木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 とはいえ、2月11日には東京の東阪企画で舶来寄席の打ち合わせ、3月5日、10日には来日したスタッフやアーティストの出迎え、そして17日のゲネプロを経て18日には初日と、再び慌ただしいスケジュールが始まりました。ただ、「アメリカン・バラエティ・バン」とは違って、ダンサーが各シーンを繋ぐとはいえ、基本的には個々のパフォーマンスを披露する寄席形式のプログラムだったこともあって、我々にとってはそれほど負担のかかるものではなかったのです。そんなこんなで、大阪での滞在率が上がっているところに、4月1日から制作部の次長として本社勤務をしろという辞令が下りたのです。

 元来が大阪本社の企業で、しかも課長心得からの栄転ですから、喜ばなきゃいけないのですが、逆に落ち込みました。「広い東京マーケットで、誰の指図も仰がず、自由気ままに仕事をしていたのに、なんで狭い大阪で、しかも先輩社員に囲まれて窮屈な思いをしながら仕事をしなきゃいけないんだ」という考えが先に立って、懲罰人事のように思えたのです。一瞬、「やめようかな?」という考えが頭を過りました。そう思ったのはこれで2回目のことです。1回目は「やす・きよ」さんのマネージャーを代われと言われた時、「なんでタレントの意見を尊重するんだ」と、会社に対して阻隔感が生じたとき。今となっては浅はかというしかありません。その時は、結構真剣に「やめようかな?」と思った記憶があります。結果、「今、自分が試されているのかもしれない」と考え直して残ることにしたのですが、今回はそれに次いで・・・ということです。おまけに上司の部長は熟慮慎重居士の冨井さん。悪い人ではないのですが、昔からどうにも反りが合わないと思っていた人なのです。

 入社2年目、本社へ異動して、デスク業務の補佐としてこの人の下に付いた時、社外へ出たこの人に代わって放送局からの電話を受け、失礼がないよう、あるタレントへの仕事の依頼を受けてタレントさんに連絡を取ったまでは良かったのですが、翌日「勝手に仕事を受けるな!」とこっぴどく叱られたことがありました。多分、私が受けた仕事がそのタレントさんにとっては、気の進まないもので、冨井さんに連絡が行ったのだとは思いますが、それならそれで、仕事依頼の電話に出るときの対応術を教えて欲しかったと思いましたね。そんな留守番電話の代わりをするくらいなら、定時の後、誰もフォローしていない仕事に行ってみようと思って提案した時に、「勝手にしろ!」と許してくれたのもこの人ですから、恩人と言えばたしかに恩人ではあるのですが、どうにも気が重くなる人事であるのは否めませんでした。

 ただ、「親と上司は選べない」という言葉もあります。「郷にいては郷に従え」とも言います。いつもは、あまり「郷にいても郷に従わない」自分ですが、ここは一番「郷に従ったふりをしてみようか!」と思い直して、まずは様子見から入ることにしました。とはいえ、それまでよりペースが落ちたものの、東京行きは欠かさず、会議の開かれる週の前半は大阪にいて、劇場を観たり大阪の各放送局を訪ねたりして、週末は東京でというペースでは動いていたように思います。

 株の取引に集中していた会長の秘書の方から呼び出しがかかるのは、いつも取引の終わった午後3時を回った頃のことでした。すぐに、冨井さんと2人で会長室へ飛んでいくと、まず、「君らは舞台を観ておるんか!」という言葉が飛んできます。次いで、「あの何某という芸人は何だ!あんなものをどうして舞台に出すのだ!」とか、「今日は誰々が出ることになっているのに、どうして違う芸人が出ておるんだ!」という叱責が飛んできます。「舞台を大事にしろ」とおっしゃっているのです。「テレビを優先するのは分かるけど、それでも舞台を疎かにしてはいけないぞ!」ということなのです。そして、ひと通りお叱りを受けた後には、「君ら2人で松本へ行って飯を食って来なさい、どうせ普段からいいもん食べとらんやろ!」とおっしゃるのです。何しろ「ライオン」と異名をとる恐ろしいお方です。到底我々に逆らえるわけもなく、2人して一緒に「松本」へ出かけるのですが、「何でこの人と飯を食わなきゃいけないの?」と思うと、全く食べた味がしませんでしたねえ。

 

 

株の取引に集中されている林正之助 会長

 

 

株取引が終わった午後3時を回ると・・・

 

 

 

 

 

こんなことはなかったですけどね。

 

 

 

 

道頓堀 中座の西側、狭い路地を挟んで「松本」がありました。

惜しくも、平成9年の春に閉店しました。