新社長となった林さんは、7月26日、平戸取締役を司会に始められた経営会議の席で、東京での事業拡大と、スポーツ事業や音楽部門へのチャレンジなどを打ち出し、9月27日の役員会で、2000年4月に東京支社を東京本社として東西2本社制にすることや、創業88周年パーティを兼ねて、新社長就任パーティを行うことがオーソライズされました。林さんの胸の内を忖度すれば、戦前から戦後にわたって吉本の礎を築かれた正之助さんや、テレビと連動し、吉本を企業としてさらに発展させて来られた中邨さんとは異なる色を出そうという意気込みに溢れていたのだと思います。
同じこの年の7月1日、私は岡山市の萩原誠司市長にお目にかかるため、岡山市役所を訪ねています。この年の1月、通産省のキャリアから転身されて初当選された方で、市街地活性化の施策として「吉本を誘致するということを掲げて当選したから、何とか岡山に出てくれないか」ということだったのです。話をつないだのは、あの川崎宗夫さんでした。多分、当時親しくされていた山陽放送サービスさん辺りから情報を提供されたのだと思いますが、それを聞いた私は、一瞬たじろいだのですが、よくよく考えると、「それもありかな?」と思い直して、お目にかかることにしたのです。思えば、「全国吉本化」を標榜して以降、88年に名古屋、89年に福岡、94年に札幌と、事務所や劇場を開設してきましたが、中・四国の拠点だけが抜け落ちていたのです。普通なら「広島を!」と考えるのでしょうが、全国を歩いて感じた私の肌感覚によると、広島市はどちらかというと東京志向が強く、大阪志向が強いのは、少し東寄りの福山市辺りまでかなという思いがあったのです。現に、大阪のラジオ放送は岡山でも聞くことができましたし、私がMBSのラジオ生出演を終えて岡山へ行ったとき、タクシーの運転手さんから「ラジオを聞いていました」と言われて驚いたこともありました。
もう一つは、四国へのアクセスがいいことでした。TBS系の山陽放送(RSK)や、フジテレビ系の岡山放送(OHK)、テレビ東京系のテレビせとうち(TSC)こそ岡山に本社を置いていますが、日テレ系の西日本放送(RNC)や、テレ朝系の瀬戸内放送(KSB)は高松に本社を置き、瀬戸内で最も海域の狭い両県でが視聴区域を共有していて、四国を視野に入れた拠点としても、岡山が適しているのではないかと思ったのです。岡山県単体では、広島県に比べて少ない人口数も、香川県を加えれば、広島県にほぼ匹敵していました。
はじめてお会いした萩原市長は、東大を出て、プリンストン大学へ留学されたキャリア臭など、凡そ感じさせないフランクな方で、そのうえ顔がなんと、西川きよしさんにそっくりだったのです。その方から「誘致を予定している表町は、「木下サーカス」発祥の地で、現在でも映画館や劇場の集まる市内最大の商店街だけれども、近年は通行量も減少し、求心力も弱まりつつある。この商店街を何とか活性化するため協力してほしい」と要請されたのです。
劇場の運営は岡山市評議会が行い、吉本のタレントが出演するのは金曜から日曜の週末3日間でした。実際に責任者として業務を担当されるのは住宅(すみたく)正人さんという方で、市長からこの方を紹介されて、姿を見た途端、ゆるキャラを思わせる風貌を見て、気が和んでしまいました。この御仁、萩原市長と同じ県立大安寺高校の後輩で、岡山大学を出られた、日本有数の「ちくわ笛」の奏者だというのです。ちくわは食べるものだとばかり思い、まさか笛になるとは思ってもいなかった私は、「西川きよしさん似の市長」や、「癒し顔の住宅さん」など、豊富なキャラを次々に繰り出す岡山市役所の術中にまんまとハマり、翌2000年4月1日から表町で「よしもと3丁目劇場」を開催することに決め、先行して2月28日開設する事務所の責任者を、こちらも癒し系で対抗すべく、ピンチに陥ると必ず語尾が震える、西村学君とすることにしたのです。
西川きよしさんにそっくりな萩原誠司市長
ちくわ笛の名手・住宅正人さん
よしもと3丁目劇場
かってITSという制作子会社でディレクターも務めていました
年が明けて2000年1月6日、上京した私は、まだ経済産業省と名前を改める前の通産省へ向かいました。岡山の県紙「山陽新聞」が23日に掲載する、経済企画庁長官の堺屋太一さんと、萩原誠司市長、そして私との鼎談をするためでした。堺屋さんと萩原さんは共に省のOBということで、旧知の仲だったのですが、私はお目にかかるのは初めてということもあり、いささか緊張しながらお待ちしておりましたが、ややあってにこやかな笑顔で現れた堺屋さんの、柔和なお姿を見てホッと胸をなでおろしました。もちろん、堺屋さんが70年に大阪万博をプロデュースされたことや、76年に「団塊の世代」、81年に大河ドラマの原作にもなった「峠の群像」85年に「知価革命」などを書かれ、時代を的確に読まれる慧眼の持ち主であることは存じておりましたが、一方で女子プロレス、中でも尾崎真由美のファンで、試合会場にも顔を出されることがあると聞いて、「こういう人が本当のインテリって言うんだろうな」と思いました。鼎談そのものは司会役の腰宗孝昌編集局長の差配よろしきを得てスムーズに運び、夕刻に東京支社へ顔を出して、林社長・横澤常務と共に、一徹そばで知られた赤坂の「割烹たけがみ」で会食をしました。
2月28日、岡山国際ホテルで17時から開いた事務所開設披露パーティには、山陽新聞の記事の効果もあったのか、中四国政財界、地元企業などから約500名ほどの方にお越しいただき、坂田利夫さんと若井みどりさんの漫才などを披露していただき、大いに盛り上がりました。実は、パーティ終了後に、萩原市長や、助役、経済局長、住宅さんらと、我が社から私、吉野さん、川崎さん、西村君が出て、ホテル地下1階にある懐石料理「淙々亭」で会食をしたのですが、さて帰ろうかと思っていたら、市長に「駅前に丸天というラーメン屋があるから!」と引っ張って行かれたのです。パーティが盛況だったこともあって、気分が高揚されていたのだと思います。
さて、4月1日、いよいよ劇場がオープンする日がやってきました。9時30分からのオープニング・セレモニーを経て、12時と15時、2回公演も盛況裏に終えることが出来ました。これも西村君たち岡山事務所のメンバーの努力と、住宅さんのお陰です。19時から岡山国際ホテルで行われた、岡山市と吉本共催のパーティには、有料にも関わらず、なんと1500人もの方々にお越しいただきました。その後、萩原市長は2期目の任期途中、自民党の要請を受けて衆議院選に出て当選をされ、今は同じ岡山県の美作市長を務めておられます。一方、住宅さんは、家業を継ぐため市役所を退職され、2008年岡山県知事選に出て31万票を集めたものの落選、中には「ちくわ」とか「ちくわのおじさん」と書いた無効票も多くあって、もしこの票が有効であれば、当選したのでは?というエピソードを残しました。今は、ちくわ笛の奏者・エンターティナー・気象予報士として活躍されていると聞いています。
行ったのはここではなく
ここでもなく
ここでした
東洋経済(1999年7月17日発売)
大阪万博
太陽の塔に群がる人々
「割烹たけがみ」の一徹そば
岡山国際ホテル
「淙々亭」の食事
丸天
2000年の3月22日、私は集英社から2冊目の本を出すことになりました。正確には、1999年1月25日に、NHK出版から、野球の稲尾和久さんや作家の安倍譲二さん、相撲の尾車浩一親方と一緒に『逆境のあなたへ』という本が出ていますが、これは98年6月に渋谷公園通り劇場で講演したものを放送した、NHK教育テレビの「ドキュメント講演」を採録したものですから、個人ではこれが2冊目の本ということになります。
竹中功君を通じて、このお話をいただいたのは、たしかNHKの講演をする前の5月のことだったと思います。前夜、知人と大阪の肥後橋にあった「リストランテ・カラバジオ」でイタリア料理に腹を満たし、新大阪から乗り込んだ新幹線の中で「さて、寝るか」とくつろいでいたら、京都からなんと、中条きよしさんが乗ってこられたのです、それも私が座っている前の席に。同年代ということもあって、西川きよしさんとは親しくされていて、私も存じ上げていたので、ご挨拶と、ほんの2言、3言、言葉をしただけなのですが、「必殺仕事人」で、中条さん演じる「三味線屋の勇次」の斬殺シーンが頭をよぎって、ゆっくりと寛ぐことはできませんでした。私には仕掛けられる覚えなどはありませんでしたが、「自分では気付かぬうちに、誰かの恨みを買う」ということは、ままありがちなことですからね。
幸いそんなこともなく、無事に到着した東京駅で中条さんにお別れして、向かったのは紀尾井町にある「維新號」という上海料理の老舗でした。お待ちいただいたのは、集英社の新書企画室長(発刊後・新書編集部長)の鈴木力さんと、幅広い分野で編集企画を手掛けられているK&K事務所の刈部謙一さん、それに竹中功君の3人でした。鈴木さんからは、この当時、新書の御三家と言われた、岩波書店・中央公論・講談社に割り込む形で、「集英社が99年12月から新書を出すことになり、第一弾として五木寛之さんの『知の休日』や姜尚中さんの『母〜オモニ〜』」などを考えている。ついては、3月に予定している第2弾で、お願いできないか?」という執筆のご依頼だったのです。
ご馳走になった以上、無下にお断りするのも憚られて、「考えてみます」とあいまいな返事を返したものの、時間が経つにつれ、1冊目の「気がつけば、みんな吉本」の勁文社と違って、今回はメジャーな集英社だし、そんな凄いラインナップに耐えるだけのコンテンツが、自分にあるとも思えず、関西人の言う「考えときます」は「お断りします」いうことだからとしばらくの間、ペンディング状態にしておいたのです。どうせ、他の候補者にも打診しているのだろうし、自分一人くらい欠けても大丈夫、そのうち諦めてくれるだろうという思いもあったのだと思います。
日々の忙しさに紛れ、すっかりこの話など忘れていた頃、刈部さんから連絡があり、8月7日に大阪でお目にかかることになりました。大阪コロナホテルでの朝日新聞社の部長研修での講演を終えて帰社した私に、刈部さんから投げかけられた言葉は、「ぜひとも、この企画を前へ進めたい」とのことでした。結局、編集のプロである刈部さんが「責任を持つ」ということを条件に、お引き受けすることにはなったのですが、振り返ってみると、この頃の私は、「吉本興業全国化」への道筋がほぼ見え、更にこれから何を目指すべきなのかを模索していたのかも知れませんね。
リストランテ・カラバジオの店内
美味しいイタリア料理
三味線屋の勇次
殺りくシーン
紀尾井町の「維新號」
鈴木力さん
刈部謙一さん
98年頃は、異業種の方ともお目にかかるべく、務めてパーティや、普段接している業界の外へ出ることを心がけていたように思います。6月23日には東京の三笠会館で開かれた「東京マスコミ同志社会」に出て、28日には、この年の2月にSME(ソニー・ミュージックエンタテインメント)の社長に就任された丸山茂雄さんと、南麻布のイタリアン・レストラン「イ・ピゼッリ」で会食をしています。丸山さんには小室哲哉さんらをはじめ、輝かしい実績をあげられた音楽の世界のことではなく、モチベーションを上げるための、組織マネジメントの話などを伺い、多くの示唆をいただきました。10月1日には、角川春樹事務所の設立2周年パーティが開かれた「麻布迎賓楼」(香港ガーデン広尾)へ、角川さんとは、角川書店を辞められ、森村誠一さんや辻井喬(堤清二)さんを顧問に、事務所を設立されて間もないころ、名古屋のウーパールーパーこと横田佳代子さんの紹介で、同じ広尾にある「エノテカ」のバーでお会いしたことがあって、角川さんの映画に賭ける熱い思いなどを伺いました。「エノテカ」は1000種類のワインを揃えているワインセラーとして知られた店なのですが、あいにく下戸の私にとっては、「猫に小判」そのものでしたね。
そして26日には、京都宝ヶ池プリンスで開かれた祇園の「千子」というクラブの30周年パーティに行きました。千子さんというのは祇園ではつとに知られた元芸妓さんで、石原裕次郎さんと「祇園町から」というレコードを出されていたご縁もあって、会場には渡哲也さんや舘ひろしさん、神田正輝さんなど、石原軍団の主なメンバーが勢ぞろいして来られていました。名取裕子さんも来ておられ、司会をみのもんたさんが務めておられていました。千子さんの交友の広さを示すかのように、財界人や文化人などの顔触れも多く、千子さんの交友の広さがうかがえました。「千子」へは、最初、KBSの方に連れて行ってもらったのですが、北新地や銀座とはまた違う趣があって、京都へ行くたび通う店になってはいたのですが、残念なことに、2009年に千子ママは急逝をされてしまいました。いつも「私は36歳」とおっしゃっていたのですが、もしそれが本当なら6歳の時から店を始めておられていたことになってしまいますよね。
さらに、11月4日には、大阪の編集プロダクション「クエストルーム」を主宰されている石原卓さんの紹介で、長年に亘って日本のデザイン界をリードしてこられた長友啓典さんにお会いするため、69年に同じ大阪出身の黒田征太郎さんと設立された、六本木のデザインオフィス「K2」をお訪ねしました。関西生まれいうこともあってか、とてもザックバランにご対応をいただき、オフィスを出た後、六本木にある、大阪発祥の「与太呂」という鯛めし屋さんで食事を済ませた後、銀座へ流れ、「麻衣子」というクラブで、長友さんの畏友でもある伊集院静さんと合流することになりました。「やっぱり女性にモテる男性はちがうよなあ!」と伊集院さんに見とれていると、おもむろに長友さんから、「木村さん、ケニアへ行ったことある?」という言葉が飛んできたのです。「せいぜい、エジプトまでしか」と答えると、「ケニアはいいよ!夜明けにバルーンに乗って、上空からサバンナを疾走する動物の群れの美しさを見ると、人生観が変わるよ!」、「そのあと地上に降りたら、小高い丘に設えたテーブルにブレックファーストが用意されていて、シャンパンを飲んで・・・」と話は続くのですが、この時はまだ、後年に自分がこれほどケニアに嵌るとは思ってもいませんでした。そうそう、この店でジャイアンツの桑田真澄さんにお会いしました。長友さんとは旧知の仲らしく、おかげで目の前で書かれた、サイン入りのボールを貰ったのを憶えています。どこにも見当たらないところを見ると、きっと、誰かにあげてしまったのかもしれませんね。
「マルさん」と慕われていた丸山茂雄さん
「イ・ピゼッリ」の店内
角川春樹さん
「千子」
店内に飾られた千子さんの絵
「千子」の前にある辰巳稲荷
長友さんを紹介していただいた石原卓さん
長友啓典さん
が足りなかったのか
お亡くなりになりました
伊集院静さん
六本木「与太呂」の店内
与太呂 名物の鯛めし
「クラブ麻衣子」の店内
11月9日にはCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)の社長「増田宗昭さんを励ます会」に出ました。もともと、増田さんとは全く面識はなかったのですが、大阪の「プラン・ドゥ」という会社が発行していた雑誌に掲載されていた増田さんの記事に興味を引かれ、この人に是非会ってみたいと思い、OBP(大阪ビジネスパーク)にあった会社まで押し掛けたことがありました。当時まだ資本金が100万円の時代に、フランチャイズ展開を目指して1億円もかけて導入したコンピューター・システムなどを見せてもらったあと、デスクでじっくりとお話を伺うことが出来ました。なかでも、「これからの企業が成長していくためには、企画会社化していかねばならない」とおっしゃった言葉が印象に残っています。その後、NHK時代に花紀京さんが「コメディ公園通り」でお世話になった吉儀彰さんが、増田さんのヒューズ・エレクトロ社と設立された「ディレクTV」に転社されたこともあって、恵比寿ガーデンヒルズでお会いしたことはあったのですが、ほどなく吉儀さんが急逝されたこともあって、お目にかかる機会もなく過ごしていました。そんな折、1通の封書が届き、中を見ると、アミューズの創業者である大里洋吉さんの呼びかけで行われる、ディレクTVの社長を解任され、失意の中にある「増田さんを励ます会」へのお誘いだったのです。
「これは是非参加しなきゃ!」と思って天王洲アイルまで出かけたのはいいのですが、パーティ会場は何とクルーズ船の中、戻って来るのは2時間後、乗った途端に後悔、いや航海しましたが、後の祭りとはこのことです。「遅れて来る事も、途中で帰ることもできない」「義理で顔を出すこともできない」という招待者側の見事な戦略の勝利でした。それでも招待状を出した100人余りの人がほとんど集まったといいますから大したものです。もしかしたら、この一夜の出来事が、増田さんが再発進された一助になったのかもしれません。
この翌週、17日には山の上ホテルで、毛利子来(たねき)先生にお目にかかりました。原宿で55年間開業されていた小児科の先生で、ポーランドの小児科医で児童文学者でもあったヤヌシュ・コルチャックが提唱した「子どもの権利」という概念に共鳴されて、「基準や平均にとらわれた画一的な育児論」に疑問を投げかけ、子供の立場だけではなく、親の心情を捉えた教育論を展開されている論客でもありました。毛利先生を知っていたのは妻の方で、子育ての悩みをいろいろ相談していて、「素晴らしい先生だから一度会ってみれば」という妻からの紹介もあって、お目にかかることになったのです。「山の上ホテル」は古くから川端康成や三島由紀夫、池波正太郎など、多くの文人に愛された静寂な雰囲気のホテルでした。喫茶室でお目にかかった毛利先生が、子供たちから「たねき先生」をもじって、「たぬき先生」と愛称で呼ばれる柔和な表情を浮かべながら、「親や教師が子供だけを対象化し、客観的に見て、観察して、どういう状態かということを推測するのは、大人の思ういい方向に向かわせたいからでしょう。そのために導きたい。叱りたい。僕はそうしたくないんだな。」と、「型にはめない自由な子育ての大切さ」を話されたのが印象に残りました。そんな毛利先生も2017年10月26日、88歳でお亡くなりになりました。そうそう、この毛利先生の書かれた「子育ての迷い解決法 10の知恵」もたしか、99年12月に発売された集英社新書第一弾のラインナップにも入っていましたね。
CCC 増田宗昭さん
アミューズ 大里洋吉さん
毛利子来先生
ヤヌシュ・コルチャック氏
99年1月25日には、アメリカのR&B歌手でもあり、女優でもあるローリン・ヒルのコンサートを観に大阪城ホールへ出かけました。98年に出したソロアルバム「The Miseducation of Lauryn Hill」が全世界で1200万枚売れ、翌99年のグラミー賞で、女性アーティスト過去最多の5冠に輝いただけあって、声量溢れるステージに、満員の観客皆が魅せられていましたね。
同じ大阪城ホールへは、7月20日にもユーミンの「SHANGURILA」を観るために行きました。「サーカスやシンクロナイズド・スイミング、フィギュア・スケートと一体化したコンサートをやりたい!」という本人たっての希望を入れて始まった、世界に類を見ないコンサートツアーで、6月12日から8月22日まで、東京・横浜・名古屋・大阪・福岡で29公演行われ、高額なチケット代にもかかわらず発売初日にチケットが完売し、急遽15公演を追加したものの、これも完売してしまったという伝説のコンサートです。会場の約半分のスペースを使ってステージが組まれ、アリーナに巨大なプールが設えられ、アイススケートにも使えるようになっていました。ロシアから招いたサーカスやシンクロと、ユーミンの楽曲のコラボという豪華なコンサートだったのですが、ともすれば観客の目が、サーカスやシンクロの方に奪われがちで、正直な所、「歌手のコンサートとして、これでいいのかな?」とは思いました。聞くところによると製作費が30億円ということで、いくら冠スポンサーに「ヤマザキデイリーストア」と「サンエブリー」を統合した「デイリーヤマザキ」が付いたとはいえ、大変だろうなという思いは拭えませんでした。
その後、「SHANGURILA」は、合併した「明治安田生命」や、90周年を迎えた「TOTO」を冠スポンサーに据えて、93年にⅡ、97年にⅢを行ったのですが、回を追うごとに40億、50億と上昇し続ける制作費に音を上げたプロデュースサイドからの「もうこれ以上は出来ない」という意見もあって、終えることになりました。プロデュースサイドの「ご苦労のほど如何許り?」とは推察しますが、これだけ我を通した、ユーミンのアーティスト根性も立派なものだとは思いましたね。
そして8月21日から28日までは、家族と共にアメリカへ出かけました。例年は家族が先にフロリダのオーランドへ出かけ、その後日本から直行した私とニューヨークで落ち合っていたのですが、この時はなぜか、私もオーランドへ出かけ、アニマルキングダムやユニバーサルスタジオ、エプコットセンターなどに付き合っています。そうそう、日本から着いた最初の夜でした。夕食に妻がオーランドへ来るたび行っている日本食レストラン、「花水木」へ行くと、何とTBSの塩川和則さんがいらしたのです。連れの女性は、多分奥様だったと思うのですが、「こんなことってあるんだ」と思っていたら、何と26日にオーランドからニューヨークへ移動した夜、宿泊先のリーガ・ロイヤルホテルに荷物だけ置いて、食事に出かけたユニオンスクエアの西にあるイタリアンレストラン「バスタパスタ」でも再び出会ったのです。何たる奇遇でしょう。
「バスタパスタ」は85年に、原宿の東郷神社の向かいに100坪の店を出して話題になり、場所柄ファッション関係者や、アーティスト系の客も多く、飯倉片町にあるイタリアンレストラン「キャンティが60年代カルチャーをリードした」と言われるのに対して、「バスタパスタが80年代をリードした」と言われた人気店でした。残念ながら私は原宿の店に行ったことはなかったのですが、ニューヨークで図らずも宿願が果たせたということになります。因みに翌2000年、チャーリー小林さんと再びこの店を訪れた際、店の奥から、(態度ではなく)顔の大きな女性が出てきて、「どこかで見た顔だな?」と思っていたら、何とそれが、オノヨーコさんだと気が付いたのは、彼女が店を出てから随分経ってからのことでした。
ローリン・ヒル
バスタ・パスタ
オノ・ヨーコさん
異業種の方では、4月30日に「大阪サッカークラブ」(セレッソ大阪)の藤井純一さんにお会いしました。場所はたしか、大阪帝国ホテル23階の「ジャスミン・カフェ」だったと思います。ご紹介いただいたテレビ大阪の金井さんと共に中華料理に舌鼓を打ちながら、お話を伺いました。藤井さんは日本ハムに入社され、96年に宣伝室次長を務められた後、97年からヤンマーディーゼル・サッカー部を前身として設立された、セレッソ大阪に取締役事業部長として赴任されていたのです。私が一番伺いたいと思ったのは、食品会社に入社しながら、全く畑違いの世界に行けといわれた時に、「葛藤はなかったのか?」ということでしたが、「これも天命だったと思った」とおっしゃったのです。本当のところは分かりませんが、こうして状況を前向きに考えられる人だからこそ、2000年に「セレッソ大阪」の社長になり、赤字体質を転換して軌道に乗せ、さらにその後、04年に日本ハムに戻り、スポーツ・マーケティング部長として過ごした後、05年「日本ハムファイターズ」へ常務執行役員事業部長として入り、社長に就任された06年に見事日本一を達成されて今日の礎を築かれたのだと思います。その上、社長時代にはドラフトで、他球団との競合の中、中田翔選手や選手まで射止められたといいますから、その手腕ばかりではなく、天までを味方に付けておられるのかもしれません。現在は池坊短期大学で学長を務められていると聞きますが、持ち前の手腕を発揮されて、大学経営を軌道に乗せられると期待しています。
この年の前半は刈部謙一さんが、プロデューサーとして関っておられた香港との合作映画「無問題」の製作などもあって、あまり出版の打ち合わせの時間が取れない状況が続いていました。「笑いの経済学」というタイトルと、大まかなプロットだけは固まってはいたものの、知覚している過去の経験を未来につなげていく、シンボリックな言葉はないものかと探していたのです。
「無問題」は97年に吉本がコメディ・コンテンツの専門サプライヤーとして立ち上げ、竹中功君が担っていた「イエスビジョンズ」と「日本テレビ」、「バンダイ・ヴィジュアル」の共同製作で、竹中君は製作統括、私は何もしていませんが製作総指揮という立場にありました。本来はアクション・コメディを目指していたのですが、あいにく主演の岡村隆史君が、レギュラーを務めていた「ASAYAN」の収録中に右肩を骨折してしまったため、せっかくブルース・リーへのオマージュ映画「燃えよデブゴン」でアクション俳優として有名になった、サモ・ハン・キンポーをゲストに迎えながら、アクションシーンの少ないラブストーリーに変更せざるを得ませんでした。この時の岡村君の無念な思いを汲んで、2001年には、大物アクション俳優・ユンピョウをゲストに迎え「無問題2」を創りました。そうそう、竹中君は同じ99年12月に、嘗て「ガキ帝国」を製作されたATGの元社長で、当時オフィス・シロウズを主宰されていた佐々木史朗さんと共に、2000年の芸術選奨新人賞や新藤兼人賞金賞に輝いた「ナビィの恋」も創りましたね。沖縄民謡の大御所を多数起用し、音楽と笑いを基調にしたミュージカル調の作品で、IMAGICAで試写を見た私は、沖縄民謡の心地よさに、ただ船を漕いでいただけですが、後日テアトル新宿でご覧になった、当時の小渕恵三総理は絶賛されたといいますから、やはり総理になる方は、私のような凡人とは違う感性をお持ちになっているということですかね。
藤井純一さん
ジャスミン・カフェ
サモ・ハン・キンポー
ユン・ピョウ
佐々木史朗さん
眠気には勝てない・・・
9月20日には、川崎宗夫さんと共に、長らく上方漫才や喜劇界をリードされてきた関西を代表するコメディエンヌ・ミヤコ蝶々さんを箕面市桜ケ丘のご自宅に訪ねました。
42年、蝶々さんは、林正之助さんのスカウトによって吉本に入って活動していたことがあったのです。林さんの心中には、蝶々さんをライバル会社に引き抜かれたミスワカナさんの後釜に育てたいという思いがあったようで、46年の10月ワカナさんが急死後、ワカナさんの元相棒・玉松一郎さんとコンビを組ませたのですが、ことはうまく運ばず、そのあと吉本が演芸興行から手を引いたことなどもあって、蝶々さんは吉本を離れ、南都雄二さんと共に活動の中心を名古屋に移していたのです。
蝶々さんのチャンスが開けたのは53年4月、秋田實さんに誘われて、宝塚新芸座のちょんまげ喜劇「春霞さくら街道」で初舞台を踏んだ時なのです。宝塚歌劇団の生みの親で、東宝の設立者でもある阪急電鉄の小林一三さんが、蝶々さんの演技を見て、「おい、こんなうまい女優がおったんか!今までどこにおったんや」と感心されたといいます。49年志摩八郎さんを中心に、秋田實さん指導のもと、秋田Aスケ・Bスケ、ミスワカサ・島ひろし、夢路いとし・喜味こいしさんら、地方巡業で生計を立てていた若手漫才を中心に結成された「MZ研進会」を発展的に解消して、51年から「宝塚新芸座」という新しい舞台で、「新しい笑い」を生みだすことになるのです。
蝶々・雄二さんは瞬く間に中心メンバーになりました。ちょうどこの頃、1月に行った新芸座公演「漫才学校」をラジオ番組化できないかと考えた人がいました。阪急電鉄宣伝課長(後のコマ・スタジアム社長)の伊藤邦輔さんです。漫才学校は漫才師たちが相方を変えながら掛け合いをしてストーリーを展開するバラエティショーで、当初映画のアトラクションとして上演されたのですが、51年1月の新芸座公演が大当たりして、3月には東京の帝国劇場にも進出する成果を上げていた作品でした。企画を持ち込まれた朝日放送の松本昇三プロデューサーは、ミスワカサさんが主演の「お笑い太閤記」が不評だったこともあり、翌54年1月から土曜の午後7時20分から30分のレギュラー番組として放送することを決めたのですが、空前の聴取率57.5%を稼ぎ、この年ABCが在阪局トップに躍り出るきっかけを作るほどの人気番組になったのです。サラリーマンコントに仕立てた舞台とは異なり、ラジオでは学校を舞台として校長に蝶々さん、用務員に雄二さん。生徒には、いとし・こいし、Aスケ・Bスケ、笑福亭松之助、宝塚出身の千城いづるというメンバーでした。そして7回目の放送から加わったのが当時ABC専属だった森光子さんだったのです。番組そのものは好評だったのですが、小林さんと秋田さんの目指す方向性の違いもあり、袂を分かった56年5月、スポンサーの阪急電鉄が降りたこともあって、2年4ヶ月で幕を閉じることになったのです。
思えば、マンザイの頭文字から取った「MZ研修会」というネーミングや、「相方を替えて掛け合いをすれば、新しい笑いが生まれるのではないか」と、従来の漫才の型を打ち破るバラエティショーを企画した「漫才学校」は、80年代の「THE MANZAI」や「オレたちひょうきん族」の登場を予見させるほどの、革新的な試みであったのかもしれません。
とは言え、「漫才学校」で世に出た蝶々・雄二さんは、55年6月から始まった「夫婦善哉」で、さらにその人気を不動のものにしていくのです。二人の卓抜した話芸で、夫婦の喜怒哀楽を聞き出すこの番組は、その後に生まれた「おもろい夫婦」や「新婚さんいらっしゃい」の先駆けとなりました。ラジオでの放送は71年3月に終わりましたが、63年から始まったテレビ放送の方は、73年に雄二さんが亡くなられてからも蝶々さん一人で続け、75年9月まで高視聴率を稼いだのです。
蝶々さんは、雄二さんの死後もソロの女優としても活動され、「男はつらいよ」など、映画やテレビ番組への出演の傍ら、劇団を立ち上げ、道頓堀の中座で、21年間に亘って定期公演をされるなど活躍をされていました。ただ、晩年は体調不良のために入退院を繰り返されるようにもなり、96年に自作自演の芝居「雪のぬくもり」で、持病の腎盂炎と戦いながら、大阪・京都・名古屋で9カ月、計150回にわたる舞台を懸命に務められた姿は、97年1月12日にNHKスペシャル「ミヤコ蝶々 76歳の勝負」として放送され、観ていた多くの人の心を打ちました。
私もその番組を観て、何としても、「かつてご縁のあった吉本の舞台にお立ち頂けませんか!」とお願いをしてみたかったのです。静かにベッドに横たわり、少し角度を斜めに上げたまま、じっくりと話を聞いていただいた蝶々さんでしたが、この翌年、10月12日にお亡くなりになりました、享年80歳。残念ながら、ご出演していただくことは叶いませんでしたが、今でもあの時にお目にかかれて、本当に良かったと思っています。森光子さんは、「漫才学校」の終了後もABC制作の喜劇で活躍をされ、3年後に芸術座からの声掛かりで東京へ進出され、大女優への道を歩み始められました。
ミス・ワカナ 玉松一郎さん
ワカナ・一郎さん レコード
志摩八郎さん レコード
小林一三さん
秋田實さん
南都雄二さんと司会をした「夫婦善哉」
60%近い聴取率を記録した「漫才学校」。
左から、千城いづるさん、Bスケさん、こいしさん、雄二さん、蝶々さん、いとしさん、Aスケさん、松之助さん、森光子さん
ラジオ時代の「夫婦善哉」
電動イスで階段を移動していても元気な姿で舞台をつとめた蝶々さん
お訪ねしたご自宅は、その後、記念館になりました
菊田一夫さんに見出され、大女優への道を歩みはじめた森光子さん
10月29日にはプロレスラーとして、ウルティモ・ドラゴンさん、ザ・グレート・サスケさんと共に、ジャパニーズ・ルチャの立役者とされていたスペル・デルフィンさんにも会いました。デルフィンさんは、メキシコでの修業を経た後、93年にザ・グレート・サスケさんと共に、新団体「みちのくプロレス」を旗揚げしたのですが、方針の違いもあって99年3月に袂を分かち、生まれ故郷の大阪に戻って、4月29日に「なみはやドーム」で旗揚げした新団体「大阪プロレス」を立ち上げたばかりでした。
大阪プロレスには、「くいしんぼう仮面」や「えべっさん」など大阪名物モチーフにした覆面レスラーが多く、コメディ色の強い試合を行う一方、ルチャリブレ(メキシカンプロレス)の要素を取り入れたスピーディなプロレス技の応酬をウリにしていて、「老若男女」皆が楽しめるようにと、「流血」や「凶器の使用」が禁止されていました。どこかで、デルフィンさんが「プロレス界の吉本興業を目指している」と話されていたのを耳にして、「それなら吉本がお手伝をいしよう」と思い、テレビ収録やイベント興行のない時に、NGKホールを試合会場として提供することにしたのです。JDが「戦うタカラヅカ」を目指すなら、大阪プロレスは「戦うヨシモト」を目指そうというのですから、組まない手はないと思ったのです。
その後、大阪プロレスは、大阪市電天王寺車庫跡に造られた都市型立体遊園地「フェスティバル・ゲート」に、本拠地のデルフィン・アリーナを構えることになるのですが、新団体を立ち上げたばかりのこの頃は、まだレギュラーの試合会場がなかったのです。後年、私が吉本を辞めた後、北新地のクラブで見知らぬ男性から挨拶をされ、「?」と戸惑っていると、耳元で「デルフィンです」と囁かれたことがあります。そう、私はこの時になって、初めて彼の素顔を見たというわけです。
このデルフィンさん、今は、生まれ故郷の大阪府和泉市の市会議員を務められているそうです。そう言えば、かつての盟友サスケさんも2003年に岩手県会議員選に出て、トップ当選しています。(デルフィンさんは1期目は2位当選、2期目は8位当選)、おふたりとも仮面をつけたまま議会に出ることを認められたといいますから、なかなか粋なことをするものですね。デルフィンさんは、サスケさんが当選したこの年に、早坂好恵さんと結婚しています。早坂さんは、沖縄アクターズ・スクールを出て、14歳で上京し、翌年にファーストシングル「絶対パート2」でアイドルデビューして・シングル7枚、アルバム3枚を出す一方で、フジテレビの「笑っていいとも」のレギュラーや、日本テレビの「マジカル頭脳パワー」、フジテレビの「タモリのボキャブラ天国」で準レギュラーを務めるほか、テレビ朝日では自身の番組「パッパラ!パラダイス」を持ち、ラジオのニッポン放送「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」では、パーソナリティを務める売れっ子のバラエティ・タレントさんでもありました。どうしてそんな彼女のハートを射止めることが出来たのか不思議でなりません。どうやら、デルフィンさんがメキシコ修業で身につけたのは、プロレス技の速さだけではなかったようですね。好恵さんは、11年から4年間ほど、沖縄を中心に全国展開していた「ブルーシール・アイスクリーム」関西空港店のオーナー兼店長をされていたことがあり、何かの折に通りがかった私が、早坂さんから「木村さん」と呼びかけられたことがあります。デルフィンさんといい、早坂さんといい、相手の方から呼びかけられないと気がつかないのは、情けないという他ありませんね。
ウルティモ・ドラゴンさん
ザ・グレート・サスケさん
スペル・デルフィンさん
大阪プロレス
前列中央が、くいしんぼう仮面
えべっさん
フェスティバル・ゲート
デルフィン・アリーナ
早坂好恵さんのCD
「パッパラ!パラダイス」のワンシーン【ゲスト:とんねるず 野沢直子】
アイスクリーム店「ブルーシール」
そうそう、99年の6月25日からは台湾でも新喜劇の公演を行いました。日本のバラエティ番組が放送されており、新喜劇も前年5月から3大テレビ局のひとつ、TTV(台湾テレビ)で、半年間にわたって放送され、その後も日本の放送に特化したケーブルテレビのGold Sun(国興衛視)で放送されていたこともあって、3日間・都合4回の公演には、会場となった「新舞台」の900席が、ほぼ満員になるほどのお客様に来ていただくことが出来ました。
「新舞台」は、日本統治下時代の「台湾新舞台」を、ショッピングモールが集まる最先端エリアに移し、京劇や台湾オペラなどの伝統芸能から、モダンダンスまでを上演できる劇場として前年にオープンしたばかりで、別名「Novel Hall」とも呼ばれていました。当日にEG(日本アジア航空)便で乗り込んだものの、通関に時間を食ったため、リハーサルから本番まで、かなりタイトなスケジュールの中で過ごさざるを得なかった出演者やスタッフも、客席からの好反響に気を良くしたのか、終演後に台北華國大飯店(インペリアル・ホテル台北)で開かれた食事会では、大いに盛り上がり、あちこちに笑顔が溢れていました。
ちょうどこの年に製作された「無問題」でヒロインに抜擢され、主題歌「大丈夫」を歌った台湾出身女優で歌手でもあるジェシカ・ソン(宋新妮)さんが、台湾で放送された日本の番組で、既に岡村君を知っていたといいますから、台湾は日本にとって、有望なマーケットでもあったのです。振り返れば、94年にSPDのサポートや、香港のATVと「香港大追愛」を製作、98年は大連でMAYCALさんと劇場「龍舞天堂」を、99年には映画「無問題」の製作と新喜劇公演と、何とか中華文化圏への足掛かりを作ろうとしていたのです。
これ以外にも、80年代後半からはスケジュールを縫って、何度も、香港や韓国、なかでも、韓国へは、手帳にハングルのシールを貼り付けていたくらい、頻繁に通っていました。暮れ泥む夕景が、子供の頃、「3丁目の夕日」に描かれた時代を思い出させてくれて、なんとも懐かしかったのと、やや甘めのプルコギの味が忘れられなかったのです。
88年には、ソウル・オリンピック直前の9月14日から16日まで、大崎君が企画した「2丁目おでかけ探検隊」の収録で韓国ロケに行っています。帰り際、金浦空港のイミグレーションで、「明日からオリンピックが始まるのに帰るとはどういうこと?」と怪訝な顔をされたのを覚えています。またこの頃、当時吉本音楽出版におられた山下捷夫さんからスポンサーを紹介されて、当時おつきあいのあった大阪出身の歌手・君夕子さんを司会に起用した「亜細亜音楽局」という30分番組を作って、海外へ出る口実にしていたこともありましたね。
さらに92年の2月には、ソウルの新羅ホテルで挙式された、ハスキー・ヴォイスで「大阪暮色」や「すずめの涙」などヒット曲を連発されていた桂銀淑(ケイ・ウンスク)さんの結婚式にも出させていただきましたね。
いつだったか、金曜日の夕方便でソウルへ行こうとしていたら、空港のイミグレーションの前で、林さんからの電話で「タレントがらみのトラブルが起こったから、すぐ会社に戻れ!」と呼び戻されたことがありました。一緒に行くはずだった大崎君たちに事情を言って、会社に戻り、事を収め、普通はここで諦めるのですが、何と翌日ソウルへ飛んで、皆と合流しているのです。何がここまで自分を駆りたてたのか、今もって謎が解けないくらいです。ただ、今思えば、人や食べ物を通して、彼の地のマーケット・リサーチをすべく、ただひたすら熱心に通いつめていたのではないかと思う他ありません。韓国で人気を誇り、かつてNTV時代にお世話になった木村尚武さんが、一時期日本でマネジメントをされていた、周炫美(チュ・ヒョンミ)さんの歌う「雨降る永東橋」にあるように、「忘れられない、戻れない ミリョ(未練)・ミリョ(未練)・ミリョ(未練)また涙」と女性に迫られたからでは、決してなかったのです。
TTV
國興衛視
昔あった「台湾新舞台」
「新舞台」の内部
台北華國大飯店(インペリアル・ホテル台北)
「無問題」で岡村君とからむジェシカ・ソン(左が岡村君)
ジェシカ・ソン(宋新妮)