木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 当時は意識をしていませんでしたが、どこかでこの会社の持つ、カウンターカルチャー(強いもの・既得権・立ちはだかるルールより、自分たちで何とかしようというアンチテーゼ)という精神にシンパシーを感じていたのかもしれません。以降、多くの作曲家や、アーティスト、プロダクション主導のレコード会社ができたことを思えば、フォーライフ・レコードが、その後のレコード業界に与えた影響は多大なものがあったと思います。当時の後藤副社長は、私より3歳下の31歳。スタッフほとんどが20歳代という若い会社でした。

 提案されたのは、詩と曲を担当する近田春夫さんの「恋のぼんちシート」、当時の彼のバンド、ジューシイ・フルーツの「恋のベンチシート」をもじったもの。歌詞も、当時彼らがネタで使っていた、人気番組「アフタヌーンショー」での、川崎敬三さんと山本耕一さんの「そうなんですよ 川崎さん!」「ちょっと待ってください 山本さん!」という掛け合いが入っていました。曲の方も、後で聞くと、深夜放送でリスナーから指摘されて、近田さんが、自らのダーツの「ダディ・クール」をパクったと告白されたように、どこかイージーなものだったことは否めません。もとより、音楽的素養のない私にそんなことが分かるはずもありませんが、ぼんちの2人を含めて、フォーライフの若いスタッフの「面白いじゃん」という軽いノリに乗ってみることにしました。

 すでに売れっ子になっていて、おまけに東京・大阪を目まぐるしく移動していた彼らがレコーディングをするには、すべての番組収録の終わる深夜しかありませんでした。何かのインタビューで彼らが絶頂期には東京・大阪を2往復半したと話していましたが、それは多少オーバーにしても、「目が覚めた時ここは東京?大阪?と思ったのは事実だと思います。レギュラーの仕事をようやく終えて、12時をまわるころにレコーディング・スタジオに入って、終わったときにはすっかり空が白み始めていました。当然立ち会っていた私たちもそれは同様なのですが、それでも皆がすぐには帰らないで、宿舎のある赤坂近辺のジョナサンで熱く語り合っていましたね。小さな事務所から移籍して、外様組として苦労を重ねてきた2人。おさむ君がアルバイトに先輩の店へ行って、「毎日1万円もらえるんです。」と嬉しそうに話してくれたのがつい昨日のように思えました。さぞかし疲れているであろうに、眠い目をこすりながら、熱い思いを語りあっていたのを今でも憶えています。

川崎敬三さん(左)と山本耕一さん(右)

 

「恋のぼんちシート」の詩と曲を担当していただいた近田春夫さん

 

人気番組「アフタヌーンショー」