86年頃だったと思います。当時女子プロレスをゴールデンタイムで放送していた、フジテレビのディレクターから誘われて、川崎市体育館へ行ったことがありました。女子プロレスと言えば、たしか、中学生くらいの頃、テレビで見たことがあるくらいで、リングネームも力道子や東富士子など、力士からとった名前のレスラーがいた記憶しかありませんでした。たしか、今では考えられない「ミゼット・レスラー」なども出ていたように思います。その後、タレントに転向したマッハ文朱さんが出たり、「ビューティ・ペア」(マキ上田・ジャッキー佐藤)の「かけめぐる青春」という曲が大ヒットしたり、アイドルから転向したミミ萩原さんが、113連敗して逆に人気が出た高知競馬の「ハルウララ」のように、87連敗もして史上最弱のレスラーとして話題を呼び、「セクシーパンサー」と呼ばれる人気者になったことは知ってはいたものの、私の抱いていた女子プロレス像は昔見たイメージのままだったのです。
ところが、その日、私が足を踏み入れた場内は、客席が中高生の女の子たちで占められていて、彼女たちがあげる歓声や、投じる夥しい数の紙テープがリングを覆っていたのです。観客のほとんどが男性で、「ある種の色っぽさを期待して見に来ているのでは?」と思っていた、私の予想は見事に覆りました。振り返ってみれば、当時は「クラッシュ・ギャルズ」(長与千種・ライオネル飛鳥)の全盛期でもあったのです。試合そのものは全く印象に残っていないのですが、あの時に体験した昂揚感は、そのあとも記憶に残り続けました。
誤解を招くといけないのですが、私は女子プロレスにある種の「演劇性」を感じていたのです。でないと、年間に何百試合も熟すことはできませんし、ただ単に、強い者が勝つというだけでは、長く客を惹きつけることもできません。何より、ほかの格闘技と違って、双方の良さをそれぞれに発揮させた上で優劣をつけるところが、エンターテインをしていると思ったのです。
調べてみると、日本の女子プロレスの歴史は、力道山がプロレスに転向した51年よりも古く、48年にボードビリアンとして活躍していたパン猪狩とショパン猪狩の兄弟が、アメリカで人気の女子プロレスに目をつけて、「これを日本でショーとして舞台に上げれば、客に受けること間違いない」と、三鷹市の国際基督教大学裏に道場を建て、妹で後に「日本最初の女子プロレスラー」と呼ばれた、猪狩定子さんらに特訓を施したのが始まりだと言われています。ショパン猪狩さんが、「レッドスネーク、カモ-ン!」で知られた、東京コミックショーの方であることを思えば、芸能と女子プロレスが、極めて近い世界にあるという事がわかります。その後、猪狩さんたちは地方巡業をしていたのですが、2年後に日劇小劇場公演をしたところ、警視庁から禁止令が出て自粛を余儀なくされていたのですが、54年2月、力道山がシャープ兄弟と対決した年の11月、新聞社と組んだ猪狩兄弟は、米軍慰問のため来日していた、WWWA世界チャンピオンのミルドレッド・バークやメイ・ヤングら6人を3日間満員にした蔵前国技館のリングに上げ、猪狩定子らの日本人女子レスラーたちに前座を務めさせ、その後、大阪府立体育館・神戸王子公園体育館・京都アイスパレスなどでも公演をしたのです。
川崎市体育館
「ミゼット・プロレス」と呼んでいました。
マッハ文朱さん
ビューティ・ペア
ミミ萩原さん
ハルウララ
クラッシュ・ギャルズ
ショパン猪狩さん
日本最初の女子プロレスラー 猪狩定子さん
WWWA世界チャンピオン ミルドレッド・バーク
メイ・ヤング
94年、中国から帰ったあたりから、少しずつ女子プロレスのことが気になり始め、周辺の人たちから徐々に情報を収集するようになりました。6月には、旭通の岡安さんから、社内の女子プロ通の方を紹介してもらって、提案書をいただいたり、プロレス中継をされていた、制作会社・テレテックの小島社長からご紹介を受けて、全日本女子プロレスの松永会長ともお目にかかり、お話を伺うこともできました。そして11月20日、4万人を動員して、のちに「女子プロレス最大の興行」と言われた全女主催の「憧夢超女大戦」を見るため、東京ドームへ出かけ、メインイベントの北斗昌とアジャ・コングの対戦までの全23試合を観ました。個人的には第2試合でミゼットレスラーのタッグマッチを見られたのが収穫だったのですが、さすがに全試合が終わったのが日を跨いだのには参りました。翌朝8時半の便で帰阪しなければいけなかったのです。
その後もミーティングを重ね、女子プロレスが黎明期や胎動期を経て、「ビューティ・ペア」のアイドル期、更にシューティング・アイドルとしての「クラッシュ・ギャルズ」と、ダンプ松本やブル中野といったヒールが対峙する時代から、全女のアジャ・コングやJWPのダイナマイト関西、FMWのコンバット豊田、ガイア・ジャパンの長与千種、LLPWの神取忍といった「男勝りの女子レスラー」たちが完全決着を繰り返す過激な場と化していることが分かりました。一方で、ミミ萩原の流れを汲む美少女路線はキューティ鈴木に受け継がれ、それをいじめる美少女としての尾崎魔弓や井上貴子などもいたのですが、前述したヒール派の前では、存在感の希薄さは否めないという状況でした。
振り返ってみれば、ちょうどこの94年、男子のプロレスではアントニオ猪木が引退へのカウントダウンを発表して、次第にインディーズ系のレスラーが増えていき、「芸としてのプロレス」のレベルが下っていったのと軌を一にしていたのかもしれません。プロ野球にONに対抗する村山や江夏、大鵬に対抗する柏戸というアンチヒーローの存在が欠かせなかったように、アンチヒーローとしてのヒールばかりが目立つだけでは、エンターテインメントとしては成立しないのです。おまけに前年に、正道会館の石井館長が始めたK1が、ガチの勝負として脚光を浴び、4月30日、代々木競技場第一体育館で行われた「K1グランプリ」では12,000人の観客を集めていました。プロレスは次第に嘗て格闘技界で占めていた座を脅かされつつあったのです。
そんな時期に、どのような女子プロレスを目指せばいいのか?皆との協議を経て出された結論は、従来の概念にとらわれず、美しさも尊重した選手構成にして、既存の戦力の洗い出しや、各方面に才能を求める一方、積極的に人材発掘を推進して、月に数回、後楽園ホールにプロレスを見に来るヘビーなファンではなく、昔女子プロレスが放送されていた頃、テレビでは見ていたけれど、試合を見に来るほどの興味のなかった潜在的な関心層や、無関心層までを取り込んだ、スポーツ・エンターテインメントにしようというものでした。キャッチフレーズは「戦う!宝塚」、団体名は、かの百年戦争で、崩壊の危機からフランスを勝利に導いた少女、「ジャンヌ・ダルク」に因んでBeauty Athlete「Jd‘」とすることになりました。
全日本女子プロレス 松永高司会長
憧夢超女大戦
メイン・イベント
正道会館 石井和義館長
K1グランプリ93の開かれた代々木競技場第一体育館
ジャンヌ・ダルク
95年8月には概略も固まり、吉本興業、旭通信社、テレテックに加え、96年、社会現象と化した「たまごっち」をヒットさせたバンダイのゲームソフト子会社、バンプレストの他に、全日本女子プロレスからの出資も決まり、営業の主体を吉本が執ることになりました。会社名は「吉本女子プロレス」。代表は、4カ月ほど前に、10年ほどいたラジオ大阪からトラバーユして、当時タレントマネジメント部にいた、卯木基雄君に委ねました。彼が長年ラジオで培ったプロデュース力や演出力、コーディネート力を、ぜひとも、この新しい分野で活かして欲しいと思ったのです。
肝心のコンテンツを担うレスラーを集める作業は、「他団体からの引き抜きをしない」という方針もあって、素人の我々だけでは出来ず、全女の松永会長の力を借りる他ありませんでした。まずは、団体としてスタートをして形を整え、その間に次の時代を背負って立つ、新しいスター候補生を育てなければなりません。もしこの時に、山田花子さんが90年、15歳時に、ダイナマイト関西がいたJWPに練習生として所属しながら、後ろ受け身が出来ず、4カ月で辞めた過去を知っていれば、きっと誘っていたとは思うのですが、当時は、残念ながら彼女にそんな過去があったことなど全く知りませんでした。
選手の獲得の方は、松永会長の力添えもあって、ジャガー横田、バイソン木村、白鳥智香子、李由紀の4人に加え、メキシコ・レスラーのローラ・ゴンザレスなどを紹介していただくことが出来ました。気迫溢れるファイトで、「女子プロ界一のストロングスタイル」と言われたジャガー横田は、86年に怪我のためコーチに転向していました。そして、アジャコングと同期のバイソン木村は、ヒールとして活躍をしていたのですが、やはり彼女も92年に、負傷のため第一線から半ば身を引いていました。2人ともにブランクがあるとはいえ、やはりここは、看板になる2人の存在は欠かすことは出来なかったのです。
そして我々が、Jd‘を体現する存在として最も期待したのが白鳥智香子でした。彼女も同じ全女にいて、「お嬢様スタイルのレスラー」として人気を集めつつはあったのですが、腰痛を抱えていたこともあって、壁にぶつかり、退団しようかと悩んでいる時期ではあったのですが、翻意して参加を決意してくれました。他に、李由紀や、TWF世界女子レスリング王者の、ローラ・ゴンザレスもメキシコから参加してくれることになり、一応の人材は揃うことになりました。
こうした、選手の獲得の他に、8月下旬に記者発表をして、他団体への挨拶や選手交流交渉、道場や寮を確保してトレーニングを行うと共に、スカウト活動による選手集めを開始。10月~11月上旬にかけて、バイソンと白鳥をメキシコ修業に出し、凱旋帰国をさせると共に、前座のカード編成に必要なメキシコの若手レスラーの招致をした上で、12月24・25日に、ブル中野をゲストに迎えて、吉本が経営する天保山ハーバービレッジの「ベイサイドジェニー」で大阪での旗上戦を行い、スケジュールを縫って、西川きよしさんにもお越しいただきました。明けて95年4月24日には、折口雅博さんが、前年末に「ジュリアナ東京」に続いてプロデュースした、ヴェルサーチ・フェラーリ・アルマーニを足して名付けたという何ともバブリーな名前の、アジア最大のディスコ、「ヴェルファーレ」で東京の旗上戦を行いました。覆面コミッショナーとして桂三枝さんに参加をしていただき、メインイベントでは、「週刊プロレス」の提供試合として、バイソン木村 VS 豊田真奈美戦を行いました。
その後、商社のトーメンさんにも第三者割当増資に応じていただき、トーメンさんが株を保持されている、BSジャパンで、「ジャンヌダルクへの道〜格闘美宣言〜」「Jd’神話」「格闘美伝説」などを放送し、CATV局へも吉本女子プロレスのコンテンツを供給することになりました。
吉本女子プロレスの代表を務めていただいた卯木基雄さん(写真左から3人目)
携帯ペット「たまごっち」
女子プロレスラーを目指していた頃の山田花子さん
ジャガー横田
バイソン木村
白鳥智香子
李由紀
ローラ・ゴンザレス
1500人収容のディスコ「六本木・ベルファーレ」
Jd‘はその後、全女から引退していた神谷美織が覆面レスラーCoogaとしてカムバック、新人もデビューして、ヒールに転向したライオネス飛鳥との抗争などもあり、徐々に団体としての形は出来てきたのですが、全女出身のジャガーがコーチを務めていたこともあって、育成法も全女と被る面が多く、いかんせん地味な印象を与えたのは拭うことが出来ませんでした。
とは言え、現場では、ただ手を拱いていたわけではなく、Jd’の覆面コミッショナーを務める桂三枝さんの命で、お弟子さんで、ラジオ・パーソナリティの高杉二郎さんをリングアナウンサーに起用したり、坂田利夫さんをコミッショナー役にして、リング上で、「リットン調査団」VS「雨上がり決死隊」による「お笑い王座決定戦」なるトーク・バトルをするなど、Jd‘ならではの色を出すべく工夫を重ねてはいたのですが、東京ドームで行われた「憧夢超女大戦」をピークに、女子プロレス界を見舞っていた退潮傾向を覆すのは至難の業でした。「憧夢超女大戦」は、女子プロレスにとっての頂でもあり、かつ転落の始まりでもあったのです。地上波の撤退、対抗戦の乱発、新しいスターの不在、選手の弱体化など、問題は山積していたのです。
思えば、なまじ団体対抗戦という禁断の果実を味わったがために、ファンによる普段の勝負への関心が薄れた上に、団体が細分化してベテランが各々の団体のトップに座り、彼女たちがその地位に固執するあまり、次代を担う若手を育てて来なかったのです。かつて全女が設けていた「25歳定年制」などは、とうに有名無実化し、まるで昔どこかの劇団で起こったのと同様に、大御所連中ばかりがふんぞり返っている状態に陥っていたのです。当然、夢を無くした若い人たちは去っていきます。Jd’でも、次期エースと目されていたバイソン木村に次いで、白鳥智香子や李由紀に留まらず、将来のエースと期待していた小杉夕子や曽我部美幸までが引退をしてしまいました。まさに、「観客は来ても競技人口が減ったスポーツは、必ず衰退する」という言葉通りの現象が起きていたのです。
「さて困りました」、そこで、この困難な状況を打破するために卯木君が打った手が、「新世紀スター誕生 アクション・シンデレラ・オーディション」というものでした。合格した後の2年間は、まずプロレスに打ち込み、その後は、吉本が制作するテレビや舞台に出てアクション女優として活躍をしてもいいし、そのまま残ってプロレスを続けてもいいというものでした。アスリートとして体を鍛錬すると共に、アクトレスとしての感性も身に付けるという意味で、2つを合わせて、「アストレス」と名付けました。
何としても、斜陽化する業界の概念自体を変えなくてはならないのです。苦しいレッスンに耐えられるのは、その先に希望があるからなのです。希望がないなら人は集まっては来ないのです。そのためにも、もう一度「女性にしかできない華麗な戦いをする」という原点に立ち返ろうという、業界全体への、ある種のアンチ・テーゼでもあったのです。
Cooga
高杉二郎さん
小杉夕子さん
曽我部美幸さん
目の前の仕事に追われ、悪戦苦闘を重ねている内に49歳になっていました。そんな折、新聞社からトラバーユして制作部に入っていた新矢君、そう、吉本がYTVと共同制作をした「愛情物語」のアシスタント・プロデューサーを務めてくれた女性です。確か当時は結婚をして辻という姓になっていたと記憶していますが、彼女を通じて、出版の話が私に持ち掛けられたのです。依頼をしたのは、東京の勁文社という、あまり聞いたことがない出版社でした。調べてみると講談社で、少年向け雑誌「キング」の編集長を務められた加納正光さんが設立された出版社で、フリーライターの佐野眞一さんらと共に、71年に「原色怪獣怪人大百科」を大ヒットさせ、一般誌にも乗り出した中堅出版社であることがわかりました。最初この話を聞いた時は、怪人の部で選ばれたのかと思い(たしかに、怪しい奴ではあるけれど)、それはいかがなものかと躊躇したのですが、よくよく話を聞いてみるとそうではなかったようで、胸を撫で下ろしました。
とは言え、「果たして、こんな自分などが、本を出してもいいのだろうか?」と怯む思いもあったのですが、翌年にはちょうど50歳という節目を迎えるということもあり、「これも何かのご縁かもしれない。ここらで今までの人生を振り返って、これから先を考えてみるのもいいか!」と思い、編集者の中野博季さんにお目にかかることになりました。論語の「五十にして天命を知る」に由来する「知命」という言葉もあるように、今一度、天が自分に与えた使命を確認してみようと思ったのかもしれません。
以降、中野さん、辻君を交え何度か打ち合わせを重ね、本が形になったのは10月20日のことでした。タイトルは「気がつけば、みんな吉本 ~全国吉本化戦略~」。タレントさんたちを売るのは若い優秀な人たちに任せて、私は総体としての「吉本」という会社の名前を売ろうと思ったのです。「想いはマーケティングを超える」という言葉があります。「あの会社はいつも面白いタレントを輩出している!」「あの会社はいつも面白い話題を提供している元気な会社だ!」「あそこと仕事をすれば、きっと面白くなるだろう!」そんな「期待値」が社会を動かす時代だからこそ、まずは言葉を設定し、それに向かってこれからの活動を集約して行こうと思ったのです。大阪出身で「日本マクドナルド」を創業された藤田 田さんの「ハンバーガーを食べさせて日本人を金髪にする」という名言を真似て言うなら、「大阪弁を普及させて日本人を総てお笑いタレントにする」くらいの意気込みでしたね。
とはいえ、「全国吉本化戦略」というタイトルを見て、「何を偉そうに!」と思われないために、「アホうつしたろか運動」とおバカなサブタイトルをつけて、「いえいえ、私どもはただの町人でございますから」というニュアンスを出したかったのですが、残念ながらそれは採用されませんでした。
94年秋、日経新聞の第7回企業イメージ調査で「今後10年間で一番伸びる会社」の一般部門のトップに吉本興業がランキングされましたし、「息子を入れたい会社ベスト200」では153位、「娘を入れたい会社ベスト200」では188位にランクインしました(もっとも「入れたくない会社」ではぐんと上がって31位に入ってはいましたが)。そして、95年日経優良企業ランキングでは上位1000社中、なんと148位に挙げられたのです。そうそう、94年の大阪読売新聞に「戦後1番発達した工業した何ですか?」と先生が尋ねたら、小学生が「吉本興業です」と答えたという話が載っていたこともありましたね。大阪の子のことゆえ、多分にウケを狙ってボケをかましたとは思いますが、69年に私が入社した時、「親戚や近所に言えない」と父親に嘆かれたことを考えると、とても同じ会社だと思えないくらいの変わりようでした。
「私どもは、ただの町人でございます」
ボケをかます子供
嘆いた父
横澤さんが、東京支社長として赴任されたのは、95年2月半ばのことでした。その後、6月の株主総会を経て常務に就任されたのですが、林専務からは招致の理由についてはさしたる説明もなく、ただこちらが忖度する他なかったのですが、東京における吉本のステータスを、内外共、更に上げていくためであったであろうことは想像がつきました。そのためには、今までの知見に加え、やはり横澤さんのようなビッグネームが社の看板として欠かせないという事だったのではないかと想像する他ありません。私にしても、これまで折に触れて、何かとアドバイスを頂いてきた横澤さんが身近に居られたら、これほど心強いことはありません。何なら横澤さんの下について、もっと学ぶことが出来たらとさえ思ったくらいです。そう言えば、林専務が私のデスクに来られて、「横澤さんを常務にするけどいいか?」と聞かれたことがありました。「いいじゃないですか」と答えると、「それならいいけど、そうなったらお前が辞めるという噂があって・・・」とおっしゃったので、「横澤さんを実際に誘ったのは私ですよ、そんなわけあるわけがありませんよ」と返すと、「それならいいけど」と帰って行かれたことがありました。訳知り顔につまらぬことをはやし立てる社内雀というのは、どこにでも生息しているものです。
そんな事情もあり、3月17日にオープンを迎える、渋谷公園通り劇場の初日こそは顔をだしましたが、あとは谷良一君ら当時東京にいたスタッフに任せ、以降のことは横澤さんの指示を仰ぐようにと私の手を離すことにしました。フジテレビさんには、横澤さんへのご配慮もあってか、かねてから重村局長にお願いをしていた劇場からのベルト番組を生放送していただけることになりました。タイトルは「今田耕司の渋谷系うらりんご」、MCの今田君の他、東野幸治、極楽とんぼ、山崎邦正、ナインティナインなど自社のタレントに加え、フォークダンスDE成子坂、山本太郎、鈴木蘭々、矢部美穂さんといった人や、まだ華原朋美という名前になる前の、「遠峯ありさ」さんに加え、「うらりんギャル」という女の子たちが出演していたように記憶しています。
当然横澤さんが来られて、東京を担当されることは予測されたので、私の大阪シフトを進めていくうちに、今までより深くお付き合いをするようになった方もおられました。その中のおひとりが、株式会社リップの古曳良英さんです。もちろん、ABCの「あっちこっち丁稚」に出てくる着ぐるみの「伝次郎」や、KTVの「さんまのまんま」の「まんまちゃん」を製作された会社の社長だという事は存じてはいましたが、収録時にお会いするだけで、それほど、じっくりとお話をすることもなかったのですが、ふとしたことで食事を共にすることになり、以降ABCのテレビ制作部長をされていた長崎直定さんなどを交えたりして、お付き合いを深めるようになりました。
長崎さんはそのお名前から、「ばってんさん」という愛称で呼ばれていた方で、当初はカメラマンとして入社をされたとかで、嘘か真か、番組の収録の最中に、当時貴重品だったテレビカメラを崖の上から落下させたことがあるという逸話で知られた人でした。一見、ぶっきらぼうで尊大な方に見えたのですが、お話をすると、とてもチャーミングな方であることがわかりました。ただ、カメラ落下事件の真相だけは、ついにお聞きすることは出来なかったのが心残りです。こうして何度かお付き合いを重ねるうちに、古曳さんの会社が着ぐるみを使ったイベントをしていて、大手スーパーの「ニチイ」さんとお付き合いがあることがわかり、「一度、ニチイの方に会ってみませんか?」という運びになったのです。
司会の今田耕司君
うらりんギャル
古曳良英さん
「あっちこっち丁稚」
あっちこっち丁稚に出演中の「伝次郎」
「伝次郎」
「まんま」ちゃん
「トラッキー」もこの会社です
長崎直定さん
※イメージです
「ニチイ」さんは1963年、天神橋筋商店街の「セルフハトヤ」と千林商店街の「赤のれん」という衣料品店を中核に、卸問屋の「エルピス」、京都の「ヤマト小林商店」を加えた4社で設立された会社で、社名の所以は「日本衣料」の略とも、「日本一」からとったとも言われている総合スーパーでした。
82年、先代社長の後を受けた小林敏峯さんが社長に就任されたのは、それまで順調に成長を続けてきたスーパー業界に、「冬の時代」が訪れた時代でもありました。大手スーパーは軒並み減益となり、ニチイさんも創業以来初の大幅な減益を記録していました。不振の原因は消費構造の変化にありました。モノ不足が解消され、消費者の求めるものが、価格の安さから多様性に移り、安ければ売れるという発想が通じなくなっていたのです。併せて先代からの宿願だったユニーとの合併も破談になり、「安売りもダメ」、「スケール拡大もダメ」という頭打ち状態を打破すべく、小林社長が打ち出したのが、単なる安売りと決別、生活づくり、街づくりを事業対象に、生活文化産業集団への脱皮に賭けるという「マイカル宣言」だったのです。
この命題のもと、89年旧米軍居留地跡に、楽しめるアーバンリゾート型のショッピングセンター「マイカル本牧」をオープン、90年には総合スーパーの「ニチイ」を「サティ」や「ビブレ」に転換する一方で、83年には、「翼の折れたエンジェル」がカップヌードルのCMソングに採用された中村あゆみさんや、浅香唯さんが所属していたレコード会社「ハミングバード」をワーナーパイオニアと設立、93年には日本初のシネマコンプレックス、「ワーナー・マイカル・シネマズ」1号店を海老名市にオープンしていました。
その後、96年には商号も「マイカル」に変更していかれるのですが、私がお付き合いを始めたのは、その前のことでしたから、皆さんから頂いた名刺には「ニチイ」と書かれたものばかりでした。ともあれ、同じ関西に地盤を置き、文化にも理解がある企業であるという事でお互いにシンパシーを感じ合えたのかもしれません。
最初、ニチイの方とお目にかかったのは、94年10月4日のことでした。お相手は、営業開発部の角田取締役と坂下部長でした。古曳さんの根回しもあったのでしょう、単なるご挨拶に終わらず、ニチイさんと吉本が提携の第一弾として、一緒にキッズメイトに向けた公演をやりませんかというご提案を受けたのです。ニチイさんは、これまで幼年者や小学生に向けた「わんぱくメイト」という会員を募って、店舗でゲームや、着ぐるみのキャラクターのイベントをすることで家族連れの集客を図ってこられたのですが、今回、名前を「キッズメイト」と改めるのを機に、マスコット・キャラクターも以前のものを一新して、広くアピールするため11月2日~28日、札幌から福岡まで、全国の劇場で公演をしたいとのことでした。着ぐるみのキャラクター作りは、プロのリップさんにお任せするとして、「果たして、生オーケストラによる音楽とダンスをメインにした、愛と冒険の物語をつくれるのか?」という思いはありましたが、お引き受けすることになりました。
タイトルは「コウモリ山のためいき星」。横澤さんにもエグゼクティブ・プロデューサーになっていただき、プロデューサーには中井秀範君、梅田花月シアターで、オープニング公演を手がけていただいた谷口秀一さんに作・演出をお願いすることになりました。「雪だるま」こと大木里織君もアシスタント・プロデューサーを務めていましたが、今回は彼女が舞台に登場することはありませんでした。私は11月1日、大阪のシアター・ドラマシティでのゲネプロと、11月28日、福岡電気ホールでの公演と打ち上げに参加しただけですが、短い期間とはいえ、皆の達成感に酔い知れた顔が、一様に輝いていたのを憶えています。
当時、大阪市中央区の日新建物船橋ビルにあったニチイ本社
ニチイ
サティ
ビブレ
小林敏峯社長
中村あゆみさん
小林社長が「脱スーパー」を目指してつけられた、マイカル(MYCAL)というのは、Young&Young Mind Casual Amenity Lifeの略で、当初考えられた案では、YM-CALだったそうですが、世界的な建築家でありデザイナーとしても世界的評価を受け、「創造の天才」と呼ばれていたエミリオ・アンバース氏にアドバイスを求めたところ、3音節より2音節の方が発音をしやすい、MYが「私の」という意味で親しみを感じてもらえる、CALは明るいカリフォルニアのイメージを連想させるということで、Yの字とMの字を入れ替えたのだと言われています。
この理念を具現化したのが「マイカル本牧」だったのです。何度かニチイさんの方とお目にかかって、お話を伺っているうち、「やっぱり、自分の目で見てみたくなって、訪れたことがあります。さすが、横浜市の「街並み景観大賞」を受賞しただけのことがあって、とても米軍の居留地跡に建ったとは思えない、スパニッシュ・コロニアル様式でベージュ色に統一された外観の美しさに目を奪われました。物販ゾーンばかりではなく、ラトーヤ・ジャクソンがライブをしたことがあるNYと提携した「アポロシアター」もありましたし、名画を上映する「シネ・スイッチ」や、エンターテイメント作品を上映する「シネページ」の2館があるシネスクエアには、バットマン・カーの実物が展示されていましたし、将校クラブを再現したバーの「オフィサーズクラブ」もありました。とりわけ、私が気に入ったのがホテル「ルファール本牧」でした。歩くたびに足が沈むスペースソフト工法が施され、クッション性のある床が何とも心地よく、今でもその感触が残っていますね。
89年のオープン初年度には、来客数で東京ディズニーランドを上回る1,500万人を集めるほどの盛況を見せたのですが、93年にランドマークタワーなどの新名所の完成もあって、頼みとしていた横浜高速鉄道みなとみらい線の延伸も凍結され、交通アクセスの悪いマイカル本牧は徐々に「みなとみらい21」に客を奪われるようになっていくのです。
そして、私たちが次に仕掛けたのが、96年12月25・26日の2日間にわたる「マイカル・吉本大博覧会 in 東京ドーム」というイベントでした。朝の10時から午後7時まで、漫才・落語・新喜劇などのお笑いから、音楽や女子プロレス、モーリー・モールまで様々な形のエンターテインメントを一度に体験できて、なおかつ、マイカルグループのパワーをプラスして、一日中ファミリーやカップルで楽しめるというものでした。西川きよしさんや桂三枝さんらの大御所に加え、今田耕司、東野幸治、トミーズ、ナインティナインら総勢200名のタレントが東京ドームに集結するイベントでしたが、グランド部分に設えられたそれぞれのブースを観客席から眺めると、さすがに東京ドームは広かったですね。
エミリオ・アンバース氏
MYCALのマーク
アポロシアター
ラトーヤ・ジャクソン
オフィサーズクラブ
ルファール本牧
95年6月には、桂三枝さんの幻の参議院選出馬騒動もありました。レギュラー番組の調整もあり、ご迷惑をかけることになる放送局や代理店の担当者へアプローチをしなければいけないのですが、当然その動きはマスコミの知るところとなるわけです。東京のマスコミが騒がしくなった9日金曜日の夜は、同じ関西大学出身ということもあり、かねてから三枝さんが親しくされていた「パソナ」の南部さんにお願いをして匿っていただき、翌10日、伊丹を避けて、わざわざ関空便で大阪へ帰り、本社で打ち合わせをして、週明けの月曜、12日に記者会見を行うことになりました。ところが11日、日曜日に電話が入り、午後1時本社でお待ちしていた私の前に、奥様と友人の「UPスポーツ」の山崎社長を伴って現れた三枝さんの口から出た言葉は「出馬を断念する」ということだったのです。
もともと、会社としては積極的に賛意を示していたわけでもなく、ご本人の意思が覆ったのは有難いことではあるのですが、さて、困りました。翌日に設定した記者会見で「何と言えばいいのだろう?」と悩みながら窓外に目をやっていると、以前から親しくさせていただいていた某新聞社の部長から電話が入り、「武村大蔵大臣が会いたいと言ってるから、夜の10時に京都全日空ホテルの〇〇〇号室へ来ませんか?」とのことでした。「いったい何の用件だろう?」とは思ったのですが、大蔵大臣とお会いできる機会というのもそうはないだろうしと思って出かけることにしました。
部屋へ通され、座るや否や、「ムーミンパパ」の口から出たのは、「今回の選挙に、三枝さんが新党さきがけから出ませんかね?」という言葉でした。一瞬、「またその話かよ」とは思いましたが、時の大蔵大臣にそんな失礼な口を利くわけにはいきません。その間の事情を縷々説明させていただき、席を辞そうと腰を浮かせると、「三枝さんがダメということなら、Bさんは?」と同じ門下の落語家さんの名前を挙げられました。「何や、誰でもええんかい」とは思いましたが、そんなことはおくびにも出さず、「いやあ、彼はまだ、今の世界で頑張りたいんじゃないですかね」と申し上げてその場を離れました。
さて翌月曜日、本社で中邨社長と林専務の前で最後の意思確認をした後、三枝さんは記者会見に臨みました。私も三枝さんの横で会見の様子を見ていたのですが、「出馬します」というならともかく、「出馬しません」ということになり、会見場のムードがいささか盛り上がりに欠けるものになったのは否定できませんでした。とは言え、この時に出された結論は、ご本人にとっても、会社にとっても、「よし」とすべきものであったような気がします。それにしても、密度の濃い、なんとも疲れの溜まる数日間でしたね。
桂三枝さん
武村正義さん
ムーミン・パパ
記者会見をした南海サウスタワーホテル
震災の翌年、96年4月にハーバーサーカスで「吉本海岸通り劇場」を始めたのも、もとはと言えば、三枝さんと南部さんとのお付き合いから始まったことです。パソナ創業者の南部靖之さんは、関西大学工学部を卒業した後、76年人材派遣会社を設立、たった4人だったスタッフを、96年には国内外で12万人、グループ企業100社を超えるまでに育て上げ、ソフトバンク創業者の孫正義さん、HIS創業者の澤田秀雄さんと共に、「ベンチャー3銃士」の一人と称された方です。そんな南部さんが、生まれ故郷の神戸のために、わずか2年で撤退した後、1年間空きビルになっていた「旧神戸西武百貨店」ビルの再興を手掛けることになったのです。
コンセプトは「エンターテインメント・デパートメント・ストア」、通常の売り場の他に、被災した多くの商店主の方々の受け皿になる 1坪ショップも設けられていました。館内には電車を走らせたり、ホテル同様のコンシェルジュを配してお客様に対応するなどの工夫も凝らされていたのですが、その一環として、笑いを提供する吉本にも関わってもらえないかというお話が、三枝さんを通じて林専務に伝えられたのです。メイン・プランナーは三枝さん。パソナ側の責任者は、たしか竹鶴さんというニッカ・ウイスキー創業者の血族の方だったと記憶しています。
打ち合わせを重ねるうちに、3D花月というプランが浮上し、三洋電機さんにも加わっていただき、事業が具体化していくことになりました。もちろん、3D映像を流すばかりではなく、ライブでも「アチャコ鳥」というキャラクターの子供向けのショウや、メッセンジャーや水玉れっぷう隊のトークバトル&ゲーム番組、サンテレビの「アチャコTV」の生中継もやりましたね。
残念なことに、神戸市が再開発事業として始めたハーバーランドも、当初は「神戸西武百貨店」や「神戸阪急百貨店」、高島屋が大阪ガスと共同経営したファッションビルの「オーガスタプラザ」、阪急・東宝グループや三菱倉庫が出資した、オープンスクエアのウォーターフロントに面した複合商業施設、「神戸モザイク」などが集積して、「東のみなとみらい・西のハーバーランド」と注目を集め、国土交通省の「都市景観100選」にも選ばれたのですが、JR神戸駅から、国道2号線と阪神高速道路3号神戸線に分断されたロケーションの故か、三宮や元町が復興するに従って、徐々に来場客を奪われていくようになったのです。残念ながら、ハーバーサーカスも2003年には撤退を余儀なくされてしまいました。
京都生まれの私には、大阪から京都と逆方向へ移動するのはどこか億劫さもあり、それまであまり神戸へ行く機会もなく過ごしていました。ところが、このハーバーサーカスの件があって以来、幾度か訪ねるうちに、少し神戸の魅力らしきものが解るようになってきたのです。なかでも三宮駅前のレトロ感のある「にしむら珈琲店」や、明治調の座敷で食べるしゃぶしゃぶの「とけいや」、秘伝のソースでフランベしたへレ肉をカリッと焼き上げたステーキの「KOBE A1」、美しい夜景を見ながらフレンチをいただく北野の「セントジョージ・ジャパン」などがお気に入りでした。「えっ誰と行ったかって?」たしか、女房と・・・じゃなかったかと思いますが。
ハーバーサーカス
店内
パソナ創業者の南部靖之さん
アチャコ鳥
神戸モザイク 外観
にしむら珈琲店
神戸しゃぶしゃぶ発祥の店「とけいや」
ステーキの「KOBE A1」
これがフランベ
セントジョージ・ジャパン