木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 1948年、明治期に歌舞伎界から転身して上方喜劇を創った、曾我廼家五郎・十郎一座の流れをくむ松竹新喜劇が、作品を重視してタイトルや役名が語り継がれるのに対して、吉本新喜劇は、時事ネタを取り入れた一回性の舞台という違いがあります。タイトルや役名よりも、ギャグを言うタレントが優先され、芸名がそのまま役名にもなっていて、京ぼん(花紀京さん)、八っちゃん(岡八郎さん)の名前があっという間に知れ渡る効果をもたらしました。当時1ヵ月に9本も台本を書いたという竹本浩三さんは、「忙しくて役名を考えるのが面倒だったから」と述懐されていますが、もしこれが戦略だったとしたら、まんまとそれが当たったと言えると思います。

 もう一つの違いは、松竹新喜劇が、藤山寛美さんというカリスマを頂点とするタテ型の組織であるのに対して、吉本新喜劇は、主役のギャグを受けてオーバーにひっくり返るなど、新人にも笑わせるチャンスが与えられたヨコ型の組織であったということです。もちろん、芝居を台無しにするような目立ち方ではいけませんが、人のギャグをみんなで協力して盛り上げる精神は一貫していたように思います。タテ型組織はレガッタチームと同じで、漕ぎ手の一人ひとりが、どれだけ貢献しているかが見えにくいのに対して、ヨコ型組織は駅伝チームのように、チームの成績だけではなく、個人の成績も明らかになり、区間賞ももらえるのです。寛美さんが、87年2月まで244ヵ月連続公演という偉業を達成された陰で、曾我廼家鶴蝶さんや、後継者と目されていた小島秀哉さんなど多くの離反者を招くことになりました。90年に寛美さんが亡くなったあと、3代目渋谷天外さんが後を継いで「新生松竹新喜劇」として再スタートしましたが、往時の隆盛を知る者にとっては、寂しいと言わざるを得ない状況が続いています。

 一方、吉本新喜劇は、70年~80年に充実期を迎え、うめだ・なんば・京都の花月3館には多くの人が押し寄せました。テレビでは子供たちが、土曜のお昼には駆け足で帰宅をして、放送される吉本新喜劇を愉しみ、「大阪の子は土曜日に育つ」という言葉まで生まれました。当時、吉本新喜劇では、座長制も確立されていて、花紀京・岡八郎・平参平・原哲男・桑原和男・船場太郎さんたち、中堅には、谷しげる・室谷信夫・井上竜夫・浜裕二さん、若手には木村進・間寛平・伴大吾さん、女性陣には藤井信子・片岡あや子・中山美保・山田スミ子さんの他に、楠本見江子・藤里美・末成由美さんら約60名が、3館に分かれて休みなく10日置きの公演に明け暮れていました。私が入社したのは、まさにこういう新喜劇全盛の頃だったのです。