木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 横澤さんのお披露目は1月4日、サウスタワーホテルで開かれた社員総会の席でした。居並ぶ社員を前にして、いささかの緊張感もあってか、当時の吉本に三和銀行や住友銀行から転籍していた役員がいたことを捩って、「富士(フジ)から来ました」とご挨拶されたのですが、「さて、どんな人?」と覗う社員の前では、若干スベリ気味だったのを憶えています。その後、名古屋への出張などもあって、私が個人的に歓迎の宴を持たせていただいたのは、たしか10日、ミナミの「大和屋三玄」でのことだったと思います。

 その後13日には福岡出張、15日には、阪本順治監督の「BOXER JOE」の公開イベントが開かれた大阪城ホールへ出かけていました。当時の辰吉選手は、網膜剥離のため、ボクシング・コミッションから国内での試合を禁じられていたのですが、特例で限定復帰をした前年12月4日、薬師寺選手とのWBC世界バンタム級王座決定戦に臨むまでの、苦悩と再生を描いた内容だったと思います。イベントの司会を桂文珍さんがしていたこともあって見に行ったのですが、感動的な作品だったと思います。横山やすしさんと同じ、「アンチヒーロー」的な要素を、辰吉選手にも感じていたのかもしれませんね。

 明けて16日月曜日に東京へ、成人式の振替え休日とあって、久しぶりに家族サービス。デパートへ行ったり、「美々卯」で会食をしたりと、世間のお父さんのようなことをして過ごしました。知人からの電話で起こされたのは、翌17日の、たしか朝7時くらいだったと思います。前日、慣れぬことをしたせいか目覚めが悪く、寝ぼけまなこで妻から渡された受話器を取ると、「木村君、すぐにテレビでNHKを見て!」とのこと、つけられていたテレビに目をやると、8歳と6歳の子が見ていたのは、同じNHKでも、宇宙の彼方にある星のにこにこ島を舞台に、「じゃじゃ丸」「ピッコロ」「ポロリ」の3人が、共に笑い・喧嘩し・泣き・冒険をする、勇気と友情溢れる物語の幼児番組「にこにこぷん」の方だったのです。

 「いったい、この人は何を焦っているの?」と思って、「見ていますよ、それが何か?」と返すと、「神戸で地震があって、大変なことになっている」とのこと。急いでNHKのニュースの方にチャンネルを切り替えると「神戸で地震」というニュースが流れていました。とは言え、電話が不通、携帯電話の普及率もまだ5%の時代とあって、神戸の知り合いに問い合わせることもままならず、ただひたすらテレビからの情報を見守るしかなかったのですが、午前中はまさか、あれほどの大きな被害が出るとは予想もしていなかったように思います。いつもより少し遅めに家を出たものの、1時に渋谷で境和夫さんに会い、2時半に六本木のホテルアイビスでTBSの塩川和則さんと会っています。塩川さんとは、85年1月1日放送のドラマ「勝手にしやがれ殺人事件」の主演に横山やすしさんを起用していただいて以来のお付き合いで、当時は編成部におられて、「動物奇想天外」「筋肉番付」などヒット番組を企画立案され、視聴率が低迷していたTBSを2位に復活させた立役者ともいわれた人です。何を打ち合わせたのか憶えてはいませんが、多分渋谷絡みの案件であったように思います。お二人との打ち合わせでも、さほど神戸での震災が話題に上がることもなく、6時半から開かれる、フジテレビ主催の「横澤さん送別会」が開かれる京王プラザへ向かったのですが、いざ、着いてみると、飛行機も新幹線もストップしていて、メインの横澤さんばかりではなく、吉本側の主賓挨拶をする西川きよしさんも出席ができないとのこと。当時、西川さんは参議院議員を務めていて、議会の開かれる週の始めに上京して議員活動、週末の夕方に帰阪してタレント活動というスケジュールで動いていたのです。もし月曜が休日でなければ間に合ったのですが、ここは東京に残っておられたヘレン夫人にお願いをするということで、収まったのですが、肝心の横澤さんが、出席できないというのはカバーのしようがありません。

 アクシデントと言えば、そうなのですが、せめて、お集まりいただいた方々への「お礼の言葉だけは申し上げねば」という事で、なぜか、私が務めざるを得ない羽目になったのです。

宗右衛門町の大和屋三玄

 

 

 

 

辰吉丈 一郎さんと阪本順治監督

 

 

にこにこぷん

 

 

NHKの第一報

 

 

 

 

次いで

 

 

初めの頃に報じられたのは・・・

 

 

ところが実は・・・

 

 

ついに村山総理も会見

 

 

塩川和則さん