木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 翌67年10月からは、MBSで「歌え!ヤングタウン」も始まり、大阪民放3局による深夜放送の鼎立時代を迎えることになるのですが、先輩社員が担当していたABCやMBSよりも、駆け出しの頃からお世話になっていたOBCへよく通っていたように思います。当時、福島にあったABCや、千里にあったMBSにくらべて、大阪の中心部・桜橋の産経新聞社ビルにあったという地便の良さもありましたが、何よりこの局の持つ「やたけた」な雰囲気が自分に合っていたという事かも知れません。

 泉州弁に由来する「やたけた」のニュアンスを説明するのは難しく、辞書を引いても、「むやみやたら」「破れかぶれ」「やけくそ」など、否定的な意味しか出てこないのですが、私流に言えば「ざっくばらん」という事です。共に1951年に設立された、テレビ兼営局のABCやMBSに比べ、規模や資金力に劣る1958年設立の後発ラジオ単営局が伍していくためには、中西欣一さんのように、エッジの効いた番組作りをする他なかったのです。

 62年には「あんさん別れなはれ」のセリフで有名になった融紅鸞 女史の「悩みの相談室」、64年には大阪梅田1番地・阪神百貨店にサテスタを開設、66年には「上方漫才大賞」を創り、担当の都筑敏子さんは80年第1回 関西ディレクター大賞特別賞に輝きました。因みに栄えある第1回の大賞受賞者に輝いたのは、かしまし娘さん。72年は中川次夫ディレクターが、横山プリン・キャッシーの2人を起用して、心斎橋パルコスタジオから放送した、「カットジャパン1310」が民放連ラジオ番組娯楽部門で最優秀賞に輝き、78年に岩本重義ディレクターが始めた日曜深夜の「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」は、80年5月10日、リスナーに新世界ツアーを呼びかけたところ、なんと5000人もの若者を集めパニックを起こし、社会現象となるほどの人気番組となって、81年にはギャラクシー賞を受賞しました。

 この他にも、当時制作局長になっておられた中西さんのイズムを継承されている職人気質の方が揃っておられて、長年、上岡龍太郎さんと番組を共にされ、いつもニコニコされていた望月さん、大阪へ来た歌手が、必ずこの人の番組には出演するという川添郁子さんの他、俱羅さん、生田さんなど個性溢れる人たちがそろっていましたね。そうそう、阪神・巨人さんが収録したテープの巻き戻しに失敗し、慌てて放送時間直前にやっと捕まえた阪神さんを呼び戻して事なきを得た横山さんもいらっしゃいました。イボコロリで知られた某製薬会社の御曹司だったそうですが、果たして、今はどうしておられるのでしょうか?

 当時の局員の方が「他局がデパートならウチは町の商店街、いや市場かも?」とおっしゃったように、どこかエリート然としたスタッフの方が多いABCやMBSに比べ、私の肌にはそんなOBCの雰囲気が合っていたのだと思います。OBCが76年の12月24~25日に関西民放では初の「24時間ラジオ・チャリティ・ミュージックソン」をやると聞いて、メイン・パーソナリティにやすし・きよしのお二人をブッキングしたこともありましたね。

融紅鸞(とおる こうらん)さん【1906〜1982年】

高野山真言宗・準別格本山の名刹「太融寺」の住職の子として生まれた日本画家

 

奇才!横山プリンさん

一時期、兄弟子の横山やすしさんと(横山たかし名で)コンビを組んでいたこともありました。

 

プリンさんとキャッシーさん

 

 

「ぬかるみの世界」

 

 

新野新さんと笑福亭鶴瓶さん

 

 

新世界に集まった5,000人のリスナー

 

 

こうなるはずが・・・

 

 

こうなってしまった

 

 

横山製薬の「イボコロリ」