この頃の記憶が定かではないため、当時の事情をつぶさに記した小林信彦さんの「天才伝説 横山やすし」を読み返すと、小林さんが笠原和夫さんと交わされた会話の中に興味深い記述がありました。漫才ブームに沸く80年、毎日放送「素晴らしき仲間」の中で、「あと何年くらいコンビとして漫才をやれる?」と尋ねた藤本義一さんに、やすしさんが「あと7年くらいやと思います」と答えたというのです。80年といえば、やすし・きよしが芸術祭優秀賞、花王名人大賞を受賞した年です。その絶頂期に、「ここまで言いきっていいのか」と小林さんは感心されたというのですが、86年に西川きよしさんが参院選に出馬した辺りから酒量が増え、翌年には吐血入院していったことを思えば、結果的には読みが当たっていたといえるのかもしれません。
この年、やすしさんには啓子夫人との間に、光ちゃんという女の子が生まれました。そんな時にセスナ機を購入したのです。溺愛する光ちゃんの名前を取って月光号と名付けられました。事前に相談はされていたのです。「実は、悩んどるねん。家を買うか飛行機を買うか?」それを聞いて、「そんなもん、家に決まってるでしょう」と答えたものの、私の意見は採用されず、ロケで出かけたアメリカで頭金を入れてしまったというわけです。私も2度ばかり、駐機している八尾空港から乗せてもらったことがあるのですが、「無線免許を持ってないから離着陸だけは単独ではできない」とのことで、正式のパイロットが横について、横山さんはコーパイ(副操縦士)ということだったので安心して乗ることができました。「これで、上から相方(西川さん)の家を見下ろしたるねん!」と得意げに話していましたね。後に「やすし・ハワイの空を飛ぶ」という企画でロケをした制作会社のプロデューサーから、やすしさんが操縦免許を持っていなかったということを聞いて、思わずひっくり返りそうになったのを憶えています。
いつだったか、吉本興業の林正之助会長が、伝説の破滅型芸人・初代 桂春團治さんと、やすしさんのどちらが無茶だったかと問われて、「そら、やすしや!春團治は空を飛ぶようなことはなかった」と答えられたそうですが、まさに言いえて妙、さすが笑いを商いにする会社のトップだけのことはあるなと感心しました。数多くの芸人さんを見てこられ、皆から「ライオン」と恐れられてきた会長が、やすしさんの才能を評価されていた証拠ですね。
小林信彦さんの著書「天才伝説 横山やすし」
第1回 花王名人大賞 受賞時の様子(1980年)
伝説の破滅型芸人・口を差し押さえられた春團治さん
溺愛する光ちゃんの名前を取った、月光号の前で
愛機に搭乗して、ご満悦の横山さん
林正之助会長とともに、創業者 吉本せいさん像の前でツーショット
やすしさん、ハワイの空を跳ぶ?