木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 ノックさんのフランクな人柄は、よく知られた所で、私などにも北新地でお目にかかった際に、知事の方からごわざわざ挨拶に見えて、恐縮したことがありました。また、大のマージャン好きで、卓を囲んでいる後輩から「このタコ!」とツッこまれても、笑って許すような人でした。そのフランクな姿勢は、相手が女性ともなると、更に度合いが増すことは周知のことで、事情を知っている人は、この報に接したとき「え!まさかあの人が!」と思わず、私など、否認しないで、「頭ではいけないと思ってはいたのですが、何せ8本ある足の中、言うことを聞かない奴がいて・・・」とでも言えば、裁判官はともかく、府民は大目に見てくれたのではないか」とさえ思いましたが、事態はシリアスに進み、表舞台から身を引いたノックさんは、失意のうちに2007年5月、咽頭がんで亡くなりました。

 思えば私がまだ中学生の頃でした。どうしても「漫画トリオ」を見たくて、父にせがんで、正月に京都花月へ出かけたことがありました。当時のトリオ漫才は楽器を使うのが常だったのですが、テレビで見た「漫画トリオ」は、テンポがよく、「パンパカパーン!パ・パ・パ・パンパカパーン!今週のハイライト」というブリッジと共に、次々に繰り広げられるニュースネタがとても新鮮で、なんとしても実物を見てみたくなったのです。因みに「今週のハイライト」は当時ノックさんが吸っていたタバコの前からつけられたといいます。残念ながら、この日は正月興行にもかかわらず、朝早くということもあって、客の入りがまばらで、私たちの他には4・5人しか入っておらず、とてもやりにくそうでした。それにしても、後年、この京都花月が、まさか自分の最初の赴任地になるとは、想像だにしていませんでした。

 ノックさんは、55年に宝塚新芸座に入り、秋田Aスケ・Bスケさんの弟子となり、秋田Oスケと名乗って、Kスケさんと漫才をしていた時期を経て、関西テレビのプロデューサー・石田正治さんの紹介で、石田さんの父・横山エンタツさんに再入門をします。この石田さんの、奥さんが「吉本のミポリン」こと中山美穂さんで、弟さんが花紀京さんなのです。横山姓を名乗ることになったノックさんは、アウトさんと、KO(ノック・アウト)コンビを組んだのですが、60年に解散をして、横山ノック・フック・パンチによる「漫画トリオ」を結成したのです。ノックさんがボケ、フック(2代目が青芝フック)さんと、弟弟子のパンチ(上岡龍太郎)さんがツッコミという新しい形のトリオ漫才でした。そして、そのノックさんのお弟子さんが、横山やすしさんだったことを考えると、所属事務所(京芸プロ~横山ノック事務所)こそ違ったものの、極めて吉本と縁の深い方だったと言えます。96年に、師匠より早く逝った横山やすしさんが、芸の上で多くの遺産をノックさんから受け継いだのは間違いないと思います。ノックさんは、吹田市の千里会館で行われた、やすしさんの葬儀で、「弟子の中で一番手を焼いたのが君やった。けど、君のためにこんなに人が集まってくれている。君の人徳や。問題があるたびに、親父さんの墓の前でよう考え、言うたら泣いてたな。君のレベルはとっくに僕を追い越していたよ、天下一のやすしきよしの漫才は、漫画トリオをとっくに、追い越していたよ。そっちに行ったら、好きなだけ酒飲んでええ。でも漫才は忘れたらいかん。わしもそっちに行ったら、一緒に漫才をやろ!そして全国の人を笑わしたろ。それまで、天国の人に、余り迷惑をかけたらいかんで!」と弔辞を詠まれたそうですが、今頃は、ネタ合わせの嫌いなやすしさんを相手に、ご苦労をなさっているかもしれませんね。

 ノックさんのお別れ会で弔辞を読まれた上岡龍太郎さんが、ノックさんのことを、「不世出の大ボケ」と褒めつつ、「進駐軍にいたこともあって、英語は使えたけど、カタカナは苦手だった」とおっしゃっていたのは本当で、「ダウンタウン」のことをいつも「ダンタン」と言われていたのを耳にしたことがあります。それにしても、師弟が揃いも揃って、晩年を不遇のうちに過ごさざるを得なかったのは、なんという巡りあわせなのでしょう。

後輩と雀卓を囲むノックさん

 

秋田Oスケ・Kスケの時代

 

横山ノック・アウトの時代

 

タイヘイ・トリオ (楽器を持ったトリオの例)

 

宮川左近ショウ

 

フラワーショウ

 

2007年5月3日 75歳でお亡くなりになりました

 

 

 

別れの言葉を述べる上岡龍太郎さん