木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 大阪弁を駆使した方と言えば、竹村健一さんもそのおひとりでした。竹村さんは、カナダ出身の英文学者で文明評論家、マーシャル・マクルーハンを日本に紹介した方で、私も竹村さんの著作を通じて、「メディアはメッセージである」や「ホットとクールなメディアの分類」などという彼の説に触れてはいました。この後「モーレツからビューティフルへ」などという流行語と共に世に出て、テレビでは78年~85年まで、同じ関西生まれの小池百合子さんをアシスタントにした、「世相講談」(NTV)の司会をされ、79年~92年に司会をされた「世相を斬る」が終わった後、92年からは「報道2001」のご意見番(共にフジテレビ)をされていました。ラジオでは「ずばりジャーナル」(ニッポン放送)や「世相ホットライン」(文化放送)などのレギュラー番組を持っておられ、「大体やね」や「ブッシュさんはね」など関西風の話し言葉を強調したしゃべり方や、パイプをくわえた独特な風貌から放たれる辛辣なトークや評論は、初期のタモリさんが、ネタに取り上げるほど、広く知られる存在になっていました。

 また、81年には著作を年に36冊も出版されるなど、出版にも注力され、自身が経営する太陽企画出版社から、電波活動を活字化し、マスコミに出ないニュースと視点を紹介する「月刊世相」を出されていました。

 そんな竹村さんから「世相ホットライン」への出演のオファーがあったのは、99年の3月8日のことでした。まだ、竹村さんが大阪で追手門大学の教授をされていた頃、「ヤングおー!おー!」にゲストで出られたことがあり、その時にチラッとお見かけはしたことがあったとは思うのですが、こちらは何せペーペーの身、ご挨拶する機会もなく、ただ遠目に眺めただけのことでした。テレビでの、やや傲慢にも見える姿に、怯む思いもあったのですが、「多分それも、関西人特有のサービス精神からくるパフォーマンスで、きっとデリカシーにあふれた人なのだろうなという読みもありました。その予感通り、竹村さんの好リードもあって、気持ちよく番組を終えることが出来ました。

 次にお呼びが掛かったの4月9日でした。東京の帝国ホテル内にある氏の事務所を訪ね、「月刊世相」の5月号に載せる竹村さんとの対談をさせていただきました。「こんなところに事務所を構えるなんて、コストがかかるだろうな?」と室内を眺めていると、帰り際に、太陽企画出版から出されている「これだけ手帳」をお土産にいただきました。私も、CMでパイプ片手に「電話の長いヤツ、資料を持ち過ぎのヤツ、この2種類が一番仕事できまへんな。私なんかコレだけですよ。コレだけ!」と竹村さんが話されているのを見ていて、「これが、あの手帳か!」と喜びながら部屋を出たのですが、よく見ると頂いた手帳は、前年のものだったのです。思わず西川のりおさんのギャグのように「せっしょでっせ!」と叫びたいのをぐっと我慢して帰途に就きました。それにしてもこの手帳、たしか1部が1,000円くらいしたとは思うのですが、「1万部で? 10万部で?」と考えると、帝国ホテルに事務所を構えることなど容易なことだったのかもしれません。竹村さんとはこの他にも、「週刊ポスト」や雑誌「ヴァンガード」などでも対談をさせていただいたと思います。

 この後、2000年1月18日には、主宰されている「全国竹村会」に講師としてお招きをいただきました。1泊2日に亘る大きなイベントで、確か350人くらいの方が来られていたと思います。著名な政治家や経済人が次々に登壇されるプログラムで、私に与えられたのはトップバッター、寄席に例えて言うと、席を温める前座のような役割でした。さすがに出番の時、次の講師に「兄さん、お先に」とは声を掛けませんでしたが、それにしても、今思えば、「会費が○○万円で、×350人とすると・・・」などと考えていた当時の私は、何と器の小さな人間であったのでしょう。

マーシャル・マクルーハン「メディア論」より

「メディアはメッセージである」

 

 

 

 

「世相講談」(NTV)の頃。左が小池百合子さん

「報道2001」(フジテレビ)

「月刊世相」(5月号)の対談記事

 

 

これだけ手帖

 

「週刊ポスト」

雑誌「ヴァンガード」

2000年に開催された「全国竹村会」新春セミナーの記事