木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 充実感を憶えながら仕事をしている内に6年の歳月が流れ、私も40歳を迎えました。大阪の本社へ制作部次長として戻れという内示が下りたのです。課長心得から課長を飛び越しての次長ということですから、出世ということでしたが、広い東京で自在に動き回っていた私には、狭い大阪へ戻って組織の中で、先輩たちに囲まれながら仕事をするということが懲罰人事のように思えました。「やめようかな?」と思いました。そう思ったのはこれが2回目でした。最初は、やす・きよさんのマネージャーを外れろと言われた時でした。後になっては短慮という他ないのですが、「会社はタレントさんの言い分を採って、社員を切り捨てるのか」と思ったからです。でもこの時は「もしかしたら、今自分は試されているのではないか」と思い直したのです。「木村が大きな顔をしているのは、やす・きよという売れっ子タレントを抱えているからだけのことで、それを手放したら、お前は一体何ができるんだ?」ということを見られているような気がしたのです。

 まあ、そのおかげで東京へ来ることができたというわけですが、さすがに今回は違いました。「手を広げるのはいいけれど、誰がそこまでやれと言ったんだ」という意味合いの方が強いと思ったからです。普通なら事情通の社友がいて、今回の異動は、かくかくの狙いがあってなどと解説してくれたりするのですが、あいにくそんな仲間もいない私には、何一つ情報が入ってこなかったのです。上司である林制作担当取締役は、前にも述べたように寡黙な人で、「なんでこうなったか」ということも一切説明してくれません。おまけにこの年に長男が生まれたということもあって、「このまま東京に残って、どこかのプロダクションに入るか、誰かのマネージャーになるか」とも考えたのですが、「もしかしたら、大阪本社の制作部の強化をしろ」ということなのかと勝手に思い直して、家族を残したまま大阪へ赴任することになりました。不惑という言葉通り、40歳の自分にとって「大いに惑う」年となったのです。

 幸い、大阪の枚方市楠葉には母も住んでいたので、以降ウィークデーは基本的に大阪。週末は東京という生活が始まることになるのです。それまで歩いて出勤していたのが、樟葉から京阪電車で淀屋橋、地下鉄に乗り継いで難波まで、都合50分ほどかけて通勤をするリズムを取り戻すまでにしばらくかかりました。NGKの上にある本社へ通う南海通りにある「波屋書房」も、豚まんの「二見」もアイスキャンデーの「北極」も昔のまま、千日前のたこ焼きの「わなか」、「あずま食堂」、肉すい・小玉の「千とせ」もそのまま残っていました。本社の会議風景も6年前と同様、たまに顔を出すパーティでも出席しているメンバーの顔触れがほとんど変わっていないのにも驚かされました。「時計の針が止まっている」それが復帰して、まず最初に感じたことでした。

南海通りにある「波屋書房」

 

豚まんの「二見」

 

アイスキャンデーの「北極」

 

「わなか」の塩たこ焼き

 

「あずま食堂」

 

「千とせ」名物の肉吸い・小玉

 

「時計の針が止まっている」