木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 中邨社長に随行して、OBCの前田富夫社長にお目にかかったのは1月25日、場所はたしか肥後橋にあった会員制のセンチュリークラブだったと思います。前田社長は、産経新聞・大阪新聞・ラジオ大阪・日本電波塔(東京タワー)・房総開発(マザー牧場等)を創業し、参議院議員を務められた前田久吉さんのご長男で、当時は父上の亡くなられた86年からOBC社長の他に、関西テレビの副社長も務められていました。

 初対面ということに加えて、貫禄の違いもあって、はじめは前田社長と中邨社長の会話になかなか入っていくことが出来ず、ただただ見守るしかなかったのですが、食事も半ばになり、やや雰囲気がほぐれてきた頃を見計らって、「前田社長、1週間の1日を吉本に任せていただけませんか?」と提案してみました。本当は丸ごと提携をしたいと思っていたのですが、それではメディアの中立性を犯してしまうことになります。その場は軽くかわされて、話題は他へ移ってしまったのですが、後日当時の小林編成局長から、「詳しく話を聞きたい」というお電話をいただいたところを見ると、どうやらこちらの想いを真摯に受け止めていただいたようです。

 1960年に入り、メディアの主役が次第にラジオからテレビに移っていく中、蘇るきっかけになったのが、カーラジオとトランジスターラジオの爆発的な普及でした。「1家に1台」だったラジオは「1人に1台」の時代になり、各局は若者をターゲットに「空白の時間」と呼ばれた深夜帯に狙いをつけたのです。当時ラジオ局の経営環境は厳しく、番組予算も限られてはいましたが、反面自由に番組を作ることがある程度許容されてもいました。因みに、私が大学2年、1966年の流行語は、「全共闘」「シェー!」「黒い霧」「シビれる」。ちょうど高度成長期の真只中で、戦後のベビーブーム世代たちが受験戦争の最中にあった時代でもありました。音楽ではビートルズの来日を契機としてグループサウンズが全盛期に突入しようかという時代でもありました。カセットデッキなど、まだ十分に普及していなかったこの時代、若者たちは、リアルタイムに深夜ラジオにかじりつき、同世代の意見に耳を傾けることに「連帯感」を憶えていたのです。そんな中、66年4月に先行して始めたABCの深夜録音番組「ヤングリクエスト」は、アナウンサーがDJを務める、どちらかというとお行儀のいい番組だったのに対して、10月、後発のOBCが始めた関西初のオールナイト生放送「オーサカ・オールナイト・夜明けまでご一緒に!」のディレクターだった、中西欣一さんのとった戦略は見事に当たりました。DJに「喜怒哀楽を出すこと。大口を開けて笑ってもいい。怒る時も、きっちり怒れ。標準語やなく日ごろ自分が使っている言葉で!」と、人間性溢れる番組作りを目指し、リスナーのターゲットを高校生に絞り、アナウンサーに加えて、ネームバリューのあるタレントより、勢いのある新人をDJに登用したのです。その中でひと際人気を博したのが笑福亭仁鶴さんだったというわけです。リスナーの葉書に、ある時は機関銃のようなしゃべりで、大笑いし、怒り、瞬く間に若者のハートを捉えました。時にはHな話も交えたため、「エロ仁鶴」なる異名まで取りましたが、中西ディレクターは、「高校生だったら誰でも性の悩みくらいある。アナウンサーだったら、さらりとかわすところを、仁鶴は、男やったら当たり前だろと正面から答えていただけ」と気にする素振りも見せなかったといいます。この番組で、仁鶴さんの時代が始まったのです。

センチュリークラブ

 

 

前田久吉さん

 

 

産経新聞社

 

 

東京タワー

 

 

日本電波塔

 

 

マザー牧場

 

 

トランジスターラジオ

 

 

1966年6月29日 ビートルズ来日

翌30日〜7月2日まで日本武道館で5公演 行われました。