木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 9月20日には、川崎宗夫さんと共に、長らく上方漫才や喜劇界をリードされてきた関西を代表するコメディエンヌ・ミヤコ蝶々さんを箕面市桜ケ丘のご自宅に訪ねました。

 42年、蝶々さんは、林正之助さんのスカウトによって吉本に入って活動していたことがあったのです。林さんの心中には、蝶々さんをライバル会社に引き抜かれたミスワカナさんの後釜に育てたいという思いがあったようで、46年の10月ワカナさんが急死後、ワカナさんの元相棒・玉松一郎さんとコンビを組ませたのですが、ことはうまく運ばず、そのあと吉本が演芸興行から手を引いたことなどもあって、蝶々さんは吉本を離れ、南都雄二さんと共に活動の中心を名古屋に移していたのです。

 蝶々さんのチャンスが開けたのは53年4月、秋田實さんに誘われて、宝塚新芸座のちょんまげ喜劇「春霞さくら街道」で初舞台を踏んだ時なのです。宝塚歌劇団の生みの親で、東宝の設立者でもある阪急電鉄の小林一三さんが、蝶々さんの演技を見て、「おい、こんなうまい女優がおったんか!今までどこにおったんや」と感心されたといいます。49年志摩八郎さんを中心に、秋田實さん指導のもと、秋田Aスケ・Bスケ、ミスワカサ・島ひろし、夢路いとし・喜味こいしさんら、地方巡業で生計を立てていた若手漫才を中心に結成された「MZ研進会」を発展的に解消して、51年から「宝塚新芸座」という新しい舞台で、「新しい笑い」を生みだすことになるのです。

 蝶々・雄二さんは瞬く間に中心メンバーになりました。ちょうどこの頃、1月に行った新芸座公演「漫才学校」をラジオ番組化できないかと考えた人がいました。阪急電鉄宣伝課長(後のコマ・スタジアム社長)の伊藤邦輔さんです。漫才学校は漫才師たちが相方を変えながら掛け合いをしてストーリーを展開するバラエティショーで、当初映画のアトラクションとして上演されたのですが、51年1月の新芸座公演が大当たりして、3月には東京の帝国劇場にも進出する成果を上げていた作品でした。企画を持ち込まれた朝日放送の松本昇三プロデューサーは、ミスワカサさんが主演の「お笑い太閤記」が不評だったこともあり、翌54年1月から土曜の午後7時20分から30分のレギュラー番組として放送することを決めたのですが、空前の聴取率57.5%を稼ぎ、この年ABCが在阪局トップに躍り出るきっかけを作るほどの人気番組になったのです。サラリーマンコントに仕立てた舞台とは異なり、ラジオでは学校を舞台として校長に蝶々さん、用務員に雄二さん。生徒には、いとし・こいし、Aスケ・Bスケ、笑福亭松之助、宝塚出身の千城いづるというメンバーでした。そして7回目の放送から加わったのが当時ABC専属だった森光子さんだったのです。番組そのものは好評だったのですが、小林さんと秋田さんの目指す方向性の違いもあり、袂を分かった56年5月、スポンサーの阪急電鉄が降りたこともあって、2年4ヶ月で幕を閉じることになったのです。

 思えば、マンザイの頭文字から取った「MZ研修会」というネーミングや、「相方を替えて掛け合いをすれば、新しい笑いが生まれるのではないか」と、従来の漫才の型を打ち破るバラエティショーを企画した「漫才学校」は、80年代の「THE MANZAI」や「オレたちひょうきん族」の登場を予見させるほどの、革新的な試みであったのかもしれません。

 とは言え、「漫才学校」で世に出た蝶々・雄二さんは、55年6月から始まった「夫婦善哉」で、さらにその人気を不動のものにしていくのです。二人の卓抜した話芸で、夫婦の喜怒哀楽を聞き出すこの番組は、その後に生まれた「おもろい夫婦」や「新婚さんいらっしゃい」の先駆けとなりました。ラジオでの放送は71年3月に終わりましたが、63年から始まったテレビ放送の方は、73年に雄二さんが亡くなられてからも蝶々さん一人で続け、75年9月まで高視聴率を稼いだのです。

 蝶々さんは、雄二さんの死後もソロの女優としても活動され、「男はつらいよ」など、映画やテレビ番組への出演の傍ら、劇団を立ち上げ、道頓堀の中座で、21年間に亘って定期公演をされるなど活躍をされていました。ただ、晩年は体調不良のために入退院を繰り返されるようにもなり、96年に自作自演の芝居「雪のぬくもり」で、持病の腎盂炎と戦いながら、大阪・京都・名古屋で9カ月、計150回にわたる舞台を懸命に務められた姿は、97年1月12日にNHKスペシャル「ミヤコ蝶々 76歳の勝負」として放送され、観ていた多くの人の心を打ちました。

 私もその番組を観て、何としても、「かつてご縁のあった吉本の舞台にお立ち頂けませんか!」とお願いをしてみたかったのです。静かにベッドに横たわり、少し角度を斜めに上げたまま、じっくりと話を聞いていただいた蝶々さんでしたが、この翌年、10月12日にお亡くなりになりました、享年80歳。残念ながら、ご出演していただくことは叶いませんでしたが、今でもあの時にお目にかかれて、本当に良かったと思っています。森光子さんは、「漫才学校」の終了後もABC制作の喜劇で活躍をされ、3年後に芸術座からの声掛かりで東京へ進出され、大女優への道を歩み始められました。

 

 

ミス・ワカナ 玉松一郎さん

 

 

ワカナ・一郎さん レコード

 

志摩八郎さん レコード

 

小林一三さん

 

秋田實さん

 

 

 

南都雄二さんと司会をした「夫婦善哉」

 

60%近い聴取率を記録した「漫才学校」。

左から、千城いづるさん、Bスケさん、こいしさん、雄二さん、蝶々さん、いとしさん、Aスケさん、松之助さん、森光子さん

 

ラジオ時代の「夫婦善哉」

 

 

電動イスで階段を移動していても元気な姿で舞台をつとめた蝶々さん

 

お訪ねしたご自宅は、その後、記念館になりました

 

菊田一夫さんに見出され、大女優への道を歩みはじめた森光子さん