木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 かって「神風タレント」と呼ばれていた頃と違って、仁鶴さんのスケジュールも、喉に負担のかからないようにとの配慮から、余裕を持たせたものになっていました。レギュラー番組も、ABCラジオの「ヤングリクエスト・仁鶴の頭のマッサージ」と「ポップ対歌謡曲」」くらいだったと思います。私が先輩から引き継いだ時は、ちょうど大映映画の「ギャンブル一家・ちと度が過ぎる」の撮影中とあって、豊中の自宅から京都まで、愛車のフォルクスワーゲン・カルマンギアタイプⅢに乗せていただいて通ったのを覚えています。ただ、2人乗りのスポーツタイプだったので、先輩が同伴した時は、先輩が前で私は窮屈な姿勢で後部に座り、京都に着くまで大変な思いをしました。後日、何の機会だったのか覚えていませんが、ロールスロイスに乗せていただいて、広々とした後部座席にカップラーメンが入っていたこともあり、そのアンバランスな取り合わせに、妙に感動したのを覚えています。

 梅田コマ劇場で「滝の白糸」に出演された仁鶴さんの姿を見て、どうしても仁鶴さんに芝居をやっていただこうと、関西テレビ「どてらい男」の山像プロデューサーにお願いして「春団治恋狂い」という自主公演を、無謀にも大阪の三越劇場でやることになりました。相手役は、必殺シリーズ「暗闇仕留人」・妙心尼の「なりませぬ」というセリフで知られた、三島ゆり子さん。たった2日間、3ステージという短い公演でしたが、舞台上のことは全て山像さんにお任せして、私は専ら、付き合いのある代理店やプロダクション、タレントさんがやっている夜の店を訪ねて、チケットを捌くことに追われていました。当時は、自社のtタレントが、他の舞台で自主興行をやることは原則的には認められていなかったので、そのプレッシャーもありましたし、赤字を出すことなど、とても許されなかったので、必死の思いでしたね。社内の誰からも褒められはしませんでしたが、自分の中では、「やり切った感」に浸っていました。ただ、チケットは売れても、そのために、使った飲み代などの経費をカウントできないということもあって、結局数十万円ほどの持ち出しになりました。そのまま、会社に提出するわけにもいかず、結局、母親から借金をして穴埋めをして帳尻を合わせました。後日、母にはそれを返却したのですが、とうとう母は死ぬまで「あの時、お前に金を貸してやった」と言い続けていましたね。

笑福亭仁鶴さんと新喜劇の作家 中村進さん

 

カルマンギア

 

KTVプロデューサー山像信夫(作家名:逢坂勉)さん 

奥様の女優 野川由美子さんとのツーショット 

 

「春団治恋狂い」のチラシ

 

三島ゆり子さん

 

チケット捌きに奔走していたメモ書き

 

大阪三越劇場の外観

 

重厚な色調で彩られた内観

 

やりきった感