99年には大阪を揺るがす出来事がありました。大阪府知事・横山ノックさんの「セクハラ事件」でした。68年に人気漫才の「漫画トリオ」を解散して、参議員を全国区で2期、大阪地方区で2期務めたノックさんは、95年、阪神大震災の後、無党派を旗印に大阪府知事選に立ち当選、議会がオール野党の中、大阪府の赤字解消などに成果を上げました。同じ95年に都知事に選ばれた青島幸男さんが、99年に2期目の出馬を断念せざる状況に追い込まれ、代わって石原慎太郎さんが選ばれた東京と違って、大阪では、2大政党が対立候補の擁立を断念する中、ノックさんは史上最高となる235万票もの支持を得て、2期目の当選を果たしたばかりでした。タレントとしての知名度や、愛されるキャラクターもあって、庶民の人気も高く、唯一の対立候補である共産党の推す大学教授・鰺坂真さんとの戦いを「アジとタコの戦い」と表現し、相手を自らの土俵に引き込んだ見事な戦略の勝利でした。鰺坂さんは「あんた、大丈夫?」と近づいて、まんまと池乃めだかさんの必殺技、「蟹ばさみ」にしてやられたような思いをされたのではないでしょうか。
この現象を目の当たりにして、前年にお目にかかった、CMプランナーの堀井博次さんが雑誌「AERA」の「同志社からの道」というページでお話になっていたのを思い出しました。ちょうど同じ号に私も載せていただいたこともあって印象に残っていたのです。当時はたしか電通関西のクリエイティブ局長をされていて、ピップフジモトや、「きんさん・ぎんさん」を起用したダスキン、関西電気保安協会、キンチョーなど、関西からヒットCMを連発してこられた方で、CMつくりの秘訣を尋ねられ、「今まで広告が取り上げてきた人間って、強い、美しい、健康だといった正の面ばっかりやったんです。僕らがコミュニケーションの回路にするのは、どちらかというと負の面なんです。弱点、欠点、愚かさ、そんなところにスポットを当てて・・・。僕なんか立派な人よりダメな人間の方が好きです。世の中、弱者の方が多いでしょ。強者なんて一握りやし。そういう人らが、CMを見て、そういわれたら、わしらもアホやなとか、もうひとつ情けないなとか感じる。そんな共感性が、CMを届ける場合に橋渡しになってくれるのかと思いますね。」と語っておられたのです。もっとも、私がお目にかかった時は、そんなことはおっしゃらず、「電柱を造ってる会社と間違えて電通に入社してしまった」とおしゃっていました。まさかそんなことがあるわけはないのですが、こうして「私はただの町人でございます」と入って、相手の懐に飛び込むところが、関西人のメンタリティに響くのだろうなと思わされました。この辺り、同じ演芸の世界から政界に転じられた方でも、ノックさんとコロムビア・トップさんとでは、スタンスの取り方が全く違っていましたね。
と、ここまでは良かったのですが、この後ノックさんに「好事魔多し」という諺通りの事件が起きたのです。選挙にかかわった女性運動員から「セクハラ訴訟」を起こされてしまい、本人は頑として否定を続けたものですが、12月13日の民事裁判で、「セクハラ訴訟」としては過去最高額となる罰金刑を受け、更に、同月21日には、地検特捜部から強制わいせつ罪で在宅起訴をされて、辞任する事態に追い込まれてしまったのです。
漫画トリオ
自転車に乗って選挙活動
当選して花束をもらうノックさん
十八番の「タコ」ネタ
「アジとタコの戦い」
FOCUS(99年4月14日号)
こんな記事も・・・
堀井博次さん
レジー・ベネットを起用した「ダダーン ポヨヨンポヨヨン♪♪」
ダスキンのCM
私はこれで辞めました
ノックさんのフランクな人柄は、よく知られた所で、私などにも北新地でお目にかかった際に、知事の方からごわざわざ挨拶に見えて、恐縮したことがありました。また、大のマージャン好きで、卓を囲んでいる後輩から「このタコ!」とツッこまれても、笑って許すような人でした。そのフランクな姿勢は、相手が女性ともなると、更に度合いが増すことは周知のことで、事情を知っている人は、この報に接したとき「え!まさかあの人が!」と思わず、私など、否認しないで、「頭ではいけないと思ってはいたのですが、何せ8本ある足の中、言うことを聞かない奴がいて・・・」とでも言えば、裁判官はともかく、府民は大目に見てくれたのではないか」とさえ思いましたが、事態はシリアスに進み、表舞台から身を引いたノックさんは、失意のうちに2007年5月、咽頭がんで亡くなりました。
思えば私がまだ中学生の頃でした。どうしても「漫画トリオ」を見たくて、父にせがんで、正月に京都花月へ出かけたことがありました。当時のトリオ漫才は楽器を使うのが常だったのですが、テレビで見た「漫画トリオ」は、テンポがよく、「パンパカパーン!パ・パ・パ・パンパカパーン!今週のハイライト」というブリッジと共に、次々に繰り広げられるニュースネタがとても新鮮で、なんとしても実物を見てみたくなったのです。因みに「今週のハイライト」は当時ノックさんが吸っていたタバコの前からつけられたといいます。残念ながら、この日は正月興行にもかかわらず、朝早くということもあって、客の入りがまばらで、私たちの他には4・5人しか入っておらず、とてもやりにくそうでした。それにしても、後年、この京都花月が、まさか自分の最初の赴任地になるとは、想像だにしていませんでした。
ノックさんは、55年に宝塚新芸座に入り、秋田Aスケ・Bスケさんの弟子となり、秋田Oスケと名乗って、Kスケさんと漫才をしていた時期を経て、関西テレビのプロデューサー・石田正治さんの紹介で、石田さんの父・横山エンタツさんに再入門をします。この石田さんの、奥さんが「吉本のミポリン」こと中山美穂さんで、弟さんが花紀京さんなのです。横山姓を名乗ることになったノックさんは、アウトさんと、KO(ノック・アウト)コンビを組んだのですが、60年に解散をして、横山ノック・フック・パンチによる「漫画トリオ」を結成したのです。ノックさんがボケ、フック(2代目が青芝フック)さんと、弟弟子のパンチ(上岡龍太郎)さんがツッコミという新しい形のトリオ漫才でした。そして、そのノックさんのお弟子さんが、横山やすしさんだったことを考えると、所属事務所(京芸プロ~横山ノック事務所)こそ違ったものの、極めて吉本と縁の深い方だったと言えます。96年に、師匠より早く逝った横山やすしさんが、芸の上で多くの遺産をノックさんから受け継いだのは間違いないと思います。ノックさんは、吹田市の千里会館で行われた、やすしさんの葬儀で、「弟子の中で一番手を焼いたのが君やった。けど、君のためにこんなに人が集まってくれている。君の人徳や。問題があるたびに、親父さんの墓の前でよう考え、言うたら泣いてたな。君のレベルはとっくに僕を追い越していたよ、天下一のやすしきよしの漫才は、漫画トリオをとっくに、追い越していたよ。そっちに行ったら、好きなだけ酒飲んでええ。でも漫才は忘れたらいかん。わしもそっちに行ったら、一緒に漫才をやろ!そして全国の人を笑わしたろ。それまで、天国の人に、余り迷惑をかけたらいかんで!」と弔辞を詠まれたそうですが、今頃は、ネタ合わせの嫌いなやすしさんを相手に、ご苦労をなさっているかもしれませんね。
ノックさんのお別れ会で弔辞を読まれた上岡龍太郎さんが、ノックさんのことを、「不世出の大ボケ」と褒めつつ、「進駐軍にいたこともあって、英語は使えたけど、カタカナは苦手だった」とおっしゃっていたのは本当で、「ダウンタウン」のことをいつも「ダンタン」と言われていたのを耳にしたことがあります。それにしても、師弟が揃いも揃って、晩年を不遇のうちに過ごさざるを得なかったのは、なんという巡りあわせなのでしょう。
後輩と雀卓を囲むノックさん
秋田Oスケ・Kスケの時代
横山ノック・アウトの時代
タイヘイ・トリオ (楽器を持ったトリオの例)
宮川左近ショウ
フラワーショウ
2007年5月3日 75歳でお亡くなりになりました
別れの言葉を述べる上岡龍太郎さん
ノックさんが2期目の選挙戦に立った時、東京のマスコミは、「東京では、青島人気が見る影もないのに比べて、ノック氏の方は段違い。彼の府政の悪口は山ほどあるのに、大阪府民は又しても、ボケ役の漫才師を府知事に選びそうなのだ」と評しました。何と、スクエア(四角四面)な発想なのでしょう。彼ら活字人間の頭の中には、「作家なら許せるけど、漫才師ごときが知事になるなんてあり得ない」という旧い発想でしか、ものを見ることができなかったのだと思います。
この辺りの東西の気質の差は、人口の半分を占める、武士の美意識や規律が重視されたタテ型で生きてきた東京と、70万の人口のうち、たった200人しか武士がおらず、町人主導のヨコ型社会に生きてきた大阪の気風の違いから生まれたと言われます。だから、同じコミュニケーションでも、東京では、伝えるメッセージ(伝達内容)を重視するのに対して、大阪では共感を得るために会話をするという、情動的な側面が強く、言葉の発音も、東京は「たてまえ系」の子音を優先し、大阪が「本音系」の母音を優先するのだというのです。それは、イタリア語も同様だといいますから、彼の国と同様、大阪の食べ物が旨く、大阪人がおしゃべりが好きだというのも頷けます。関西育ちの私でさえ、近頃は静かな東京に慣れ、たまに大阪へ帰ると、地下鉄の中での会話する声の大きさに辟易するほど、よくしゃべります。
NHKラジオで、54年から57年にかけて放送された、人気番組「ヤン坊 ニン坊 マー坊の脚本を担当された、東京育ちの劇作家・飯沢匡さんも、「大阪の喜劇が東京を圧している秘密が言葉にある」とされ、「もし自分が独裁者であったら、首都は大阪に遷して、標準語は関西アクセントにしてしまうだろう」と書かれています。
哲学者の西田幾太郎先生が、「論文の優れている人と、談話の面白い人とがいる場面、どちらが知的に優れているのか?」と訊かれた時、「それは、話のうまい人の方が上です」と答えられたというエピソードがありますが、「立派」や「偉い」ということより、「面白い」の方にプライオリティを置くのが大阪なのです。
大阪の奇才、中島らもさんの友人がラーメン屋に入った時、「おばちゃん!このラーメン、虫入っとるがな!」とクレームを付けたら、「ええ若い者が、好き嫌い言うて、どうすんねん!」と逆に叱られたといいます。さらにこのあと、料金を払う段になって、「なんぼ?」と訊ね、「400万円」と返されて、「安いなあ!ツケにしといて」と去って行く振りをしなければならないのが、大阪人のマナーなのです。
いつだったか、東京から私の事務所を訪ねて来られた方が、「これ、つまらないものですが」と手土産の品を出された際に、「つまらないものなら、持って帰って!」と返すと、しばらくフリーズされていて、困惑したことがありました。大阪の人間なら、きっと、いったん帰る振りをしてくれたと思いますが、東京の人間には、少し要求水準が高すぎたのかな?と反省した覚えがあります。
南森町に「オットー」いう靴店がありました。それなりに流行ってはいたのですが、次第に客が減り、「もうあかん、やめます!」と垂れ幕に書いたところ、客が増え、「いや、やっぱりやります!どっちやねんセール」というのを始めたところ、マスコミにも取り上げられ、一躍「大阪名物」の店となった例もあります。東京なら、単に店の前に「倒産セール」と書いておけば済むのですが、大阪では、それだけでは済まされないのです。
「今年こそ」で始まり、「今年もか」で終わる阪神タイガースも、なまじ優勝などをせず、サラリーマンから「俺もあかんけど、阪神はもっとあかん!」と言う存在でなくてはならないのです。
ノックさんは、訴訟をされた際「真っ赤なウソ!」などと、真っ向から否定してはならなかったのです。そんな政治家の中にも、塩川正十郎さんのように、大阪ならではのスキルに長けた方がいらっしゃいました。大阪4区から衆議院選に立ち、議員を11期務められ、皆から親しみを込めて、「塩爺」という愛称で呼ばれていた方です。私も何度かお目にかかり、お人柄に触れてはいましたが、数々の要職をつとめられたたこの方が、2001年に、79歳で小泉政権の財務大臣に就かれた際、予算委員会などで、いくら野党から厳しい質問が飛んでも、「何だったかなあ?」「もう忘れてしもうた?」と、ボケたふりをして翻弄し、政権を守られたのは、まさに大阪人らしい、名人芸と呼ぶに相応しい技であったのではないでしょうか。
大阪弁用例①
大阪弁用例②
神事にも「笑」が求められます
トイレにもホスピタリティが
化石にも大阪弁が
でも性格はいいのです
大阪のおばちゃん
飯沢匡さん
左から、黒柳徹子さん(トン坊)、里見京子さん(ヤン坊)、横山道代さん(ニン坊)
中島らもさん
新聞の見出しまで・・・
塩川正十郎さんとツーショット
大阪弁を駆使した方と言えば、竹村健一さんもそのおひとりでした。竹村さんは、カナダ出身の英文学者で文明評論家、マーシャル・マクルーハンを日本に紹介した方で、私も竹村さんの著作を通じて、「メディアはメッセージである」や「ホットとクールなメディアの分類」などという彼の説に触れてはいました。この後「モーレツからビューティフルへ」などという流行語と共に世に出て、テレビでは78年~85年まで、同じ関西生まれの小池百合子さんをアシスタントにした、「世相講談」(NTV)の司会をされ、79年~92年に司会をされた「世相を斬る」が終わった後、92年からは「報道2001」のご意見番(共にフジテレビ)をされていました。ラジオでは「ずばりジャーナル」(ニッポン放送)や「世相ホットライン」(文化放送)などのレギュラー番組を持っておられ、「大体やね」や「ブッシュさんはね」など関西風の話し言葉を強調したしゃべり方や、パイプをくわえた独特な風貌から放たれる辛辣なトークや評論は、初期のタモリさんが、ネタに取り上げるほど、広く知られる存在になっていました。
また、81年には著作を年に36冊も出版されるなど、出版にも注力され、自身が経営する太陽企画出版社から、電波活動を活字化し、マスコミに出ないニュースと視点を紹介する「月刊世相」を出されていました。
そんな竹村さんから「世相ホットライン」への出演のオファーがあったのは、99年の3月8日のことでした。まだ、竹村さんが大阪で追手門大学の教授をされていた頃、「ヤングおー!おー!」にゲストで出られたことがあり、その時にチラッとお見かけはしたことがあったとは思うのですが、こちらは何せペーペーの身、ご挨拶する機会もなく、ただ遠目に眺めただけのことでした。テレビでの、やや傲慢にも見える姿に、怯む思いもあったのですが、「多分それも、関西人特有のサービス精神からくるパフォーマンスで、きっとデリカシーにあふれた人なのだろうなという読みもありました。その予感通り、竹村さんの好リードもあって、気持ちよく番組を終えることが出来ました。
次にお呼びが掛かったの4月9日でした。東京の帝国ホテル内にある氏の事務所を訪ね、「月刊世相」の5月号に載せる竹村さんとの対談をさせていただきました。「こんなところに事務所を構えるなんて、コストがかかるだろうな?」と室内を眺めていると、帰り際に、太陽企画出版から出されている「これだけ手帳」をお土産にいただきました。私も、CMでパイプ片手に「電話の長いヤツ、資料を持ち過ぎのヤツ、この2種類が一番仕事できまへんな。私なんかコレだけですよ。コレだけ!」と竹村さんが話されているのを見ていて、「これが、あの手帳か!」と喜びながら部屋を出たのですが、よく見ると頂いた手帳は、前年のものだったのです。思わず西川のりおさんのギャグのように「せっしょでっせ!」と叫びたいのをぐっと我慢して帰途に就きました。それにしてもこの手帳、たしか1部が1,000円くらいしたとは思うのですが、「1万部で? 10万部で?」と考えると、帝国ホテルに事務所を構えることなど容易なことだったのかもしれません。竹村さんとはこの他にも、「週刊ポスト」や雑誌「ヴァンガード」などでも対談をさせていただいたと思います。
この後、2000年1月18日には、主宰されている「全国竹村会」に講師としてお招きをいただきました。1泊2日に亘る大きなイベントで、確か350人くらいの方が来られていたと思います。著名な政治家や経済人が次々に登壇されるプログラムで、私に与えられたのはトップバッター、寄席に例えて言うと、席を温める前座のような役割でした。さすがに出番の時、次の講師に「兄さん、お先に」とは声を掛けませんでしたが、それにしても、今思えば、「会費が○○万円で、×350人とすると・・・」などと考えていた当時の私は、何と器の小さな人間であったのでしょう。
マーシャル・マクルーハン「メディア論」より
「メディアはメッセージである」
「世相講談」(NTV)の頃。左が小池百合子さん
「報道2001」(フジテレビ)
「月刊世相」(5月号)の対談記事
これだけ手帖
「週刊ポスト」
雑誌「ヴァンガード」
2000年に開催された「全国竹村会」新春セミナーの記事
そんな中、遅れがちだった著作出版の件も、9月初旬には、サブタイトルに「〜吉本興業・感動産業への道~」と入れることも決まり、ほぼ概略が固まっていきました。「感動産業」という言葉は岡山市の萩原市長から伺って以来、ずっと私の頭に残っていたのです。「笑いの経済学」という無機質な言葉に、「エンターテインメント」という外来語や、妙法蓮華経にある「娯楽」という仏教由来の言葉ではなく、自分たちが目指すべき志を新しい言葉で示してみたかったのです。「感動」は感じることは、即ち動くことで、「感即動」とも言います。でないと、行動が鈍るということでもあるのです。
振り返ってみれば、この時期の私には、この年の内に、これまでの社会人としての人生を一旦ここで総括をして、来る2000年に備えたいという心理が働いていたのです。「呼吸」という言葉があるように、息を「吸う」ためには、吐く(呼)という行為が、まず先に来なければならなかったのですね。
11月9日には、集英社からのオファーで、新刊告知のため、2000年1月号の「青春と読書」で、コピーライターでプランナーでもある糸井重里さんとの対談を行いました。たしか場所は、キャピタル東急ホテルだったと思います。糸井さんとは、横山やすしさんが嘗て司会を務めていた、テレビ朝日の「ザ・テレビ演芸」で審査員としてお見えになっていた頃にお目にかかったことはあったのですが、お話をさせていただくのは、この時が初めてでした。
1月23日発行と記された「笑いの経済学」は、新書第2シリーズとして14冊と共に、それより5日早く、私が帝国ホテルで「全国竹村会」の講演を行った18日に発売され、集英社のブランド力もあって、4刷まで版を重ねることになりました。ただ、このシリーズのNo.11が私の本で、No.12がベストセラーにもなった、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突と21世紀の日本」というのは、一体どういうことなのでしょう?もしかしたら、何かの嫌がらせかと思うくらいの、並べ方でしたね。
そういえば、編集工学のオーソリティでもある、松岡正剛さんの「千夜千冊」という書評にも取り上げていただいたのは、とても光栄なことではあるのですが、1123夜に取り上げられた私の前回が、アンディ・ウォーホルの「僕の哲学」で、後が、ラリイ・マキャフリイの「アヴァン・ポップ」だったのにも驚きました。どうやら私の本は、どこまでいっても箸休めのような、ホッと一息つけるような存在であったのかもしれません。
それにしても、1冊の本をほぼ1年かけて、汲々としながらようやく仕上げた私にとって、通算300冊以上の著作をものにされている竹村健一さんという人は、驚異的な方でした。若干の好奇心もあって、「一体どうやって、あれだけの本を出されているのですか?」と尋ねると、「それは自分で書いてへんからや」とおっしゃったのです。「えっ!じゃあ、誰か他の人が書いたの?」と思ったのですが、よく聞くと、自分が話したことを口術筆記して、テープ起こしをしたものを、本人がチェックをするということらしいのです。これは「テーキング・ディクテーション」と言い、タイプライターを使ってきた欧米では、著名な社会生態学者・ピーター・ドラッカー始め、旧来からポピュラーに使われていた手法なのだといいます。「さすが、フルブライト奨学生の第一号として、アメリカのシラキュース大学やイエール大学、フランスのソルボンヌ大学に留学されただけのことはあるなあ」と、妙な所で感心をしたのを憶えています。口述をすることによって、読みやすい文章表現になり、生産性も上がるというわけです。もちろん、それに耐えるだけの知識や見識と、その本を読みたいというニーズがないと、成立しないことは言うまでもありませんが、もしこれが、東京の人なら、こうもあっけらかんと、「自分で書いてへんからや!」とはおっしゃらなかったと思いますね。アイデアの出所がご本人である限り、著作権はその人に帰属をするのですから。
糸井重里さんとの対談
嫌がらせかと思うくらいの並べ方
松岡正剛さん
松岡正剛さんの千夜千冊に取り上げていただきましたが・・・
私の前回が、アンディ・ウォーホルの「僕の哲学」で、
後が、ラリイ・マキャフリイの「アヴァン・ポップ」でした。
NYマンハッタンには肖像画を描いたビルが今もあります
著作権という言葉で思い出しました。たしか、95年11月23日のことでした。場所は東京のホテル・ニューオータニ。お会いしたのは、秋山道男さんという方で、「スコブルコンプレックス會社」という、何やら、ややこしい名前の会社を主宰されていました。尾中さんから聞いていたお仕事も、編集者やプロデューサー、クリエイティブディレクター、装丁家、俳優、作詞家、作曲家と、まるで子供の頃に映画で見た、片岡千恵蔵さんが演じる「七つの顔を持つ名探偵・多羅尾伴内」のように、実に多才な方で、さてどこに接点があるのか?と悩みながら、お目にかかったような気がしています。
余談になりますが、この「多羅尾伴内」という映画の主人公は、どこから見ても片岡千恵蔵さんの顔なのに、「ある時は多羅尾伴内、ある時は片目の運転手、またある時は(荒唐無稽にも)インドの魔術師・・・」などと言いながら、「しかして、その実体は、正義と真実の使徒・藤村大造だ!」と正体を明かして、驚く悪漢たちを退治するのが、お決まりのパターンの映画だったのです。当時子供であった私でさえ、「皆が同じ人物だと気がついているのに、どうして、悪漢どもは気が付かないのか?」と不思議な思いを抱えながら見ていた記憶があります。もっとも、そうでなければ、ドラマにはならないという事情もあったのでしょう。思えば、GHQの「チャンバラ時代劇禁止令」によって、苦肉の策として編み出された、「ピストル時代劇」とでもいえる、この頃の手法が、後の「水戸黄門」や「遠山の金さん」、「暴れん坊将軍」、「長七郎天下ご免」などに引き継がれていることを見ると、これが東映映画の伝統的な手法なのかもしれません。
話が逸れました。秋山さんを紹介していただいたのは、たしか、「オフィス100%」の尾中さんだったと思います。「面白い方がいらっしゃるので、会ってみますか?」と、軽い言葉でお誘いを受け、好奇心に誘われて、「ぜひ!」とお願いしたように思います。今なら検索をすれば、秋山さんが、どんな人かを知ることが出来るのですが、当時はまだそんな術もなく、秋山さんが、「スコブル」という社名を、宮武外骨が刊行していた雑誌からとったことや、79年に西友の広報誌編集長として、子供向けのパンク雑誌「熱中なんでもブック」を刊行し、当時のスタッフに、林真理子さんや、中野翠さんがいたこと、80年に、青春出版の新雑誌「BIG tomorrow」にブレーンとして参加されたこと、83年に「無印良品」全般のプロデュースをして一躍人気商品にされたこと、同年からチェッカーズの総合プロデュースを行い、バンドのコンセプト、本の企画編集、映画のシノプシスなどを考え、人気バンドに育てたこと、85年に毎日新聞と共同編集で雑誌「活人」を立ち上げ、創刊号の表紙を小泉今日子さんの裸の全身黒塗り写真にして、読者の度肝を抜いたスーパー・エディターであることを知ったのは、お会いしてからしばらく後のことでした。どんなお話をしたか明確には覚えてはいないのですが、初対面のこの日は確たるテーマがあったわけでもなく漠然とした話に終始したように思います。
それから暫くして、尾中さんを通じて、吉本のミッションを、「( e )と表現してみては?」というご提案をいただいたのです。当時はこれを聞いて、「 e はエンターテインメントの e だし、( )をつければ、カッコイーとも読めるからいいな」と、早速サービスマークとして商標登録をすることにしたのです。ただ、その後はこのマークを使用する機会もなく、総務からは登録費用の件でやや冷たい目で見られていた時に、ペナルティを犯した業者が現れ、要した費用以上のものを回収することは出来たのですが、今にして思えば、( e )の e は、「拡大・縮小しても形が変わらない」「原点と螺旋を結ぶ線分と、その接線の角度は常に一定である」という、ネイピア数の e だったのかもしれません。文系の私などには、到底及びもつかない発想でした。
秋山道男さん
Big tomorrow 創刊号
チェッカーズ
活人 創刊号
ネイピア数を示したTシャツ
話を戻します。明けて2000年、4月1日の岡山3丁目劇場のオープンに続いて、27日には東京本社設立記念パーティが、ホテルオークラの平安の間で開かれました。冒頭の挨拶を林社長がされ、次いで乾杯を東京本社代表に就かれた、横澤専務がなさったと思います。たしか、締めの挨拶が急遽私に振られて、パーティ開始時に比べて半減して、まばらになったゲストの方々を前に、「ここまで残っていただいた方が、本当に支援をしていただける方だと思います。大阪はこれからも、可能性を秘めたタレントを、精一杯、東京へ送り続けますので、なにとぞ東京本社をよろしくお願いします。」と話をしたように思います。
いつまでも会場にいて、食べ物や、飲み物がなくなるまで残っている人が多い大阪と違って、東京ではパーティの数も多いこともあってか、さっと来て、会場を一巡して挨拶を交わし、義理を果たした後は、「あの人ヒマなの?」と思われるのが嫌なのか?早々に立ち去るというのが、ある種マナーのようになっているようなところがありました。パーティが終わった後、共に御夫人を伴われていた、中邨会長や林社長と別れ、疲れを癒すために、横澤さんとお茶を飲みに寄った、ダイニングカフェ「カメリア」では、そこかしこに、パーティに来られていた方々の顔を見受けることが出来ました。
次いで7月14日には、東海支社のパーティが、名古屋のヒルトンホテルで催されました。こちらは新たに支社長になった佐敷慎次君のスピーチだけで、終わった後、既に当時、東京で現場を仕切っていた大崎洋君と共に、地元局CBCの羽雁さんや服部さんのお誘いで、今池にあるオリジナル中国料理の「ピカイチ」へ出向きました。店内に選手のユニフォームやパネル、グッズなどが所狭しと飾られ、まるでミュージアムのような店でした。別名、「ドラゴンズファンの聖地」とも呼ばれる店なのですが、その内観に見とれるあまり、いったい何を食べたのかは、全く覚えていませんね。ともかくこれで、東西二本社、東海支社、札幌、福岡、岡山事務所と、全国に吉本の拠点が揃うことになったのです。
最初、99年7月に、林新社長が「東京本社構想」を打ち出された時は、新聞報道で初めてそれを知った大阪本社の社員の中に動揺が起こりました。理屈では理解できたものの、これからは東京が主導して、大阪が下請け化してしまうのではないかという懸念があったのだと思います。そのため9月5日、日曜日を割いて、主だったメンバー17人を相手に、9時間半に亘るミーティングを行ったほどです。既に売り上げは東京が60%に対して大阪は40%と逆転しています。テレビの製作費も東西間では4対1か、5対1くらいの開きがあり、さらに今後、情報発信機能の東京一極集中化が進むこと等を考えると、我が社の東京へのシフトが加速するのは当然のことだろう」と概ね皆に説明したとは思うのですが、それなら、「いったい、大阪は何をすべきなのか?」「モチベーションを下げないで、皆が頑張るにはどこを目指せばいいのか?」を考えるのが、自分のこれからの務めなのかなと思うようになりました。東京本社のパーティ会場で、「可能性を秘めたタレントを、精一杯東京へ送り続ける」とスピーチしたのは、その決意表明でもあったのだと思います。
林社長
佐敷慎次君
ホテルオークラの「カメリア」
名古屋の「ピカイチ」
試合のある時は店内がこんな風に
レジの上にはスコアボードまで掲げられています
その一方で、発売を開始した「笑いの経済学」の影響もあってか、この2000年は、今までにない経験をさせていただく年でもありました。
明けて1月6日には、経済企画庁で堺屋太一長官、萩原誠司岡山市長と鼎談、そして2月1日には、笹山幸俊神戸市長とSUN TV「時代を読む」という番組で対談番組を収録して、阪神淡路大震災からの復興への取り組みなどを伺いました。
次いで2月7日には、フジテレビの「平成日本のよふけ」という番組の収録に付き合うことになりました。それまでに歴代の総理や、日本マクドナルドの藤田田さん、元日本テレビの井原高忠さん、大橋巨泉さんなど、錚々たるゲストが出ておられる番組だと知っていれば、お断りをしたのですが、「ひょうきん族」や「「夢で逢えたら」でお世話になっていた吉田正樹CPからの依頼で、「旧知の鶴瓶さんが司会をされている深夜番組」と聞いて「それなら」と気安く引き受けてしまったのです。
番組は、あるテーマに沿ったゲスト3人の写真パネルが提示され、そのうちの1人が登場して、番組キャラクターの「赤さん」の紹介によって登場して、司会の鶴瓶さんと香取慎吾さんからインタビューを受けるというものです。私の場合は、「スーパーサラリーマン」というくくりで、ダミー役に使われたのが、アサヒビール会長の瀬戸雄三さんと、イトーヨーカ堂社長の鈴木敏文さんですから酷いキャスティングです。司会のお二人は、誰が来るのか知らないということにはなっていましたが、そんなわけはありませんよね。絶妙な鶴瓶さんのお陰で、無事に番組は終えることが出来たのですが、当時の私には、共に司会をされていた香取慎吾さんに対する認識がそれほどなく、家に帰ってから娘に話すと、「なんで、サインをもらって来なかったの!」と、きつく責められ、1週間ほど口をきいてもらえなかったことがありました。
2月22日には松下電器の方と食事を共にしています。宣伝事業部を担当されていた林宏さんと、平原重信さん。お二人とも肩書は部長さんだったと思いますが、林さんから平原さんが「島耕作のモデルになった人」だと紹介された記憶があります。ご本人は否定されて、真偽のほどは不明なのですが、島耕作に擬せられるほどに、魅力的な人であったということだと得心をした記憶があります。
2月29日には、文化放送の「吉田照美のやる気マンマン」に生出演、3月に入って、3日と6日には、表参道にあった中谷彰宏さんの事務所を訪れました。ダイヤモンド出版から共著を出すため、打ち合わせをすべく、都合4時間ほど中谷さんのオフィスにお邪魔して、会話を交わしていたのですが、「これで一冊の本が出来た」とおっしゃったのです。その手際の良さに感心すると同時に、竹村さん以上の数で本を出されている秘訣の一端を窺えたような気がしました。
中谷さんはとても多才な方で、中学時代からABCやOBCに学生DJとして出演され、高校在学中に朝日歌壇に入選、早稲田大学第一文学部では演劇を専攻し、4年間で4000本の映画を見られたといいます。その後、博報堂へ入り、8年間CMプランナーとして活躍された後、独立をされ、ベストセラーになった就職手引書「面接の達人」(略称メンタツ)シリーズをはじめ、小説・エッセイ・実用書などを手掛ける一方、オスカー・プロモーションに所属して、テレビ朝日の「OHエルクラブ」の司会や、フジテレビの「笑っていいとも」の他、テレビドラマや映画にも出演されていました。なぜか対談をしていた部屋が鏡張りになっていて、「ここはラブホテルか?」」と怪訝に思っていたのですが、対談中、中谷さんの視線がしきりに鏡に向かうのを見て、妙に納得をした覚えがあります。私には縁のないことですが、「いい男」というのは、いつも自分が「いい男」であることを確認しておかなければならないようなのです。対談そのものは、中谷さんも大阪(堺市)のお生まれということもあって、スムーズに運びました。そうして、できあがったのが「アホになれる人が成功する」(ダイヤモンド出版)という本だったのです。
笹山幸俊さん 神戸市長を3期12年務められました
被災地を訪れる笹山市長
番組キャラクター「赤さん」
平原重信さんと部長 島耕作
3月23日には、読売新聞広告局の企画で、楽天の三木谷浩史さんと対談をしました。三木谷さんは神戸のお生まれで、一橋大学を出られたあと日本興業銀行に入社、ハーバード大学でMBAを取得されて、退社されたのは95年のことでした。お目にかかったのは、三木谷さんが97年4月に、日本最初のサイバーモール「楽天市場」の運営を始められて、まだ間もない時期で、対談記事は集英社が読売新聞朝刊に載せる、新書発売の広告紙面に掲載されるものでした。場所はたしか、ホテル・ニューオータニで、夜の9時から90分ほどの対談だったと思います。お話を伺っていて、とてもクレバーな方だという印象は受けましたが、後年、三木谷さんがこれほどの活躍をされるとは、まだ思ってもいませんでした。
翌24日は、早朝6時にニッポン放送に入り、6時から8時半までの「高嶋ひでたけのお早よう!中年探偵団」に出た後、トーメンさんや、セントラルスポーツさんと打ち合わせをして帰阪、大阪本社で所用をすませ、夜は、平尾誠二さんや玉木正之さんと共に、和泉修君の出るスポーツ・トークライブに出かけました。
26日はNGKのイベントに付き合った後、翌朝7時半から8時55分までの生放送の「報道2001」に出るため東京へ移動しました。さしたる打ち合わせもなく番組は始まったのですが、毎週この番組を見ていて、フォーマットが解っていたのと、ご意見番に竹村健一さんがいらっしゃった安心感もあって、無事に出演を終えることが出来ました。
31日は、朝から、いくよ・くるよさんがパーソナリティーを務める、KBSラジオの「はりきりフライデー」に出た後、烏丸長刀鉾町に本社のある、ワタベウエディングの渡部隆夫社長にお会いしました。といっても、私が結婚式を挙げるためではなく、ちょっとしたお願い事があってのことでした。夜は翌日の劇場オープンに備えて岡山入り。
4月12日は文部省での講演。実は2月に、義本博司さんという方からオファーを受けていて、同じ「ヨシモトつながり」ということでOKを出してはいたのですが、子供の頃に母親から「そんなに勉強しなかったら、大きくなってサーカスか吉本しか行かれへんよ!」と叱られて育った人間が、「果たして文部省で講演などをして、いいのだろうか?」という思いは拭えませんでした。慣れぬ場所での講演とあって、いささか緊張気味だった私の心中を察して、気分を解していただいたのは、当時大臣官房政策課長を務められていた寺脇研さんでした。およそ官僚らしくないフランクな口調で語りかけていただき、そのおかげもあって、無事に講演を終えることが出来ました。
寺脇さんは、ラサール中学を首席合格され(因みに同級生に池畑慎之介・ピーターさんがおられたそうです)、その後進んだラサール高校では、250人中の230番台の成績でありながら、なぜか卒業生総代に選ばれ、「中学から入った生徒は卒業時120人になった。成績の悪い生徒を追放して実績を取る。それでもこの学校を素晴らしいと言えるのか」とスピーチして同級生から喝采を浴び、地元紙に「造反答辞」と報じられたというエピソードがあるそうです。その後、東大の法学部に現役で合格をして、キャリアとして文部省に入省。92年、初等・中等教育課長時に、「ゆとり教育」、「脱・偏差値」、「週5日制」などを推進して、マスコミの前面に出る機会が増え、「ミスター文部省」と呼ばれた方だと知ったのは、お目にかかった後のことでした。おこがましい言い方をすると、どこかで私は、この方のお人柄に、シンパシーを感じていたのかもしれません。寺脇さんはその後、退官をされて、今は、京都造形芸術大学の教授や、映画評論家として活躍をされています。そうそう、私を最初に誘っていただいた義本博司さんは、2001年1月の中央省庁再編に伴い、科学技術庁と統合し、改称された文部科学省で、高等教育局長を務められていると聞いています。
三木谷浩史さん
パーソナリティの高嶋秀武さん
報道2001のスタジオ風景
はりきりフライデーのいくよ・くるよさん「なんでラジオなのに衣装着てるの?」
渡部隆夫 社長(当時)
寺脇研さん
4月17日には、2月17日に出させていただいた「平成日本のよふけ」スペシャル版に出させていただきました。場所は元赤坂2丁目にある明治記念館、憲法記念館の跡らしく、歴史を感じさせる重厚な建物ではあるのですが、あいにくこの日は、屋外の庭園での収録だったのです。夏場には「庭園ビアテラス鶺鴒(せきれい)」として開放されるこの庭も、曇り空ということもあってかこの日はまだ肌寒く、ついに我慢していた尿意に抗しきれなくなり、本番中であるにもかかわらず、「すいません!」と声を掛けて、トイレへスタスタと走る羽目になってしまいました。解放感に浸りながら、一人で気持ちよく放尿していると、いつの間にか音がダブって聞こえるようになったのです。怪訝に思ってふと横を見ると、いつの間にか、同じ出演者の日下公人さんが、トイレでも共演をされていたのです。小田原城攻めの終盤に、秀吉が家康を誘って連れションをして、関東移封を話したことで知られる「関東の連れション」ではありませんが、「良かった、抜けたのは自分だけではなかった」と安堵したのを覚えています。
5月11日には、新喜劇公演のために、モスクワ経由でロンドンへ向かいました。この公演は、ロンドン大学を出て吉本に中途入社した、澤昌平君の発案で、彼のお兄さんが当時ロンドンにいて、95年に彼の地で設立された映像会社「キメラフィルムスUK」の社長・手塚義治さんと交友があったことから、便宜的にキメラ社の中に「お笑い課」なる窓口を置いていただくことが出来たのです。新喜劇公演自体は15・16の両日とも、夜7時半から行う2公演のみだったのですが、私が公演より早くロンドンに向かったのは、プレイベントの一環として、12日にホアレ・メモリアル・ホールで夜の7時から行う講演会のためでした。さらに15・16の両日には午後1時15分から、ICAシネマで河内家菊水丸さんのミニライブと、映画「無問題」と「ナビィの恋」の何れかを、日を分けて上映するというのですから、もうゲップの出そうな、吉本色満載のメニューでしたね。
新喜劇の公演は、ロンドンの中心部、ウェストミンスター寺院の真ん前にあるウェストミンスター・セントラル・ホールで行われたのですが、開演の1時間半前には既に100人程の列ができていました。トミーズの漫才、ジョニー広瀬さんのマジックに続いて、いよいよ新喜劇。間寛平、池乃めだか、島木譲二、内場勝則、辻本茂雄、藤井隆、末成由美、島田珠代といったメンバーの繰り出すギャグに、場内は爆笑の渦に包まれ、ロンドン在住の方が「こんなにたくさんの日本人見たの、初めて!」とおっしゃったほどの盛況を博しました。
私は16日の公演を見ることなく、18日の12時からサウスタワーホテルで行う、大助花子劇団の記者会見に出るため、一行と離れて夜の便でヒースロー空港へ向かいました。ロンドン公演に続いて行われた、ニューヨーク公演には林社長に出ていただき、ロンドンまで迎えに来てくれていたチャーリー小林さんに、「ニューヨーク公演をよろしく」と後事を託したのを覚えています。
そうそう、実はこの後、明治記念館で連れションをした日下さんからお電話をいただき、31日に、日比谷セントラルビルの10階で開かれた「野外日下スクール」という番組で対談をさせていただくことが出来たのです。日下公人さんは東大経済学部を出られた後、日本長期信用銀行の役員を経て、社団法人ソフト化経済センターの理事長をされる一方、多摩大学の大学院教授を務め、多くの自著や、竹村健一、渡部昇一、長谷川慶太郎、堀紘一、谷沢永一といった方々との共著も出されて、「未来を見通す慧眼」とも称された方でした。私も以前から「ソフト経済学」など、何冊を読ませていただいていたこともあって、まさか、自分が、そんな方とご一緒できるとは思ってもいませんでした。まさにこれこそ、「連れション効果」という他ありませんね。
明治記念館の入口
オフシーズンの庭
庭園ビアテラス鶺鴒(せきれい)
新宿区と港区の境界線にありました
関東連れション
秀吉と家康の連れション
澤昌平君(現・AOI Asia Thailand 代表取締役)
キメラフィルムスUK 社長・手塚義治さんの著書
ウェストミンスター寺院
日下公人さん
TBSブリタニカ社