横山やすしさんの相棒、西川きよしさんは何の破たんもなく、レギュラー番組をこなしながら、85年6月にはTBSの日立テレビシティ「あの人は風でした 植村直己とその妻」で十朱幸代さんと、86年2月にはNTVのカネボウヒューマンスペシャル「脳死をこえて」で大原麗子さんとの夫婦役を演じていました。いずれも、横山さんとは対照的な役柄で、視聴率もよく、好感度もさらに上がって、何よりだと喜んでいました。
まさに、その最中、予想もしなかった出来事が起こったのです。西川さんが7月に行われる参議院選挙に出るというのです。3月1日、西川さんは奥さんのヘレンさんに立候補の意思を伝えます。当然ヘレンさんは反対、ここから西川さんの説得が始まります。翌2日中邨常務を訪ね、出馬の意思を伝えました。そして3日、東京での「やす・きよ笑って日曜日」(ANB)の収録中に横山さんに、打ち明けたのです。7月の選挙に出るためには、局の改編期である4月前、つまり3月中に意思を伝えないと迷惑がかかるからです。
私が西川さんからその意向を伝えられたのはそのあと、番組の収録が終わってからのことでした。場所を赤坂ヒルトンホテル(現キャピトルホテル東急)に移して、2人っきりで話をしました。「長年の夢だったので、参議院選挙に出たい。」それには「今しかない!」とのことでした。なぜ、今なのか?という疑問はあって翻意を促したのですが、こうと決めた時のこの人の意志の強さは経験済みです。最後には説得をあきらめ、別れたのですが、そのあと深夜に電話がかかってきて、「さっきは、ああ言ったけど、今回はやめておく」とのことだったので一安心。ぐっすりと眠ることができました。多分、中邨さんと親しい議員さんから選挙事情を含めて説得をされたか、奥さんに再度説得をされて、不承断念をしたのだろうと思っていました。
それがまた出ることになったと聞いたのは、11日大阪本社でのことです。ふたたび、大阪グランドホテルで西川さんと会い、再度「今しかない」という言葉を聞いて、説得することを諦めました。「なぜ今なのか?」当時はその謎は解けなかったのですが、今なら理解できる気がします。参議院選挙のある7月は、西川さんの誕生月、40才になるのです。漫才で天下を取り、先を考えた時に、次のモチベーションをどう見つけるか?おまけに横山さんはあの状況・・・
大原麗子さんとの夫婦役を演じたTBS「脳死をこえて」のVHS
ANB「やす・きよ笑って日曜日」の収録風景
西川さんの決意を聞いて、帰京した私は中邨常務と共に、状況説明のために、レギュラー番組を持つ局を訪ねました。こうした動きは当然マスコミの知るところとなり、3月15日大阪の報知新聞に「きよし、参院選に出馬」とスクープされ、流れは決まってしまいました。会社も仕方なく記者会見を開くことにし、「お世話になった大阪に恩返しをするため、大阪地方区から無所属で立候補する」と熱く語る西川さんをフォローするかのように、同席した中邨常務も「無所属の出馬であるため、会社も積極的に応援する」とコメントせざるを得なかったのです。
当然、横山さんは「会社より前に、まず俺と話をすべきやろ!」と反発します。奥さんや、ボート仲間に「あれは絶対落ちよる」と言っていたのは、「当選してほしくない」という気持ちの裏返しの言葉だったのです。西川さんにすれば、仕事上迷惑をかけられないと会社に説明するのを優先するのは当然のことだったのですが、今まで横山さんは、西川さんに散々迷惑をかけてきたことを他所に、それでも自分との漫才を続けてくれると思っていたからなのです。たしかに、甘えと言えばそれまでなのですが、私にはどちらが正しいということではなく、根っからの漫才一途人間の横山さんと、役者を志しながら、横山さんに誘われた漫才で大成功を収めた西川さんという、2人のプロトタイプ(基本形)の違いであったような気がしています。
ちなみに、横山さんは87年近藤勝重さんの著書の中で、「やっぱりね、俺らは暗黙の内にゴールした、と確認取っているわけやね。それが2、3年前ですわ。後ろ振り向いても、敵も追っかけてきいへんしね。でも何かやりたいというのはあるわけや。」と述べています。40代はいわば「人生の折り返し」ともいわれる時期です。しんどいけれど、一度人生前半の棚卸をして、すべてを見直し、自分を再構築して、ギアチェンジを図らなきいけない。つまり、「自分はこのままでいいのか」という問いかけを、自らに課さなきゃいけない年代なのかもしれません。で、出した答えが西川さんは「参院選」、横山さんが「やはり、漫才」だったというわけです。
澤田隆治さんから私に電話が入ったのは参院選公示日前日、3月16日のことです。「明日の公示日に横山さんと西川さんを会わせよう」とのことでした。選挙出馬表明以来、横山さんと西川さんの間は疎遠になっていました。「もし、ここで関係を修復しておかなければ、2人の漫才が途切れてしまう」という思いは私も同様でしたから、否はありません。さっそく埼玉にいた横山さんに連絡を取って、宿泊先の赤坂東急ホテルで会うことにしました。場所は3階のコーヒーハウス。ここなら24時間営業ですから時間は気になりません。横山さんが、待ち受ける我々の前に現れたのは、もう日付けも変わろうかという、午後11時を回った頃でしたね。
報知新聞に報じられた3月15日の記事
当時、参院選公示日 3月17日・18日のスケジュール表
赤坂東急ホテル
近藤勝重さんの著書「やすし・きよしの長い夏」(ランダムハウス講談社文庫)
当然、横山さんも何の話かは想像がついています。「とにかく明日事務所開きに顔を出して!」という2人に向かって、「なんで行かなくてはいけないのか、来てほしいなら電話くらいしてくればいい」と頑なに拒みます。しかし、西川さんが何度か電話を入れていることを知っていた私が、そのことを伝えても横山さんの決意は揺るぎません。時間はすでに12時を回っています。朝7時の飛行機に乗らなくては、事務所開きには間に合わないのです。その後も粘り強く説得を重ね、ようやく「とりあえず、ワシから行きますわ」と言ってくれた時には、すでに1時半を回っていたように思います。疲れた体を引きずり自宅に戻って、少し仮眠を取った後、6時にはホテルへ横山さんを迎えに行き、7時発の始発便で、横山さんと、西川さんの選挙事務所へ向かいしました。
報道陣が待ち受ける中、ややぎこちない表情をしながら壇上に登った横山さんですが、何とか「相方よりも、この嫁(ヘレン)さんを泣かさんように一票を入れてほしい。よろしくお願いします」と挨拶をしてくれました。西川さんと目こそ合わさなかったものの、一応仲直りという形はとれました。大人の対応をしてくれたのです。そんな横山さんを見て、ヘレンさんは涙ぐみ、西川さんは「ありがとう」を繰り返していました。そのあと横山さんは、師匠の横山ノックさんが推すラジオ・パーソナリティの中村鋭一候補事務所にも顔を出して、「師匠と言えば親同然、師匠の陣営だから来ただけや。相方は女房のようなものだから、女房のところへ行ったら、やっぱり親のところへも寄らなあかんやろ」と、横山さんなりの理屈を通したのです。
投票日は7月6日、西川さんは102万票を獲得してトップ当選、中村さんは残念ながら5位で落選となってしまいました。当選後に会った西川さんの顔は、日焼けをして、何かを達成した精悍な男の顔つきに変わっていました。ただ、当選したからにはまず議員としての仕事を優先しなければなりません。立候補の表明以前に抱えていた8本の仕事(単独で「料理天国」・「生活笑百科」)など4本、コンビで{スター爆笑Q&A}など4本)はゼロになりました。8月からは単独で司会をしていた「素人名人会」などに復帰をしましたが、当分生活のペースが定まるまでは、ゲスト出演以外は考えられないという状況になったのです。
しかし、それ以上に我々が考えなくてはならないのは、「やす・きよ」コンビの復活ということです。「いつ? どこで? どうやるのか?」すぐにも、そのための準備を始めなくてはなりません。一方の横山さんは、選挙後も変わらず自分の仕事をこなし、8月には一人で久しぶりに梅田花月の舞台にも立ち、乗りに乗って、観客の大爆笑を誘っていました。やはり、横山さんには舞台が一番似合うのです。早く「復活」を具体化しなくては!という思いを強くしました。結局、澤田さんがプロデュースされている「花王名人劇場」から、ということになり、10月4日梅田花月で「やすし・きよし漫才復活宣言」の収録をすることになりました。
やすし・きよしさんの漫才は、定員の倍近く入った観客の熱気に煽られてか、7か月のブランクを感じさせないくらいに素晴らしい出来でした。汗をいっぱいにかいて、舞台を降りてきた2人の顔には、安堵感と共に充実感が溢れていました。あの夜、説得に行ったのは、まさに「この日のため」だったのです。もちろん、その思いは澤田さんとて同じこと。満足げな笑顔にそう描いてありました。同月12日に放送された番組は関東で22.9%、関西で34.9%と漫才ブームの頃に匹敵する数字をあげました。
西川さんは、その後、3期18年にわたって参議員を務めることになりますが、西川さんの出馬表明直後の4月に、不摂生のため吐血して緊急入院をした横山さんの体が徐々に蝕まれていったことを考えると、今となっては、この日の舞台がコンビ人生の「最後の晴れ舞台」であったような気がしています。
壇上に登って挨拶をする横山さん
西川さんの当選を報じた新聞記事
当選証書
バンザイをする西川さん。隣は奥様のヘレンさん。
参議院議員として初登院。登院盤のボタンを押す西川さん。
中村鋭一さん
「やすし・きよし漫才復活宣言」の収録風景
1985年、かってKTV「ナイトパンチ」や「パンチDEデート」でお世話になった栂井丈治さんが、大阪本社から東京支社の制作部長として赴任されることになりました。大学の先輩でもあり、旧交を温める意味もあって久しぶりに会食をした折、「せっかく東京へ来ることになったのだから、ぜひ東京で一緒に番組を作りたい」という話になったのです。時間は月曜19時からの30分、オファーを受けたのは明石家さんまさん。彼をホストにしたトーク番組で、KTVのプロデューサー兼ディレクターは、1979年さんまさんも出演していた「誰がカバやねんロックンロールショー」のディレクターで、東京支社にいた小田切正明さんと決まりました。こうしてできたのが「さんまのまんま」というわけです。まさか31年以上も続く番組になるとは思いませんでしたね。
80年初頭の漫才ブーム台頭期、明石家さんまさんは、既に大阪の人気番組、MBSテレビの「ヤングおー!おー!」やMBSラジオの「ヤングタウン」で、それまで番組をけん引してきた桂三枝さんに代わってメインを務めていましたし、東京でもニッポン放送の「オールナイトニッポン」のパーソナリティをしていて、次代のスターになるということは衆目の一致するところでした。「笑ってる場合ですよ」や「クイズ漫才グランプリ」の司会など、フジテレビの番組にも出演していましたが、彼が大きくブレイクしていくきっかけになったのは、なんといっても81年から始まった「オレたちひょうきん族」であったように思います。
当初、「タケちゃんマン」のコーナーで敵役、悪魔の子を名乗る怪人「ブラックデビル」を演じたのは高田純次さんだったのですが、高田さんが、おたふく風邪に罹患してしまったために降板して、第4話からさんまさんが代わりを務めるようになったのです。なぜ彼が代役として選ばれたのかという理由については、諸説あって、一つは、当初は代役に西川のりおさんが予定されたけれど、体が大きくて高田さんの着用していたレオタードが合わなかったので体型が近かったさんまさんが選ばれたという説と、もう一つは、出演者(多くはブームの最中にいた漫才の人たち)は多忙で、長時間拘束が必要なドラマパートで比較的余裕があったのが、レギュラー陣ではさんまさんだけだったという説がありますが、いずれにしても、彼の存在があったからこそ、このコーナーが「ひょうきん族」の看板になっていったことは否めないと思います。「ひょうきん族」のレギュラー化から4年、85年9月ついに、お化け番組「8時だョ!全員集合」を打ち切りに追い込んだのです。
幻のブラックデビルに終わった西川のりおさん、実は「さんまのまんま」0号にもゲスト出演していただいておりました。0号とは雑誌でいう試し刷りのようなもの、第1回目のゲストが榊原郁恵さんだったことは覚えていますが、0号を放送したのか否か覚えていないのです。多分放送はしたと思うのですが、もし放送をしていなかったとしたら申し訳のないことをしたものです。ブラックデビルと言い、0号のゲストといい、運が悪かったんでしょうね、きっと。
栂井丈治さん
小田切正明さん
「さんまのまんま」の台本
「生きてるだけで 丸もうけ」明石家さんま
企画 杉本高文
プロデューサー 木村政雄(吉本興業)・小田切正明(関西テレビ)
構成 黒木一由・寺崎要
出演 司会 明石家さんま・ゲスト 榊原郁恵
番組の記念テレカ
疲弊する漫才組を他所に、明石家さんまさんは、堺正章さん主演の「天皇の料理番」(TBS)、大原麗子さん主演の「五辨の椿」(YTV)、浅丘ルリ子さん主演の「離婚テキレイ期」(TBS)などのドラマに出演をしたり、「のんき君」3部作や、コントシリーズ「心はロンリー気持ちは…」(何れもフジテレビ)で主演をしています。映画にも出ましたね、「次郎長青春篇 つっぱり清水港」(松竹)では中村雅俊さんの次郎長、さんまさんは小政で、紳助さんが森の石松だったと思います。最高視聴率55.3%、平均視聴率44.3%を記録して沢口靖子さんの出世作となったNHKの連続テレビ小説「澪つくし」にも出演していましたね。
そんなさんまさんが、武敬子さんと出会ったのは、86年1月1日にTBSで放送される「好色一代男 世之介の愛して愛して物語」について(演出 : 久野浩平、プロデューサー : 武敬子、原作 : 井原西鶴、脚本 : 吉田剛)のオファーを受けた時だったと思います。武さんと言えば、RKBを辞めた後、テレパックへ移り、「三男三女婿一匹」や「野々村病院物語」のプロデューサーとして、石井ふく子さんや和田勉さん、久世光彦さんらと共に「日本のテレビドラマを作った11人」に挙げられる有名な方です。私はそれまで武さんにはお目にかかったことはなかったのでが、お会いした会食の席で、さんまさんに対する思いを熱く語られる武さんを見て「この人なら!」とお受けすることにしました。それが「男女7人夏物語」「男女7人秋物語」(いずれもTBS)、さらには映画「いこかもどろか」「どっちもどっち」(いずれも東宝)へと続いていくのです。「男女7人」は、夏物語が最高視聴率31%、秋物語が36.6%を記録してトレンディドラマの元祖と呼ばれ、「いこかもどろか」も配収16億円を記録しました。この年にさんまさんは、共演をした大竹しのぶさんと結婚、90年に封切られた「どっちもどっち」では相手が松田聖子さんに代わりました。
現場の仕事はマネージャーがついていて、私が顔を出すようなことはなかったのですが、折々に武さんからお電話をいただいたり、食事をさせていただいたりする都度に聞かせていただくお話が、普段接触しているバラエティ分野の方と違っていて、とても新鮮で勉強になったのを今でも憶えています。
さんまさんはその後も活躍を続け、1999年には「日本で最も露出の多いテレビスター」としてギネスブックに世界記録を認定されるなど、今でも各ランキングでトップクラスの評価を獲得し続けています。小学生の頃にムササビを捕まえたという、すばしっこい少年は、いったいいつまで大空を翔び続けるのでしょうか。
山本周五郎さん原作「五辨の椿」(新潮文庫)
武敬子さん(ご著書の「たけさんのプロデューサー物語」朝日新聞社)
さんまさんの母校に飾られているムササビの剥製
飛翔を続けるさんまさん。いつまで大空を翔び続けるのでしょうか
飛翔を続けるさんまさんに触れれば、共に吉本を支えた同期生の紳助さんに触れないわけにはいきません。漫才ブームでニューウェーブの一翼を担った紳助さんは85年に竜介さんとのコンビを解散した後も、87年からNTVで和田アキ子さんと共に「歌のトップテン」の司会を務めたり、それなりに順調な活躍をしていたのですが、私にとっては、彼本来が持っている潜在能力から言うとやや物足りない思いをしていた時期でもありました。後になって考えれば、30歳を超えて、大人社会へのアンチテーゼとして売りにしてきたツッパリキャラから、大人のタレントに移行する、いわばモラトリアムともいうべき期間であったのかもしれません。
そんな時です、朝日放送の和田省一さんから話があったのは。和田さんは同い年ではあったのですが、それまでラジオ局にいらして、「おはようパーソナリティ中村鋭一です」やその後の道上洋三さんの番組をされ、テレビ局に異動された87年からは報道局で夕方のテレビニュースの編集長をされていた人とあって、あまりお付き合いをしてこなかった方です。「そんな人が、いったい何故?」とも思ったのですが、「89年4月から、ABCの報道局とANBの情報局の共同制作で、日曜午前に1時間45分の生情報番組を立ち上げるので、その司会を紳助さんにお願いしたい」とのことでした。虚を突かれた形の私ですが、和田さんの「なぜ彼なのか」という真摯なお話を伺う内に、「一見、ミスマッチに思えるこの組み合わせが、もしかしたら彼の今後のタレント人生を変えるかもしれない」と思えてくるようになったのです。
ところが、私以上に違和感を感じたのは、オファーを受けた紳助さん本人の方でした。「なんで報道色の強い情報番組の司会を自分に?しかも生放送で?」今まで体験をしたことのない番組だけに戸惑いを覚えるのは無理からぬことでした。おかげで、説得するのに結構時間はかかったのですが、和田さんの口添えもあって、ようやくオファーを受けてくれることになりました。ところがこれが、そうすんなりとは運ばなかったのです。一応、事前に生放送のシミュレーションをしておこうということもあって、同局の「ニュースステーション」にゲストとして出していただいた時、すっかり久米さんのペースに翻弄されて、自分の色が全く発揮できなかったのです。すっかり自信を無くした紳助さんは「自分には、やっぱり無理」と心が折れてしまったのです。
当時はもう大阪本社に復帰していた私が週末に東京の自宅に戻ると、マネージャーが待ち受けていて、2人でマンションのドアどころか、心まで閉ざしていた紳助さんに「立派なことを言って仕切ろうなんて思わないで、視聴者の代表として出ればいいんじゃない?」と説得にあたったのを憶えています。こうして、番組は、司会・島田紳助、ホスト・田原総一郎さん、そしてコメンテーターは国際政治学者・高坂正堯さん、普通のおばさんに戻った・都はるみさんという関西色にあふれた布陣でスタートをしたのです。紳助さんは21年間続いたこの番組の司会を14年務め、大人の人たちにも認知される存在になっていきました。
朝日放送の和田省一さん(現・朝日放送 取締役相談役)
「歌のトップテン」の司会を務めていた頃の紳助さん
紳助さんが司会を務めたサンデープロジェクト
そんな紳助さんが、司会を始めた翌90年に「サンデープロジェクト」のギャラを下げて欲しいと言ってきたのです。82年漫才ブームの最中に、タレントの待遇改善を要求して労組を結成し、自称委員長として会社に乗り込んできながら、自分だけのギャラのアップを勝ち取って矛を納めたあの紳助さんが、まさか、ギャラのダウンを自ら申し出るなんて、信じられませんでしたね。本人に真意を尋ねると、「まだ番組に貢献をしていないので」とのこと。「そろそろギャラの値上げ交渉をしなきゃと思っていた私の目論見は外れてしまったというわけです。かと言って、まさか本人の支払いだけを下げるわけにもいかず断念をしました。
紳助さんはそれからも活躍を続け、「なんでも鑑定団」(TX)「嗚呼!バラ色の珍生!!」(NTV)などのバラエティ番組の他に、ドラマでは武田鉄矢さん主演の「幕末青春グラフィティ 坂本竜馬」(NTV)、映画では工藤栄一監督の「逃がれの街」(東宝)や篠田正浩監督の「瀬戸内少年野球団」(ヘラルドエース)にも出ていましたが、私には彼の自著「風よ、鈴鹿へ」をベースに映画化して、日本映画批評家賞特別賞や、大阪映画祭新人監督賞を受けた「風、スローダウン」が最も記憶に残っています。脚本と監督を彼が担当して、井筒和幸さんが監修、主役のプロのオートバイレーサーを目指すオサム役を石田靖さん、他に桑名正博さん、奥田瑛二さん、上岡龍太郎さん、岸本加世子さん、島田陽子さん、浜村淳さんといった人たちに友情出演をしていただきました。吉本も、テレビ大阪、ディレクターズ・カンパニー、日映エージェンシーと共同出資をして91年に東映で配給されました。紳助さんは86年~95年まで、レーシングチーム「チーム・シンスケ」の監督として、鈴鹿8時間耐久レースや、全日本ロードレース選手権にも参加をしていて、その自らの体験をもとに描いた作品だったのです。
「サンデープロジェクト」と並んで、彼の大きな転機になったのは、91年10月から始まったTBSの「オールスター感謝祭」の司会を務めたことだと思います。毎年、春秋の改編期に先立って行われるこの番組、200人もの芸能人を5時間余りにわたって仕切らなきゃいけないのですから、司会する側としては相当の腕がないと務まらないのです。最初、TBSの加藤嘉一さんからの依頼電話を受けた時には「やった!」と思いましたね。この番組の司会を40回、20年にわたって務めたことで、紳助さんは司会者としての地位を不動のものにしていったのです。
2011年8月に引退を表明して芸能界を去りましたが、その真意が奈辺にあったのかは、窺う術もありませんが、どこかで「やり切った感」のようなものがあったのかもしれません。でも、才知あふれる彼のことです、いつかきっとまた違う世界でも花を咲かせることでしょう。
紳助さんの著書「風よ、鈴鹿へ」
1986年、鈴鹿サーキットのスターティンググリッドに立つ、紳助さん
TBS「オールスター感謝祭」の司会を務める紳助さん
井筒さんとの付き合いはその後も続き、85年には、今では幻の作品となったオリジナルビデオ「コンバッてんねん」に西川のりおさんを起用していただきました。主演が伊武雅刀さんと西川のりおさん、脚本が中島らもさん、秋元康さん、影山民夫さん、そして監督が井筒さん。まさに東西の奇才が集結したマニア向けの作品で、私などには結構面白かったのですが、今となっては「幻の名作」となってしまいました。
当時、井筒さんが所属していたのは、「ディレクターズ・カンパニー」という所で、角川春樹さんや、山本又一郎さん、荒戸源次郎さん、佐々木史郎さんなど脚光を浴びつつあったプロデューサーにくらべて、どこか雇われ感のあった監督の地位をもっとメジャーにしようという意図のもとに、長谷川和彦さんや、相米慎二さん、根岸吉太郎さん、高橋伴明さん、大森一樹さんなどと共に立ち上げた、新しい形の独立プロでした。
マスコミの評価は高くても興行収入の芳しくない状態の中、約10年は続いたのですが、91年9月、井筒監督の「東方見聞録」の撮影中に、エキストラの若者が死亡するという事故が起きてしまいます。結局これが引き金となって倒産してしまい、「風よ鈴鹿へ」の出資金も入らず、多少の迷惑は被ったのですが、井筒さんは会社の倒産した後も、遺族への補償を引き受けられたと聞いています。
井筒さんと次に仕事をさせていただいたのは、96年の「岸和田少年愚連隊BOYS BE AMBITIOUS」の時です。中場利一さんの原作を映画化したい、「監督は井筒さんで、主役をナインティナインの2人で」というセディック・インターナショナルの中沢敏明さんからのお話をうかがって、OKはしたものの、マネージャーからは色よい返事が返ってきません。
テレビ育ちの彼らには、映画ってやたら拘束時間が長くて面倒なことが多いというイメージしかなかったようなのです。我々の世代だと「映画の主役を張るなんて!」と喜んだと思うのですが、そんな世代論を持ち出しても仕方ありません。直接2人に当たることにしました。
赤プリのコーヒーラウンジで待ち受ける私の前に、おずおずと現れた二人に、「ガキ帝」のころを思い出しながら「井筒さんの作品だから大丈夫」と口説くと、「これに出たら、売れますか?」という言葉が返ってきました。まさか、「そんなもの分からん」と言うわけにもいかず、たしか「間違いなく売れるよ!」と答えたと思います。作品はこの年のブルーリボン賞作品賞に輝き、以降監督・主役を変えつつ、6作を松竹・吉本の共同製作することになりました。
井筒さんはその後99年に「のど自慢(東宝・シネカノン)、03年に「ゲロッパ」(シネカノン)を作り、05年、「ガキ帝」「岸和田」に続く青春3部作の「パッチギ」で2度目のブルーリボン賞作品賞に輝きます。フォーク・クルセダースの「イムジン河」、舞台となった京都、何もかもが自分の学生時代と重なって懐かしく、5・6回も映画館へ足を運びましたね。中でも、真木よう子さんの飛び蹴りのシーンは今でも記憶に残っています。
井筒和幸さん
主役に伊武雅刀さん、そして西川のりおさんも出演した幻の作品「コンバッてんねん」のワンシーン
ナインティナインの2人が主役を務めた「岸和田少年愚連隊」
1981年に公開された「ガキ帝国」
真木よう子さんの飛び蹴りのシーン
充実感を憶えながら仕事をしている内に6年の歳月が流れ、私も40歳を迎えました。大阪の本社へ制作部次長として戻れという内示が下りたのです。課長心得から課長を飛び越しての次長ということですから、出世ということでしたが、広い東京で自在に動き回っていた私には、狭い大阪へ戻って組織の中で、先輩たちに囲まれながら仕事をするということが懲罰人事のように思えました。「やめようかな?」と思いました。そう思ったのはこれが2回目でした。最初は、やす・きよさんのマネージャーを外れろと言われた時でした。後になっては短慮という他ないのですが、「会社はタレントさんの言い分を採って、社員を切り捨てるのか」と思ったからです。でもこの時は「もしかしたら、今自分は試されているのではないか」と思い直したのです。「木村が大きな顔をしているのは、やす・きよという売れっ子タレントを抱えているからだけのことで、それを手放したら、お前は一体何ができるんだ?」ということを見られているような気がしたのです。
まあ、そのおかげで東京へ来ることができたというわけですが、さすがに今回は違いました。「手を広げるのはいいけれど、誰がそこまでやれと言ったんだ」という意味合いの方が強いと思ったからです。普通なら事情通の社友がいて、今回の異動は、かくかくの狙いがあってなどと解説してくれたりするのですが、あいにくそんな仲間もいない私には、何一つ情報が入ってこなかったのです。上司である林制作担当取締役は、前にも述べたように寡黙な人で、「なんでこうなったか」ということも一切説明してくれません。おまけにこの年に長男が生まれたということもあって、「このまま東京に残って、どこかのプロダクションに入るか、誰かのマネージャーになるか」とも考えたのですが、「もしかしたら、大阪本社の制作部の強化をしろ」ということなのかと勝手に思い直して、家族を残したまま大阪へ赴任することになりました。不惑という言葉通り、40歳の自分にとって「大いに惑う」年となったのです。
幸い、大阪の枚方市楠葉には母も住んでいたので、以降ウィークデーは基本的に大阪。週末は東京という生活が始まることになるのです。それまで歩いて出勤していたのが、樟葉から京阪電車で淀屋橋、地下鉄に乗り継いで難波まで、都合50分ほどかけて通勤をするリズムを取り戻すまでにしばらくかかりました。NGKの上にある本社へ通う南海通りにある「波屋書房」も、豚まんの「二見」もアイスキャンデーの「北極」も昔のまま、千日前のたこ焼きの「わなか」、「あずま食堂」、肉すい・小玉の「千とせ」もそのまま残っていました。本社の会議風景も6年前と同様、たまに顔を出すパーティでも出席しているメンバーの顔触れがほとんど変わっていないのにも驚かされました。「時計の針が止まっている」それが復帰して、まず最初に感じたことでした。
南海通りにある「波屋書房」
豚まんの「二見」
アイスキャンデーの「北極」
たこ焼きの「わなか」
「あずま食堂」
「千とせ」名物の肉吸い・小玉
心斎橋の「カミン喫茶店」
「時計の針が止まっている」
振り返れば、80年から起こった「MANZAIブーム」は凄まじいものでした。たった2年間で鎮静化に向かったとはいえ、「それ以前」と「それ以降」では、すっかりと景色を変えてしまうほどのインパクトがあったように思います。まず、それまでどちらかというと、大人の専有物の感があった「笑い」が、広く「若者」にも開放されたことです。次に若者に広く認知されたことによって、それまで、ドラマや歌謡界に比べて、いくぶん低く評価されてきた「笑い」というもののステータスが上がりました。当然、個としてのキャラクターを求められる「ひょうきん族」以降にも勝ち残った、たけしさんや、紳助さん、それに漫才師ではないけれど、さんまさん、「笑ってる場合ですよ」の後継番組「笑っていいとも!」のMCを務めたタモリさんたちは、メジャーなタレントとして、それまでの、コント55号やドリフターズといった人たちにとって代わって、テレビ界での主要なポジションを占めることになりました。後に、タモリさん・たけしさん・さんまさんを称して「BIG3」なる言葉が生まれました。愕いたことに、この人たちは30余年たった今もなお、芸能界で主要なポジションを占め続けています。
更にもう一つ加えるなら、それまで東京では、広く認知されているとは言えなかった関西弁に「市民権を与えた」と言ってもいいのかもしれません。なるほど、それ以前にも、東京の漫才界にてんや・わんやコンビの瀬戸わんやさんや、2代目桂小南さんのような関西出身者はおられたのですが、まだまだ希少な存在でしかありませんでした。それがテレビを通じて、B&Bや吉本勢の口から、日々耳に入ってくるようになったのですから、耐性ができても不思議ではありません。おかげでそれ以降、アウェーの東京でも関西弁の通りがずいぶんと良くなってきたような気がします。
そして、やすし・きよしのお二人は、「それ以前」と「それ以降」のどちらかではなく、2つの時代を橋渡しした、唯一無二の存在であったと言えるのではないでしょうか。51歳の若さで早逝されたやすしさんばかりが伝説化、神話化されているのに比して、70歳のリアルな姿を今も見せ続けなければいけないきよしさん、ほんと、割に合わないと思いますよ。
そんな時代の変わり目に東京への転勤を命じられ、ブームの真っ只中で、吹き荒ぶ風を体感することが出来て本当に良かったと思っています。今にして思えば、まるでジェットコースターに乗っていたようなものです。たまたま、行く先も見ずに乗った列車が、超特急列車だったようなものです。ただこのブームを作ったのは、あくまでも志のあるテレビマンと、才能のあるタレントさんたちで、私などは、たまたまそこに乗り合わせただけのものです。そんな風を受けてきた私にとって、戻った大阪で体感した風は、なんとも生温かいようにしか思えませんでした。「・・・さて、どうしたものか?」とも思ったのですが、何でも自分で決めることができた東京とは違って、何かを始めるには、まず、冨井さんという直属の上司である部長の判断を仰がなくてはなりません。困りました「さて一体、どうすればいいのだろう?」この冨井さんという人、関学で哲学を専攻していただけあって「考える人」なのです。昔からどうにも苦手とするタイプで、それまではなるたけ接近戦を避けて、アウトボクシングに徹してきたのですが、今回ばかりはそうもいきません。「さて、困った。果たして上手くやっていけるだろうか?」。「親と上司は選べない」と言いますが、それにしても、よりによって会社は何でこの人と組ませたのだろうか?恨みを込めて常務取締役の林さんの席に目をやると、不在。きっとその頃は、どこかの雀荘で麻雀パイを握っていたに違いありません。ああ、木村の運命やいかに?この続きは、次回のお楽しみということで。
てんや・わんやさん
2代目 桂小南さん
初代 冨井善則師匠
考える人
考えない人
これは自由すぎる女神