木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 うめだ花月シアターでは、6月に専属メンバー名を「ファンキーロケッツ」と決め、8月8日杮落し公演「新版艶豊富彩踊画AHO BOO!」(しんぱんつやムンムンにしきのおどりえアホ・ブー)の準備が着々と進行していました。そしてこの年の5月30日、46歳になった私は取締役になりました。いつもは事前に内示もなく、周囲からの噂で知るばかりだったのですが、さすがにこの時ばかりは内示があったようです。「・・・ようです」というのは、今もって、いったい誰から、いつ聞かされたのか、まったく記憶に残っていないからなのです。ともあれ、肩書は取締役制作部長とはなったものの、相変わらず「木村部長」と呼ばれていたこともあって、心境の変化はなかったように思います。6月26日にNGKで行われた株主総会でも、例年客席側に座っていたものが、ただ壇上に上がったくらいのことと受け止めていたように思います。

 部長になった際に、林専務から「お前もそろそろ、新地に行きつけの店を持て」と言われたこともあって、全く酒を飲めない身でありながら、この頃には、クラブ活動に励んだおかげもあって、新地や祇園、銀座に数軒行きつけの店もでき、カルピスなどをキープするようになっていました。8月に入って、うめだ花月シアターの杮落し公演を終えた後も、変わらず仕事で東奔西走を繰り返すなか、プライベートでは13・14日に、神田川俊郎さんからご紹介を受けた、ファイナンス会社の社長が「連」を出されていた阿波踊りを見るために徳島へ、16日には大文字鑑賞に母親を伴い、家族で丸太町の鱧しゃぶで有名な「多幸金」へと、多忙な日々を過ごしていたのですが、9月に入った途端に、体調に変異を来たしたのです。

 8日、楠葉の実家に帰った途端に吐き気を催し、我慢しきれず、夜中3時頃に近所に住む、姉のご主人の車で救急病院へ連れて行ってもらったのです。注射を打っても全く効き目がなく、夜が明けるのを待って、母のかかりつけの加藤病院で診察を受け、胃カメラを飲んだところ、「十二指腸潰瘍で3週間の入院」と言われてしまいました。父方の祖父を食道癌、父を直腸癌で亡くしていたこともあって、「もしかしたら自分も癌?」と恐れていた最悪の事態だけは免れ安堵しました。昔から、自分が死ぬときは「雪の中で鮮血を吐いて前のめりに倒れて」と決めていたのです。この時期の日本では富士山頂以外、どこへ行っても雪など降ってはいませんからね。おまけに、当時の私に、3週間も仕事から離れて入院することなど、およそ、考えることのできない事でもありました。そこで、院長には「仕事の引継ぎもあるので」と準備する猶予期間をいただき、17日からの入院ということで了解をしていただきました。思えば、はるか昔、幼稚園時以来の入院となるわけです。入院当日、超音波検査を受けながら、院長に「何とか、2週間にまかりませんかね?」と、トランプ流のディールを持ち掛けたのですが、「それは経過を見ないと何とも・・・」と曖昧にしか答えてくれませんでした。でも結果、手術をすることもなく、30日に退院をすることができたのですから、院長はきっと約束を守ってくれたのだと思いますね。

ファンキー・ロケッツ

 

丸太町の鱧しゃぶで有名な「多幸金」

 

加藤病院で入院していた頃

 

雪の中で鮮血を吐くイメージ

 

HISTORY

第話

 この加藤院長、およそ医者らしくない柔らかい人で、普段は自分がプライベートに麻雀をするため使っていた最上階の個室に入院をさせてくれたのです。「この部屋は、以前に〇〇組の親分も入っていましたんや」という説明を受け、果たして、喜んでいいのか、悲しんでいいのか、なんとも複雑な心境に陥りましたね。ともあれ、病院での日々は、腎臓や胆嚢の検査を受ける以外は、日に2回の点滴を受けるくらいで、他にすることもなく、大半は見舞いに訪れていただいた方々への対応に追われていました。見舞いのお花もたくさん頂戴して、病室がまるでお花畑のようになって、訪ねてきた子供たちが「まるで天国見たい」と縁起でもないことを口走っていました。入院初日こそ、我慢していたタバコですが、次の日からは気兼ねなく吸っていた気がします。

 そんなフランクな院長の加藤病院でしたが、後年母親が人工関節の手術をした際、院内感染に罹り、大阪市内のNTT病院へ転院させたこともあって、次第に縁が遠くなっていたのですが、05年に、新病院の開設以降、施設外診療や施設の目的外使用などで、加藤晃院長の保険医登録が取り消しになり、診療報酬の請求が出来なくなったこともあり、資金繰りが悪化して、経営していた不動産賃貸業や写真DPE店、持ち帰り弁当店など、合わせて78億円の負債を抱え倒産してしまいました。あまりにも院長が融通を利かせ過ぎたということなのでしょうか。

 加藤病院のことはさておき、この2週間の入院で私が一番ショックを受けたのは、「たとえ自分がいなくても、当たり前のように会社は回っていく」ということでした。「そんなこと、当たり前だろう」と思われるかもしれませんが、当時の私には「オレこそが会社を回している」という思い上がりがあったように思います。入院中、たしか次長として私をサポートしていただいていた河井泉さんが、日々のレポートをするため何度も病院を訪れていただいていたのですが、ほぼ何の問題もなく業務が流れて行っていたのです。それはそれで、喜ばしいことではあるのですが、一方で「例え自分がいなくても、仕事が遅滞なく進行していくことへのいら立ち」のようなものを憶えていたのです。同時に、その一方で、「そうか、取締役になったということは、いつまでも同じステージに立って、オレがオレがと部下と競うのではなく、違う所に立って、部下の成長をサポートするという風に自らの意識の転換をしなきゃいけないということなんだ」ということにも気付かされました。その意味ではまことに得るところの多い2週間だったような気がしています。

 10月12日、北新地で開いた快気祝いは、多くの部員に来てもらい、中には「チェッもう戻ってくるのかよ!」と思っていた人もいたかもしれませんが、表面的には大いに盛り上がりました。これを機に、少なくとも自分の中では、「鬼の木村から仏の木村に変わらなきゃ!」という意識が芽生えていったように思います。

加藤病院

 

サポートしていただいた河井泉さん

 

「鬼」から「仏」へ とは思いつつも

 

 

 

 

 

HISTORY

第話

 また、この92年という年は吉本興業にとって、吉本吉兵衛・せい夫妻が、天満宮裏の第二文芸館で寄席経営を始めて以来、ちょうど80年を迎える大きな節目となった年でもありました。10月8日には、大阪の全日空ホテルで、盛大なパーティが開かれ、前年に亡き林正之助さんからバトンを引き継がれた、中邨秀雄社長体制を内外にアピールする契機ともなったのです。もし、私の入院が当初の予定通り、あと1週間延びていたら、この大事な時に間に合わなかったかもしれません。あらためて、融通の利く加藤院長と交渉しておいて、本当に良かったと思いましたね。

 これに併せて社史も発刊され、編集委員には、「考える人」の冨井善則さんや、私が京都花月時代に制作部への異動を直訴した、当時の人事課長だった亀田泰男さん、広報部の竹中功君の名前が記され、表紙には、私の最初の勤務地・京都花月の支配人だった、達筆で知られた松久茂さんの手によって、「吉本八十年の歩み」という金色の文字が刻まれていました。284ページに亘るこの力作は、会社の歴史など、ろくに知らないままに入社をした私にとっては、先人たちの足跡を学ぶ貴重な資料となりました。それと同時に、我々が未だ、先人たちの達成された域に及んでいないという現実にも気付かされてしまいました。この会社は、すでに1933年には、映画製作に乗り出して、翌34年には、大日本野球団(現読売巨人軍)の設立にも参加していました。その上、全国に47館もの劇場を構え、横山エンタツ・花菱アチャコ・柳家金語楼・柳家三亀松・川田義雄といった当時の5大スターの他に、1300人にも上る芸人さんを抱えていたといいますから、すでに日本のエンターテインメント・シーンの中では、結構メジャーな存在でもあったのです。

 とはいえ、いつまでも、藤沢周平さんの「残日録」に書かれた三屋清左衛門のように、「未だ遠し・・・」と沈んでばかりいるわけにもいきません。前を向いて、中邨社長のもとで、新しい吉本を築いていかねばならないのです。そのころ、少しばかり凝っていた「クラブ活動と韓国旅行もしばらくは自粛して、仕事に励まねば!」と固く心に誓った、・・・と思ったのですが、当時の手帳を繰ってみると、夕刻以降、なぜか新地や銀座のクラブ名が記されています。きっと、無理をして、病み上がり身でありながら、会社のために夜遅くまで打ち合わせを重ねていたのでしょうね。

 10月23日、うめだ花月シアターは、(追加した18公演を加えた)全71公演を好評のうちに終え、93年1月6日から始める次回作、「星の星の星娘」の準備に入ることになりました。プロデューサーは大崎君、作・演出はかわら長介さん、キャストは新喜劇の島田珠代さん、北新地「おだまり」のデラックスなピーコママ、そしてもう一人が「ナニワの雪だるま」の異名をとる、おとめ座、O型、心身ともに至って健康な入社3年目の女性社員・大木里織君という異色の取り合わせでした 。

当時の中邨秀雄社長

 

松久茂さんの達筆な字で書かれた「吉本八十年の歩み」の表紙

 

「星の星の星娘」の企画書

 

島田珠代さん

 

「おだまり」のピーコママ

 

「ナニワの雪だるま」こと大木里織君

 

若かりし頃の大木里織君

 

HISTORY

第話

 島田珠代さんは、MBSTV「4時ですよーだ!」の素人参加コーナーでデビューしたNSCの6期生で、92年にはフジテレビの「笑っていいとも!」に出演するなど、新喜劇の若手有望株として、脚光を浴びつつある存在になっていました。

 今一人のピーコママは、北新地で、ショウなどをせず、ひたすらしゃべくりだけで客をもてなすゲイバー「おだまり」のママとして知られた人でした。なかなかのやり手で、銀座にもお店を出し、木曜日だけはピーコママが店に顔を出していました。近畿大学で柔道をやっていたとかで、ただでさえ立派なガタイの上に、さらにうず高く積まれた頭のせいもあって、圧倒されるほどの存在感がありました。そのキャラクターに目をつけて、テレビ出演を勧めたことがあったのですが、生まれ育った徳島の親戚に知られるのがネックとかで、どうしても、ウンとは言ってくれなかったのです。もし、叶っていれば、今のマツコ・デラックス以上の存在になっていたかもしれませんね。でも、この時は、「舞台だから」と口説いたこちらの意を汲んで、出演することを承諾していただきました。

 さて、この2人に並ぶのはだれか?と考えた時、大崎君と私の頭に浮かんだのが、「ナンバの雪だるま」大木早織君だったのです。大木君は当時、NSCの卒業生のフォローと育成のために行っていた、NGKホールでのイベントを任されていたのですが、島田珠代さんと強烈なキャラクターのピーコママに対抗するには、「これくらいキャラが立っていないと!」と思ったのです。おまけに彼女の場合は社員ということもあって、ギャラも発生しないということで、異例の抜擢(?)をすることになったのです。

 9月中旬から始まった稽古では、タップダンスや踊り、歌の厳しいレッスンが始まりました。もちろんその間にも、島田珠代さんは新喜劇に出演し、ピーコママはお店に出て、大木君はルーティンの業務に奔走し、「目茶苦茶しんどい、いっそこのまま倒れてしまわへんかな?」と思いつつ稽古に出たら、皆から「大木はいつも元気やなあ!」と言われる日々が続いたのです。

 島田珠代さんは94年、ホリプロさんから声がかかり、天王洲アイルの銀河劇場で公演された音楽劇「サザエさん」にカツオ役で出演させていただきました。ピーコママはその後、店もますます繁盛して、変わらずゲイ道に精進されていると聞きます。大木君はこの時の酷使によほど懲りたのか、風の便りに聞くところでは、ハワイでのんびりとした日々を過ごしているそうです。きっと今頃は「ハワイの雪だるま」などと呼ばれて、皆の人気者になっているかもしれませんね。

おだまり

 

ピーコママ

 

さてどちらが本職のお相撲さんでしょう?

 

声をかけていただいたプロデューサーの金森美弥子さん

 

銀河劇場

 

波平さんとワカメちゃんが合体したら、こうなります

 

ハワイへ行った雪だるま

 

悲鳴をあげる雪だるま

 

HISTORY

第話

 やしきたかじんさんと初めてお会いしたのも、ちょうど同じ92年頃でした。あるパーティに出て、帰ろうとしていた私をわざわざ追いかけてきて、「やしきと申します」とご挨拶して頂いたのです。もちろん私もお名前だけは知っていたのですが、吉本のタレントさんでもなく、格別お話をする機会もないまま過ごしていて、とっさに「いや、こちらこそ」と言葉を返したものの、私ごときにそこまでされる几帳面さには驚かされました。

 以来、大阪でこの人の番組を見るにつけ、「絶対東京でも通用する」と思い、老婆心ながら、親交のあったオフィス・トゥー・ワンのプロデューサーに話をしたのが効いたのか、10月から共同制作をしていたテレビ朝日の1時~2時半の深夜生放送「M10」のMCに起用されることになりました。

 ところが12月11日、事件が起こったのです。「たかじん男の料理」のコーナーで、たかじんさんが料理を作ろうとしていたら、好みの調味料・味の素が用意されていなかったのです。これに激昂した彼は、アシスタント役のトミーズ雅君の取り成しも聞かず、生本番を放棄してスタジオを後にしてしまったのです。おかげで、番組は翌週からVTR収録となり、たかじんさんも翌年3月までは出演したのですが、綿密な準備をして本番に備えている彼にとって、スタッフの粗雑な対応が許せなかったのだと思います。

 今思えば、後々、彼が東京嫌いになった原因の一端は、この「味の素事件」にあったのではないかと思います。84年には「あんた」、86年には「やっぱ好きやねん」など、ビクターから出した曲がヒットし、ABCラジオの帯番組「聞けば効くほどやしきたかじん」が話題になったとはいえ、まだ関西以外ではそれほど顔も売れておらず、東京では、どこまでが姓で、どこからが名前か分からず、「やしきた・かじん」さんと呼ぶ人がいたほどです。

 大きくブレイクしたのは、「M10」と同じ時期に始めた、YTVの深夜番組「たかじんnoばぁ~」からだったと思います。こちらも同じ深夜番組で、たしか0時から1時までの生放送だったと思います。1500万円もかけたバーに、世界中から取り寄せた200種の酒や、本職のバーテンダーまで揃えた中で、マスターのたかじんさん、マネージャー役のトミーズ雅君が、客としてやって来たゲストと本物の酒を飲みながらトークをするというものです。放送できない発言には「ガオー」という編集音が入り、口元には「ガオー」というテロップが貼られるようになっていました。お約束のトークではない、型破りなトークが受け、94年1月15日の放送では深夜にもかかわらず、25%の視聴率を上げる人気番組となりました。

 その後、東京ではNTVが93年4月から、名古屋ではその1年後にCTVがネットしたことや、ポリスターからリリースした「東京」が60万枚のセールスを記録したこともあって知られるようになったのですが、札幌ではテレビのネットがなかったということもあって、顔が売れておらず、吉本新喜劇のポット君・帯谷孝史さんと間違われてショックを受けていたみたいですね。

事件のきっかけとなった「味の素」

 

「たかじんnoばぁ~」のDVD

 

「マスター」のたかじんさんと、「マネージャー役」のトミーズ雅君

 

 

 

 

 

そっくりです

 

帯谷孝史さん

 

HISTORY

第話

 たかじんさんはその後も、94年からKTVで「たかじんの胸いっぱい」、98年MBS「たかじんONE MAN」、03年YTV「たかじんのそこまで言って委員会」などの番組を持ち、「浪速の視聴率王」と呼ばれるようになりました。一方、およそ3時間のうち6割がトークと言われるコンサートも、チケットの入手が困難と言われるほどの盛況を博していました。私も、北新地のママの手でチケットを手配していただき、一度だけ見に行ったことがあるのですが、トーク時のダミ声と、歌う時の高く澄んだ甘い声のギャップには驚かされました。誰が言ったのか知りませんが、「スズムシの声を持ったゴキブリ」とは、言いえて妙、「どこから、あんないい声がでるのか」と感心するほどでした。大阪テイストのバラード、私がもし女性だったら、メロメロになっていたと思いますね。

 時として、乱暴な言葉や表現傍若無人な振る舞いばかりがフューチャーされるたかじんさんですが、私には、嘗てどこかで経験した、懐かしい感じのする人であるように思えてなりませんでした。そう、あの横山やすしさんです。お二方共に、強面の奥に、とても繊細な一面が秘められているように思えたのです。たかじんさんが、コンサートの前には、決まって自律神経失調症や重度の胃炎を発症し、ノイローゼ気味になるというエピソードからもそれは窺えます。いつか、お誘いを受けて北新地へご一緒したとき、30分おきに店を移るのに辟易しつつ、これもたかじんさんのサービス精神の現れだと納得しました。

 間隙を縫って、「家ではどうされているんですか?」と聞くと、6台くらいあるモニターで全局の番組をチェックしているとおっしゃっていましたね。横山さんはそんな努力はしていませんでしたが、内面のナイーブさはお二人とも共通していたように思います。さしずめ、たかじんさんは、「努力をした横山やすしさん」と言っていいのかもしれませんね。

 横山さんは51歳、たかじんさんは64歳で胃癌を発症して亡くなりました。今の平均寿命から考えると、共に早すぎると言っていいお別れでした。きっと、お二人とも自らが築いた己の像を壊すまいと、身を削って無理を重ねてこられたのだと思います。おかげで、貴重な体験をすることができました。どうぞ、「安らかにお眠りください」とお祈りすると同時に、食事をご一緒した際に、リタイアした団塊世代に向けて「ラジオのベルト番組を作りましょう」と言ったお約束が果たせなかったことをお詫びしたいと思います。吉本のタレントさんでもないのに、不思議なご縁を感じさせていただいた方でしたね。

1986年に発売された「やっぱ好きやねん」

 

60万枚を売上げたヒット曲「東京」(1993年発売)

 

 

 

2014年1月3日にご逝去されました

 

私が編集長を務めるフリーマガジン「ファイブエル」に

ご出演頂いた時のツーショット(2009年2月号)

インタビュー記事はこちらからご覧頂けます。

 

HISTORY

第話

 振り返ってみれば、この翌年、93年〜95年の3年間は会社にとっても、私自身にとっても、大きな節目を迎えた時期であったといえる気がします。91年に林会長が亡くなり、中邨社長の新体制になって、それまでの興行会社から、企業としての吉本への体質転換を図っていたのです。92年9月、吉本興業の将来ビジョンを再度練り直すべく、IVY(Idea & Identificational Vision for Yoshimoto)という社長直轄のプロジェクトが立ち上げられました。プロジェクトメンバーは、社長の信厚き、考える人・冨井常務以下30代のメンバーと、このややこしいプロジェクト名を考えた三和総合研究所のひとたち。

 当時46歳であった私は、何か月か毎に上がってくるレポートを他の役員の人たちと一緒に聞くという立場であったと思うのですが、「自分が30代の時にこんなプロジェクトをやってくれていたら」という思いはありましたね。三和総研さんから「タレントを売るための秘訣を伝授します」と言われ、「ほう?」と耳を傾けると、グラフを描かれた説明が余りにバカバカしかったので、「じゃ、自分たちでやってみれば!」と冷たく返したのも、どこかで忸怩たる思いをぶつけたかったのかもしれません。いずれにしても、このプロジェクトは、30代の社員たちのモチベーションを上げるという意味では一定の効果を上げたと言えるのではないかと思います。

 93年はまた、吉本興業の本格的な東京進出を模索していた時期でもありました。なるほどテレビでは認知をされていた吉本ではありましたが、本格的に東京進出を図るとなると、やはり拠点となる劇場を構えなくてはなりません。既に10月には、名古屋にも広小路小劇場をオープン済みでした。東京のどこかいい物件はないか?ということで、私も総務担当の平戸取締役から依頼されて業務の間を縫って、新宿の末広亭や池袋の文芸座、ニューオータニなどを経営するTOCグループの浅草ROXなどを見に行ったもののどこかピンと来ず、日々の忙しさに紛れて忘れかけていた頃、平戸さんから「東芝が、銀座のビル内の劇場をタダでええから使うてくれへんか言うとんねん」と耳打ちされました。「えっ!銀座、それもタダで? そんな美味しい話があるものか?もしかして・・・」とは思ったのものの、まずは行ってみなきゃ始まらないということで、現地へ行ってみることにしました。場所は銀座7丁目の東芝セブンビル、その7・8階がイベントスペースになっていて、ショールームや、ごくたまにアイドルイベントの会場として使用されているとのことでした。せっかくの1等地にありながら、ややうらぶれた感のあるのが少し気にはなりましたが、何と言ってもそのロケーションには魅力がありました。「東京人の誇りの源泉たるこの地に、吉本が来たら、さぞかしインパクトがあるだろうな!」、帰りに1階にあるサッポロライオンで食事を取りながらワクワクしたのを憶えています。

 プライベートではこの年の4月2日に、1981年以来住んでいた赤坂檜町の賃貸マンションを離れ、長男の小学校入学を機に高輪の小さな戸建に引越をしました。子育てから引越しまで、すべてを妻に任せ、この家を見たのはこの引越し日が初めてという有様、まさに「亭主元気で留守がいい」を地で行くような有様だったのです。

このIVYではありません。

 

 

新宿の末広亭

 

 

池袋の文芸座

 

 

浅草ROX

 

 

銀座7丁目劇場(イラストは赤塚不二夫さんが担当されました)

 

 

 

 

HISTORY

第話

 大崎君からの紹介を受けて「ポップティーン」の編集者・尾崎さんとお会いしたのは、この年(93年)の4月末だったと思います。「週刊宝石」や「女性自身」「フォーカス」や「フライデー」など、アダルト向けの雑誌の方はお付き合いがあっても、少女向けのファッション誌の方がなぜ?とは思ったのですが、「角川書店からポップティーンの編集を請け負っている飛鳥新社の土井社長が夕刊紙の発行を企画していて、吉本にも参画をしてほしい」というのです。

 飛鳥新社は、小学館で「GORO」の編集をしていた土井尚道さんが、1978年に設立した会社で、80年から「ポップティーン」の編集業務を委託され、83~85年に「ビートたけしのみんなゴミだった」「たけし吼える」「あの人」を出版、それぞれが20万部を記録。92年には「磯野家の謎 サザエさんに隠された69の謎」が200万部の超ベストセラーになったので、その資金をもとに念願だった夕刊紙を年末から出すべく準備中だというのです。もちろん、こんなことを即断できるわけはなく、土井社長とお目にかかって詳細を伺ったうえで、社に諮るということでこの日は別れました。

 6月10日、お目にかかった土井さんから、ターゲットは既存の「日刊ゲンダイ」「夕刊フジ」「東京スポーツ」などが取りこぼしている20~30代のヤングサラリーマン。高い感性を持つこの年代に響くように、「コミックで斬る」「スクープで抉る」「不安の時代を明るく読む」というコンセプトのもとに、「銭ゲバ」や「はぐれ雲」のジョージ秋山さん、「月とスッポン」「翔んだカップル」の柳沢きみおさんなど、ビッグな作家連によるコミックの連載や、スポーツ・芸能・ギャンブルを網羅するというのです。芸能があるのなら我が社のプロモーションにも活かせますし、コミックの原作権を取れれば映像化も可能になり、参加する意味もあろうというものです。

 その上、「印刷と流通は毎日新聞にお願いして、出資まで検討してもらっている」、編集長には「GORO」「写楽」を立ち上げ、「週刊ポスト」で100万部を達成して取締役になりながら、92年、58歳の若さで母上の介護のため、小学館を退職されていた「関根進さんにお願いしようと思っている」「まずは首都圏からスタートするけれど、次年度からは関西圏でも発行したい」と聞かされ、「これなら!」ということで中邨社長に話し、7月26日大阪本社へお越しいただくことになりました。そういえば、学生時代に、戦火のベトナム取材等でボーン賞や、日本新聞協会賞を受賞された大森実さんが、毎日新聞を退社されて、日本最初のクオリティペーパーを目指して、1967年に発刊された週刊新聞「東京オブザーバー」もありましたね。憧れはあったものの、卒業時に廃刊になり思いを果たすことはできませんでしたが、どこかで当時への郷愁のようなものがあったのかもしれません。

「ポップティーン」

 

 

「GORO」

 

 

 

 

200万部の超ベストセラーになった「磯野家の謎」

 

 

ジョージ秋山さんの著書「銭ゲバ」「はぐれ雲」

 

 

柳沢きみおさんの著書「月とスッポン」「翔んだカップル」

 

 

国際ジャーナリスト 大森実さん

 

 

「東京オブザーバー」

 

 

HISTORY

第話

 ちょうど、翌年に銀座7丁目に劇場を立ち上げるべく準備にかかっていたこともあり、媒体を持つメリットはあるということで、話は順調に進み、9月30日に赤坂の料亭「佐藤」で3社のトップが顔を合わせることになりました。話を主導し、熱く語る土井社長、それを見守る中邨社長に比べて、「東西間の調整もありますので・・・」と言葉を濁す毎日新聞側のスタンスは明らかに違っていました。懸念していた通り毎日新聞は参加できないということになりました。

 結局、大手新聞社との話は実現せず、JRの駅売店「KIOSK」への配置を決める鉄道弘済会との交渉も不調に終わり、関根編集長が実現することもありませんでした。首都圏で最も多くのサラリ-マンが利用するJRの売店に置けないというハンデを抱える日刊アスカは資金難のため、12月13日から半年間で幕を閉じることになり、結果として90年に20代~30代の女性をターゲットに創刊した、「東京レディコング」と同じ轍を踏むことになってしまいました。新興勢力にとって、既にKIOSK内に配置されている既得権者の壁は、それほどに厚かったということです。以降、長銀の仲介でセゾングループにアプローチしたり、夕刊フジと共同制作・共同セールスを模索するも奏功せず、4月新たに事業計画書を持参して来社された土井社長に「もうこれまでにしたら!」と断を下された中邨社長の冷徹さには驚きましたが、同時に「経営者は、かくあらねば!」という厳しさを教えていただいた気がします。93年12月1日付で編集部と広告営業部に出向をしていた奥谷達夫・島田剛両君には申し訳ないことをしました。

 25億の大赤字を出した飛鳥新社は、94年ポップティーンをスタッフごと、土井社長が顧問をされていた角川春樹事務所に売却し、苦境に陥ったものの、06~09年、磯野家の謎の編集をされていた赤田祐一編集長のもと、月刊誌「団塊パンチ」を発刊、07年・12年・14年には再び「夢をかなえるゾウ」シリーズなどのヒット作を出し、最近では「WILL」を辞めた花田紀凱さんををスタッフごと迎え、「WILL」に対抗するかのように「HANADA」を発行するなど、土井社長の反骨精神は、いまだ健在なようで安堵をしています。

 一方銀座7丁目劇場の方は、さすがに「タダ」というわけにもいかず、それなりの家賃を払うことにはなったようですが、順調に推移し、イベントホールを劇場仕様に改装して94年3月のオープンということが決まりました。問題は、誰が劇場のコンセプトを担うかということです。私の頭に浮かんだのは、当時電通さんとプロジェクトを組んで「天然素材」をヒットさせていた、木魚・泉君でした。年の瀬も押し迫った12月19日、若手有望社員を伴って社長や専務と訪れていたベルリンのインターコンチネンタルホテルで、彼からの長ーいプレゼンを受け、家族の待つパリへの移動時間を気にしつつ、熱く語る彼に「いいんじゃないか!」と返事したのを憶えています。企画書に何が書かれているかというより、その企画にどれだけ熱意が込められていることの方が大切だと思ったからなのです。

赤坂の料亭「佐藤」

 

 

JRの駅売店「KIOSK」

 

 

「団塊パンチ」

 

 

「夢をかなえるゾウ」

 

 

「WILL」と花田紀凱さんが編集長を務める「HANADA」

 

 

銀座7丁目にある東芝ビル(現在はZARAの店舗となっています)

 

 

HISTORY

第話

 明けて94年は慌ただしい年になりました。正月の挨拶もそこそこに、7日には銀座7丁目劇場のミーティング、8・9日は香港へ、12日にはフジテレビの横澤さんと会い、19日から23日まで上海・北京、25日は中邨社長と共にラジオ大阪の前田社長と会食、27日は代理店旭通の岡安氏と打ち合わせ、28・29日再び香港、2月6~8日札幌と目まぐるしく動いています。実は、これが皆、この年に起こしたプロジェクトに関係した動きだったのです。それは後述するとして、まずは銀座7丁目劇場のことからです。

 1月10日には運営事務局を発足、13日には「Being」で告知、2月1日にキャラクター・デザインを赤塚不二夫さん、メイン・キャラクターをナインティナインと発表、同時に大成建設との賃貸契約を締結。20日、銀座7丁目劇場TOKYOオーディションをラフォーレ原宿で行いニッポン放送で中継、3月25日、クライアント及びメディア向けの劇場発表パーティを東京プリンスホテルで行い、27日の劇場オープンでは、杮落し公演として「天然素材ぶっちぎりライブ」を行うことなど、次第に概略が固まっていきました。

 併せて、事前告知として、NHKのドキュメンタリー番組や、NTVの「スーパータイム」・TBSの「迫ってBABURI」。レギュラーとして平日17時~17時30分の生放送、テレビ東京の「銀BURA天国」、それに加えてニッポン放送の宮本幸一編成局長からは、「一緒にムーブメントを作りたい」として、「オールナイトニッポン」のコーナーで「ラジオ7丁目劇場」をやっていただけることが決まりました。もちろん、電通さんのご協力もあってのことですが、着々とことは運びました。そうそう、日刊アスカでも、しっかりと告知させていただいたことは言うまでもありません。1月4日の年頭記者会見で、正式に「東京進出」を発表された中邨社長の顔からは、自信ではなく確信に満ちた表情が溢れていたように思えました。

 開館当初こそ、爆発的人気を誇っていた「吉本印天然素材」のメンバーや、その弟分のグループ「フルーツ大統領」、心斎橋筋2丁目劇場のメンバーが出演をしていましたが、次第に極楽とんぼ、ココリコ、ロンドンブーツ、品川庄司、DonDokoDonなどの東京で育ったメンバーが中心を占めるようになっていきました。また、同年にテレビ静岡がオープンした、メディアシティ静岡内の「百人劇場」に「吉本・伝馬町劇場」としてチュパチャップス、ココリコ、DonDokoDonなどが出演し、生放送「吉本・伝馬町劇場生だ!SHIZUOKA金ゴロー」が放送されていました。ライブでタレントを鍛え、テレビで人気者にしていく吉本の手法がここでも生かされていたのです。

 

 

 

 

当時 ニッポン放送の編成局長だった宮本幸一さん