木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 実はこのイベントを行った裏には、近々渋谷にも劇場進出を図ろうという目論見があったのです。例によって林専務から、「渋谷にリカビルというのがあるから、一度見ておくように!」という指示があったのです。東京事務所を開設する時と同様、やはりこの時も、変わらずワンフレーズでのご下命でした。普通なら、「かくかくしかじかの事由でこうしようと思うから、ついては、こういう目途のもとに計画を進めてくれ」という説明があるのですが、この人の場合はそれが一切なく、ひたすらこちらが忖度する他ありません。もっとも、その方が自由度が高まって、こちらとしても、やりやすいという事もあるにはあるのですが・・・

 それにしても、「まだ3月に銀座7丁目劇場をオープンしたばかりなのに!」という思いはあったのですが、よくよく考えれば、銀座がオーセンティックな街であるなら、渋谷は若者文化を中心にした活気に溢れた街、銀座が100人強のキャパしかないなら、渋谷はその3~4倍のキャパが取れるという事もあって、双方が稼働すれば、東京における吉本のプレゼンスが一気に上がるであろうということは想像がつきました。東京のプロダクションが自前の劇場を持たず、寄席やライブ、テレビにタレントをブッキングしているのに対して、自らの劇場でタレントを発掘・育成していく吉本のやり方は、一見非効率に見えて、真に力のあるタレントを育てるには最適の方法だという確信があったのです。

 リカビルは、思ったよりパルコから至近距離にありました。地下というのが少し気になりましたが、ロケーションとしては申し分ありません。パルコさんとの接触を図る一方で、フジテレビの重村編成局長に、94年秋から95年春の「ノン・プライムタイム(19時00分~23時00分を除く時間帯)改革の俎上に乗せていただけないか」とお願いをして実現したのが、95年3月27日から始まった、「渋谷系うらりんご」という番組だったのです。ただ、私と渋谷公園通り劇場との関係はここまでで、後は当時東京支社にいた、北海道帰りの木山君や、大阪から異動していた谷良一君の手に委ねました。

 谷君というのは、京大の国文を出た人間で、万葉集を諳んじているという逸話があるらしいのですが、私にはそれよりも〇〇〇ランドへ行った折に、お相手の女性が使った言葉の定義が違うと説教をして、頭から水をぶっかけられたというエピソードの方が印象に残っています。こちらが何かを言うと必ず「えっ、ナンスか?」と聞き返すので、いらいらしながら念を押す私に返す返事が、じゃまくさそうに「ハイハイ」。「ハイは1回でええんじゃ!」と声を荒げたことが何度かありました。後に、桂三枝さんのマネージャーを務めていた女性と社内結婚をしたのですが、家でもやはり、「ハイハイ」と言って奥さんに「ハイは1回でよろしい!」とチェックをされているんでしょうかね。

 

 

渋谷公園通り劇場ターゲット戦略図

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな近くにありました

 

 

谷良一君