日に行われる第37回の「上方漫才大賞」の奨励賞に、中川家が選ばれたというのです。「で、大賞は?」と聞くと、やや口ごもるかのように、松竹芸能の「ますだおかだ」コンビが選ばれたというのです。
たしかに、「ますだおかだ」の2人は94年に「ABC新人グランプリ」で最優秀新人賞や、NHK「上方漫才コンテスト」で優秀賞、さらにOBC「上方漫才大賞」で新人奨励賞、加えてANB「CHACHAキング」でも3代目チャンピオンに輝き、96年からはNHK「爆笑オンエアバトル」で連勝記録を出す活躍をして、2001年には中田カウス・ボタンさんが大賞に選ばれたこの「上方漫才大賞」で、奨励賞を受賞していることを思えば、妥当とも言える人選であったのかもしれませんが、こちらとしては、M-1の初代王座に輝いた「中川家」を、M-1で4位の「ますだおかだ」コンビの次にランクされるのは、とうてい許容できないことでした。
とはいえ、在版の演芸担当記者や、審査員によって決められたものを、強引にひっくり返すわけにもいかず、ここは、受賞そのものを辞退したほうがいいのではないかと判断をしたのです。すぐにマネージャーを通じて、その意思を本人たちにも伝え、林社長にも了解を取り付けた上で、2月13日、クラブ関西で開かれた打ち合わせの席で、OBCにその旨を申し入れたのです。
1966年に始められたこの「上方漫才大賞」は、関西芸能界では最も長い歴史を誇り、第1回目の「かしまし娘」さんを始め、錚々たる先輩漫才師の方々が受賞されてきた権威のある賞で、過去に辞退をされた方が、誰一人としておられなかったこともあって、「前例がない」と一旦は再考を促されたのですが、決して「ますだおかだ」の受賞が気に入らないからとか、自社ではなく、松竹芸能さんの所属だからということではなく、ひとえに、M-1を守りたいが故に下した決断だということを説明させていただきました。
皮肉なことに、74年に「三人奴」さんが大賞を受賞された際に、当時KTVの「ナイトパンチ」でブレイクしていた人生幸朗さんが、「幸朗・幸子」コンビとしては奨励賞に留まり、「納得できないから表彰式には出ない」とおっしゃったのを説得して、なんとか出席してもらった私が、今度は、受賞をお断りするめぐり合わせになったのです。
とは言え、どうしてもそれを理由に辞退をすることが承服出来なかったのか、3月4日OBCの豊治社長・角野部長と再度協議、最後に3月27日に、今一度、林社長に直談判をされたいとのことで、お会いいただいたのですが、社長の決断が揺らぐことはありませんでした。ようやく中川家が、大賞を受賞できたのは、8年も後の2010年であったことを思えば、本人たちには誠に申し訳のないことをしたとは思いますが、我々としては何としても、M-1初代王者の権威を傷つけるようなことだけは防ぎたかったのです。
4月12日、例年の通り大阪厚生年金会館(現オリックス劇場)大ホールで開かれた授賞式に参加させていただいた私は、その後、6階の「ステラの間」で開かれたパーティにも出席して、マスコミ各社の取材にも対応をさせていただいたつもりですが、翌日の論調を見ると、中には「吉本の想い上りだ」などと批判しているものもありました。その裏には「(せっかく自分たち識者が)選んであげたのだから、四の五の文句を言わず、有難くもらっておけよ」というようなものも見受けられましたが、辞退をすることが、どうして傲慢なのでしょう。それを言うなら、「あなたたちは、それほど劇場へ通って、日々、実際に彼らの漫才をご覧になっているのでしょうか?」と伺ってみたくもなりましたね。
「ますだおかだ」コンビは、翌2002年のM-1で、見事2代目のチャンピオンに輝きました。いろいろ紆余曲折はありましたが、結果的にはこれで良かったのだと思います。
「中川家」
「ますだ おかだ」
大阪厚生年金会館
ステージから客席を見て
一方で、2002年には、会社が創業90年を迎えることもあって、大阪本社でも何か記念になるイベントを企画しなければという思いもあり、89年から90年にかけてNGK2周年企画として実施した、「NGKスペシャルナイト」をベースに、その拡大版である「一人一興行主計画」を行うことにしたのです。「NGKスペシャル」の場合は、発案した制作部員がプロデューサーとして、週末の夜に約30のイベントを行ったのですが、今回はさらにその輪を広げて、制作・事業部全員の60余名が興行主となり、NGKの夜興行に限らず、隣接するNGKホールや、梅田のrize-1シアターなども使って、普段の花月では見られない興行を、制作・プロデュースをしてもらうことにしたのです。
一人一人が、企画の立案から、キャスティング、チケット販売や営業、イベントの実施と収支報告までしなければならないのですから、手慣れた社員にとっては、どうということはないにしても、経験のない社員にとっては大変だったとは思いますが、興行会社に入った社員である限り、皆にそういうマインドを持って欲しかったのです。もちろん、経験の浅い社員にはチーフ格の先輩や、チームリーダーがアドバイスをするのは自由です。こうしてそれぞれが、垣根を越えて、先輩たちやタレントさん、作家やスタッフ、放送局の方たちと会話を交わすことで、社内がより活性化していくのではないかと考えたのです。
ちょうどそんな折に、博報堂さんから、全国の優良な商品やサービスを提供している企業や自治体、観光地を、吉本の「誉め(よいしょ)の達人」いくよ・くるよさんが、「誉めたろう侍」に扮して行脚して、誉めまくる「日本全国誉めたろう侍漫遊記」という企画の提案があったのです。誉め方メニューには、「CMで誉めたい」「番組で誉めたい」「とことん誉めたい」の梅・竹・松3コースが用意され、吉本・博報堂両社の共同でセールスをしたいとのことでした。最上級の「とことん誉めたい」コースは、梅・竹の何れかに加えて、イベントにいくよ・くるよさんを派遣するというもので、「笑いを通して人々に元気を供給しよう」というものでした。
2002年1月30日に、東京の「ルミネtheよしもと」で、中井君や比企君、澤君にも立ち会ってもらった記者発表には多くのマスコミの方々に集まっていただきました。と、同時に、このキャンペーンを通して、「果たして自分は、今まで、人を誉めてきたことがあったのだろうか」と考えさせられたのです。漫才に例えるならツッコミの一辺倒で、部下に接するばかりで、誉めて伸ばすということを怠ってきたのではないか?そんな気がして、いくよ・くるよさんに例えて言うなら、少しは「ええやんかいさ!」と褒めてみようと思い、大阪本社にいて、自分が管掌していた制作・事業部門の社員・契約社員・アルバイト全員を対象に、3月30日、「誉めたろう社員表彰パーティー」を開くことにしたのです。選考には私と、趣旨に賛同してもらった吉野さん、谷垣さん、2人の取締役部長にも参加していただき、賞金も会社からではなく、3人で分担をして出すことにしました。最優秀賞などは決めず、10人各々に3万円と決めたのはいいのですが、のし袋に入れると、あまりに薄かったので、有り難味を出すために3人で手分けして、千円札にしたのを憶えています。
「一人一興行主計画」で面白い企画を考えた人間ばかりではなく、地味だけれど頑張っている人間にも目を向けることにも留意をして、私の目だけではなく、3人の合議制で決め、集まった全員の前で発表しました。この時に表彰した中の一人、橋本卓君から出された企画が「R-1グランプリ」だったのです。
誉めたろう侍になった、いくよ・くるよさん
橋本卓君は、たしか天理大学では柔道をやっていたとかで、多少、蛮カラを気取ってはいても、その実、結構繊細な所のある人間だとは思っていたのです。そんな彼が、漫才以上に停滞していた落語に喝を入れようとして出したのが、「R-1オープングランプリ」と書かれた企画書だったのです。結構拙い企画書だったのですが、体裁が整っていることより、まず何をやりたいのかが明確な彼の企画を表彰することにしたのです。「なんだ、M-1のパクリじゃん」と否定することはたやすいのですが、その仕組みを自分の好きな落語でもやってみたいと思ったところに彼の熱意を感じました。
笑福亭仁鶴さんや桂三枝さん、月亭可朝さんたちが揃って活躍していた頃に比べると、桂文珍さんが気を吐いていたとはいえ、落語界が停滞気味であることは否めない状況に陥っていたのです。漫才の世界ではNSCが出来て以降、弟子入りをして、師匠から名前をもらってデビューするパターンよりも、NSCを卒業していきなりデビューをする方が主流になっていたのですが、落語の方は旧来の、弟子入りをして師匠から名前をいただかないと、落語家として世に出られないシステムのままだったのです。
もちろん落語は古典が中心で、ネタを師匠から口伝して教えてもらわないと成立しないということもあって、漫才と同様には語れないのですが、一部の好事家だけを相手にする落語会ではなく、漫才や新喜劇と競わなければいけないNGKの舞台では、それでは困るのです。そんな思いを抱いていたこともあって彼の企画に乗ることにしたのです。
2002年6月18日から10月6日まで、参加者351名で予選を行い、10月14日に行われた第1回目大会の決勝戦は、スポンサーにTTNet(東京通信ネットワーク)が付き、KTVローカルで放送されました。視聴率は6.5%と地味なスタートでしたが、3回大会からはフジテレビ系27局でも放送されるようになり、2010年の第8回大会には参加者も3539名に増え、視聴率も関東で14.3%、関西で19.0%をあげるまでになりました。ルールも初回こそ、「座布団に座っての漫談」という縛りがありましたが、2回目以降はそれも外され、「とにかく面白い1人芸・古典落語以外なら何でもあり」ということにして、落語家、物まね、漫談、1人コント、グループの1人参加 OK の芸歴・プロアマ不問のオープンなものに変更したのです。だいたひかるさんが優勝した第1回大会には、オール阪神さんや、ケンドーコバヤシさん、陣内智則さん、友近さん、桂三若さん、笑福亭三喬さん等が参加していましたね。
以降落語家の受賞がないことを考えると、もはや、「すり合わせの芸」というものが、アドバンテージにならない時代になったということなのかもしれませんね。
だいたひかるさんが優勝したから言うのではありませんが、この頃は女性が頑張る時代でもあったような気がします。吉本興業でも女性社員の頑張りが目立ちました。企画制作部門にいた大西あかりさんは、社業の合間を縫って応募した、嘗て糸井重里さんや林真理子さんを生んだ「第37回宣伝会議賞・金賞」を受賞しました。秘書として入社したのですが、コピーライティングの仕事をしたくて異動を願い出たのですから、念願がかなったということですね。
新人開発チームのリーダーで、「base吉本」の支配人を兼務していた「雪だるま」こと大木里織君、制作営業統括部にあって女性初の制作広報室長を担っていた尾北有子君、営業企画制作チームで地域活性事業を担う田澤紀子君など、20代後半から30代にかけての女性社員たちが、本当によく頑張ってくれていたなと思います。
タレントさんを伸ばすのはもちろんのことですが、社員を伸ばすのもまた、吉本が大事にしなければいけないことなのだと痛感した時期でもありました。
橋本卓君
R-1といっても、明治プロピオ ヨーグルトではありません
だいたひかるさん
(左)KTVの山本アナ(右)なるみさん
2001年4月6日には東京で、東芝EMI専務の中曽根純也さんから、東芝メディアコンテンツ事業グループCOO理事の鈴木修美さんをご紹介していただきました。中曽根さんは、同姓の元総理と同じ、群馬の生まれで、甲斐バンドのディレクターとして一大ムーブメントを起こし、布袋寅泰や松任谷由美を手掛け、宇多田ヒカルのエグゼクティブ・プロデューサーとしてアルバム860万枚、海外を含めると970万枚を売り上げた方で、確かTBSから後にANB映像へ移り、3度の結婚相手が何れもスッチーだった原田忠幸さんの紹介で、お目にかかったのが最初でした。場所は赤坂のヒルトンホテル(現 ザ・キャピトル東急ホテル)の中華料理「星ケ丘」だったと思います。
その折は当時中曽根さんの上司の石坂敬一さんが同席されたこともあって、それほど言葉を交わすこともなかったのですが、当時東芝EMIが赤坂の溜池にあったことや、共に歳が同じだったということもあって、以降、親しくお付き合いをさせていただくようになっていたのです。鈴木さんが当時、東芝EMIの社外役員を兼務されていて中曽根さんとは親しく、そのご縁で私にご紹介をいただいたのですが、偶然この鈴木さんも、私たちと歳が同じで、以降定期的に「戌年の会」と称して、3人で会うようになりました。
5月17日には、さっそく鈴木さんが部下の方たちを伴って大阪へお越しになり、私の他に、竹中功君や、新田敦生君、澤昌平君、眞邊明人君と共に、北新地の「蘆月」で会食をし、コンテンツのコラボレーション企画を検討、「笑い」と「地域性」をテーマにシナリオを公募して、映画を年間に2作品程度、共同製作しようということになりました。
また、4月26日には、乃村工藝社の乃村義弘社長と共に、2005年に行われる愛知博覧会の、坂本春生事務総長にお目にかかるために、名古屋へ行きました。乃村工藝さんは、丹青社と並んで、日本を代表するディスプレイ・デザイン会社で、博覧会なども手掛けられており、この年の1月に、私が講演会でお世話になったご縁もあって、お声掛けをいただいたのですが、私一人で行くよりはと、アイデアマンの竹中功君と澤正平君にも付き合ってもらいました。坂本春生さんは、女性初の通産官僚を務められて、退官後には西武百貨店の副社長や、経済同友会の副代表幹事を務められたピカピカのエリートで、03年からは愛知博の協会長であるトヨタ自動車の豊田章一郞さんを支える副会長を務められた方です。大きすぎるテーマとあって、吉本が如何ほどの貢献が出来るかは分からなかったのですが、考え方の幅を広げるきっかけにはなったように思います。
そうそう、豊田章一郞さんと言えば、この年の11月1日に、愛知・岐阜・三重・静岡の東海エリアをマーケットにする、全国唯一のブロック経済紙「中部経済新聞」に招かれ、名古屋観光ホテルで講演をさせていただいた折に、お目にかかったことがありました。トヨタ自動車さんが、三菱東京UFJさん等と共に、中部経済新聞社の主要株主であったこともあって、会の冒頭に豊田さんが創立55周年の祝辞を述べられた後、私が出たのですが、大相撲で言えば、結びの一番の後に幕下力士が弓取り式に出ていくようなもので、いくらなんでも格の違いにギャップがありすぎました。漫才師・大木こだまさんのギャグのように、「往生しまっせ!」という心境で話を始めたのを今でも憶えています。
鈴木修美さん(左)と中曽根純也さん(左)
溜池にあった東芝EMI
ヒルトンホテル(現 ザ・キャピトル東急ホテル)
「星ヶ丘」
石坂敬一さん
新田敦生君
澤昌平君(現 AOI Asia Thailand 社長)
乃村義博さん
豊田章一郎さんと並ぶ 坂本春生さん
92年からは日刊ゲンダイ 中部版も出しています
大阪弁で「せっしょやなぁ〜」とも言います
弓取り式