木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 そうそう、98年にはK-1の石井館長との出会いもありましたね。確かレコード大賞の審査員や、ラジオ関西で「電リク」のパーソナリティを務められていた音楽評論家の白藤丈二さんの紹介だったと思います。白藤さんは名前に似合わず色黒であることから、秘かに皆で「クロフジさん」と呼んでいたのですが、以前から東京から自社の番組やイベントに歌手の方をブッキングする際にご協力をいただいていました。そんなご縁もあって、お付き合いをさせていただいていたのですが、何かの折に当時ゴールデンタイムで人気を集めていた「K-1 GRAND PRIX」の話が出て、それなら、主宰・プロデュースされていた「石井和義さんに会ってみますか?」ということになったのです。

 例えジャンルは違っても、自ら正道会館を立ち上げ、格闘技ブームを巻き起こした方のお話を何としても聞いてみたかったのです。3月13日、銀座7丁目の「京星」という天ぷら屋で食事した後、3人でクラブを2件ほど立ち寄って帰ったのですが、別れ際に、「劇場に出る漫才の面子が、漫才ブーム以降、ほとんど変わっていないんですよ」と悩みをぶつけると、「木村さん、新しいカテゴリーを作ることや」とおっしゃったのが耳に残りました。思えば、石井さんも空手家としてスタートをしながら、空手・キックボクシング・カンフー・拳法などの打撃系の立ち技格闘技を統一してK-1を立ち上げられたのです。「なるほどなあ!」とは思いましたが、「それを自分たちの世界に置き換えたらどうなるのだろう」というアイデアは、まだ具体的には思いつかなかったのです。

 もうおひとりは、石津謙介さん。11月12日、場所は三重県の白子にある鈴鹿サーキットホテルでした。と言っても、別にカーレースを見るために訪れたのでもなく、MFU(日本メンズファッション協会)の招きと言っても、「ベストドレッサー賞」に選ばれたわけではありません。講演会のお招きを受けたのです。もう一人のスピーカーは、ソニー時代に、ウオークマンの開発をされ「Mr.ウオークマン」と呼ばれた黒木靖夫さん。本来なら私が先で、黒木さんが後にお話をされるのが妥当なのですが、私の到着時間の故か、なぜか黒木さんが先にお話をされ、おかげで、黒木さんが盛田さんから「うちで一番私のいうことを聞かない男です」と紹介されていたことや、「テープ・レコーダーは売れても、テープ・プレイヤーなんて必要ない」と、井深さん盛田さんという2人の創業者以外の役員全員から反対を受けた話や、ウオークマンは英語として正しくないと、当初アメリカでは「サウンドアバウツ」という名で販売していたなどという「ウオークマン開発秘話」を面白く聞かせていただくことができました。

 石津謙介さんにお目にかかったのは、私の拙い講演が終わったそのあとでした。たしか当時は87歳くらいにおなりで、たぶん協会の名誉会長か顧問というお立場だったと思いますが、慰労のお言葉をいただいて感激しました。先駆者を意味するVANGUARDからとった「VANジャケット」を立ち上げ、「アイビールック」という言葉と共に、若者にファッション文化革命を起こした方で、TPO・カジュアル・トレーナー・スイングトップ・ステンカラーコート・ヘビィデューティなど私たちが使っているファッション用語や、キャンペーン・プレミアムといったSP用語もこの人が定着をさせたと言われています。学生時代にその影響を受けた私にとって、野球界の長嶋さんのような存在の方にお目にかかれて、幸せな気分に浸りながら帰阪しました。また95年、石津さんは盟友の死に際して、重役に頼み込んで、木魚や鐘の音・線香の匂い・僧侶を伴わない、参列者の香典もなし、平服でという条件のもと、ホテルオークラで葬儀を行い、これが契機となって、以降全国の各ホテルで「忍ぶ会」や「送る会」が行われるようになったといいます。本当の意味で「先駆者」と呼ぶにふさわしい人だったのでしょうね。

白藤丈二さん

K-1グランプリ

石井館長

銀座7丁目「京星」

鈴鹿サーキットホテル

黒木靖夫さん

黒木さんの著書

石津謙介さん

VAN

HISTORY

第話

 違った出会いもありました。新地本通りにある「有諏川」というラウンジへ行った時のことです。ちょっと天然系のボケをかますママが面白くてよく通っていたのですが、ある日店をのぞくと、見知らぬ女の子が出てきて「どちら様ですか?」と訊ねるのです。いい加減常連になって通っていたのに初見扱いされ頭にて、「お前こそだれや!」と言葉を返していると、おとぼけママが、「すいませーん」という甲高いお詫びの声と共に現れて事なきを得たのですが、聞くと、昼間の仕事だけでは食費を賄えないために、アルバイトに来ているのだとか。なんでもママの話では、ロイヤルホストのメニューをすべて平らげたというではありませんか。「こだま・ひびき」さんのネタではありませんが、「そんな奴、居らんやろ!」です。「じゃ、ほんとかどうか、確かめよう」ということになり、さっそく、めはり寿司の出前を頼んだところ、ペロッと平らげるではありませんか。

 めはり寿司というのは、熊野地方や吉野地方の郷土料理で、高菜の朝漬けでくるんだ弁当用のおにぎりで、中に刻み高菜や、梅、鱈子、鮭、鰹などが入っていて、食べるとき、目を見張るほど美味しいからとも、大きいからそう名付けられたとも言われています。出前をしてくれる「めはり屋 文在ヱ門」では、6個入りが1,200円でしたから、60個頼めば12,000円になってしまいます。以降行くたびにコロッケ、たこ焼きなど手を変え品を変えしていたのですが、どれもこれも30分余りで完食。他の客が、店内では匂いがするので禁じていた「ラーメン屋へ連れて行ったところ、余りにお代わりするので驚いて、以来顔を見せなくなった」と聞きました。

 そのうち、面白がっているのはいいけれど、時には飲み代より食事代の方が高くつくことに気が付き、これは何とか回収しなきゃいけないと思うようになり、テレビ局の方や、関係者を連れて行くようになりました。そのうちの一人、やしきたかじんさんが面白がって、MBSの「たかじん ONE MAN」に使ってくれました。タレント名は店の名前を取って、「ありすがわ ゆき」、01年にTBSが始めた「フードバトルクラブ」が火付け役となった大食いタレントブームが起こる少し前の出来事でした。全く欲のない子だったので、芸能界にそれほどの未練もなく、結婚をするために引退をしたかのように聞いていましたが、果たして、相手の方に、あの食費を賄えるだけの甲斐性があったのかどうか、気になってはいました。それを理由に、「去り状」を突き付けられていなければいいのですが・・・

北新地

店内はカウンターと奥のBOX席

「ありすがわ ゆき」さんを紹介した記事 (夕刊フジ 1998年9月25日掲載)

出前をしてくれた、めはり屋 文在ヱ門 北新地店

6個入り 1,200円

HISTORY

第話

 違った出会いと言えば、立命館大学とインターンシップを組んだのは、たしか97年の夏でしたね。関西の子供たちが、母親から「勉強をしなかったら、サーカスか吉本しか行かれへんよ!」と叱られていた時代から考えると、やや違和感のある取り合わせかも知れませんが、低迷していた大学の再興を図る立命館と、若い感性を取り込みたい我々の意向が合致して、事はスムーズに運びました。そのきっかけを作ったのは、大日本印刷を辞めてトラバーユしてきた眞辺明人君でした。彼が転職して2カ月目に、「仕事のネタはないか」と、嘗ての職場のクライアントであった立命館に電話を掛けたところ、事がとんとん拍子に運んで、日の目を見ることになったのです。

 ご担当をいただく田井教授や石崎助教授との協議で、まず初年度は、経営学部と政策科学部から、面談の結果50人から選ばれた15名の学生さんを受け入れ、8月25日から2週間かけて、メディアプロデュース・イベントプロデュース・タレントマネジメント・ライブプロデュースの4部門の現場で働いてもらい、その体験をもとに、社員と共同で新しいプロジェクトの企画・立案をしてもらおうということになりました。まずは、3年間の予定で始め、初年度の結果を見て、研修内容の見直しや、人数、期間を再検討をはかっていこうということになりました。中には「忙しいのに余計なことを」と思った社員もいたとは思いますが、「人に教えることによって、自分が今取り組んでいる仕事の意味を再確認できる」というメリットの方が逆に大きかったのではないかと思っています。短期間ではありましたが、職場のムードが活気を帯びたものになったように思えました。

 こうして瞬く間に2週間は過ぎたのですが、私が感じたのは立命館の田井さんと石崎さんの柔軟な、ものの考え方でした。教授や助教授というと、どちらかと言えば象牙の塔に閉じこもって、社会性のない方が多いように思っていたのですが、このお二人からは、微塵もそんな雰囲気を感じ取ることはできなかったのです。「この人達が教鞭をとっているって、一体どんな大学なんだろう?」以降、私が立命館大学に興味を抱く大きなきっかけになった出会いでした。

 立命館大学は、1869年、西園寺公望翁が私塾「立命館」を創始、1900年、文相時に西園寺の秘書だった中川小十郎氏が、その意志を継ぎ、立命館大学の前身となる私立「京都法政学校」を創立したことに端を発します。西園寺翁が「立命」と名づけた所以は、孟子の盡心章にある「身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり」に由来すると言われている通り、真面目な校風の大学でした。私が今出川にある同志社に学んでいた当時は、まだ広小路に学舎があって、御所で球技をするときなどは、よくグランドの取り合いになった記憶があります。

 関西の私学では、関西大学・関西学院大学・同志社大学と並び称されてはいたのですが、中でも同じ京都市にある同志社と立命のライバル心は、互いが至近距離にあったこともあって、ことのほか強かったように思います。当時の末川総長の影響もあってか、どちらかというとリベラル系の勢いが強く、我々は「暗い・赤い・ダサイ」と、やや上から目線で見ていたような気がします。どうやら、私の記憶は28年前のままフリーズされて、頭の中に残っていたらしいのです。

学祖・西園寺公望翁による「立命館」の扁額

西園寺公望翁

末川博さん

立命館その由来の碑

HISTORY

第話

 調べてみると、立命館大学は「改革力が高い大学」で日本一にランキングされて、受験者数も10万人を超えているというではありませんか。それに引き換え、わが母校はベスト10にも入っていません。巷では「立命館モデル」などという言葉もあって、他大学も立命館に倣って改革しようという機運が高まっているのだとか。これは何としてもその秘訣を探らなくてはと思って、改革を主導された理事長の川本八郎さんにお会いしたいと思ったのですが、ひょんなことからお目にかかることになりました。以前、講演会にお呼びいただいたのが縁でご厚誼をいただいていた、立命館OBの大阪府議・高辻八男さんから、「川本さんと飯を食うので来ませんか?」というお誘いを受けたのです。

 場所は、立命館大学が校運をかけて移転した衣笠キャンパスの近くにある、桜の名所として知られる御室の原谷苑にある「松山閣松山」という閑静な料亭でした。思えば、この衣笠への移転が完成したあたりから広小路時代に抱えていたくびきが解けて、立命館の進撃への基礎が固まったのかもしれません。何せ、この地は1950年、小西得郎監督の元、投の真田重蔵、打の小鶴誠を擁してセリーグを制した、「松竹ロビンス」(現 横浜DeNAベイスターズ)の本拠地・衣笠球場があった縁起のいい場所でもあったのです。

 川本さんは、当時在学生が「関関同立」の中で最少の1万人台に低迷して財政難に陥っていた状況を変えるべく、それまでともすれば教員から従者扱いをされていた事務職員にイニシアティブを与え、「教職協働」の名のもとに、経営視点からの学園構造の改革に着手します。87年の国際関係学部開設に続き、政策科学部の発足、琵琶湖草津キャンパス(BKC)や、別府のアジア太平洋大学(APU)の新設、文理融合型教育(インスティチュート制度)の実践など、たて続けに実践した改革の効もあって、文科省の指針にあるCOE(センター・オブ・エクセレンス)やGP(グッド・プラクティス)という指標で立命館大学は、早稲田・慶応に次ぐ高い評価を受けるようになります。しかもそれを、早・慶のわずか半分の教職員数で達成したというのですから、いかに教職員の皆が働いたかがわかると思います。

 ほかにも、産官学連携の窓口となる「リエゾン・オフィス」の開設や、学生たちの「出口の戦略」として、就職支援を図る従来の就職課を、日本初の試みで、より積極性を備えた「キャリア・センター」に改編、私立宇治高や札幌経済高、市立守山女子高を付属高校化するなど攻めの試みもありましたが、中でも、私が興味を引かれたのは、川本理事長のもとで、受験者数を増やす、いわば「入り口の戦略」を一手に引き受け、低迷してた立命館大学を、10万人の学生が受験する人気大学にまで復活させた立役者と言われる小畑力人さんという方でした。

 87年、予備校の関西文理学院から川本理事長に招かれ、入試部長となった小畑さんは「学生は顧客」という視点で入試改革に取り組み、「受験の2教科方式」や「論文式入試」、「スポーツ選抜」、「全国縦断入試」、「短大からの編入学制度」などを実施し、92年以降は近畿圏の受験者数を、それ以外の地域からの志願者数が上回るほどの成果を上げ、見事に課題ををクリアしたのです。そうそう、私たちの時代には多少の親しみを込めて「りっちゃん」と呼ばれていた立命館大学を、UI(ユニバーサル・アイデンティ)をして、「Ritsu」(リッツ)と、どこやらのホテルのような呼び名に改めたのも、この人だと聞きました。その剛腕の小畑さんに改革の秘訣を伺おうと、オファーをしていたおかげで、後日、ようやく眞邊君のセッティングもあって、叶うことになったのですが、「さて、小畑さんってどんな人かな?」と緊張して待ち受ける私の前に現れた小畑さん、なんと、スーツの裏地が真っ赤で思わず、どこかヤバい筋の方かと思って、こっそりと手先を確認してしまいました。

川本八郎さん(右)と高辻八男さん(中央)との会食にて

川本八郎さんの著書

高辻八男さん

松山閣松山

後に解説者となり、「そりゃーもう、何と申しますか」のセリフで有名になった小西得郎さん

真田重蔵(選手名 真田重男)投手

和製ディマジオの異名をとり、当時の日本記録51本塁打を放った小鶴誠選手

かって あった衣笠球場

小畑力人さん

新しくなったロゴ

よく似た名前のホテル。いや、こちらが本家ですね。

HISTORY

第話

 立命館大学とのインターンシップは3年間にわたって実施し、その体験を生かして吉本に入社をする学生も出てきたのですが、それ以降も小畑さんには折々にお目にかかって、何かとお話を伺うようになりました。2度目からは裏地の色も普通に代わっていたところを見ると、もしかしたら最初のスーツは、こちらにインパクトを与えるための作戦だったのかもしれません。小畑さんはその後立命館を辞め、04年大学法人化と同時に和歌山大学へ理事・観光学部教授として移り、12年からは追手門大学社会学部教授を務められました。

 この当時は、東京で間寛平さんのマネージャーとして、NTVの「24時間テレビ」出演などで成果を上げた比企啓之君が大阪へ戻り、2丁目劇場の支配人として、千原兄弟やジャリズムを中心とする「WA CHA CHA LIVE」や「D・R(どえらいロックの)PROJECT」を立ち上げ、ABCTVの「すんげ〜!ベスト10」などの助けもあって、2丁目は活況を呈していました。97年比企君は彼らと共に再び上京して全国制覇を目指すのですが、千原兄弟やジャリズムたちの活躍に比して、DRプロジェクトのメンバーは苦戦を強いられていたのです。調べてみると、音楽専門誌は全国に凡そ100誌あるのに、関西にはたった2誌、まるで漫才ブームが起こる以前のお笑いの世界のように、東西間には情報の発信格差があったのです。そこで「何とかこの状況を変えることは出来ないか?」と考え立ち上げたのが、音楽専門誌「MaMA」マガジンだったのです。

 プロジェクトの中心を担ったのは、大学時にバンドをやった経験もあり、大日本印刷在社時に、関西の音楽市場活性化のために、CDBOOK というアイデアを提案してくれたことがあった眞邊君でした。音楽に疎い私などは、当時お付き合いのあった3社からの出資を仰いだだけで、コンテンツや印刷はすべて彼に委ねることにしました。定価880円、112P、奇数月の20日発行という隔月誌としてスタートする事になりましたが、発行を委託していた京都の光琳社が倒産したあおりを受けて、2年余りで閉刊せざるを得なかったのが悔やまれます。光琳社は60年に京都で創立されて、美術を中心としたサブカルチャーにとても理解のあった出版社で、大手出版社が牛耳る流通経路を小規模出版物に開放をしていただけに、その倒産は惜しまれました。

 一方、眞邊君はその後、99年、KTV開局40周年作として撮られた、池脇千鶴さんの初主演作品「大阪物語」の書籍化などを手掛ける一方で、学生援護会さんと組んで、新人クリエーターを発掘、世に出るチャンスを与えるべく、「BAT(BREAKOUT ARTIST TEAM)」クリエーターズ・オーディションを行い、応募作4012点の中から、優秀作品を創った17人を選び、ビジネスとのマッチングを図りました。眞邊君はその後、積年の赤字傾向にあったYESFMの立て直しに尽力して、02年には吉本を退職、自ら起業をして、ソフト制作の傍ら、企業研修にも取り組み、今も立命館大学との縁は切れず、講師として招かれているといいます。

「WA CHA CHA LIVE」の様子

「すんげ〜!ベスト10」

2丁目に出ていた「brats on B」

2丁目に出ていたバンド「今週の山田太郎」でなく、この人はずっと山田太郎です

眞邊明人君

光琳社が出していた「COLOR・S」

これも光琳社が出していました

大阪物語

デイリー「an」

HISTORY

第話

 99年は慌ただしい年になりました。3月11日に「マイカル小樽」内にオープンする「小樽よしもと」を控えていたのです。既に前年には東京支社内に開設準備室を立ち上げ、責任者には千原兄弟やジャリズムを伴って東京に転勤していた比企啓之君を指名していました。彼のタレントプロデュース能力はもちろん、間寛平さんの主演映画「ファンキー・モンキー・ティーチャー」でギャグ監督を務めたセンスをかってのことでした。もちろん、144席の劇場も設け、平日は午前・午後の2ステージ、金土日は夕方に大阪・東京・札幌からそれぞれ一組を招いて「3大珍味」という1時間のイベントをやることなどが決まったのですが、こちらは札幌の「電車通り3丁目スタジオ」との兼ね合いもあり、札幌事務所のスタッフがメインで進めることになりました。

 問題は〜1200のギャグが散りばめられている〜と大風呂敷を広げた「お笑いテーマパーク」の方です。ここで彼のギャグセンスを発揮してもらわなくてはなりません。入ってポスターに見とれていると、すぐに「出口」に誘導され、そこをくぐると、昭和初期を再現した街並みの、三歩あるけばギャグに当たる「アホワールド」が開けていくというのです。他にもグッズショップの「小樽よしもとテレビ通り」などを併設することが決まったのですが、設計をお願いした丹青社さんのお力無くしてはとても具現化することは出来なかったと思います。丹青社は、テーマパーク風の環境を盛り込んだ人気ショッピングモールの建設などで知られた会社で、93年に「昭和レトロの走り」と言われた梅田スカイビル地下の「滝見小路」や、96年に池袋のサンシャインシティ内に、思い出とトキメキの街をコンセプトに「ナムコ・ナンジャタウン」を手掛けて高い評価を得ていました。

 3月とはいえ、まだまだ寒い中、テープカットを終え無事にスタートしたのですが、この年の瀬にMAYCALを率いて来られた小林敏峯さん亡くなり、翌2000年2月8日に大阪ドームで社葬が行われました。翌年の2001年、MYCALは会社更生法を申請します。「小樽よしもと」は初年度に55万人を集客していただけに、あと少し続けられていればという思いが残りました。さらに、この年には、ピーク時に売り上げ3兆円、従業員6万人を誇った日本最大の流通グループ「ダイエー」のカリスマ経営者・中内功さんが「時代は変わった」という言葉を残して退任され、2005年に亡くなりました。96年に退かれた「ヤオハン」の和田一夫さんを加えると、日本の流通業界に大きな変化が起こった時期でもあったのです。

 「小樽よしもと」が比較的短期に終わったのは残念と言わざるをえませんが、比企君はこれをきっかけに、空間プロデュースに目覚め、アミューズメント開発準備室を立ち上げ、その後「よしもとテレビ通り」の全国展開や、横浜中華街の「面白水族館」のプロデュースなどを行い、「よしもとデベロップメンツ」の社長になったことを思えば、私の「ムチャぶり」も満更間違ってはいなかったのかもしれませんね。

「MYCAL OTARU」

「小樽よしもと」の企画書

施設イメージ

チラシ

新聞各社の報道記事

梅田スカイビル地下の「滝見小路」

池袋サンシャインシティ内の「ナムコ・ナンジャタウン」

「マイカル」の小林敏峯さん

「ダイエー」の中内功さん

HISTORY

第話

 「小樽よしもと」がスタートした後、3月20日には竹芝桟橋から船で小笠原へ向かいました。「北海道に続いて、今度は小笠原に進出?」そんなわけはありません。何せ、父島と母島合わせて2,500人しか住民のいない所なのですから。私が向かった理由は、長男の小学校の卒業式に出席をするためだったのです。同じ赤坂のマンションに住んで、幼いころから可愛がっていただき、泊めていただいたりもしていた成瀬勉・登志美さんご夫妻が、ご主人の「リタイアをして、温かい海の傍で、釣りをしたり、絵を描いて過ごしたい」という思いを叶えるべく、小笠原へ移住をされてしまったのです。その後、息子の「ロスト成瀬夫妻」ぶりがあまりに酷いので、試しに一度、夏休みに息子を小笠原へ行かせたところ、のんびりとした島の生活がよほど彼に合ったのか、帰ってからも嬉々として小笠原の話ばかりをするのです。「それならいっそ、都会よりも、おおらかな環境に身を置いてみるのもいいか?」と思い、ご夫婦にご相談をもちかけたところ、お二人の間にお子さんがいらっしゃらないということもあって、4年生から6年生まで、3年間息子を預かることをお引き受けいただけることになったのです。

 お二人は小曲という所に居を構え「和紙っ魚」(わしっこ)というギャラリーを開いておられました。ダイビングなどをするうちに、小笠原に生息する色とりどりの熱帯魚の美しさに魅せられたご主人が、持ち前のセンスで和紙を使ってそれを再現し、小笠原ならではの土産物として展示していました。京都生まれの奥様の方は、専ら接客とコーヒーやハーブティーの飲める喫茶部門を担当されていたのです。私たちが知り合った当時もご主人がデザイン会社の役員で、奥さんに赤坂でセンスのいい内装の喫茶店をさせておられたのですから、共に得意技を発揮されていたというわけです。

 転校する際は、妻が息子に同行をしたのですが、あいにく海が荒れたらしく、「もう2度と、あんな思いはしたくない!」と言うので、預かっていただいたお礼を申し上げる為にも、「今度は自分が行かなきゃ!」と思ってはいたのです。乗り込んだ小笠原丸は6,700トン、定員760名という船でしたが、春休みということもあって、船内は満員に近い状態でした。朝10時に出発をして、どこへも寄らず、父島の二見港に着いたのが、翌21日の12時でしたから、ほぼ真南へ1000キロ弱の行程に、26時間を費やしたことになります。もしかしたら、アフリカの最南端・ケープタウンへ行くよりも時間がかかったかもしれません。東京を出た時は小雨が降って、けっこう寒かったのですが、妻と違い、心がけのいい私の乗った小笠原丸は、ほとんど揺れることもなく、暖かい二見港に到着しました。

 着いた日は、成瀬さんご夫妻や息子と合流し、「和紙っ魚」に寄ったあと、扇浦海岸に面した、島内唯一の「ホテルホライズン」に泊まり、水平線に沈みゆく夕日を眺めながら食事を共にました。なんでも94年2月に天皇陛下と皇后様が硫黄島の天山慰霊碑をご拝礼された後、小笠原を訪れられた際、お泊りになったホテルでロビーには当時の写真が掲げられていました。

 明けて22日朝8時半、成瀬ご夫妻に迎えられ、共に、村立小笠原小学校で卒業式に臨みました。卒業生は男女合わせて24,25人だったと思います。子供たちの顔が皆とってもピュアで、「子供らしい子供」が多かったように思います。他の子たちはそのまま、同じ所にある村立小笠原中学へ進むのですが、一人だけ東京へ帰る息子は、皆との別れが辛かったかもしれません。校長先生や、担任の先生にお礼を言って、さて帰ろうと思っても、船が出るのは24日、東京に着くのは25日の午後3時半、5泊(内船中2泊)6日の旅になるのは事前に分かっていたので、成瀬さん宅に泊めていただいて、島内巡りや、3年間の思い出話をたっぷりと聞かせていただきました。

 驚いたのは、父島のそばの無人島に、野生のヤギが生息していたこと、新聞を小笠原丸で運ぶので、1週分まとめて配達されること、気温が年間を通じて高いので、冬物衣料がほとんどいらないことや、クリーニング店がないこと、小笠原村は東京都なので、車がみな品川ナンバーであることなど色々ありましたが、国や都の出先機関が多く、公務員の比率が高いことや、成瀬さんのように自らの意思でドロップアウトした人などもおられて、住民の方の雰囲気が、けっこう「都会っぽ」かったことですね。息子ですか?困ったことに、今でも「ヒトリ小笠原」して、ぽーっとしたままなんですよね。

 

竹芝桟橋に接岸する「おがさわら丸」

「おがさわら丸」に乗り込む人たち

二見港に着いた「おがさわら丸」

成瀬勉さん

小曲にあった成瀬さん宅

「わしっこ屋」

作品の数々

ホテル ホライズン小笠原

扇浦海岸に沈む夕日

天皇・皇后様もご宿泊されました

小笠原村立 小笠原小学校

校歌

卒業式

 4月3日には、小田洋雄さんに誘われて、妻と共に「上野韻松亭」へ花見に出かけました。小田さんはワーナー・パイオニア時代に、中森明菜さんの最初のヒット曲となった「少女A」などをチーフ・プロデューサーとして手掛けられた人で、後にMYCALが70%出資して設立したハミングバードへ移られ、浅香唯さんの主演映画「YAWARA」の製作にも関わっておられました。私との仕事上の接点はそれまではほとんどなかったのですが、ある方の紹介でお目にかかり、幾度かお会いするうちに、誘いを受けるようになったというわけです。韻松亭は明治8年創業の老舗で、「鐘は上野か、浅草か」と詠われる寛永寺の鐘楼に隣接することに因んで名付けられたといいます。一時期、横山大観画伯がオーナーだったこともある、趣のある一軒家でした。

 総勢20人弱の方々が居られたのですが、芸能界の方はほとんど見当たらず、小田さんの気の置けない仲間だけが集まった、フランクな雰囲気が漂っていました。そんな中でも、私が一方的に存じ上げている方がお二人いらっしゃいました。おひとりは小田さんの奥様。1970年代初頭に日本中にボウリングブームを起こすきっかけを作った美人ボウラーで、「さわやか、律子さん♬」という花王フェザーシャンプーのCMで知られた中山律子さんでした。確か当時は、NTVのゴールデンタイムで「スターボウリング」が放送されていて、全くボウリングなどしたこともない私も、多少の下心を抱きつつ、アプローチの瞬間を眺めていた記憶があります。今はジャパン・レディース・ボウリング・クラブ(JLBC)の会長を務められていると伺いましたが、昔テレビで見たままの美しい方でした。

 今おひとりは、小池聡行さん。「日本の音楽ヒットチャートの父」と呼ばれた方で、67年に「オリジナル・コンフィデンス」(オリコン)を立ち上げた方です。音楽業界では著名な方で、お顔だけは存じ上げていたのですが、どちらかと言えば門外漢の私には縁の無かった人でした。ところが、ご挨拶をしている内に小池さんが、同じ大学の、同じ学部の、同じ専攻だと判明して、一気に親しみがわきました。残念なことに小池さんは2年後の2001年、68歳で亡くなられ、これを機に、この花見も行われなくなりました。小田さんはハミングバードを離れたあと、この当時は音楽制作とスポーツ選手のマネージメントを行う「マザーランド」という会社を立ち上げて、社長を務められていました。

 そして、この1週間後、今度は京都での花見にお招きを受けました。場所は仁和寺、世界遺産に指定された真言宗御室派の総本山です。仁和寺の名前は、中学2年時の国語の教科書で読んだ記憶はあったのですが、実際に訪れたのは、この時が初めてでした。888年、宇多天皇によって創建され「御室御所」と呼ばれた歴史を誇るこのお寺は、かの貝原益軒が「春は此御境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす」と絶賛したように、桜の名所として、つとに知られた所でもありました。約200本ある八重桜は、地盤が固いため、深く根を張ることができず樹高が低く、「花(はな)が低い」ことから別名「お多福桜」とも呼ばれていたといいます。

 声を掛けていただいたのは、地元KBSの鈴木邦男プロデューサーでした。広報を担当していた幼馴染の仁和寺の僧侶から、マスコミとの懇親を図るために、花見の宴を催したいということになり、KBSの古家野社長や三輪専務、旧知のKBSプロジェクト・千代社長も出られるので、「ご一緒しませんか?」とのことだったのです。

 4月とはいえ、夜になるとまだまだ寒いなか席に着くと、暖をとるためか、いきなり酒が出て、やがて、すき焼きへと移ったのですが、僧侶の方はさてどうされるのかを注視していると、「これは般若湯!」「これも功徳!」という便利な言葉で、ことごとくクリアをされ、楽し気に皆と歓談をされていました。私がかねてより聞いていた、殺生・盗み・妄言・淫行酒飲を禁じる仏門の「五戒」というのは、どうやら「誤解」であったようなのです。いや、もしかしたら、とても職務に忠実な方で、ホスピタリティ精神を発揮するあまり、無理をされていたのかもしれませんね。

上野韻松亭

少女A

美人ボウラー中山律子さん

故人となられた小池聡行さん

小池さんの創られた「オリコン」

御室 仁和寺

仁和寺の桜

仏門の五戒

ちなみに大阪日本橋にある「五階百貨店」は三階建てです

HISTORY

第話

 KBSは、51年にラジオ単営局の「京都放送」としてスタートし、その後「近畿放送」に社名を変更して、69年にテレビを開局したのですが、94年に、かの「イトマン事件」のあおりを受けて経営難に陥り、労組が未払い賃金である労働債権をもとに、会社更生法の適用を申請、翌95年4月に適用が決まり、日本で初の廃局となる危機を免れたのです。管財人として乗り込んだ弁護士の古家野泰也さんは、100%の減・増資をして、「イトマン事件」に関わった役員や株主を一掃、商号も「京都放送」と変え、新体制のもとで社長を務めておられました。「京都から放送の灯を消さないで!」と署名をした、40万人の市民や、タレントさん、無給で頑張った労組の人たちの声が届いたのか、京セラや、オムロン、ワコール、任天堂など、京都の主だった企業からの出資もあり、再建への道を歩みはじめていたのです。

 私も京都に住んでいた頃は、毎朝のように、甘いルックスで「日本のアラン・ドロン」を自称して人気を集めていた、落語家・森乃福郎さんのKBSラジオ番組「お早うキンキ、ハイハイ福郎です」を聴いていましたし、夜の「ハイヤングKYOTO」には、火曜日に桂文珍さん、木曜日にザ・ぼんち、土曜日には島田紳助さんなどが出演をしていたことがありました。さらに、この当時にも、仁鶴さんが「想い出メロディー」、いくよ・くるよさんが「はりきりフライデー」と、人気のレギュラー番組を持っていて、とてもなじみのある局ではあったのです。

 ただ、ラジオの方は鈴木さんや上司の森さん、先輩の町田さんや田淵さんといったベテランの方も居られて、大阪局に引けを取らないほどの制作力を誇っていたのですが、ちょうど私が吉本に入社した69年に始まったテレビの方は、UHFということもあって、V局に比べて、人材も薄く、予算もかけられず、苦戦を強いられていました。たしか、私が仁鶴さんを担当している時だったと思います、当時、寄席番組を担当されていた、塩島さんか福居さんから、「仁鶴さんに出て欲しい」とオファーを受けて、「忙しいから無理」とつれなく断ると、「そこを曲げて!」と食い下がられたので、「じゃ、1分間1万円で!」と答えると、「なら、1分でいいから出演して!」と食い下がられたことがありました。

 冗談じゃありません、1分でネタができるわけはありませんし、だいいち「大阪から京都へ行くまで、どれくらい時間がかかると思っているんですか!」とお断りしたことがあります。そんなに製作費がないなら、いっそNHKがテレビ創世紀にやったように、ラジオ番組をテレビでも中継して流す「サイマル放送をやれば!」と提案したことがありますが、「放送法が云々・・・」と言葉を濁されたまま、ついに実現することはありませんでした。

 仁和寺で初めてお目にかかった古家野社長は、とても誠実そうなお人柄で、同じ酒席でも、京セラから来られていた三輪専務とは違って、陽気に振る舞われることもなく、静かに対応されていたのが印象に残りました。

 次に古家野さんとお会いしたのは、明けて2000年の8月15日のことでした。場所は、KBSにほど近い京都ブライトンホテル。古家野さん以外に、シラフの三輪専務、そしてKBSプロジェクトの千代正實さん。お話されたのはやはり、「テレビコンテンツの強化」でした。同時に、KTVが98年11月にCS対応として始めた「関西テレビ☆京都チャンネル」との提携も進めつつあるという話なども伺い、吉本としても何とか協力をしようと、KBSプロジェクトと共同で始めたのが、「よしもと興業京都支社」という番組でした。支社長役の私は、ほとんど写真だけの出演で、実際に出演をしていたのは、支社長補佐兼制作部長役の、敬愛する恐妻家の先輩・川崎宗夫さん、部下にケンドー小林、宣伝部長が西川のりおさん、部下がたむらけんじ、他にかつみ・さゆりさんのコンビや、若手タレントが出演をする、業界バーチャル・バラエティでした。

 その後、KBSは、「関西テレビ☆京都チャンネル」と「桑原征平のおもしろ京都検定」などの番組を共同制作したり、2000年12月31日、ミレニアムを機して実施された、過去に前例のない「大文字送り火中継」を、キー局としてフジテレビや関西テレビに配信して相互の関係を深め、関西テレビとフジテレビが共に、KBSへ資本参加をする運びになったのです。もちろん、吉本興業も共にKBSに出資をさせていただきました。

 こうして再建への道筋をつけた古家野さんは、2002年社長の座を、前KTVの加藤さんに譲り、弁護士に復帰されたのですが、2017年9月5日に逝去されました。そして、古家野さんを実務面で支えられた千代さんは、いま一人、前KTVの中澤社長を経た後、KBSの社長を務め、現在は会長職に就かれています。

85〜02年まで社長を務められた古家野泰也さん

落語家・森乃福郎さん

文珍さんと、社員でありながら共にパーソナリティを務めた岩崎正美さんこと、「小せん」さん。この名前の由来は「小さな大橋巨泉」と言うことで付けられたといいます。

いくよ・くるよさん

川崎宗夫さん

五山の送り火(右から左へ点火していきます)

千代正實さん

HISTORY

第話

 4月30日は翌日の劇場オープンを控えて福岡へ。オフィスに寄った後、全日空ホテルで、同じ交通会館にひとあし早く出店されたナムコさんのレセプションに出て、小樽でもお世話になった丹青社の渡辺社長や、家入取締役、沢田部長にもご挨拶をさせていただきました。夕食は翌日のセレモニーに備えて前乗りされていた西川きよしさんと、大きな生簀で有名な、大名にある博多料亭の「稚加栄」でとりました。福岡場所がある時は力士が通うだけあって、ここでいただいた料理は旨くて、食通の西川さんもことのほか満足されたようでした。

 翌5月1日は、朝10時からビル全体のオープニングセレモニーがあり、次いで11時から劇場のオープン、その後日航ホテルにある「いちょう」でナムコの創業者・中村雅哉社長、立花常務、東取締役と会食をしました。

 我が社からは、中邨社長、林副社長、それに私と、福岡事務所長の玉利寛君というメンバーでした。かねてから丹青社さんに、「ナムコさんと一緒に何かやれないか?」というご提案をいただいて、私も97年5月に池袋サンシャインビルの2階にある「ナムコ・ナンジャタウン」を見に行ったり、98年4月には丹青社さんと打ち合わせをして、共同でソフト開発をすべく動いてはいたのですが、それは実現しなかったものの、同じエンターテインメント業界同士ということで、以降の親睦を図るために、この席を設けたというわけです。

 さて、ゴールデンウィークも明けて7日、大阪リッツカールトンホテルの「花筐」で関西テレビの横田専務、中沢局長、山崎さんたちと会食をしていると、珍しいことに林副社長から私の携帯に、「ONOというクラブにいるから顔を出せ」という電話が入ったのです。ちょうど話も一段落していたこともあって、至近距離にある北新地までかけつけ、店内に入ると、林副社長の他にもう一人若者の姿があったのです。すぐに長男の正樹さんだと気が付きました。まだ心斎橋に本社があったころ、亡き林正之助会長が、お孫さんを背中に負ぶって、愛好を崩しながら会長室から出て来られるのを見て、「あの怖い会長でも、やはり自分の孫は可愛いんだ」と不思議な感慨を抱いたことがありますが、それ以来の対面でした。

 たしか、正樹さんは、97年にパソナの南部靖之さんが、震災復興のため始められた、観光レストラン船「コンチェルト」を運営する、(株)「神戸クルーザー」に勤めておられると聞いていましたが、林副社長からは「息子や!」と紹介されたまま何の言葉もなく時が過ぎ、「一体何のために呼び出されたのか?」分からないままに店を出ました。

 次に、林副社長から呼びだしを受けたのは、決算役員会の前日、20日のことでした。ただし、今度は北新地のクラブではなく、会社の副社長室の方でした。「17日に、中邨さんと話をして、今年の株主総会をもって、中邨さんは91年から不在になっていた会長職に就き、自分が社長になることになった」とのことでした。思えば、私が入社した2年後か3年後に吉本に来られ、以来78年に取締役、84年に常務、87年に専務、副社長に就かれたのは、すでに10年も後の97年のことでした。女婿として吉本に来られ、将来は当然社長になると目されていたにしては、若干時間がかかったような気もしました。私も、途中、「中邨社長からまだ後を任せるという話はないんですか?」と尋ねたことはあるのですが、その都度、憮然としながら「ない!」という言葉が返されてきただけでした。ただ、今回は、禅譲を待つのではなく、意を決して、自分から申し出た!」とお聞きして、「それは、おめでとうございます」と申し上げました。ご本人としては内心忸怩たる思いがあったのかもしれません。してみると、私が先々週に正樹さんに引き会わされたのは、「分かってるな!自分のあと、この会社を継ぐのは、こいつ(正樹さん)だぞ!」ということを、おっしゃりたかったのかもしれませんね。

博多料亭の「稚加栄」

生簀前での板前さんのパフォーマンスでも知られています。

ナムコの創業者・中村雅哉社長

大阪リッツカールトンホテルの「花筐」

神戸港 観光レストラン船「コンチェルト」

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