桂三枝さんで、もう一つ思い出されるのは、83年に文化庁芸術祭大賞を受賞した創作落語の「ゴルフ夜明け前」を映画化したときのことです。この作品は、混迷を深める幕末期に、「西洋では物事を議論するとき“こるふ”(ゴルフ)というスポーツ親交を深めるという話を耳にした、新しいもの好きの坂本龍馬が、京都郊外の山城で近藤勇とゴルフ対決をして、互いの心に根差す熱い意気を確かめ合う」というもので、お話をいただいたのが87年の2月ですから、まだ私が東京事務所にいた頃の話です。
東宝の小林さんという方からお電話をいただき、赤坂プリンスホテルでお会いした際に「ぜひともこの作品を映画化したい」というオファーを受けたのです。東宝のイメージが三枝さんに合うと思ったこともあって、すぐにマネージャーを通じてご本人の意思を確認したところ、さっそくOKが出て、話を前に進めることにしました。とは言え、この年は3月の新喜劇のニューヨーク公演や、パリ・ロンドン出張、「アメリカン・バラエティ・バン」の準備もあり、私自身が多忙を極めていたこともあって、しっかり者の河野由美子と、武田良子という2人の女性社員の力を借りることにしました。
プロデューサーの富山省吾さんとお会いしたのは、たしか4月のことだったと思います。平成のゴジラシリーズを手掛けられ、後に東宝映画の社長になられるずーっと以前の話です。東宝の方らしく、それまでお会いしてきた東映や松竹の方とは違って、とてもジェントルな方だったように記憶しています。それ以降、話はとんとん拍子に運んで、監督は、森繁さんの社長シリーズを手掛けられた松林宗恵さんに、脚本は、映画・テレビ以外にも、水島新司さんの「男どアホウ甲子園」や、小島剛夕さんの「宮本武蔵」の原作を書かれていた佐々木守さん。キャストの方は、陽気で人懐っこくて、どこかとぼけた坂本龍馬を渡瀬恒彦さん、どこまでも大真面目で剛毅な近藤勇を桂三枝さん、おりょうを高橋恵子さんに配するなど、次第に骨格が固まっていきました。
吉本からも、西郷隆盛に西川きよしさん、桂小五郎に島田紳助さん、土方歳三に西川のりおさん、他にも桂文珍さん、阪神巨人さん、太平シローさん、そしてもう一人、明石家さんまさんにも、三枝さんからのリクエストということでお付き合いをいただきました。私が、唯一現場に顔を出せたのは10月7日、関西テレビで収録を終えた三枝さんと、テレビ局近くの「大味」という店で食事を共にした後、宿泊先の奈良ロイヤルホテルへ同行し、翌朝まだ開業前のレイクフォレストリゾートまで行って、さんまさんの出演シーンに立ち会った、この日だけでした。
考えてみれば、このレイクフォレストリゾートは、上司から「たとえゴルフをしなくても、パーティだけでもいいから顔を出せ」と言われても、「絶対嫌です」と拒否し、メーカーからプレゼントされた高価なゴルフセットも、「ゴルフデビューするんだけど、道具を持っていなくて・・・」と困っていた知り合いに、たった2匹の蟹と交換してしまったほど、ゴルフ嫌いの私が、生涯で唯一、行ったゴルフ場となってしまいました。三枝さんは2012年、6代目文枝を襲名された後も、創作落語を作り続け、その数250作を超え、なんと73歳にして新作「富士山初登頂」を、現地で披露をされたとか。いやはや、その創作力には端倪すべからざるものがあります。どうぞ、これからも末永くご活躍されますように。
富山省吾さん
富山さんの著書「ゴジラのマネジメント」
レイクフォレストリゾート
夜9時半頃、林専務から呼び出されてお会いしたのは、新喜劇公演でニューヨークへ立つ前日97年3月11日のことでした。場所は確か、全日空ホテル・シェラトンのカフェインザパークでしたね。「翌朝10時の便で伊丹から成田経由でニューヨークへ行かなきゃいけないのに、いったい何だろう?」と思って出向くと、林専務が副社長になって、富井常務が専務に、横澤さんが常務に昇格されるというお話でした。「それはおめでとうございます」とは言ったものの、話はそこで途切れて、なかなか次の言葉が出てきません、翌朝のこともあるので、「じゃあ、この辺で失礼します」と言ってその場を離れたのですが、「一体何のために呼び出されたんだろう?」という謎は解けぬまま旅立つことになりました。
謎が解けたのは、私が13日ジャパン・ソサエティでの講演、14日にニューヨーク・ヒルトンでの記者会見を終えた翌日、15日のことでした。新喜劇公演の行われるタウンホールへ行くと、楽屋に私宛の花が届けられていて、原健三郎代議士のお名前で「祝、常務ご昇進」と書かれていたのです。私より先に同行していたスタッフが見つけ、「こんなのが来てますよ」と知らせてくれたのです。見ると、ほとんどの花が「祝、ニューヨーク公演」と書かれていた中、この花だけが場違いなタイトルのまま異彩を放っていました。何しろこの方は、林正之助社長の時代から吉本とお付き合いのあった方で、若いころは日活映画の渡り鳥シリーズの原作を手掛け、政治家になられてからは、明石海峡大橋の建設を提唱され、第65代衆議院議長まで務められた大物なのです。そんな方から頂いた花束がまさか、ガセネタなどとは思わなかったものの、何せシャレの多い世界のことだけに、「もしかしたら、何かの間違いかもしれない」と、半信半疑のままに公演を済ませて帰国をしました。
翌日の18日、帰国報告のため、中邨社長の部屋を訪ねると、「林君から聞いとらんのか?」と、初めて常務への昇進を正式に知らされたのです。その後、お礼のために副社長になられていた林さんの部屋を訪ねると、「そういうこっちゃ!」の一言で済まされてしまいました。「聞いてないがな!」とはこのことです。ほんと、どこまでも寡黙な人です。一瞬、そんなことなら、「ニューヨークへ行く前夜に呼び出すなよ」とさえ思いましたね。
常務になったからと言って、私の中では、それまでと何も変わったことはありませんでした。給与が若干上がったのと、それまで「木村部長」と呼ばれていたのが、「木村常務」に変わったくらいのことでした。「役職なんて、たまたまその時に巡り合わせで与えられた称号に過ぎないし、別に人格的に優れているから選ばれるものではない」と思っていたからです。組織に染まりきらず、いつも片足を外に出しておきたかった私には、むしろ常務という言葉にある「常に務める」というニュアンスや、私はなれなかったのですが、専務という言葉にある「専ら務める」というニュアンスの方が鬱陶しく思えたくらいでした。「おめでとう!」という月並みな言葉より、むしろ「ご愁傷様です」と言って欲しかったのが正直なところでしたね。
大阪・堂島の全日空ホテル・シェラトン(現・ANAクラウンプラザホテル)
カフェインザパーク
ロビーの花の中に・・・
原健三郎代議士
原さんが原作に関わったといわれる「ギターを持った渡り鳥」
淡路市の大橋のたもとには銅像が立てられています
よりも
と言って欲しかった
振り返ればこの97年というは、経済成長率も前年の3.1%から1.03%に落ち込み、以降99年までマイナス成長が続く2番底不況のとば口となった年でもありました。三共の栄養剤ドリンク「リゲイン」のCMのキャッチもかつての「24時間戦えますか」や「全力で行く。リゲインで行く」から、「その疲れに、リゲインを。」に変わっていました。
なまじ常務などになったおかげで、私の部屋も、NGKの向かいに新しく建てたビルに移されることになりました。1階に警備室と喫茶、2階に総務と経理部門が入り、3階に各役員室と会議室、4階には秘書室と中邨社長と林副社長の広々とした個室がありましたが、私にとっては、まるで自分の部屋が牢獄のように思えて仕方がありませんでした。制作現場のビビッドな空気を肌で感じることが出来なかったからです。たった道1本、せいぜい3〜4mを隔てただけのことではあるのですが、その窮屈さに辟易していました。制作部門のあるNGKを訪ねた方も、わざわざ道を渡って、立ち寄るのも億劫とあって、幾分減っていたように思えました。それでも、何か月かはじっと我慢をしていたのですが、意を決して林副社長にお願いし、とりあえず元に戻していただくことが出来ました。
ところが、私にあてがわれたのが、なんとあの林会長が居られた部屋だったのです。林会長が亡くなられた後は中邨会長が使われていたのですが、新館に移られてからは、空室になったままだったのです。今にして思えば、「いや、それはいくらなんでも恐れ多いですから・・・」と辞退すれば、可愛げもあったのでしょうが、当時はそこまで気が回らず、「ここから脱出できる!」という喜びの余り、すんなりとその部屋に移ってしまいました。
また、この年には悲しい出来事もありました。入社以来何くれとなく面倒を見ていただいた先輩の井上明さんが、事情があって退社をされることになったのです。私がダブルブッキングをやらかした時も放送局へ同行していただき、局の方にお詫びをしていただいたこともありましたし、東京へ行ってからも、大阪の制作部門のヘッドとして、心中色々あったはずであるにもかかわらず、サポートをしていただきました。たしか、当時は長居に住んでおられて、お宅に泊めていただいたこともありました。
粘着質の富井さんと違って、さっぱりとした人で部下にも慕われ、飲んだ翌日には必ず下痢を起こすことから別名、「ゲーリー井上」と呼ばれていました。ただ、気が短いところもあって、「昨日嫁と喧嘩になって、思わずモノを投げたんや」と聞き、「危ないじゃないですか、いったい何を投げたんですか?」と聞くと「カッターシャツ」と聞いて、思わず「ええ加減にしなさい」とツッこんだこともありました。かの織田作之助の「夫婦善哉」でも紹介された老舗、法善寺の「正弁丹吾亭」で、松田亮平さん、河井泉さん、影山賢一さん、吉野伊佐男さん、川崎宗夫さんたち諸先輩と過ごしたひと時のことは、今でも懐かしく、心に残っていますね。
大脱出
ゲーリー井上(イメージ)
これはゲーリー・クーパー
織田作之助の「夫婦善哉」
これは大阪名物の「夫婦善哉」
月の法善寺横町
水掛不動尊
正弁丹吾亭
藤山寛美さんが揮毫された看板 法善寺の「善」の字が・・・
私が入社した当時は、60人受けて6人が通るという先着順のような会社だった吉本興業も、95年には20人の採用に対して2900人、96年には6000人が受ける会社になっていました。まあ、それはそれで喜ばしいことではあるのですが、中には「他社を受ける時の話題作りのような側面」もあるのではという気がしていて、総務の人間に「採用にもコストが掛かるんだから、お金を取ってみたら」と言ったことがあります。「たった4年お世話になる大学を受けるのに受験料を5000円払った私としては、30年以上世話になる会社を受けるのに2万や3万払うのはおかしくないと思ったのです。そうすれば、ひやかしで受けるような連中もなくなるし」とけっこう真面目に話をしたつもりだったのですが、「そんなことをして、誰も受けに来なかったら困ります」と反論するので、「もしそれで誰も来なかったら、まだ我が社に本当の魅力がないということじゃない?」と返したのですが、結局この年だけ、5000円を払った人間に、1次試験を免除するという特典を付けて実施されました。2015年に大手IT企業「ドワンゴ」が入社試験の有料化を発表する20年近く前の話です。
もう一つ、入社試験に注文をつけたのは、役員面接に残る人数が絞られ過ぎていて、ほとんど選考の余地が残されていなく、半ば追認するだけの儀式のようになっていたことです。もちろん、多くの志願者の中から残ったのは、「もし、自分が今この会社を受けていたら、多分通らないだろうな」と思うほど優れた人ばかりでしたが、反面どこか皆が均質化し「セレクション・バイアス」に陥って属性が偏り、個性のある人間がはじかれてしまう傾向にあるのではないかという危惧があったのです。かのオスカープロダクションが主催する全日本国民的美少女コンテストでも、稼ぎ頭である米倉涼子さんや上戸彩さんは、グランプリではなく審査員特別賞だったと言われます。皆がいいと選ぶ人は個性というよりも、平均値が高く、誰からも異論が出ない人ということかも知れません。
いっそ、「優秀な松コース、ほどほどの竹コース、ちょっと問題ありだけど、もしかしたらホームランを打つかもしれない梅コースに分けて、それぞれから採用するのもありか」と思ったのですが、さすがにそれは口には出さず、役員面接に残る数が微増しただけに終わりました。いつか、文部省から講演の依頼を受け、伺ったところ、担当者の方から、「聴衆席が、前から順に上級・中級・下級と採用試験合格者別になっております」と説明を受けて驚いたことがありますが、民間企業の場合、もっと多様な人材を確保する必要があってしかるべきだと思ったのです。
植物生態学でも「杉や檜のような消費材としてのニーズの高い樹種が整然と並ぶ林よりも、用材としての価値は低くとも、小楢、櫟、椎、樫などの広葉樹が混在した雑木林の方が災害に強い」と言われていますし、ペットの場合も、血統書付の純血種は病気に弱いけれど、雑種犬の方が一般的に丈夫であると言われています。
高度成長期のように、「イケイケどんどん」と、みんなで前進する時代にあっては、単一の価値観で物事を進めていけば良かったのですが、これからの、不透明な、模範解答集がない時代には、解答用紙を「テンプレートに埋める」と考える人ではなく、「白いキャンパスに絵を描く」と考えるような人間もまた必要なのではないかと考えたのです。
上から順に選別するより・・・
松竹梅もいいんじゃない?
ドワンゴグループの告知
血統書付犬より
雑種犬もいいかと・・・
もしかしたら隠れた逸材がいるかも?
マイカルタウンの展開はその後も続き、95年3月の桑名、97年10月の明石に続いて、98年秋にはマイカルとしては初めての海外進出となる中国の遼寧省の大連に、現地法人と共同出資の大連国際商貿大厦、99年春には小樽ベイシティ、秋には近江八幡への展開が予定されていました。協議を重ねるうち、我が社には大連と小樽への参加を要請され、まずは現地の状況を把握するため、大連へ飛ぶことになりました。6月初めの金曜日大阪を飛び立って、日本から同行していたマイカルエージェンシー常務の坂下さんと共に、大連で現地法人の小森社長や嶌副社長と現地を見て会食、DRIAN FURAMA HOTELに泊まり、翌日午前中観光をした後、香港に移動、8日月曜の会議を経て、マイカルさんとの協議に臨みました。
マイカルさんの思惑としては、600万人を抱える大連が、かつて日本統治時代に、彼の地が満州国の貿易量の75%を担っていたことや、中国東北部の経済成長のエンジンとして、今後ますます発展が見込まれること、多くの日本企業が進出していることなどを勘案して進出することを決められたのでしょうが、物販ならともかく、「吉本の常設劇場を作るというのは無理があるのではないか」と伝えました。いくら前を通った社員に「君、寒い所が好き?」と聞いても、札幌へ行くのとはわけが違います。とても「はい」と承知して赴任した木山君のような社員が見つかるとは思えません。ロシアが統治時代に名付けた、東清鉄道の終着駅名「ダルニー(遠い)」を語源とする大連は、それほどに遠い土地なのです。
小説の「アカシアの大連」というイメージが強く、何となくロマンチックなイメージを抱いて訪れたのですが、実際に街を歩いてみると、人が行きかう路上で普通に散髪をしている風景を見て、「衛生」という観念のなさに驚きましたし、信号のない道路を渡る時、スピードを落とさず、猛スピードで走ってくる車をよけるタイミングが取れずに苦労もしました。逆に、いい意味で驚いたのはスタイルのいい美人をけっこう見かけたことです。聞けば大連は美人の産地として有名で、ガイドさんに聞くと、中国のファッションモデルの7割は大連の出身だと誇らしげに教えてくれました。この辺りの事情は日本も同様で、昔から秋田美人や越後美人と言われるように、日本と同様に東北の女性は肌の白さと身長の高さを併せ持つということかも知れません。そういえばパリでもクレージーホースや、フレンチカンカンで有名なムーランルージュの踊り子さんの大半は北欧生まれだと聞いたことがあります。同じ熊でも、北海道のヒグマと、本州のツキノワグマでは大きさに違いがあることを思えば、気候と身長の高さには相関関係があるのかもしれませんね。
9月19日、福岡から飛んで臨んだ大連国際商貿大厦のオープ二ング・セレモニーに出席させていただいたディスコ会場で、ドラゴンダンスショーを見ていたら「いやー、参りました、オープン記念のノベルティ商品が予定個数を上回って配布を取りやめたら抗議が殺到した」「スタッフ用に用意した弁当がスタッフの数の倍も必要になった」「スタジオの機材が次々無くなる」というお話を坂下さんからお聞きして、「あー、関わらないで本当に良かった」と思いましたね。その後、建設を請け負われた清水建設さんも、工事費の4分の1が未回収のまま終わったことを考えると、彼の国とのお付き合いは本当に難しいなと思わされた出来事でしたね。
そうそう、この年の11月29日から12月1日には、「アジア・パシフイック・フォーラム96」にお招きを受け、上海まで出かけましたね。このフォーラムは、93年から野村證券(取)相談役の田淵節也さんと、朝日新聞アメリカ総局長の船橋洋一さんが中心となって毎年開かれアメリカアジア太平洋各国の有識者を10~12人招き、知的対話を通じてアジア・太平洋の政策研究のあり方を模索しようというもので、アメリカ・イギリス・中国・韓国の方々に加えて、日本からは山口大学・広中平佑学長や東京相和銀行副社長の長田哲夫さん、ヤオハングループ代表の和田一夫さん、上智大学市川博也教授らに混じって私というメンバーでした。多分上海パフォーマンスドールや、マイカル大連さんとの話があってのことだろうとは思いましたが、これも何かのご縁と思い参加させていただきました。
私個人の受け持ちは30分のスピーチと、あとはセッションに参加するということでしたが、セッションを通して感じたのは、中国や韓国の方がまず自国の自慢から入るのに対して、アメリカやイギリスの方は必ずユーモアから入られたことでした。私?私はもちろん後者の方でしたよ。というより、それしかなかったのですけれどね。
アカシヤの大連
旧満鉄本社ビル
満鉄ホテル経営の大連ヤマトホテル
大連駅前を走る市電
大連駅(上野駅に似てます)
麦凱楽大連商場(マイカル)と大連瑞詩酒店(スイスホテル)
宿泊したホテル
当時の企画書
大連のことは現地にお任せするとして、次にオファーをいただいていたのが、1990年小樽市とマイカルグループが協議をして、マイカルグループとJR北海道が共同出資した小樽ベイシティ開発が、国鉄清算事業団から取得した跡地に、99年オープンする予定の「マイカル小樽」への参加でした。キーテナントは小樽ビブレ、他に総合スーパーのサティ、シネコンのワーナー・マイカル・シネマズ、専門店やスポーツクラブ、ホテルヒルトン小樽までを併設した当時としては国内最大級の大型商業施設への参加でした。
かつて、港湾都市として栄え、21もの銀行や、商社が集積し、「北のウォール街」と呼ばれた頃ならともかく、定住人口15万人の街で果たして採算が取れるのかという懸念はありましたが、マイカルさんが進出を決められた背景には、小樽運河沿いのブロムナードが整備され、86年に63基のガス灯が設置された辺りから、レトロな街並みと共に観光地としての評価を高めていたことがあったように思います。北一硝子の工芸館、運河から200メートルの至近距離にある小樽寿司屋通り、それに何と言っても大きかったのは91年に開設した石原裕次郎記念館でした。3歳から9歳までの6年間をこの地で過ごされたという縁で、裕次郎さんの死後4年で作られたこの記念館は、2年目に126万人の入場者を数える人気スポットになっていました。
私個人的には、村松友視さんの小説『海猫屋の客』で知られる、増山誠さん経営の、地元、後志(しりべし)の食材に拘った3階建のレンガ造りレストラン、「海猫屋」がお気に入りでした。今一つは駅近くの静屋通りにある「キャバレー現代」、ニシン漁3大網元の1つ白鳥家の別宅だったものを、戦後の48年に進駐軍向けのビアホールに改築、「GENDAI」としてスタートしたのですが、51年キャバレー現代に改称、日本人も入れるようになって一時期はホステス50人を抱えるほどの人気を博していたのですが、晩年にはホステスさんの平均年齢が60歳を超えるようになり、中には70・80歳を超えるホステスさんも在籍するようになっていました。当然、若者は札幌のすすき野へ流れ、店に来るのは地元の高齢者と、怖いもの見たさの観光客ばかりになっていました。私もその中の一人で、マイカルの坂下さんたちと行ったのですが、天井が高くて、中央にダンスフロア、バンドステージもありました。ゆっくりとした背もたれの赤いソファーに座ってホステスさんと話をしたのですが、この種の店にありがちな隠微な気配などさらさらなく、まるで母親と話をしているようでした。10時を回ってふと見るとコックリコックリと船をこいでいるホステスさんもいましたね。1時間ほど滞在して、料金は1人5000円ほどだったと思いますが、これが高かったのか安かったのかは判断の付きかねるところです。残念なことに、「キャバレー現代」は99年秋に50年の、そして「海猫屋」も2016年9月に40年の歴史に幕を閉じました。「キャバレー現代」の方はホステスさんが皆、息絶えたので仕方がないとは思いますが、「海猫屋」さんはもっと続けて欲しかったものですね。もう一つ、泊まったことはなかったのですが、旧北海道拓殖銀行を改装したレトロ感漂う「ホテル ヴィブラント オタル」も素敵でした。金庫室を改装したバーで一度(ジンジャーエール)を飲んでみたかったものです。残念ながらここも2017年2月に閉じてしまったそうです。
村松友視・著「海猫屋の客」
海猫屋
海猫屋オーナーの増山誠さん
小樽運河
小樽の寿司屋通り
キャバレー現代
当時のスタッフと女給さんたち
ガラス工芸館
ホテル ヴィブラント オタル
読売テレビさんと制作会社を作ったのもこの頃、98年でした。先行していたMBSさんとは73年にITSという制作会社を設立していたのですが、より関係を密にするため、YTVさんとも会社を作ることになりました。決め手になったのはドラマでもお世話になった今岡大爾さんの存在が大きかったように思います。
昔は吉本も局別に担当者がいて、NHKは川崎さん、MBSは影山さん、ABCは河井さん、KTVとYTVは井上さんという先輩が仕切っており、マネージャーが自分の担当するタレント以外で、プロデューサーと関わることはそれほどなかったこともあって、「11PM」や三枝さんの「ザ・恋ピューター」、「御堂筋パレード」などを担当されていた今岡さんとのお付き合いはほとんどなかったように思います。もちろんお顔だけは拝見していたのですが、パンチパーマをかけた風貌が恐ろしくて、「お笑いネットワーク」や、「笑の会」を主宰されて演芸の活性化に尽力されていた有川寛さんをお訪ねした折に、遠くからただ眺めていただけのことでした。
お付き合いが出来たのは、私が東京から帰り、制作部長になって、92年にYTVが制作をする連続ドラマ13作目の「愛情物語」の共同制作をご提案いただいた頃からだったと思います。86年4月から始まったこのシリーズで、今岡さんはそれまで担当をされていた荻野慶人さんに代わって、87年10月スタートの4作目「おさと」からチーフプロデューサーを務められていたのです。お話をいただいた時、「果たして、我が社で出来るかな?」とも思ったのですが、甲斐智枝美さん主演の3作目「見上げればいつも青空」を松竹芸能がやったと聞いては引き下がるわけにはいきません。
そんなこともあって、以降頻繁にお会いするようになり、93年10月から「ダウンタウンDX」を始めることになったのです。演出は「鶴瓶・上岡のパペポTV」や「EXテレビ」で知られた白岩久弥さん、CPが木村良樹さん、今岡さんが制作だったと思います。
強面に見える今岡さんでしたが、お付き合いをしてみると結構お茶目な一面もあって、奥さんと愛犬ピョンコちゃんを乗せてドライブしている時、折悪しく踏切の途中でエンストをしてしまい、後部座席に奥さんを残したまま、助手席の愛犬だけを抱いて脱出したエピソードには笑ってしまいました。幸い電車が停止してくれて事なきを得たのですが、もし止まらなかったら大惨事になったところでした。家に帰った後、奥さんの冷たい視線にさらされる姿を想像しただけで笑えますよね。当時、大阪随一の高さを誇った、天満のOMMビル屋上の回転展望レストラン「ジャンボ」で、今岡さんが女性と楽し気に食事をしていると、視線の先に固定席で奥さんが友人と食事を取っておられる姿が入り、ヤバイ!すぐに隠れようとしたのですが「何せ回転の速度が緩くてなかなか視界から外れなかった」というエピソードにも笑えました。
そのうち、共同で制作会社を作ろうという話になり、形になったのがYTVのYと、吉本のYから取った、「ワイズビジョン」という会社です。出資比率はYTVが51%、吉本が49%。代表取締役社長には、前年YTV番組本部局長待遇企画推進室長から読売エンタープライズ専務に転籍されていた今岡大爾さん、制作の中心を担う白岩久弥さんも取締役に就くことになり、私も非常勤ながら加わって、「ダウンタウンDX」の他、関西ローカル番組の制作などを手掛けることになりました。
残念なことに、2017年8月4日、今岡さんは旅立たれてしまいました。私が退職後構えていた事務所を東京へ移して以来、お目にかかる機会もなく、「一度お会いせねば」と思っていた最中、奥様からの訃報に接し、ただただ茫然と立ち尽くすばかりです。「今岡さん、本当にお世話になりました。いつか、あの世でお目にかかり、出来れば回転しない方の席で、思い出話に花を咲かせましょうね。」
今岡大爾さんと奥様と一緒に
有川寛さん
「ザ・恋ピューター」
「ダウンタウンDX」
「鶴瓶・上岡のパペポTV」
「鶴瓶・上岡のパペポTV」の台本
当時、大阪一の高さを誇ったOMMビル
回転展望レストラン「ジャンボ」
うめだ花月シアターでは、スペシャル公演の終わった後、UKプロジェクトを立ち上げ、93年から通常の昼席の他に、ドン・キホーテと和泉修さんがメインになって、日替わりゲストの漫才、コント・マジック・ファンキーロケッツのダンス・コメディをとりまぜたバラエティショー「吉本BokeBokeナイト寄席」や、謎のイベント「お笑い虎の穴」などを行っていました。更に95年からは「天然素材」に次ぐユニットとして結成されたNSC12期生6組(COWCOW・ビリジアン・スキヤキ・シンドバット・ブラザース・おはよう)のフルーツ大統領が出演、MBSの「嵐MASSE!」などの番組も付いたのですが、大人の客はNGKに、若い中・高校生の客は、天然素材メンバーによる「2丁目えぶりい亭」や、千原兄弟を中心とした「WACHACHA LIVE」に流れて、依然苦戦を強いられたままでした。
このあたり、劇場のコンセプトや出演者の問題というより、ロケーションの事情もあったと思います。私も梅田花月を閉じて2年間ほどこの地を訪れることはなかったのですが、久しぶりに訪れた曽根崎商店街が以前に比べ、どこか寂しくなっているように感じたのです。梅田花月へ行く際によく通っていた、名前に合わず濃いコーヒーを出す喫茶「アメリカン」や広東料理の「桃花園」、店主が捕虜になった際、ロシア兵が食べていたものをヒントに創ったといわれる、とんぺい焼の元祖「本とんぺい」、お好み焼きの「ゆかり」、ライブハウスの「amHALL」こそ残ってはいましたが、かつての賑わいに比べると、通りを行きかう人の数がかなり減っているように思えたのです。
扇町筋を入って、近松門左衛門の「曽根崎心中」の舞台になったといわれる露天神社(お初天神)まで、たかだか300mくらいの短い商店街でしたが、往時は多くの店が立ち並び、アーケードが架っていたこともあって、雨の時にも賑わいが絶えなかったように思います。ドーナツ化のあおりを受けてか、通りにあった明治7年開校の曽根崎小学校も、校舎こそ残ったものの、85年には堂島小学校と合併を余儀なくされ、89年梅田東小学校と合併し、校名を大阪北小学校と改称して残りはしましたが、全校生徒数は僅かに148名、いずれ廃校になるのは時間の問題とささやかれている有様でした。
NGKや2丁目とどう棲み分けていけばいいのかと考えている時に、ヒントをいただいたのがオフィス100%の尾中美紀子さんでした。尾中さんは、かつてボクサーを辞めた赤井英和さんを阪本順治監督の映画「どついたるねん」、「王手」で見事俳優として蘇らせ、その後、国村準さんをマネジメントして今日の姿にした方です。国内の舞台・ドラマ・映画ばかりではなく、香港の映画事情にも精通されていて、新喜劇や2丁目で演出をしていただいている湊裕美子さんも所属している事務所の社長として、湊さん同様、女を捨てて(いや、捨ててはいないか?)頑張っておられました。「なら、いっそ、単館系の映画館ってどうでしょう?」という言葉にのってみようと思ったのです。そういえば、吉本でも、旧なんば花月の地下に88年まで「花月シネマ」という名画座を持っていたことがありました。逆に空間の狭さも活かせるかもしれないと思ったのです。堂島にあった大毎地下劇場も、ミナミにあった戎橋劇場や大劇名画座も既になくなっていました。それを「採算に合わない」と捉えるか、逆に「チャンス」と捉えるかは別れるところではありますが、あいにく私は後者の方だったというわけです。とはいえ、昼間の興行をすべてやめるというわけにはいきません。そこで昼間は通常の興行を行い、夜7時からは映画館「うめだ花月シアター“夜だけ映画館”シネマワイズ」として映画の興行を始めることにしたのです。
フルーツ大統領
露天神社(お初天神)
曽根崎お初天神通り
尾中美紀子さん(左)と湊裕美子さん
なんばにあった「花月シネマ」
シネマワイズのチラシ
とは言え、さしたるノウハウもない我々に、映画の番組編成ができるわけもなく、ここでもオフィス100%の尾中さんの人脈とブッキング力に頼ることになりました。経験を積んでいくうちに、きっと自前のスタッフも育っていくだろうと思ったのです。96年2月1日、まず最初の上映作品となったのは、高橋伴明監督の「セラフィムの夜」、94年に出版された花村萬月さんの原作を映画化した作品で、主演が大沢逸美さんと白竜さん。「二人の男女が、それぞれ自らのアイデンティティーを求めて彷徨う」という少々ややこしい作品で、1月にヘラルド映画で試写を見た時には「うーん!」とは思ったものの、それは自分の単なる好みかも知れないと思い、あえて口にすることはありませんでした。
高橋監督のお名前は、82年に三菱銀行人質事件を題材にした作品「TATTOO<刺青>あり」に西川のりお・上方よしおコンビをブッキングさせていただいたことがあって、かねてより存じ上げておりました。主演が宇崎竜童さんと関根恵子さん、他にも渡辺美佐子さんや植木等さん、原田芳雄さん、主題歌を内田裕也さんと、そうそうたる顔ぶれが揃っていた作品でした。79年に大阪の北畠支店で事件が起きた時、一晩中まんじりともせず、テレビに映る銀行のシャッターを見入っていた記憶があります。あれほど熱心にテレビを見たのは、72年に起こったあさま山荘事件以来のものでした。あくる日会社へ行くと、出会う人が皆一様に真っ赤な腫れぼったい目をしていました。この作品への出演依頼は、製作を務められた井筒さんからだったと思いますが、すぐに応じたのはきっとそんな自らの体験もあったのだと思います。
記者発表に臨んだ席で、「セラフィムの夜」という作品の内容のことは監督にお任せして、私は吉本が映画をやる意義を語りつつ、心中では、「TATTOO<刺青>あり」がきっかけになって、関根恵子さんと結婚したのはこの人か!監督っていいよなあ!」と羨む気持ちで伴明さんの横顔を眺めていたような気がします。
更に9・10月は阪本順治監督の、「どついたるねん」「王手」に次ぐ新世界3部作のトリとなる「ビリケン」をメジャーと同時に、上映することになりました。以降も「不良モン百発百中」「KIDS」「岸和田少年愚連隊」「ガキ帝国」など個性的なプログラムが組まれていきました。併せて映画製作の方では、97年に「岸和田少年愚連隊 血煙り純情編」を千原兄弟主演で、98年「岸和田少年愚連隊 望郷編」を竹中直人さん、りあるキッズ・長田融季君主演で作りました。この作品には、セディックの中沢さんからのご紹介を受けた、丸紅の古里靖彦部長とのお付き合いが始まったこともあって、丸紅さんからのご出資もいただきました。丸紅さんとは同じ年に、豊川悦司さん、真木蔵人さん主演の「愚か者 傷だらけの天使」と、桃井かおりさん主演の「大怪獣東東京に現わる」の2作品を作らせていただきました。「傷だらけの天使」は、74年から75年にかけて萩原健一さんと水谷豊さん主演のNTVのヒットドラマで、監督を深作欣二・神代辰巳・工藤栄一・恩地日出夫という映画監督の俊英が務め、メインライターが気鋭の市川森一さん、主題歌は井上堯之バンド。プロデューサーは「太陽にほえろ」や「熱中時代」「前略おふくろ様」で名をはせた清水欣也さん、通称シミキンさんという何とも豪華な顔ぶれでした。清水さんのお名前は、ドラマ畑の人間でもない私でもそのお名前を存じ上げていたくらいですからその世界では著名な方でした。私との接点は多分、86年に清水さんが年末ドラマ「白虎隊」のプロデューサーをされた時、木村一八君と西川弘志君の出演依頼を受けた時くらいのものだと思いますが、ふんぞり返るわけでもなく、なかなかユニークで楽しい方だったように記憶をしています。
「セラフィムの夜」
「TATTOO<刺青>あり」
三菱銀行人質事件
製作クレジット
「大怪獣東東京に現わる」
第2作
第3作
それ以外にも、オリジナルのコンテンツを増やすべく、シネマワイズ独自の作品もいくつか作りました。それが、「マネージャーの掟」、「父危篤!面会謝絶」、「ハンコください!」、「どケチピーやん物語」、「大阪好日」「たこやき刑事」など、新喜劇のタレントを中心にした6作品で、製作を吉本・ビデオチャンプ・ツインズ・オフィス100%、配給をオフィス100%が担当しました。他にも坂田利夫さんと細川直美さん主演の「平成名探偵 阪田京介」と、第二弾の「OSAKAビッグリバーブルース」を作り、主演の坂田利夫さんに加え、主題歌の「憂歌団」の皆さんや、秋本祐希・角田信明・佐川満男さんたちに助演をしていただきました。そうそうJDの白鳥智香子さんにもお付き合いいただきましたね。こちらは2作品とも吉本音楽出版とスターポートが製作、配給は吉本音楽出版が担うことになりました。
スタートして2年ほどはそうこうするうちに過ぎたのですが、やがて皆のアイデアが尽き、疲弊の度合いが深まった頃、自ら手を挙げてくれたのが吉田久美子という女性の社員でした。もともと映画が好きで、卒業時に映画会社の募集がなく、吉本に入社したいきさつもあって、シネマワイズには関わっていたのですが、それならいっそ彼女に委ねてみるかということになったのです。彼女の打ち出した方針は「名画座として2本立てをやる」「原作があって、ビデオ化されていないものに絞る」「1企画につき1イベントをやる」というものでした。なかでも最初にやった「怪談特集」で稲川淳二さんを招いての怪談トークや、「ドリフ特集」で高木ブーさんを招いてのトークイベントは好評を得ました。そのうち、当たるのはアニメだと閃いて、「ルパン」の特集をやった際、モンキーパンチさんのトークショーをやり、次回作としてロシアの「雪の女王」をやるべく打ち合わせで上京した際に、ロシアのミッキーマウスと言われる「チェブラーシカ」と出会うのです。感性の鈍った私などには、全くその良さは理解できませんが、きっと彼女の心をそれほどまでに捉える何かがあったのでしょう。
翌春、シネマワイズは3年あまりの歴史に幕を閉じることになるのですが、吉田さんはそれを機に吉本を退職し、「チェブラーシカ・ジャパン」を設立、「チェブラーシカ・カフェ」までも開いて、今も元気に活躍中です。今一人、私もお世話になった、大阪シナリオ学校で事務局長をされていた山崎さんの娘さん、山崎紀子さんも、美術学校在学時にシネマワイズでアルバイトをされていて、今は大阪西区九条の「シネヌーヴォ」の支配人になっておられることを思うと、シネマワイズは作品ばかりではなく、人も遺す事が出来たのかなと思っています。
吉田久美子さん
山崎紀子さん