木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 思えば、劇場進出の当時は、アゲインストの風が吹いていましたね。7丁目劇場をオープンして暫くたったころ、地元商店街の主催する会合に呼ばれて行ったことがあるのですが、予想していた通り、壇上に立つ私に向けられた視線は「歓迎せざるムード」に溢れていたように思います。

 皆さん、口にはされませんが、一言でいえば、「天下の銀座に、なんで品のない吉本が入ってくるんだ」という事です。私は「銀座は確かにブランドされて確立はしているかもしれないけれど、若い人たちを見かけないじゃないですか。そんな街に未来があるのでしょうか?」と、ストック型の発想からフロー型の発想への転換を説いたのですが、果たして参加された方々の耳に届いたか否かは分かりませんでした。

 本音を言えば、「銀座・銀座って言うけど、日本で最初に銀座が出来たのは、銀貨統一に向けて、秀吉が堺や京都の銀吹屋衆20人を集めて大阪に常是座を作ったのが最初で、徳川の代になって、1601年に伏見銀座(現・両替町)ができ、以降、駿府銀座、京都銀座、大阪銀座と続いて、江戸に銀座ができたのはその後の1612年のことじゃないのか」という思いはありましたね。

 当時銀座の象徴でもあった「三越百貨店」にしても、創業者である伊勢の商人三井高利が1623年呉服商として開業したものですし、銀座100名店に数えられている「鳩居堂」や「ゑり善」も京都の老舗です。歌舞伎だって、1603年、出雲阿国が京都の四条河原で始めたものに由来しますし、漫才も玉子屋円辰、捨丸春代といったパイオニアが三河万歳をアレンジして始めたのが最初です。同様に落語も5代目将軍綱吉の元禄期に露の五郎兵衛が四条河原や北部の大道で、少し遅れて米沢彦八が大阪の生玉神社で小屋掛けの辻噺をしたのが始まりだと言われています。このあたり、京都人の悪い所でもあるのですが、「後輩たちが、先輩に偉そうにするんじゃないよ!」とは思ったものの、おくびにも出しませんでしたけれどね。

 それどころか、むしろ、歓迎されるよりも「逆風が吹けば吹くほどインパクトがある」とさえ思っていた節がありますね。ただ、劇場の前に多くの若者が並び、「通行や営業の邪魔になる」と警察に通報されるなど、日々ご近所からのクレームを直接浴びせられた劇場のスタッフには、申し訳ないことをしたとは思っていますがね。

銀座・三越百貨店

 

 

三井呉服店

 

 

伏見銀座跡

 

 

出雲阿国

 

 

砂川捨丸・中村春代さん

 

 

砂川捨丸さん

 

 

露の五郎兵衛 碑

 

米沢彦八 碑

 

 

HISTORY

第話

 銀座7丁目劇場の次は、4月8日、80年の東京、88年の名古屋、89年の福岡に次いで4番目の拠点となった札幌事務所の開設パーティーが札幌プリンスホテルで催されました。2月に北海道新聞社や、各テレビ局にご挨拶を済ませていたこともあって、多くのお客様にお越しいただくことができました。

 私が札幌事務所の開設を最初に提案したのは林専務にだったと思います。「札幌に事務所を開設しようと思うのですが?」と切り出した私に、「女が出来たんか?」という言葉が返ってきたのです。心の中で、「専務と一緒にしないでください」と叫んではみたものの口には出せず、縷々事情を説明すると、「ま、ええんちゃうか」と返事が返ってきました。こんなやり取りで決まってしまうのですから恐ろしい会社です。

 さっそく責任者を決めなくてはなりません。さて、誰がいいかな?と思案をしていると、ちょうど目の前を一人の社員が通りがかりました。木山幹雄君、私より10歳ほど年下で同志社大学の後輩でもありました。さっそく呼び止めて、優しく「木山君、寒い所好きか?」と声を掛けると、「嫌いですよ!でも何でですか?」と聞いてきたので、事情を説明してしぶしぶ納得させました。赴任するときはそれほど嫌がっていたのに、札幌が気に入ったらしく、マンションまで購入し、次に東京へ異動の内示を受けた時には「札幌に残りたい!」と駄々をこねたといいますから、よほど彼の地が水に合っていたということなのでしょうか。「札幌・福岡へ転勤するサラリーマンは、行く時と帰る時の2度泣く」と言われます。「行きは家族との別れ、帰りは彼女との別れ」だそうですが、やはり彼もその口だったのでしょうか。いけません、そんなことを言ったら林専務と同じことになってしまいます。

 たしかに札幌はいいところです。千歳空港を出て札幌へ向かう道中に広がる壮大な景色を見るだけで、まるで北欧へ来たような感覚にとらわれます。親しくさせていただいていた札幌中央企画の宗本社長や、時計台ラーメンの志釜社長に紹介していただいた、葛和満博さんの造られた、温泉「湯香郷」や、地下に大きな水槽のある料亭「花遊膳」がある、すすき野の「ジャスマックプラザホテル」、藻岩山の北斜面にあるバー「N43」、そして同じ松井守さんが始められた、銭函の崖の上にあるバー「ユーラシア404」など魅力のあるポイントに溢れています。中でも、夜のとばりが下りた中を、蝋燭の光の中、石狩湾沿いのレールを淋し気にカタコト走る列車を見下ろしつつ、静寂の中、BGMの聖歌「グレゴリアン・チャント」を聴きながら、グラス(と言っても私の場合はジンジャーエールですが)を傾けるムーディな「ユーラシア404」は、殊の外お気に入りでした。残念なことに、93年のオープン時に、松井オーナーが10年間の期限付きで始められたということで、現在はもうありません。私もよく女性を連れて行きました。「えっ、女房と?」も、もちろんです。でないと、それこそ林専務と一緒になってしまうではありませんか。因みに、「N43」は北緯43度から、「ユーラシア404」はユーラシア大陸から404kmの地ということに因んで名付けたと言われています。

2度泣いた木山幹雄君

 

 

時計台ラーメンの志釜社長

 

 

株式会社ジャスマック(現会長)葛和満博さん

 

 

ジャスマックプラザホテル

 

 

湯香郷

 

 

惜しくも現在は閉店しています

 

 

「ユーラシア404」から見下ろす石狩湾の夜景と、絨毯の敷かれたバー

 

 

「N43」から見る札幌の夜景

 

 

「N43」の看板

 

 

 

 

HISTORY

第話

 とは言っても、札幌に事務所を開設しようと思ったのはラーメンや、バーのせいではありません。きっかけになったのは、桂文枝さんの11番目の弟子・桂小つぶさんの存在があったからでした。80年にMBSラジオの「ヤングタウン」、81年からABCTVの「プロポーズ大作戦」、MBSTVの「ヤングOH!OH!」、そして87年からはKTVの「ノンストップゲーム」などの人気番組に出演するようになった小つぶさんは、愛嬌のあるルックスもあって、次第に関西ではアイドル的な人気を博するようになっていたのですが、91年、喘息の子供さんの転地療養のために、北海道へ移住することになったのです。場所は、苫小牧市が区画整理をした樽前山の分譲地。

 事情が事情だけに、打ち明けられた私も了解せざるを得なかったのですが、文枝師匠からは、「新天地で落語をしたい」という彼の言葉に、もしも嘘があったら「名前を返してもらう!」とプレッシャーをかけられたといいます。「向こうへ行っても初心を忘れず頑張れよ」という励ましの意味でおっしゃったのだと思います。

 不安を抱えたまま移住した小つぶさんでしたが、幸いにもテレビ東京系のテレビ北海道(TVh)で「桂小つぶの つぶよりモーニング」というレギュラー番組を持たせていただきました。落語の方も札幌を拠点に道内外で高座に上がり続け、96年に2代目桂枝光を襲名、05年には寄席ブームを再現させるべく「平成開進亭」を立ち上げました。06年に北海道新聞社から刊行された本のタイトル通り、お笑いの屯田兵として未開の地を切り拓いたのです。

 彼の移住以後も、札幌を訪れるたびに小つぶさんとは会っていたのですが、孤軍奮闘している彼の姿を見るにつけ、何とかフォローする体制が取れないものかとは思っていたのです。その上、次代タレントの発掘・育成までできれば尚のこと、という思いもあって、林専務に事務所の開設を提案したのです。専務がおっしゃるような、旨いものを食べるためでも、彼女を連れていくためでもなかったのです。

 札幌事務所は初代所長・木山君の頑張りもあって、この年に実施したオーディションで、「タカアンドトシ」や「モリマン」など、後に活躍するタレントを生み出すようになったのです。2月、下打ち合わせに札幌へ行った際、真っ先に小つぶさんがお世話になっているTVhさんへお邪魔して、田窪・編成制作担当常務はじめ幹部の方々のところにご挨拶に伺い、その後、北海道新聞社の坂野上社長や作田専務、STVでは野本昌夫専務や、宗本さんと親しい小松部長にお目にかかりました。野本さんは「ローカル・プライオリティの時代」を標榜して、夕方ベルト番組の先駆として、全国各局からの見学者が絶え間なく押し寄せるという人気番組「どさんこワイド」などで、STVを視聴率3冠王に導いた方で、後日東京で開かれたシンポジウムで、ゆっくりとその戦略などをお聞きすることができました。STVが16年まで、25年間もの永きにわたって全日視聴率トップを走る因をつくった功労者ですが、副社長を最後に退職され、08年に亡くなられましたね。

 そうそう、札幌と言えば、94年の6月に、お世話になっているテレビ局の方々を大阪へご招待したことがありました。NGKをご覧いただいた後、食事を済ませ、林専務が肝入りでオープンしたライブハウス・アンコールへと、ここまでは良かったのですが、次の店を予約しようとしている私を制して、皆さんがホテルへ帰るとおっしゃるのです。ご遠慮なさっていると思ったのですが、どうもそうではないようなのです。理由は「流れ弾に当たるのが怖いから」とか。まさかという思いと同時に、「大阪がそんな町だと思われている」ことにショックを受けましたね。もっとも、かくいう私も、広島へ行ったとき、皆が「じゃけん・じゃけん」と叫びながら仁義なき戦いをしていると思っていましたから偉そうなことは言えませんが。

桂小つぶ 改め、2代目 桂枝光さん

 

 

KTV「ノンストップゲーム」

左は共にMCを務めた上沼恵美子さん

 

苫小牧〜札幌は特急で45分、車なら高速で50〜60分

 

 

初めて小つぶさんをレギュラーで使っていただいたテレビ北海道(TVh)

 

 

2006年刊行です

 

 

独演会のポスター

 

 

タカ アンド トシ

 

 

モリマン

 

 

 

 

HISTORY

第話

 中邨社長に随行して、OBCの前田富夫社長にお目にかかったのは1月25日、場所はたしか肥後橋にあった会員制のセンチュリークラブだったと思います。前田社長は、産経新聞・大阪新聞・ラジオ大阪・日本電波塔(東京タワー)・房総開発(マザー牧場等)を創業し、参議院議員を務められた前田久吉さんのご長男で、当時は父上の亡くなられた86年からOBC社長の他に、関西テレビの副社長も務められていました。

 初対面ということに加えて、貫禄の違いもあって、はじめは前田社長と中邨社長の会話になかなか入っていくことが出来ず、ただただ見守るしかなかったのですが、食事も半ばになり、やや雰囲気がほぐれてきた頃を見計らって、「前田社長、1週間の1日を吉本に任せていただけませんか?」と提案してみました。本当は丸ごと提携をしたいと思っていたのですが、それではメディアの中立性を犯してしまうことになります。その場は軽くかわされて、話題は他へ移ってしまったのですが、後日当時の小林編成局長から、「詳しく話を聞きたい」というお電話をいただいたところを見ると、どうやらこちらの想いを真摯に受け止めていただいたようです。

 1960年に入り、メディアの主役が次第にラジオからテレビに移っていく中、蘇るきっかけになったのが、カーラジオとトランジスターラジオの爆発的な普及でした。「1家に1台」だったラジオは「1人に1台」の時代になり、各局は若者をターゲットに「空白の時間」と呼ばれた深夜帯に狙いをつけたのです。当時ラジオ局の経営環境は厳しく、番組予算も限られてはいましたが、反面自由に番組を作ることがある程度許容されてもいました。因みに、私が大学2年、1966年の流行語は、「全共闘」「シェー!」「黒い霧」「シビれる」。ちょうど高度成長期の真只中で、戦後のベビーブーム世代たちが受験戦争の最中にあった時代でもありました。音楽ではビートルズの来日を契機としてグループサウンズが全盛期に突入しようかという時代でもありました。カセットデッキなど、まだ十分に普及していなかったこの時代、若者たちは、リアルタイムに深夜ラジオにかじりつき、同世代の意見に耳を傾けることに「連帯感」を憶えていたのです。そんな中、66年4月に先行して始めたABCの深夜録音番組「ヤングリクエスト」は、アナウンサーがDJを務める、どちらかというとお行儀のいい番組だったのに対して、10月、後発のOBCが始めた関西初のオールナイト生放送「オーサカ・オールナイト・夜明けまでご一緒に!」のディレクターだった、中西欣一さんのとった戦略は見事に当たりました。DJに「喜怒哀楽を出すこと。大口を開けて笑ってもいい。怒る時も、きっちり怒れ。標準語やなく日ごろ自分が使っている言葉で!」と、人間性溢れる番組作りを目指し、リスナーのターゲットを高校生に絞り、アナウンサーに加えて、ネームバリューのあるタレントより、勢いのある新人をDJに登用したのです。その中でひと際人気を博したのが笑福亭仁鶴さんだったというわけです。リスナーの葉書に、ある時は機関銃のようなしゃべりで、大笑いし、怒り、瞬く間に若者のハートを捉えました。時にはHな話も交えたため、「エロ仁鶴」なる異名まで取りましたが、中西ディレクターは、「高校生だったら誰でも性の悩みくらいある。アナウンサーだったら、さらりとかわすところを、仁鶴は、男やったら当たり前だろと正面から答えていただけ」と気にする素振りも見せなかったといいます。この番組で、仁鶴さんの時代が始まったのです。

センチュリークラブ

 

 

前田久吉さん

 

 

産経新聞社

 

 

東京タワー

 

 

日本電波塔

 

 

マザー牧場

 

 

トランジスターラジオ

 

 

1966年6月29日 ビートルズ来日

翌30日〜7月2日まで日本武道館で5公演 行われました。

 

 

HISTORY

第話

 翌67年10月からは、MBSで「歌え!ヤングタウン」も始まり、大阪民放3局による深夜放送の鼎立時代を迎えることになるのですが、先輩社員が担当していたABCやMBSよりも、駆け出しの頃からお世話になっていたOBCへよく通っていたように思います。当時、福島にあったABCや、千里にあったMBSにくらべて、大阪の中心部・桜橋の産経新聞社ビルにあったという地便の良さもありましたが、何よりこの局の持つ「やたけた」な雰囲気が自分に合っていたという事かも知れません。

 泉州弁に由来する「やたけた」のニュアンスを説明するのは難しく、辞書を引いても、「むやみやたら」「破れかぶれ」「やけくそ」など、否定的な意味しか出てこないのですが、私流に言えば「ざっくばらん」という事です。共に1951年に設立された、テレビ兼営局のABCやMBSに比べ、規模や資金力に劣る1958年設立の後発ラジオ単営局が伍していくためには、中西欣一さんのように、エッジの効いた番組作りをする他なかったのです。

 62年には「あんさん別れなはれ」のセリフで有名になった融紅鸞 女史の「悩みの相談室」、64年には大阪梅田1番地・阪神百貨店にサテスタを開設、66年には「上方漫才大賞」を創り、担当の都筑敏子さんは80年第1回 関西ディレクター大賞特別賞に輝きました。因みに栄えある第1回の大賞受賞者に輝いたのは、かしまし娘さん。72年は中川次夫ディレクターが、横山プリン・キャッシーの2人を起用して、心斎橋パルコスタジオから放送した、「カットジャパン1310」が民放連ラジオ番組娯楽部門で最優秀賞に輝き、78年に岩本重義ディレクターが始めた日曜深夜の「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」は、80年5月10日、リスナーに新世界ツアーを呼びかけたところ、なんと5000人もの若者を集めパニックを起こし、社会現象となるほどの人気番組となって、81年にはギャラクシー賞を受賞しました。

 この他にも、当時制作局長になっておられた中西さんのイズムを継承されている職人気質の方が揃っておられて、長年、上岡龍太郎さんと番組を共にされ、いつもニコニコされていた望月さん、大阪へ来た歌手が、必ずこの人の番組には出演するという川添郁子さんの他、俱羅さん、生田さんなど個性溢れる人たちがそろっていましたね。そうそう、阪神・巨人さんが収録したテープの巻き戻しに失敗し、慌てて放送時間直前にやっと捕まえた阪神さんを呼び戻して事なきを得た横山さんもいらっしゃいました。イボコロリで知られた某製薬会社の御曹司だったそうですが、果たして、今はどうしておられるのでしょうか?

 当時の局員の方が「他局がデパートならウチは町の商店街、いや市場かも?」とおっしゃったように、どこかエリート然としたスタッフの方が多いABCやMBSに比べ、私の肌にはそんなOBCの雰囲気が合っていたのだと思います。OBCが76年の12月24~25日に関西民放では初の「24時間ラジオ・チャリティ・ミュージックソン」をやると聞いて、メイン・パーソナリティにやすし・きよしのお二人をブッキングしたこともありましたね。

融紅鸞(とおる こうらん)さん【1906〜1982年】

高野山真言宗・準別格本山の名刹「太融寺」の住職の子として生まれた日本画家

 

奇才!横山プリンさん

一時期、兄弟子の横山やすしさんと(横山たかし名で)コンビを組んでいたこともありました。

 

プリンさんとキャッシーさん

 

 

「ぬかるみの世界」

 

 

新野新さんと笑福亭鶴瓶さん

 

 

新世界に集まった5,000人のリスナー

 

 

こうなるはずが・・・

 

 

こうなってしまった

 

 

横山製薬の「イボコロリ」

 

 

HISTORY

第話

 大阪本社に滞在するようになって気が付いたのは、嘗てあれほど「やたけた精神」にあふれ、ヒット番組を生みだしていたOBCが、いまいち精彩を欠いているように見えたことです。もちろん、背景には89年6月に大阪で2番目のFM局「FM802」が開局し、ファンキーな選曲やDJを結集して若者の心を捉えて、AM局を低迷に追いやったという背景がありました。皮肉なことに「FM802」の元ニッポン放送 編成部長・石原捷彦社長の下で、制作の中心を担っていたのが元OBC社員の栗花落(つゆり)光さんだったのです。報道局から制作局へ異動、芸能がメインの局の中にあって、その体質に馴染めず、「ジャムジャム・イレブン」など音楽番組を担当していたのですが、横浜に次いで大阪にも音楽専門局ができることを知り、誘いを受けていた「FM802」へ転社していたのです。

 「演歌やアイドルの曲をかけない」、「オリコンのヒットチャートに左右されない」、「18歳の感性を大切にする」などの制作方針を掲げ、大阪出身の黒田清太郎さんと長友啓典さんの描くビジュアルも好評だったこともあって、あっという間に若い人たちの心を捉えました。「ヘヴィ・ローテーション」を始めたのもこの局が最初で、92年にはMr.Childrenのデビュー曲「君がいた夏」や、THE JAYWALKの「何も言えなくて…夏」などをヒットに導きました。

 とはいえ、そんな事情は、他のABCやMBSとて同じこと。苦境の中でも2局は善戦をしているのに、OBCは、「一体何をやっているんだろう」という、はがゆい思いが募って、当時の制作幹部の方にも幾度か申し上げたことがあったように思います。果たして、制作幹部への提言が効いたのか、それとも前田社長への直訴が効いたのかは分かりませんが、ともかく事態は動き始めました。

 2月の初めには、「4月改編期には間に合わなかったけれど、10月までは待てないので、7月4日から月~金の4時間を共同で制作したい」という申し入れがあったのです。それを受けて両社のスタッフによるプロジェクトチームが決めたのが、ラジオよしもと「サブロー・リンゴのむっちゃ元気!」というタイトルの、朝9時~午後1時までの4時間にわたる生放送だったというわけです。メインパーソナリティを務める太平サブローさんは、88年に吉本を離れたものの、92年に相棒のシローさんと別れ、93年にさんまさんや紳助さん、巨人さんらの口添えで吉本に復帰したばかり、もう一人のハイヒール・リンゴさんは、相棒のモモコさんが産休中というタイミングもあって、単独での出演となりました。

 5月26日、堂島の「クラブ関西」で開かれた記者発表には、パーソナリティの2人に加えて、OBCの小林取締役編成局長と共に、私も出席させていただき「まずは4時間、ゆくゆくは24時間、そのうち社名も変更していただけたら?」と冗談っぽく話をさせていただきました。OBCさんにとっては吉本ファンを取り込め、吉本にとってはタレントさんの活動の場を増やせる、双方にとっていい取り組みだった気がしています。僭越ながらOBCさんにも、嘗ての様な「ファンキー」(独創的・型破り・イカす・セクシー・泥臭い)とよく似たニュアンスの、「やたけたさ」を取り戻して欲しかったのです。番組は、以降、パーソナリティを曜日別に変えて08年6月30日まで続き、OBCの開局50周年を機に7月1日から「ラジオよしもと むっちゃ元気スーパー!」とリニューアル、13年3月25日まで放送されました。

FM802 現・代表取締役社長の栗花落(つゆり)光さん

 

 

長友啓典さん(左)と黒田清太郎さん(右)

 

 

ステッカー

 

 

「むっちゃ元気!」の企画書

 

 

多くのメディアに取り上げていただきました

 

 

HISTORY

第話

 旭通(旭通信社)の営業局長の岡安治さんからご連絡をいただいて、東京でお目にかかったのは1月27日でした。旭通は56年に稲垣正夫さん以下4人で設立された広告代理店で、先行する「大手代理店と同じことをやっていてもだめ」という方針のもと、雑誌広告に申し込みハガキをつける、婦人誌の付録の家計簿に広告スペースを買切るなど前例のないアイデアを実現して業績を伸ばす一方、当時まだ少なかった子供向けテレビ番組として国産アニメの企画制作を手掛け、「エイトマン」「ドラえもん」「忍者ハットリくん」「巨人の星」「アタックNo1」「天才バカボン」などのヒット作を生みだし、今日のコンテンツビジネスの先駆的存在となって業務を拡大していました。87年には広告業界で初めて東証に上場もして、91年にはいち早く中国へ進出、新華社と業務提携を結んでいました。

 それまで、電通さんとはお付き合いはあったのですが、面識のない旭通さんがなぜ?と思いつつ多少の好奇心もあってお目にかかることにしたのですが、その席上で岡安さんから提案されたお話は、こちらの意表を突いたものでした。サッポロビールの西日本地区、とりわけ関西でのシェアを上げるために、「吉本の力を借りたい」という事だったのです。アルコールを飲まない私はそのあたりの事情に疎く、テレビから流れる「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー♬」や、三船敏郎さんの「男は黙ってサッポロビール」というCMを見て、「きっと儲かっているんだな」と思っていただけのことだったのですが、調べてみると、確かに関西地区でのサッポロビールは、全国と同様、キリンビールやアサヒビールの後塵を拝していて、特に関西ではサントリーにも急追され、ことさらに苦戦を強いられていたのです。

 「トップと組んで勝つよりも、そうじゃないところと組んで勝つ方が面白い!」そう考える質の私の心には響きました。それに加えて、単に「タレントを起用したい」というのではなく、「吉本と組みたい」というお話にも魅力がありました。その後重ねた打ち合わせでは、「えーいっ、大阪ビール戦争じゃ!」とか「うまさ自信の、吉本興業責任テイストのビールを作ったら?」など話は大いに盛り上がったのですが、結局「関西の単独予算ではできないだろう」という事で東京本社の判断に委ねられることになりました。

 5月12日、恵比寿にあるサッポロビール本社で行われたプレゼンには、旭通のスタッフと共に、CM担当の吉野伊佐男部長と共に、私も揃いのハッピを着て出席しました。おかげで、「よーし、もっと黒ラベルキャンペーン」として結実して、取り扱い店との商談の円滑化や、30代をターゲットにしたユーザーの選択率のアップに吉本が一役を買わせていただくことになりました。あえて言えば、旧安田財閥の流れを汲む芙蓉グループの企業らしく、「真面目で堅実」な風土のサッポロビールさんへの企画を通すために、ややおとなしい提案になってしまったのが心残りではありましたが、この一件が後年、「吉本という会社名を売ろう」という発想を持つ契機となった出来事であったことは確かです。それにしても、この年の3月25日に開業した銀座7丁目劇場のあるビルの1階に、同じテナントとしてビアホール「サッポロライオン」を出店されていたのは何とも不思議な縁という他ありません。

旭通創業者 稲垣正夫さん

 

 

 

 

 

 

 

 

恵比寿にあるサッポロビール本社

 

 

 

 

銀座サッポロライオン

 

 

夕刊フジに掲載された当時の記事

 

 

HISTORY

第話

 キャンペーンは、メインキャラクターの黒ラベル君も、クリエイティブディレクターの北村氏と対立した初代のティーアップ・前田勝君から、2代目の今田耕司へと変わり、2年ばかり続いたのですが、旭通の岡安さんとのお付き合いはその後も続き、何度か食事をしたり銀座へお供をしたりして情報交換を図っていました。年も近く、根っからの営業マンである岡安さんからお聞きする話がとても勉強になったのを憶えています。そういえば、岡安さんの地元にある人形町の「玉ひで」にご招待をしていただいたこともありましたね。「玉ひで」は1760年(宝暦10年)に軍鶏専門店として開かれた老舗で、「親子丼発祥の店」と言われている名店です。さすがに人気店とあって、我々が行った日も、すでに店の前にはお客さんが並んでいました。普段はあまり親子丼を食べない私が、あっという間に完食してしまったほどに美味しかったのを憶えています。そんな岡安さんとの銀座行きが、後に大変な事態を招いてしまうことになるのですが、その話はまた後日・・・

 この年、1月19~23日まで上海・北京へ行ったのは、EPICソニーレコードがデビューさせた「東京パフォーマンスドール」(TPD)の上海版を作るためでした。「東京パフォーマンスドール」というのは、もともと90年に芸能界に革命的な衝撃をもたらすべく、ペレストロイカを起こしたゴルバチョフの名前に因んで、「ゴルビーズ」という3人組(木原さとみ・篠原涼子・穴井夕子)でスタートした女性グループで、その後プロデュース依頼を受けた中村龍史さんが、4人の新しいメンバーを加えて、ノンストップで歌とダンスを繰り広げる、ダンスサミットとして再編されたものです。さすがにデビュー当初は苦戦をしたものの、その後、次第に人気が出て、93年の8月17・18日には、日本武道館で単独ライブをやるほどになっていました。さらに、この頃には1軍、2軍に加えて、研修生も存在するほどにメンバーの数も増えていました。研修生の中には、あの仲間由紀恵さんも居たといいますから、競争の苛烈さがうかがえます。まさに、多人数で歌い・踊る、アイドル・ガールズグループとして、日本の音楽史上初めて地位を確立したのが、この「東京パフォーマンスドール」だったのです。

 それを受けて、同年に姉妹ユニットとして6人の「大阪パフォーマンスドール」(OPD)を発足させたのが、大崎君でした。そんな彼とソニー・ミュージックさんとのご縁もあって、「上海パフォーマンスドール」の発足に吉本も一役を買うことになり、私も上海・北京へ行くことになったのです。

 ソニー・ミュージックさんからは、役員の五藤宏さんがいらしていて、文化傳播分公司や上海電視台、その後、北京へ移動して、北京日報などのマスコミや、人民解放軍の文化担当者の方々と会食や、打ち合わせを共にしたのですが、記憶に残っているのは、宿泊した上海の花園飯店と北京王府大飯店、中でも平均75歳のオールドジャズマン(老年爵師楽団)によるジャズを聴いた和平飯店(現フェアモント・ピース・ホテル)と、朝6時のモーニングコールで起こされて行った万里の長城くらいですね。耳がちぎれるくらいに寒くて、たった2・3分でバスに戻ってしまいました。それより帰りに食べた羊肉のしゃぶしゃぶが、やたら旨く感じられたのが記憶に残っています。「上海パフォーマンスドール」(SPD)は「上海歌舞麗人」となり、7月6日にオーディション、2度にわたる審査を経て8月25日最終決戦を行って、4人を選び、11月15日の上海TVフェスティバルを目指す事となりました。

人形町の「玉ひで」

 

 

東京パフォーマンスドール

 

 

大阪パフォーマンスドール

 

 

上海パフォーマンスドール

 

 

上海の花園飯店

 

 

北京王府大飯店

 

 

建物も人もレトロな和平飯店のジャズ・バー

 

 

冬の「万里の長城」

 

 

羊肉のしゃぶしゃぶ

 

 

冬季限定のしゃぶしゃぶ

 

 

HISTORY

第話

 「上海パフォーマンスドール」(SPD)は、ソニーとヤオハン中国室が出資する合弁会社、中国上海歌星倶楽部所属の「上海歌舞麗人」として、7月6日にオーディションをしてメンバーを決定、8・9月は東京でレッスンとレコーディング、10・11月に中国に戻り、11月25日の「上海TVフェスティバル」を目指し、95年にはプロモーションを重ねつつ、「大阪りんくうたタウン」のテーマソングや、12月の「上海第一八佰半佰貨店オープン時にコンサートをすることが決まりました。ソニーの目黒部長や野中さんの話では、同じソニーでも中国は米国ソニーのテリトリーで、その調整も結構難しいとのことでした。吉本は出資はせず、日本でのプロモーションやパブリシティに協力をするというスタンスに留まることになりました。

 それにしても、「なぜヤオハンが?」と思われる向きもあろうかと思いますので、補足をしておきます。ヤオハンは、和田良平・カツ夫妻がのれん分けを受けて1929年静岡県に八佰半熱海支店を開いたことに始まります。(因みにカツさんは後に一説で、TVドラマ「おしん」のモデルとも言われた方です)、62年両親から経営を引き継いだ33歳の長男・一夫氏が、大型食品デパートとして静岡県下にチェーンを広げ、ダイエーやヨーカ堂など全国展開の大手スーパーとの不毛の競合を避けるべく、71年にブラジルへ日本の流通業では初の出店を果したのを機に、以降、積極的に海外進出を図り、86年には東証1部、88年には香港証券取引所に上場し、90年には国際流通グループ・ヤオハン総本部を香港に設立して、家族と共に移住されていました。

 我々が訪れたこの時期は、前年に「北京八佰半佰貨店」をオープンさせた後、翌95年12月のオープン初日に107万人が押し寄せて、今もギネス記録に残る、アジア最大規模の「上海第一八佰半佰貨店」(NEXTAGE)の開設準備に入っていた時期でもあったのです。96年には無錫にも店をオープン、総本部も、和田さんご自身の住まいも、上海へ移されようとしていた時期でもあり、94年2月、ソニーさんとの合弁事業にGOサインを出されたのだと思います。残念なことに和田さんはこの後、上海栄誉市民賞を授与された同じ97年9月、順調だった海外事業に比べ、不振を極めた国内事業に足を取られ、経営危機に陥った社の責任を負い、全ての役職から退かれました。

 94年の11月に、香港の日航ホテルで開かれた講演会で、和田さんの講演を聞いた後、ご挨拶をさせていただきました。当時は、社長在籍の30年間で、世界16か国に450店舗を開き、ピーク時の年商5000億円、従業員28,000人の企業に育てられ、ヒルトップの豪邸を構えられたサクセス・ストーリーを伺ったと思うのですが、私には、それよりも、国際経営コンサルタントになられた今、自らの過失を踏まえて語られている、「どの企業も、絶頂期にある時こそが、衰退に向かう危機なのだと思うべき」という方が、より深い言葉であるように思えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上海第一八佰半佰貨店

 

 

 

 

 

和田カツさん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 1月8~9日と、2月28~29日に香港へ行っているのは、香港のテレビ局、「亜州電視」(ATV)とテレビ番組の共同制作をするためでした。93年の12月9~10日にかけて、香港のシャングリラホテルでATVの李潔玲、陳慶嘉氏らと会って共同制作の概略を打ち合わせました。ATVは57年に香港初のテレビ局、「麗的映声」として開局した後、「麗的電視」と改め、82年に資本がイギリスから香港に移動したのを機に、「亜州電視」と改称されていました。89年には親会社が変わったものの、新しくCIを導入して、当時はライバル局を凌ぐほどの好調さを誇っていました。

 企画の実現に当たっては、ご尽力をいただいた香港電通の桐山局長や、ソニーレコード・香港オフィスの森さん、香港の映画会社と提携してビジネスをされていた、オフィス100%の尾中さんらのアドバイスもあって、ABCで76年から80年にかけてヒットした「ラブアタック」をベースにするのがいいのではないかという事になりました。桐山さんから、広い中国をアメリカに例えて、「香港がマンハッタン、上海が全盛期のシカゴ、北京がサンフランシスコで、広州が荒廃したロスアンジェルス」と伺ったことが印象に残っています。

 「ラブアタック」という番組は、男性(主に大学生たち)が、女性(かぐや姫)のハートを射止めるために様々なゲームで攻防を展開して、勝ち抜いた男性だけが、かぐや姫への「愛の告白権」を獲得できるというもので、スタート時は関西ローカルで火曜の深夜に放送されていたのですが、77年4月にNETがテレビ朝日に社名変更されたのを機に全国ネットになり、日曜日10時30分から11時25分に放送されていました。司会は当初からの、横山ノックさんと、元ゴールデンハーフのエバさんに加えて、上岡龍太郎さんが加わりました。(78年4月からは、エバさんに代えて和田アキ子さんが出演)。ディレクターは松本修さんで、84年10月にこの番組が終了したあと、88年にプロデューサーとして、今も続く人気長寿番組「探偵ナイトスクープ」を立ち上げ、91年に民放連テレビ娯楽部門最優秀賞に輝きました。

 私は、ABC側の了解を得るなどはしたのですが、実務の方は大崎洋君と中井秀範君が担ってくれました。おかげで、ABC・ATV・吉本3社の共同制作「香港ラブアタック・香港大追愛!」として結実したのです。憧れのかぐや姫をモノにするために、日本と香港双方から5人の男性が体を張って挑戦するという内容で、吉本からは和泉修さんや島田珠代さんらが出演し、かぐや姫には、日本側からはOPDの中野公美子さん、香港側からはミス・アジアパシフィック代表の女性が選ばれました。ゆくゆくはレギュラーを目指す意図で始めたのですが、ATVの内部事情もありこの回だけで終わってしまったのが残念です。ともあれ、SPDといい、ATVといい、やがて大きなマーケットになるであろう中国への、ファースト・トライになった出来事であったことは確かです。いやーっ、それにしても香港で食べた北京ダックの美味しかったこと!以降、私が週末を利用してしばしば香港を訪ねるようになったのも、この時に食べた北京ダックの味が恋しかったのかもしれません。「かぐや姫」を探すためなどではありません。

香港の「亜州電視」(ATV)

 

 

ラブアタック!

 

 

松本修さん

 

 

松本さんの著書

 

 

中井秀範君

 

 

北京ダック

 

 

日本 VS 香港

「94年度 フィーリングカップル 5 vs 5」(香港にて収録)