99年は慌ただしい年になりました。3月11日に「マイカル小樽」内にオープンする「小樽よしもと」を控えていたのです。既に前年には東京支社内に開設準備室を立ち上げ、責任者には千原兄弟やジャリズムを伴って東京に転勤していた比企啓之君を指名していました。彼のタレントプロデュース能力はもちろん、間寛平さんの主演映画「ファンキー・モンキー・ティーチャー」でギャグ監督を務めたセンスをかってのことでした。もちろん、144席の劇場も設け、平日は午前・午後の2ステージ、金土日は夕方に大阪・東京・札幌からそれぞれ一組を招いて「3大珍味」という1時間のイベントをやることなどが決まったのですが、こちらは札幌の「電車通り3丁目スタジオ」との兼ね合いもあり、札幌事務所のスタッフがメインで進めることになりました。
問題は〜1200のギャグが散りばめられている〜と大風呂敷を広げた「お笑いテーマパーク」の方です。ここで彼のギャグセンスを発揮してもらわなくてはなりません。入ってポスターに見とれていると、すぐに「出口」に誘導され、そこをくぐると、昭和初期を再現した街並みの、三歩あるけばギャグに当たる「アホワールド」が開けていくというのです。他にもグッズショップの「小樽よしもとテレビ通り」などを併設することが決まったのですが、設計をお願いした丹青社さんのお力無くしてはとても具現化することは出来なかったと思います。丹青社は、テーマパーク風の環境を盛り込んだ人気ショッピングモールの建設などで知られた会社で、93年に「昭和レトロの走り」と言われた梅田スカイビル地下の「滝見小路」や、96年に池袋のサンシャインシティ内に、思い出とトキメキの街をコンセプトに「ナムコ・ナンジャタウン」を手掛けて高い評価を得ていました。
3月とはいえ、まだまだ寒い中、テープカットを終え無事にスタートしたのですが、この年の瀬にMAYCALを率いて来られた小林敏峯さん亡くなり、翌2000年2月8日に大阪ドームで社葬が行われました。翌年の2001年、MYCALは会社更生法を申請します。「小樽よしもと」は初年度に55万人を集客していただけに、あと少し続けられていればという思いが残りました。さらに、この年には、ピーク時に売り上げ3兆円、従業員6万人を誇った日本最大の流通グループ「ダイエー」のカリスマ経営者・中内功さんが「時代は変わった」という言葉を残して退任され、2005年に亡くなりました。96年に退かれた「ヤオハン」の和田一夫さんを加えると、日本の流通業界に大きな変化が起こった時期でもあったのです。
「小樽よしもと」が比較的短期に終わったのは残念と言わざるをえませんが、比企君はこれをきっかけに、空間プロデュースに目覚め、アミューズメント開発準備室を立ち上げ、その後「よしもとテレビ通り」の全国展開や、横浜中華街の「面白水族館」のプロデュースなどを行い、「よしもとデベロップメンツ」の社長になったことを思えば、私の「ムチャぶり」も満更間違ってはいなかったのかもしれませんね。
「MYCAL OTARU」
「小樽よしもと」の企画書
施設イメージ
チラシ
新聞各社の報道記事
梅田スカイビル地下の「滝見小路」
池袋サンシャインシティ内の「ナムコ・ナンジャタウン」
「マイカル」の小林敏峯さん
「ダイエー」の中内功さん