木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 3月に銀座7丁目劇場を立ち上げた後、更に東京への深耕化を図るため、渋谷でキャンペーンを行うことになりました。場所はかねてより目をつけていた「公園通り」です。この地は、渋谷区役所や渋谷公会堂が出来た70年に「区役所通り」と名付けられていましたが、73年に「公園」を意味するイタリア語からとった「渋谷パルコ」が出来たのを機に、代々木公園に通じる道ということもあって、地元商店街の要望を取り入れ、「公園通り」と改められていました。

 若者に人気のショップもあったのですが、何と言っても、山手教会の地下で、中村伸郎の一人芝居や、淡谷のり子、美輪明宏、高橋竹山のライブ、永六輔のトークイベント、イッセー尾形の一人芝居などを公演していた、ライブハウスの「ジァン・ジァン」や、ユーミン、中島みゆき、吉田拓郎、井上陽水、忌野清志郎のライブや、細川俊之・木の実ナナの「ショーガール」、自主プロデュース公演の先駆となった「ラヴ・レターズ」を行っているパルコ劇場があるのが魅力でした。

 68年西武百貨店渋谷店、73年西武劇場(パルコ劇場)、パルコ、75年パルコ パートⅡ、87年ロフト館をオープンして、それまで渋谷の繁華街の中心であった駅前と道玄坂からその地位を奪った公園通りは、作家でもあったカリスマ経営者 堤清二さんの「店を造るのではなく、街を創るのだ」「文化を消費に取り入れる」というイズムが横溢した街でもあったからです。73年パルコのオープン時のキャッチ・コピーは、GAROの「公演通り」という曲にも反映された、「すれちがう人が美しい 公園通り」でした。百貨店のコピーも糸井重里さんを起用し、「不思議、大好き」、「おいしい生活」というのですから並の感性の人ではありません。85年にはスーツ姿の内田裕也さんが、ニューヨークのハドソン川を泳ぐというインパクトのあるコマーシャルを流して、世間を驚かせていました。

 既にこの頃にはセゾングループの総帥として経営に辣腕をふるってこられた堤清二さんも、パルコの経営を担ってこられた増田通二さんも退かれてはいましたが、お二人の残されたDNAがまだ受け継がれていたとしたら、「果たして吉本のテイストを受け入れてもらえるかな?」という懸念はありました。おまけに、パルコにも、商店街にも全くコネはありません。「さて、どこからアプローチしようか?」と思案を巡らせていたところ、ある人の顔が浮かびました。「そうだ。あの人に相談してみよう。もしかしたら、攻略の糸口が見つかるかも知れない」と藁にも縋る思いで連絡を取ったのが境和夫さんでした。と言っても、決してこの方が藁のような人というわけではありませんよ、念のため!

パルコ

 

 

ジァン・ジァンのプログラム①

 

 

ジァン・ジァンのプログラム②

 

 

 

 

ショーガール

 

 

ラヴ・レターズ

 

 

堤清二さん

 

 

ガロ 公園通りの歌詞

 

 

すれ違う人は美しい

 

 

 

 

糸井重里さんの考えたコピー「おいしい生活」

 

 

ニューヨークのハドソン川を泳ぐ内田裕也さん

 

 

増田通二さんの著書

 

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 その藁、いや、境さんからお電話をいただいた時に、「今、パルコ劇場のプロデュースをやっている」とおっしゃっていたのを思い出したのです。この方と初めてお目にかかったのは、たしか74年の初頭だったと思います。超人気番組「新春かくし芸大会」をフジテレビと共同制作していた渡辺プロで、当時キャスティングをされていた前原雅勝さんや杉山恵さんと共に来阪された時だったと思います。前原さんや杉山さんとは、以前に他の番組でお世話になったこともあってすでに顔見知りだったのです。皆さんからの要件は、4月から始まるTBSの木曜19時からの30分番組「アタック真理ちゃん」に桂三枝さんを起用したいとのことでした。当時の天地真理さんは「白雪姫」の愛称で呼ばれ、同じ71年デビュー組の南沙織さん、小柳ルミ子さんと共に「新3人娘」と呼ばれ絶大な人気を誇っていました。余談ですが西川きよしさんも大の真理ちゃんファンで、自らが司会をしている「シャボン玉プレゼント」に真理さんが入った時、色紙を持ってサインの列に並んでおられたのを憶えています。「司会者なんだから、楽屋でコッソリもらえばいいのに!」とは思ったのですが、この辺りが律儀な西川さんらしいと言えば、そうなんですけれど・・・。

 それはさておき、当時は自分の担当でもない三枝さんのスケジュールをまさか勝手に決めるわけにもいかず、先輩の担当マネージャーである松田亮平さんに話を繋いで、無事まとまったのですが、打ち合わせの席で、どう見ても年長でありながら、余り話をされない境さんのことが気になって、杉山さんに尋ねると、もともとは東京新聞におられた方で、縁あって渡辺プロに来られた方とのことでした。これで、「自分達のいる業界の人と少し匂いが違うな?」と思っていた疑問が解けました。話が上首尾に終わったお礼の意味なのか、ホテルでの夕食にご招待いただいた際、こちらも気を利かせて、社会情勢などに話を振ると、途端に饒舌になられたのを見計らって、「ところで、境さん、こちらの方は?」と小指を立てて尋ねると、途端に愛好を崩して、「ええ、これが大好きなんですよ!」とおっしゃったのが今でも耳に残っています。境さんがトイレに立たれた隙に、杉山さんがこそっと、「会社では境さんのことを、アンギラスって呼んでいるんですよ」とおっしゃったので、「まあなんと酷いことを!」と思ったのですが、後で映画「ゴジラ」に出てくる暴竜・アンギラスの写真を見ると、失礼ながら「満更似ていなくもないな」と思ってしまいました。

 この境さんが渡辺プロ在籍時に、森進一さんの「港町ブルース」の2番の歌詞を元の「港、宮古 釜石 大船渡」から、自分の生まれ故郷である気仙沼に変え、「港、宮古 釜石 気仙沼」にしたという説がありますが、真偽のほどは分かりません。境さんは以降、前原さんと共に、渡辺プロが共同制作をするTBSの「笑って笑って60分」や、ドラマ「哀愁学園」のプロデューサーを務め、その後、渡辺プロを退職されて、プロデュース会社「オフィス・ターボ」を設立され、前原さんは渡辺プロの制作会社「ザ・ワークス」の社長、会長を務められました。杉山さんは76年から88年までフジテレビと渡辺プロが共同制作をしていた「クイズ・ドレミファドン!」のプロデューサーをされていて、大流行していた「インベーダーゲーム」の手ほどきをこの方からしていただいた記憶があります。

 94年4月6日、指定されたパルコパートⅠの2階にあるヨーロッパ風の喫茶「a・i・u・e・o」で、公演通りを行き交う人たちに目をやっていると、「アンギラス」、いや失礼、境さんが現れました。さすがに、新喜劇で島木さんが登場した時のように、「死んだ振り」はしませんでしたけどね。

 

 

新番組「アタック!真理ちゃん」の番組欄

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どんな味やねん?

 

 

「笑って笑って60分」の台本

 

 

境さん(イメージ)

 

 

前原雅勝さん

 

 

「港町ブルース」の歌詞

 

 

死んだふり

 

 

HISTORY

第話

 久しくお会いしてこなかった空白を埋めるかのように、互いの近況を話し合った後、本題に入る前に、増田さん以降のパルコの状況などをお聞きした上で、吉本として「東京進出にインパクトを与えるためにも、ぜひパルコさんと組みたい」という意向を伝えました。次にパルコの武田常務とお会いしたのは6月8日でしたから、この間に境さんが鋭意根回しを図っていただいたのだと思います。10月31日から11月3日くらいなら可能性があるというお返事をいただき、次回は企画内容を詰めてお会いするという事にして、都度、境さんのアドバイスを頂きながら、社内の主要メンバーとのミーティングを重ねました。タイトルは「渋谷リトルオーさか4Days~史上最大の営業~」。パルコ劇場での花月公演の他に、広報からイベントプロデュース部に異動していた竹中功君の出した案を入れて、パーク・スクエアに「リトル・オーサカ・センター街」を作り、シンボルに通天閣を模した櫓を建て、河内屋菊水丸さんの音頭に合わせる盆踊りや、今宮えびす神社や、たこ焼き・お好み焼き屋の店が、オーサカのおっさん付きで出店するなど、大阪テイストに溢れた催事を行おうというものです。

 菊水丸さんは80年に吉本入りをして、84年、「新聞(しんもん)詠み」という創作音頭のジャンルを開拓して、関西を中心に活躍をしていたのですが、リクルートのフロムAの姉妹誌が発売される火曜・金曜に合わせて「カーカキンキン、カーキンキン」と歌ったCMソングが話題を呼び、CD化された「カーキン音頭」も20万枚のヒットになり、「ミュージック・ステーション」や「紅白歌合戦」、「徹子の部屋」に出演するなど一躍全国区に人気者になっていました。この仕掛人が竹中君でした。直前に「リクルート事件」を取り上げた音頭を作っていたことを懸念する代理店に向かって「関係ありません」と押し切ったというのですから、見上げた根性をしているというほかありません。菊水丸さんは、その後、イギリスのBBCの音楽番組「イースタン・ヒット」に出演するなど海外でのライブ活動にも手を広げ、91年12月のソ連崩壊の3日前には、赤の広場でゲリラ・ライブを行っていました。フロムAのCMが関東地区限定でありながら、CM認知度が98.5%と高く、彼の出演もパルコ企画の実現の助けになったことは確かです。

 その後も現場間で擦り合わせを繰り返しながら、10月27日、パルコの山田社長にお目にかかれ、ようやく念願の企画が実現する運びとなりました。所用もあって、私は初日と最終日しか顔を出せなかったのですが、概ね意図は叶えられたのではないかと思っています。それにしても企画の実現に多大の貢献をしていただいた、境和夫さんには、ただただ感謝する他ありません。本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

竹中功君

 

 

新聞(しんもん)詠み「タイガースV音頭」

 

 

新聞詠み「ワイは、横山じゃ」

おや?B面に「木村政雄物語」が・・・

 

 

ソ連崩壊を伝える新聞

 

 

赤の広場

 

 

HISTORY

第話

 実はこのイベントを行った裏には、近々渋谷にも劇場進出を図ろうという目論見があったのです。例によって林専務から、「渋谷にリカビルというのがあるから、一度見ておくように!」という指示があったのです。東京事務所を開設する時と同様、やはりこの時も、変わらずワンフレーズでのご下命でした。普通なら、「かくかくしかじかの事由でこうしようと思うから、ついては、こういう目途のもとに計画を進めてくれ」という説明があるのですが、この人の場合はそれが一切なく、ひたすらこちらが忖度する他ありません。もっとも、その方が自由度が高まって、こちらとしても、やりやすいという事もあるにはあるのですが・・・

 それにしても、「まだ3月に銀座7丁目劇場をオープンしたばかりなのに!」という思いはあったのですが、よくよく考えれば、銀座がオーセンティックな街であるなら、渋谷は若者文化を中心にした活気に溢れた街、銀座が100人強のキャパしかないなら、渋谷はその3~4倍のキャパが取れるという事もあって、双方が稼働すれば、東京における吉本のプレゼンスが一気に上がるであろうということは想像がつきました。東京のプロダクションが自前の劇場を持たず、寄席やライブ、テレビにタレントをブッキングしているのに対して、自らの劇場でタレントを発掘・育成していく吉本のやり方は、一見非効率に見えて、真に力のあるタレントを育てるには最適の方法だという確信があったのです。

 リカビルは、思ったよりパルコから至近距離にありました。地下というのが少し気になりましたが、ロケーションとしては申し分ありません。パルコさんとの接触を図る一方で、フジテレビの重村編成局長に、94年秋から95年春の「ノン・プライムタイム(19時00分~23時00分を除く時間帯)改革の俎上に乗せていただけないか」とお願いをして実現したのが、95年3月27日から始まった、「渋谷系うらりんご」という番組だったのです。ただ、私と渋谷公園通り劇場との関係はここまでで、後は当時東京支社にいた、北海道帰りの木山君や、大阪から異動していた谷良一君の手に委ねました。

 谷君というのは、京大の国文を出た人間で、万葉集を諳んじているという逸話があるらしいのですが、私にはそれよりも〇〇〇ランドへ行った折に、お相手の女性が使った言葉の定義が違うと説教をして、頭から水をぶっかけられたというエピソードの方が印象に残っています。こちらが何かを言うと必ず「えっ、ナンスか?」と聞き返すので、いらいらしながら念を押す私に返す返事が、じゃまくさそうに「ハイハイ」。「ハイは1回でええんじゃ!」と声を荒げたことが何度かありました。後に、桂三枝さんのマネージャーを務めていた女性と社内結婚をしたのですが、家でもやはり、「ハイハイ」と言って奥さんに「ハイは1回でよろしい!」とチェックをされているんでしょうかね。

 

 

渋谷公園通り劇場ターゲット戦略図

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな近くにありました

 

 

谷良一君

 

 

HISTORY

第話

 さて、横澤さんとの件をお話せねばなりません。94年の年明け5日、林専務と共に、恒例の大阪局へ新年のご挨拶回りをしている移動の最中、不意に「横澤さん、吉本へ来てくれんかなあ?お前、ちょっと聞いてみてくれ」と言われたのです。「えっ!横澤さんをですか?」、予想もしない言葉に驚きつつ、「分かりました」と返事をして、さっそくお目にかかるべく連絡を取り、目黒の椿山荘でお目にかかったのは12日のことでした。

 この頃の横澤さんは、「カルチャー路線」でフジテレビの黄金期を築いた鹿内春雄氏が早逝された後、後を継いだ宏明氏の構想から外れ、役員待遇エグゼクティブ・プロデューサーとして、「夢列島」など大型番組の担当はされていたのですが、92年からは、同じフジテレビ系列のポニーキャニオンが出資をする「ヴァージン・ジャパン」を兼務、ヴァージンが撤退した後は、「メディア・レモラス」というアニメソングをメインにする小さなレコード会社に社長として出向されていました。「レモラ」はコバンザメという意味で、「メディアに張り付いて進め」という事らしいのですが、とてもあの横澤さんがされるような仕事ではなかったように思います。私などには一切愚痴めいたことはおっしゃいませんでしたが、フジテレビを視聴率トップに押し上げた功労者の一人でもある横澤さんの心中を察すると、何やら割り切れないものがあったに違いありません。

 いつものように笑顔で現れた横澤さんの第一声は「相談があるって、またどこかで始める番組のこと?」というものでした。以前ほどの頻度ではなくとも、事あるごとに相談を持ち掛けてきた私のことだから、またいつもの・・・」と思われたのも不思議ではありません。しばし近況などを報告し、フジテレビの状況などを伺った後、意を決して「実は、林が吉本へ入っていただけないかと申しているのですが」と切り出すと、しばしの沈黙の後、「秘密の厳守」をお願いされ、「返事をする期限」を尋ねられました。もちろんこのことは、中邨社長と林専務、そして私だけしか知らないこと、期限については林専務に確かめるという事でこの日は別れたのですが、私が受けた感触では「脈があるかな?」というものでした。

 林専務にはそのことを伝え、待遇や職務について私が聞くのも僭越なので、あとは林専務にお任せをして、6月21日、横澤さんと中邨社長、林専務、私の4人で紀尾井町にある、魯山人が愛したという料亭「福田家」で会食をして、フジテレビ側の感触を伺いました。88年早逝された鹿内春雄さんの後を担って、一時父の信孝氏が復帰されたものの、その信孝氏も90年に亡くなられ、92年7月にその後を継がれていた女婿の宏明氏を解任して鹿内家の支配を断ち切られたお二人、社長の日枝さんと、元社長で、当時は産経新聞の社長をされていた羽佐間重彰さんに相談されたようで、日枝さんは賛成、羽佐間さんは懸念を示されたとのことでした。とは言え、ご本人の下された結論は揺るがず、10月25日、再び同じ3人でフジテレビを訪ねて、日枝久社長と、羽佐間重彰さんにご挨拶をさせていただきました。これで無事、横澤さんのフジテレビ年内退社と、95年1月からの吉本に正式入社が決まったわけです。

 まずは社の空気に慣れてもらうため、しばし大阪のホテルに滞在していただく事になったのですが、フジテレビ主催の「横澤さん送別会」が京王プラザホテルのエミネンスホールで開かれる1月17日の朝、戦後最大の大規模災害といわれる、あの「阪神・淡路大震災」が起きたのす。

椿山荘

 

 

メディア・レモラス

 

 

コバンザメ

 

 

紀尾井町「福田家」

 

 

 

 

フジテレビ編成局長時に懺悔する日枝久さん

 

 

水をかぶる日枝さん

 

 

もしかしたら横澤さんをフジに戻さなかったのはこの時の恨み??

 

 

ニッポン放送 編成局長時代に「オールナイト・ニッポン」を作られた羽佐間思彰さん

 

 

京王プラザホテルの「エミネンスホール」

 

 

HISTORY

第話

 横澤さんのお披露目は1月4日、サウスタワーホテルで開かれた社員総会の席でした。居並ぶ社員を前にして、いささかの緊張感もあってか、当時の吉本に三和銀行や住友銀行から転籍していた役員がいたことを捩って、「富士(フジ)から来ました」とご挨拶されたのですが、「さて、どんな人?」と覗う社員の前では、若干スベリ気味だったのを憶えています。その後、名古屋への出張などもあって、私が個人的に歓迎の宴を持たせていただいたのは、たしか10日、ミナミの「大和屋三玄」でのことだったと思います。

 その後13日には福岡出張、15日には、阪本順治監督の「BOXER JOE」の公開イベントが開かれた大阪城ホールへ出かけていました。当時の辰吉選手は、網膜剥離のため、ボクシング・コミッションから国内での試合を禁じられていたのですが、特例で限定復帰をした前年12月4日、薬師寺選手とのWBC世界バンタム級王座決定戦に臨むまでの、苦悩と再生を描いた内容だったと思います。イベントの司会を桂文珍さんがしていたこともあって見に行ったのですが、感動的な作品だったと思います。横山やすしさんと同じ、「アンチヒーロー」的な要素を、辰吉選手にも感じていたのかもしれませんね。

 明けて16日月曜日に東京へ、成人式の振替え休日とあって、久しぶりに家族サービス。デパートへ行ったり、「美々卯」で会食をしたりと、世間のお父さんのようなことをして過ごしました。知人からの電話で起こされたのは、翌17日の、たしか朝7時くらいだったと思います。前日、慣れぬことをしたせいか目覚めが悪く、寝ぼけまなこで妻から渡された受話器を取ると、「木村君、すぐにテレビでNHKを見て!」とのこと、つけられていたテレビに目をやると、8歳と6歳の子が見ていたのは、同じNHKでも、宇宙の彼方にある星のにこにこ島を舞台に、「じゃじゃ丸」「ピッコロ」「ポロリ」の3人が、共に笑い・喧嘩し・泣き・冒険をする、勇気と友情溢れる物語の幼児番組「にこにこぷん」の方だったのです。

 「いったい、この人は何を焦っているの?」と思って、「見ていますよ、それが何か?」と返すと、「神戸で地震があって、大変なことになっている」とのこと。急いでNHKのニュースの方にチャンネルを切り替えると「神戸で地震」というニュースが流れていました。とは言え、電話が不通、携帯電話の普及率もまだ5%の時代とあって、神戸の知り合いに問い合わせることもままならず、ただひたすらテレビからの情報を見守るしかなかったのですが、午前中はまさか、あれほどの大きな被害が出るとは予想もしていなかったように思います。いつもより少し遅めに家を出たものの、1時に渋谷で境和夫さんに会い、2時半に六本木のホテルアイビスでTBSの塩川和則さんと会っています。塩川さんとは、85年1月1日放送のドラマ「勝手にしやがれ殺人事件」の主演に横山やすしさんを起用していただいて以来のお付き合いで、当時は編成部におられて、「動物奇想天外」「筋肉番付」などヒット番組を企画立案され、視聴率が低迷していたTBSを2位に復活させた立役者ともいわれた人です。何を打ち合わせたのか憶えてはいませんが、多分渋谷絡みの案件であったように思います。お二人との打ち合わせでも、さほど神戸での震災が話題に上がることもなく、6時半から開かれる、フジテレビ主催の「横澤さん送別会」が開かれる京王プラザへ向かったのですが、いざ、着いてみると、飛行機も新幹線もストップしていて、メインの横澤さんばかりではなく、吉本側の主賓挨拶をする西川きよしさんも出席ができないとのこと。当時、西川さんは参議院議員を務めていて、議会の開かれる週の始めに上京して議員活動、週末の夕方に帰阪してタレント活動というスケジュールで動いていたのです。もし月曜が休日でなければ間に合ったのですが、ここは東京に残っておられたヘレン夫人にお願いをするということで、収まったのですが、肝心の横澤さんが、出席できないというのはカバーのしようがありません。

 アクシデントと言えば、そうなのですが、せめて、お集まりいただいた方々への「お礼の言葉だけは申し上げねば」という事で、なぜか、私が務めざるを得ない羽目になったのです。

宗右衛門町の大和屋三玄

 

 

 

 

辰吉丈 一郎さんと阪本順治監督

 

 

NHKの第一報

 

 

 

 

次いで

 

 

初めの頃に報じられたのは・・・

 

 

ところが実は・・・

 

 

ついに村山総理も会見

 

 

塩川和則さん

 

 

HISTORY

第話

 送り出す側のフジテレビさんのご挨拶は、横澤さんたち制作マンが作ってこられたフジテレビの黄金期を編成面で支えてこられ、2001年に社長になられた村上光一さんがされました。たしか、当時は常務取締役編成局長だったと思います。とても洒脱で、人望の厚い方でした。とはいえ、「クリープを入れないコーヒーなんて・・・」という森永乳業のコマーシャルではありませんが、アクシデントのためとはいえ、主役不在となってしまったパーティは、今一つ盛り上がりに欠けるものになったことは否めませんでした。

 京王プラザを後にした私は、8時半に約束をしていた旭通の岡安さんや石井さんにお会いするため、銀座日航ホテルに向かいました。いくつかの案件を打ち合わせした後、岡安さん行きつけのクラブに立ち寄って帰ったのですが、まさかこの件が後に波紋を呼ぶなどとは夢にも思っていませんでした。18日朝、7時45分発のANA便で帰阪して、本社へ向かうタクシーから眺めた風景は、いつもとさして変わりなく、運転手さんに尋ねると、武庫川を越えると「景色が一変している」とのことでした。さすがにこの日は来客もなく、打ち合わせもすべてキャンセル。楠葉の実家に帰って母に聞くと「揺れはしたけど、被害はなかった、ただ庭の灯篭の上の部分が落ちただけ」と言ったので、見ると、なるほど灯篭の宝珠の部分が転げ落ちていました。「こんなもん、簡単や!」と言いつつ持ち上げようとしたのですが、いやその重いこと!結局、庭師さんに来ていただいて積んでもらったのですが、わが力のなさに唖然としましたね。

 それはともかく、19日には東京からのお客様もあって、北新地へ繰り出しました。店も何軒かは休んでいましたが、目に入る光景も、ほぼいつもと変わらず、食事の後、訪ねたクラブで、当時、兵庫県境に近い西淀川区に住んでいた、南原清隆さん(ナンチャン)に似た、「お笑い系ホステスさん」の、「結構家が揺れて、ヤバイなと思ってたら、なんと寝たきりのお父ちゃんが、突然、普段看病をしてもらっている母親と、私を踏みつけて、真っ先に外へ逃げたんよ!これってどう思う?」なんて話に耳を傾けて笑っていました。このお父さん、これ以降、とても肩身の狭い人生を送られたことだと思います。

 ところが、それから2,3日程して、大阪スポーツに「タレントの被害をよそに、吉本興業の役員が銀座で豪遊」という記事が出てしまったのです。誰のことかと思い、読み進むと、なんと自分のことだったのです。「えっ?いつ、銀座で、豪遊、したっけ?」と振り返ると、旭通さんと行った時しかありません。第一、自分は酒も飲めないし、おまけに初めて連れていかれた店に、ただ居ただけなのに・・・」という思いはありましたが、翌日、中邨社長からは「時期が時期だけに自粛するように」というお小言を頂戴しましたね。寛平さんや文珍さんの家が被災されたことを思うと、自分が身をもって体験していないだけに、どこか、よそ事のように感じていたのかもしれないと、大いに反省させられた出来事でした。

村上光一さん

 

 

森永乳業のコマーシャル

 

 

灯篭の部位

 

 

倒壊した生田神社

 

 

倒壊した阪神高速道路の橋脚

 

 

かろうじて落下を免れたバス

 

 

完全に倒れてフラワーロードをふさいだ柏井ビル

 

 

こんな顔のホステスさん

 

 

 

 

HISTORY

第話

 93年10月25日、日本経済新聞社から出版された「会社の年齢」によると、「吉本興業の企業年齢は93年3月末で35.7歳。83年3月末は68.8歳だったから、30歳以上も若返り、若返り幅は調査対象2352社中、最大だった」と記されています。続いて、「会社の年齢の算出根拠となっている、5年間の平均増収率、従業員の平均年齢、設備年齢を、同じ大阪を中心に興行を営むコマ・スタジアムと比較して、吉本の若さがいずれも目立つ」と、多彩なメディアや業態へ展開する姿勢を評価しています。もちろん総てが成功したわけではありませんが、果敢にチャレンジをしていくという企業の姿勢が評価されたわけです。とりわけ、カリスマ・林会長の亡きあと腕を揮って来られた、中邨社長の手腕によるところが大きかったように思います。

 関西学院大学でラグビーをやっておられ、立派な体躯で押し出しも強く、どこから見てもリーダー然としていた人でした。マージャンも好きで、マージャンを知らない私などは、その席に加わることもできず、ただ周辺から眺めているだけのことでした。ひょうきん族で、多少の揶揄を込めて、タレントに「お前ら、働け!働け!でないと、ワシら楽でけへんがな!」と「働け光線」を浴びせるシーンがあったと思いますが、そのシーンに出演していた吉本のタレントが、一様に、ビビリながら演じていたのを憶えています。「アバウト中邨」と異名があったように、大様な性格であるように思われていますが、私には、その実、細心な人であったと思われます。でないと、部下のリーチが伸びないからです。決して頭ごなしに否定されるようなことはせず、まずは相手の言い分を聞いてから、という姿勢は崩されなかった気がしますね。亡き林会長が、一時期吉本の社長を退かれた際に、社外に去っておられたこの人を、社長復帰時、自ら口説いて社に戻されたのは、大正解だったと言って過言ではありません。吉本にとって、正に「中興の祖」と呼ばれて然るべき人であったという気がしています。

 実はこの時期、私は他の案件も手掛けていて、その中の一つがプロレスリングでした。吉本の林正之助・弘高兄弟は、戦後、大相撲を廃業して、アメリカへプロレス修行に出かけていた力道山を空港に迎え、新田建設の新田新作社長や、浪曲興行を手掛けていた永田貞雄氏と共に、53年「日本プロレス協会」、翌54年「日本プロレス興行株式会社」を設立。新田社長のもと、林正之助・弘高兄弟も永田氏と共に役員に就任。力道山と「柔道の鬼」木村政彦がタッグを組んで、シャープ兄弟と対決する試合はNTVに加えて、なんとNHKでも全国放送され、プロレスの一大ブームを引き起こしました。57年、路線の対立から、力道山袂を分かつことになりましたが、のちのプロレスブームの発端となったのは、正にこの時だったのです。

 私もいつか、林会長が、シャープ兄弟と並んで撮られた写真を見せてもらったことがありますが、どう見ても、シャープ兄弟より林会長の方が強そうに見えたのを憶えています。当時のことを知る大谷さんという古参の上司から聞いたところでは、客が押し寄せて、お札をバケツに入れて上から踏みつけないと入らないほど儲かったそうです。「時々は、自分の懐にも入れたけど・・・」などと、話を盛り上げるための脚色も加えつつ、懐かしそうに話しておられました。そうです、この人が新入社員の私を、何の説明もなく京都花月に置き去りにした人だったのです。伏見稲荷の広場に設えられた街頭テレビを、漫然と眺めていた子供の頃が、懐かしさと共に頭の中に蘇りましたね。

 

 

中邨秀雄さん

 

 

 

 

吉本興業とコマ・スタジアムの年齢格差

 

 

 

 

関脇時代の力道山

 

 

 

 

タッグを組んだ力道山と木村政彦

 

 

シャープ兄弟との試合

 

 

 

 

 

 

プロレス 力道山戦を見るため群らがっている人たち

 

 

HISTORY

第話

 街頭テレビから3年後、受像機が5万台から100万台に普及して、定期的にプロレス中継が始まった時の視聴率が、なんと87%だったといいますから、まさに日本中の目が力道山に注がれていたといっても過言ではないのではないかと思います。これほど力道山のプロレスが支持されたのは、欧米諸国への敗北感が未だ拭えずにいた人々が、必殺の空手チョップで、体の大きな外人レスラーを叩きのめす力道山の姿にカタルシス(精神の浄化作用)を憶えたからだと思います。

 大阪が中心で18歳から吉本入りした兄の正之助さんと共に、姉のせいさんを支えてきた3歳年下の弘高さんは、中央大学卒業という事もあって、東京支社長という立場で、柳家金語楼さんや柳家三亀松さん、川田晴久さん等所属タレントを抱え、浅草や江東、横浜伊勢佐木町で劇場経営をされ、34年、日劇でのマーカスショウの招聘には、この方の果たした役割が大きかったといいます。どちらかというと演芸中心の大阪とは異なり、レビューやボードビルや軽演劇が好みだったようです。なぜか、47年に弘高さんは吉本興業から分離独立され、東京で江利チエミさんのデビュー時のマネジメントや、46年「株式会社太泉スタジオ」(東映の前身)を設立して社長を務めました。第1回作品がエンタツ・アチャコの「タヌキ紳士登場」だったことや、プロレス興行に尽力されたことを考えると肌合いの違いはあっても、兄弟間の確執というものはなかったように思います。

 ところが、63年5月正之助さんが、糖尿に加え、膀胱疾患で手術を余儀なくされたため、社長の座を弘高さんに譲ることになったのですが、新社長の関心は、どちらかというと利益を生まない演芸部門よりも、ボウリングや、テナント事業に向いていたようです。そのため、それまで制作部門を担ってこられた、八田さんは傍流に追いやられ、中邨さんは社外に去っておられました。私が68年に入社試験を受けたのはちょうどこの体制の頃でした。ところが、翌69年4月、入社日に本社へ行くと、弘高さんは脳軟化症のため退かれて、社長は橋本鐵彦さんに変わっており、私が面接を受けた人は誰も残っておらず、初めてお会いする方ばかりだったのです。おまけに劇場へ送られてくる、人事情報には毎月退職者の名前ばかり、「一体どうなっているんだろう?」と思いました。

 後々聞くと、弘高さんが東京から連れてこられたスタッフと、大阪プロパーのスタッフとの間に、方針の違いがあったようです。橋本さんは、八田さんや中邨さんを戻して、翌70年正之助さんに社長の座を渡して退陣されたのですが、正之助さんから弘高さんに移行するまでの2カ月と、弘高さんから正之助さんに戻る1年を社長として支えられた名専務であったと思います。

 因みに橋本さんは、東京大学でドイツ文学を学ばれた後、知己の林兄弟に誘われ、31年に吉本へ入社して、文藝部・宣伝部・映画制作部を統括された方で、文藝部に同じ東大卒の、「上方漫才の父」と呼ばれた秋田実さんや、「お父さんはお人よし」や「アチャコ青春手帖」の作者・長沖一さん、京大卒の芸能評論家・吉田留三郎さん等を入れて充実を図りました。また、エンタツ・アチャコさんの漫才を見て、これは旧来の和服・太鼓・唄の「万歳」とは一線を画す、スーツ・しゃべりの新しいスタイルだということで、「漫才」と名付けた文化人でもありました。沈思黙考される人らしく、話されるスピードがとてもゆっくりしていて、相談役になられてから社に来られた際にお目にかかって、「あ、君ねえ・・・」と声を掛けられて、時計を見ながら結構焦った記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川田晴久さんと美空ひばりさん

 

 

江利チエミさん

 

 

当時の橋本鐵彦社長

 

 

左から、横山エンタツさん、秋田實さん、古川ロッパ(緑波)さん

 

 

 

 

 

 

吉田留三郎さんの「漫才太平記」

 

 

HISTORY

第話

 話を戻します。私がプロレスに興味を持ったのは、15年間不敗を誇り「史上最強の柔道家」と呼ばれ、力道山と死闘を演じた木村政彦さんと名前が似ているからでも、鉄人ルー・テーズが「猪木・馬場より実力が上」と認めたラッシャー・木村さんと本名が同じだからでもありません。

 94年1月に、ソニーさんと共に上海を訪れた時のことでした。時間が空いて、天壇公園のそばにある「張一元天橋茶館」に入ったところ、中はテーブルに座って、お茶を飲みながら売店で買ってきたピーナッツやヒマワリの種をつまみながら、ステージで繰り広げられる芸を愉しむというスタイルになっていて、我々が入った時は「相声(シャンミョン)」という漫才が演じられていました。因みに「相声」には、一人で演じる「単口」、二人で演じる「対口」、三人以上で演じる「群口」とあるそうですが、同行したガイドによると、今は「対口」がポピュラーだという事でした。日本とは違い、立ち位置も向かって左がボケ、右がツッコミと決まっていて、20分ばかり、三河萬歳を思わせるのんびりしたテンポでネタを披露していました。言葉も解からず、ただボケーッと眺めていた我々をよそに、客席からは「好!(ハオ:いいぞ)」と声援が飛んでいて、我々がその空気を共有出来ず、疎外感を味わったことがありました。

 同様のことは、当時毎年のように行っていたニューヨークでもありました。ホテルでガイドブックを見ながら、その昔、まだ無名の頃のエディ・マーフィーが出演していたという「Gotham Comedy Club」を見つけ、妻と出かけたのはいいのですが、次々に登場するスタンダップ・コメディアンの、速射砲のような喋りが聞き取れず、2人して打ちひしがれながら帰った苦い記憶があります。多分、下ネタか、政治ネタか、人種差別ネタのいずれかだとは思いましたが、盛り上がっている客席をよそに、さっさと店を出てしまいました。アメリカには、こうした一人芸のスタンダップ・コメディアンばかりではなく、「アボット・コステロ」のような人気お笑いコンビや、ボードビルショーのコメディグループ、「The Three Stooges」(3バカ大将)などがいましたが、日本で放送された彼らの番組は、いずれも短期間で打ち切りになってしまったのを見ると、やはり言葉に根差した、「笑い」の国際間格差は大きいなと思わざるを得ませんでした。

 そんなこともあって、もし海外へ出ていくなら、言葉が解らなくても内容の解る、ノンバーバルなパフォーマンスが必要なのではないかと思ったのです。当時吉本には、一輪車に乗って口にフォークをくわえ、客席からリンゴを投げさせ、客がトチると一輪車ごとばったりコケて、「わしも、しまいには感情的になるで!」と毒づいたり、「今度は逆にフォークを投げて!」と迫ったりして爆笑を誘う、ミスター・ボールドという個人芸の達人がいて、この人なら多分海外でも通用はしたと思いますが、さて集団でとなると思いつきません。乏しい知識の中で思い浮かんだのは、91年にオフ・ブロードウェイの「アスタープレイス劇場」で始めて、以来人気を博していた「ブルーマン」や、同じオフ・ブロードウェイの「オーフィアム劇場」で94年から始め(後に、韓国が97年にこれをベンチマークして「NANTA」を創ったといわれる)STOMPというパフォーマンスでしたが、よく考えてみれば、とても一朝一夕にできるようなものではなく、「さて、どうしたものか?」と思案を巡らせている頃に、ふと思い出したのが、昔、誘われて見に行ったことのある女子プロレスだったのです。

柔道の鬼 木村政彦

 

鉄人ルー・テーズ

 

 

 

天壇(てんだん)公園

 

張一元天橋茶館

 

館内の様子

 

「相声」向かって左がボケ、右がツッコミ

 

三河萬歳

 

ゴッサム・コメディ・クラブ

 

アボット・コステロ

 

3バカ大将

 

エディ・マーフィーも出演していました

 

ミスター・ボールドさん

 

ブルーマンの看板がついているアスタープレイス劇(オフ・ブロードウェイ)

 

ブルーマンの3人

 

オーフィアム劇場

 

STOMPのステージ

 

NANTA