1985年、かってKTV「ナイトパンチ」や「パンチDEデート」でお世話になった栂井丈治さんが、大阪本社から東京支社の制作部長として赴任されることになりました。大学の先輩でもあり、旧交を温める意味もあって久しぶりに会食をした折、「せっかく東京へ来ることになったのだから、ぜひ東京で一緒に番組を作りたい」という話になったのです。時間は月曜19時からの30分、オファーを受けたのは明石家さんまさん。彼をホストにしたトーク番組で、KTVのプロデューサー兼ディレクターは、1979年さんまさんも出演していた「誰がカバやねんロックンロールショー」のディレクターで、東京支社にいた小田切正明さんと決まりました。こうしてできたのが「さんまのまんま」というわけです。まさか31年以上も続く番組になるとは思いませんでしたね。
80年初頭の漫才ブーム台頭期、明石家さんまさんは、既に大阪の人気番組、MBSテレビの「ヤングおー!おー!」やMBSラジオの「ヤングタウン」で、それまで番組をけん引してきた桂三枝さんに代わってメインを務めていましたし、東京でもニッポン放送の「オールナイトニッポン」のパーソナリティをしていて、次代のスターになるということは衆目の一致するところでした。「笑ってる場合ですよ」や「クイズ漫才グランプリ」の司会など、フジテレビの番組にも出演していましたが、彼が大きくブレイクしていくきっかけになったのは、なんといっても81年から始まった「オレたちひょうきん族」であったように思います。
当初、「タケちゃんマン」のコーナーで敵役、悪魔の子を名乗る怪人「ブラックデビル」を演じたのは高田純次さんだったのですが、高田さんが、おたふく風邪に罹患してしまったために降板して、第4話からさんまさんが代わりを務めるようになったのです。なぜ彼が代役として選ばれたのかという理由については、諸説あって、一つは、当初は代役に西川のりおさんが予定されたけれど、体が大きくて高田さんの着用していたレオタードが合わなかったので体型が近かったさんまさんが選ばれたという説と、もう一つは、出演者(多くはブームの最中にいた漫才の人たち)は多忙で、長時間拘束が必要なドラマパートで比較的余裕があったのが、レギュラー陣ではさんまさんだけだったという説がありますが、いずれにしても、彼の存在があったからこそ、このコーナーが「ひょうきん族」の看板になっていったことは否めないと思います。「ひょうきん族」のレギュラー化から4年、85年9月ついに、お化け番組「8時だョ!全員集合」を打ち切りに追い込んだのです。
幻のブラックデビルに終わった西川のりおさん、実は「さんまのまんま」0号にもゲスト出演していただいておりました。0号とは雑誌でいう試し刷りのようなもの、第1回目のゲストが榊原郁恵さんだったことは覚えていますが、0号を放送したのか否か覚えていないのです。多分放送はしたと思うのですが、もし放送をしていなかったとしたら申し訳のないことをしたものです。ブラックデビルと言い、0号のゲストといい、運が悪かったんでしょうね、きっと。
栂井丈治さん
小田切正明さん
「さんまのまんま」の台本
「生きてるだけで 丸もうけ」明石家さんま
企画 杉本高文
プロデューサー 木村政雄(吉本興業)・小田切正明(関西テレビ)
構成 黒木一由・寺崎要
出演 司会 明石家さんま・ゲスト 榊原郁恵
番組の記念テレカ