木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 「ニチイ」さんは1963年、天神橋筋商店街の「セルフハトヤ」と千林商店街の「赤のれん」という衣料品店を中核に、卸問屋の「エルピス」、京都の「ヤマト小林商店」を加えた4社で設立された会社で、社名の所以は「日本衣料」の略とも、「日本一」からとったとも言われている総合スーパーでした。

 82年、先代社長の後を受けた小林敏峯さんが社長に就任されたのは、それまで順調に成長を続けてきたスーパー業界に、「冬の時代」が訪れた時代でもありました。大手スーパーは軒並み減益となり、ニチイさんも創業以来初の大幅な減益を記録していました。不振の原因は消費構造の変化にありました。モノ不足が解消され、消費者の求めるものが、価格の安さから多様性に移り、安ければ売れるという発想が通じなくなっていたのです。併せて先代からの宿願だったユニーとの合併も破談になり、「安売りもダメ」、「スケール拡大もダメ」という頭打ち状態を打破すべく、小林社長が打ち出したのが、単なる安売りと決別、生活づくり、街づくりを事業対象に、生活文化産業集団への脱皮に賭けるという「マイカル宣言」だったのです。

 この命題のもと、89年旧米軍居留地跡に、楽しめるアーバンリゾート型のショッピングセンター「マイカル本牧」をオープン、90年には総合スーパーの「ニチイ」を「サティ」や「ビブレ」に転換する一方で、83年には、「翼の折れたエンジェル」がカップヌードルのCMソングに採用された中村あゆみさんや、浅香唯さんが所属していたレコード会社「ハミングバード」をワーナーパイオニアと設立、93年には日本初のシネマコンプレックス、「ワーナー・マイカル・シネマズ」1号店を海老名市にオープンしていました。

 その後、96年には商号も「マイカル」に変更していかれるのですが、私がお付き合いを始めたのは、その前のことでしたから、皆さんから頂いた名刺には「ニチイ」と書かれたものばかりでした。ともあれ、同じ関西に地盤を置き、文化にも理解がある企業であるという事でお互いにシンパシーを感じ合えたのかもしれません。

 最初、ニチイの方とお目にかかったのは、94年10月4日のことでした。お相手は、営業開発部の角田取締役と坂下部長でした。古曳さんの根回しもあったのでしょう、単なるご挨拶に終わらず、ニチイさんと吉本が提携の第一弾として、一緒にキッズメイトに向けた公演をやりませんかというご提案を受けたのです。ニチイさんは、これまで幼年者や小学生に向けた「わんぱくメイト」という会員を募って、店舗でゲームや、着ぐるみのキャラクターのイベントをすることで家族連れの集客を図ってこられたのですが、今回、名前を「キッズメイト」と改めるのを機に、マスコット・キャラクターも以前のものを一新して、広くアピールするため11月2日~28日、札幌から福岡まで、全国の劇場で公演をしたいとのことでした。着ぐるみのキャラクター作りは、プロのリップさんにお任せするとして、「果たして、生オーケストラによる音楽とダンスをメインにした、愛と冒険の物語をつくれるのか?」という思いはありましたが、お引き受けすることになりました。

 タイトルは「コウモリ山のためいき星」。横澤さんにもエグゼクティブ・プロデューサーになっていただき、プロデューサーには中井秀範君、梅田花月シアターで、オープニング公演を手がけていただいた谷口秀一さんに作・演出をお願いすることになりました。「雪だるま」こと大木里織君もアシスタント・プロデューサーを務めていましたが、今回は彼女が舞台に登場することはありませんでした。私は11月1日、大阪のシアター・ドラマシティでのゲネプロと、11月28日、福岡電気ホールでの公演と打ち上げに参加しただけですが、短い期間とはいえ、皆の達成感に酔い知れた顔が、一様に輝いていたのを憶えています。

当時、大阪市中央区の日新建物船橋ビルにあったニチイ本社

 

 

 

 

ニチイ

 

 

サティ

 

 

ビブレ

 

 

小林敏峯社長

 

 

 

 

中村あゆみさん

 

 

 

 

 

 

マスコットキャラクターのモーリー(男の子)とモール(女の子)