もう一つ、西川さんの良さが発揮されていると思ったのが集団コメディのKTV「爆笑寄席」でした。番組がスタートしてすぐに横山さんが出演不能になり、西川さんとコメディNo.1で回すようになっていたのですが、寄席とは名ばかり、「体力の限界に挑戦する」というキャッチ通りの超ナンセンスなコメディでした。特に西川さんと坂田さんが新喜劇時代からの親友ということもあって、チームワークの良さが番組に表れていたような気がします。一応ストーリーがあって進行するのですが、出演者のもっぱらの関心はエンディングの大乱闘で、どう振舞うかにあったように思います。ほとんどの場合、犠牲になるのは坂田さんだったのですが、稀に攻撃が他に向くこともありました。水を掛けたり、頭をたたいたり、エンディングが迫ってくると、皆が各々仕掛けの準備にかかるのが面白くて、舞台に見入っていた気がします。台本には「大乱闘のうちに終わる」としか書かれていないし、いつ誰と誰がターゲットを決めているのか分からないのですが、毎回一番盛り上がるのがこの場面なのです。たまには真剣に「今日はやり過ぎやろ!」などと怒ったりすることもあるのですが、ターゲットにされるということは「おいしい」ということでもあるので、それ以上関係が悪化するようなことはありませんでした。この番組が放送されるのが、日曜日の夕方とあって、裏には「笑点」という強力な老舗番組があったのですが、出演者・スタッフみなが「笑点、何するものぞ!!」という意気に燃えていましたね。おかげで視聴率では笑点をいつも上回っていた記憶があります。
出演者のほとんどは吉本で占められていたのですが、松竹芸能からは若手漫才の奈和せつ子・フレッシュ花子さんと、当時まだアフロヘアーだった笑福亭鶴瓶さんが入っていました。大御所がたくさん揃っていて、楽屋の雰囲気もきちっとしている松竹の雰囲気と違って、主要メンバーが若くて伸び伸びしている吉本の雰囲気になじみ切れず、乱闘シーンにも加われず、どこか肩身が狭そうにしている彼らに「吉本においでよ!」と声をかけたこともありましたね。当時は、お互い芸人さんの引き抜きは自粛するという暗黙の「二社協定」なるものがあったらしいのですが、そんなことなど私が知る由もありませんでした。目下売れに売れている鶴瓶さんを見るたび、「あの時もっと熱心に誘っておけばよかったのかも」と思ったこともあるのですが、今となっては、それはそれでよかったような気もしています。
爆笑寄席200回記念で撮影した集合写真
中央、扇子を持っているのはプロデューサーの村上健治さん
そんな中、フジテレビが「11PM」の対抗番組として創った「ナイトショー」の後続番組、「トゥモロー」を止めることになり、それまで火曜日分だけを制作していたKTVが、ローカルで独自に「ナイトパンチ」という深夜番組を立ち上げることになりました。最初は金曜日の生放送で、仁鶴さんがメインで、冒頭の仁鶴さんの一人喋り「パンチDEトピックリー」や、ギャングの親分アルカポネに扮した仁鶴さんが、子分役のコメディNo1・カウスボタン・ノックさん・上岡さんたちと絡む大喜利風のやり取りが人気を呼びました。最後に坂田さんが由美かおるさんのお尻を撫でて、頭を叩かれて落ちになるというパターンが多かったように思いますが、この番組が好評だったのでもう1曜日、木曜にも創ろうということになりました。メインは西川さんと三枝さん、単なる新人マネージャーに過ぎなかった私も、栂井プロデューサーや村上ディレクターの配慮で毎回企画会議に参加させていただいて、本当に思い入れの強い番組になりました。西川さん、三枝さん共に力を合わせて、「金曜日に負けないように一緒に頑張ろう」という意識の方が強かったように思えました。
後にこの番組のコーナー企画「パンチDEデート」が独立して、最高視聴率44.9%を稼ぐお化け番組になったのですから驚きです。この番組には他にカウス・ボタンの2人が仕切る「町で見かけたカワイ子ちゃん」や加茂さくらさんのコーナーや、日本デビューしたばかりの欧陽菲菲のエンディング曲「雨の御堂筋」の他に、 3〜4人の素人さんに30秒間好きなことを喋らせる、「パンチDE一言」という3分間くらいのミニコーナーがありました。もちろん生放送ですから、放送事故につながる事態は避けなくてはなりません。コメント内容を事前にチェックはするのですが、そのせいか否か、いまいち話される内容にパンチがないように思い、コーナーの最後に相棒の生恵幸子師匠が病気療養中の「人生幸朗師匠に出てもらっては?」という提案をしてみました。人生幸朗・生恵幸子さんといえば、吉本の漫才師の中では島田洋介・今喜多代さんと並ぶ大師匠です。どちらかというと温厚な洋介・喜多代さんに比べ、うるさ型でも通っていました。誰もが敬遠する難しいこの人に、「若者向けの深夜の生番組、しかも持ち時間30秒から1分で!!」なんて、とても言えたものではありません。でも提案をしたのは自分です、ここは意を奮ってお願いするしかありません。思い切って楽屋を訪ね「帰れ!」と言われるのを覚悟で切り出してみることにました。さて!その結果は、次回ということで…
パンチDEデートの様々なグッズ
欧陽菲菲さんの「雨の御堂筋」
この人生幸朗さん、1907年生まれで私より39歳上ですから、当時は63・4歳だったと思います。自分の出番の前で、人気者のやすし・きよしが大爆笑をとって、大幅に出演時間をオーバーして舞台を下りて来た時も、負けじとそれ以上の笑いを取って舞台をおりてくる、芸人魂に溢れた人でした。都家文雄さん直伝の時事や世相風刺のボヤキ漫才の要素に、時の流行歌のボヤキを取り入れることで、多くの人たちに認知されるようになりました。
「まあ皆さん、聞いてください」と語りかけ、世相やニュースを斬ったあと、五木ひろしさんの「愛の始発」の歌詞、「川は流れる 橋の下」を取り上げ、「当たり前や、橋の上流れ取ったら水害やがな!」、伊東ゆかりさんの「小指の想い出」の「あなたが噛んだ小指が痛い」には「誰が噛んでも痛いわ!」とボヤキます。歌詞ばかりではありません、タイトルにもその矛先は向けられます。西郷輝彦さんの「海は振り向かない」には「当たり前や!!海が振り向いてみい、船は元の港へ逆戻りじゃ!」、千昌夫さんの「アケミという名で十八で」には「アケミいうたら皆18かえ!うちの近所のアケミは68じゃ!」などとボヤクのです。そして、ボヤキが最高潮に達したとき人生さんは「責任者出てこい!」と絶叫します。すかさず「出てきたらどないすンのン!」とツッコミを入れる相棒の幸子さんに、「謝ったらしまいや!」と言って終わりになるのですが、流行歌をネタにするだけに、ファンから非難されることもあったと聞きますが、逆にとり上げてもらった歌手の方に「漫才のネタになるほど有名になった」と感謝されたこともあったそうです。
大器晩成の人生師匠は、自らが苦労の上に努力と実力でトリを務める地位を勝ち得たという自負もあっただけに、易きに流れる若手や、テレビ出演のために簡単に出番の変更を許す風潮にくぎを刺す意味もあって、あえて、苦言を呈されていたのかもしれません。全身に汗をびっしょりかいて舞台からおりて来られる師匠を見るたびに、本物の「芸人魂」を学ばせていただいた気がしましたね。
人生幸朗さん 生恵幸子さん
人生幸朗さんの「ええかげんにせんかい! 責任者出て来い!」
筋の通らないことには厳しい人生幸朗さんでしたが、楽屋に大量のコロッケを差し入れるなど面倒見のいい人だったので、後輩芸人や裏方さんからはとても慕われていました。まだ劇場勤務だった頃、私もお相伴にあずかったことがあります。また、競馬が好きで、よくお弟子さんを場外馬券場へ走らせるのですが、まず当たったためしはなかったように思います。多点買う割にあまりに外れるので、楽屋内では密かに「人生師匠の買った抜け目を買えばきっと当たる」などと囁かれていましたね。
分厚いレンズのメガネをかけていたこともあって、視力に関するエピソードにも事欠かない人でした。仏前にお参りして鐘を叩いても音がしないので何度も繰り返していると、背後にいた吉本の社長から「人生君、それは〈お供えの〉饅頭だよ!」と注意されたとか、出前の大皿寿司を皆で食べているとき、皿に描かれた海老を箸でつついていたとか、ホテルの部屋へ入ったとき姿見に映る自分の姿に驚き、「これは失礼しました」とあわてて部屋を出て、フロントに「他人が入っている部屋のキーを渡すんじゃない!」とクレームをつけたとか・・・脚色の多い楽屋話なので、どこまでが本当なのか分かりませんが、いかにもありそうな話ではありました。
人生師匠はやす・きよコンビのことは高く評価されていて、そのご縁で何度かお話をさせていただく機会もあったので、今回のお願いをするときに、「大丈夫かな?」という不安はもちろんあったのですが、一方で、単なる古典ではなく時事や流行歌をネタに取り入れる「時代感覚にビビッドな人だから、多分OKしてもらえるんじゃないか」という予感もありました。結果は、何とか了解をいただき「パンチDE一言」に出演していただけることになりました。おかげでコーナー自体がぐっと締まり、人生幸朗さんの名前は若者層にも浸透し、相棒の幸子師匠復帰後はコンビの名前が全ての世代に知られるようになりました。提案した私などより、それをチョイスされた師匠の判断が正しかったということです。1982年に風邪をこじらせ、74歳でお亡くなりになりましたが、まだまだご活躍いただきたかった人でした。
楽屋に大量のコロッケを差し入れたり、皿に描かれた海老を箸でつついたり、
お茶目な一面もあった人生幸朗さん
仏前のお参りで、お供えの饅頭を叩いてしまったこともありました。
他にも思い出深い芸人さんがいらっしゃいます。滝あきらさん。艶ネタや風刺ネタを得意とする「漫談家」で、九十九一さんや村上ショージさんの師匠に当たる人です。世間での評価はそれほどでもなかったのですが、芸人さんの仲間にはとても愛された方でした。誰も本当の歳を知らなかったという不思議な人で、仲間の芸人さんの定期券を使って阪急電車に乗ろうとしたとき、名義人の年齢とかけ離れているのを不審に思った改札でとがめられた際に、「芸人に歳はない!」と叫んで通過をしたと言います。仲間うちから「ガッツ滝」と呼ばれた滝さんらしいエピソードです。ヨッパライの客が喋りにいちいちヤジをいれるので、切れそうになっている滝さんを見て、先回りして外へ連れ出したこともありました。漫談のような一人喋りの舞台でいちいちヤジを入れられたのでは、とても舞台を続けることはできません。おとなしく聞いていらっしゃる他のお客さんにも迷惑がかかります。
そんな滝さんですが、衣装にはとっても凝るおしゃれな人で、どちらかというと原色系のファッションの多い芸人さんの中では異色の存在でした。早めの舞台を終えて、注文をしたコーヒーを飲みに事務所へ来られる、師匠の武勇伝やおしゃれ話を聞くのを楽しみにしていました。
もう一人は木川かえるさん。ベレー帽をかぶり、大きな黒い縁の眼鏡をかけた独特の風貌の漫画家で、親交のあった手塚治虫さんの作品を見て漫画家への道を諦め、進駐軍のキャンプ巡りで磨いた、音楽に合わせて漫画を描く「ジャズ漫画家」として吉本に入り、ユーモアにあふれたトークを交えたアドリブ漫画という独自の芸で、周囲からも一目置かれていた存在でした。ひょうひょうとしたその人柄は、「俺が、俺が」という風潮のある芸人さんの中でも異色の存在で皆からも好かれていました。いたずら好きの仲間が、舞台で使う何枚かの模造紙に蝋を塗っていて、かえるさんが客のリクエストに応えて描く絵のインクがたれて舞台がこわれかけたこともありましたね。そんな時も怒りを表すわけでもなく、「せっしょや、せっしょや!」だけで済ませる不思議なキャラクターの持ち主でした。
ガッツ滝さんも、後に京都精華大学で講師を務め、あの手塚治虫さんが「舞台の天才」と評した木川さんも逝かれました。今こうして振り返ると、こんな面白い人たちと共に、いい時間を過ごせたことの幸せを感じます。「こんな境遇に置いてもらって、おまけに給料までいただいていいのだろか?」なーんてことは考えませんでしたけれどね。
滝あきらさん 木川かえるさん
木川かえるさんの著書「ぼくは人生のすべてを、漫画から学んだ」
木川かえるさんの舞台風景
話を戻します。横山さんがテレビに復帰できたのは事件から2年4カ月後のことでした。翌月にはABCで「プロポーズ大作戦」や、NTVの「スターに挑戦」が始まり、マスコミの世界で「やす・きよコンビ」の回復が図られていくようになりました。とりわけ「スターに挑戦」はさすがに東京キー局だけあって、提示されたギャラも在阪局とは雲泥の差があり、「こんなに頂けるのか!」とプロデューサーの木村尚武さんの顔をまじまじと見たものです。この木村さん、歌番組のプロデューサーによくありがちな調子のいいタイプではなく、東北訛りの残る、とっても素朴な人柄で、ニックネームの「大臣」と呼ばれていました。米沢のお父様が大物政治家であることに加え、悠揚迫らざる態度からそう言われていたらしいのですが、やすしさんのテレビ解禁後、真っ先に声をかけていただけたのは本当にありがたかったですね。ようやく欠けていたピースが揃い、吉本のメンバーは更に強力なものとなりました。
また、この年には花月劇場3館の入場者が163万人と、開館以来最大の動員を記録しました。特に賑わう正月興行などでは、1000人位のキャパシティの劇場に7000人位の観客が押し寄せ、人が廊下から溢れ出ている様子を見て、帰ろうとする客に劇場スタッフが「まだ入れます」と言って入館を促していました。今と違って、まだ消防法の緩かった時代の話です。「見られへんやないか!」とクレームをつけるお客さんに言質を取られないように、「見られます」とは決して言わないところがミソなんだと、あとで教えてもらいました。昔は夏場の暑い盛りにわざとエアコンを止めて、アイスクリームを売りつけたとか、冬場に暖房を止めて温かい飲み物を売ったこともあったようですが、私が経験した頃にはさすがにそこまでのことはなかったように思います。プログラムが一巡するとお客さんが入れ替わるのですが、出入り口が同じだと混乱するので、見終わったお客さんをいったん舞台に上げて退出口に誘導して、次に新しいお客さんに入ってもらうという工夫も凝らされていました。中には怒って払い戻しを求める人もいましたが、大半は超満員のなか前の人の肩越しに舞台を見て満足してお帰りいただいていたのですから、本当にいい時代でしたねえ。
満員のお客さんで賑わう劇場
2年4カ月後に復帰しました
横山さんとともに復帰会見をする
当時東京では、NET(現テレビ朝日)で日曜正午から放送している「大正テレビ寄席」という人気演芸番組がありました。ウクレレ漫談の牧伸二さんが司会で、主に東京のてんや・わんや、チック・タック、千夜・一夜、玉川カルテット、桂子・好江さんといった、東京の漫才師さんたちがゲストとして出演されていたのですが、月に2度くらいは大阪からもゲストが招かれていました。もちろん、かしまし娘やレッツゴー3匹、いとし・こいしといった他社の方も出演されるのですが、やすし・きよしやコメディNo.1、Wヤングなど吉本の芸人さんが出演する時は欠かさず同行していました。
収録会場は渋谷の東急文化会館、あちこちに同業者の顔が見られて、にこやかな笑顔の裏に、大阪から来たゲストの「お手並み拝見」というアゲインストムードいっぱいの楽屋でした。もちろん、招かれた方の大阪勢もその空気は察知していて、まるで敵地に乗り込むかのような緊張感で舞台に臨んだものです。そんな空気を和らげてくれたのが泉ピン子さん。まだ当時は牧伸二さんの付き人をやっていて、お父さんがブッキングを任されている佐藤事務所の専務だったこともあって、お茶子さんの代わりをやっていらっしゃったのだと思います。後年、「ウィークエンダー」を経て大女優になられる、まだまだ前の話です。
いつも、アウェーの中で奮闘する大阪勢を客席の最後方で見て、収録の後に「なんだ、もう帰るの!泊まるんだったら食事くらい御馳走したのに!」という東京の芸人さんのお誘いを断って、自分たちで食事をとりながら反省会をするのが常でした。この時確信しましたね、東京勢には絶対負けていないと!
この番組、頭に大正と付いているくらいですから、大正製薬の一社提供番組だったのですが、(当時)同じ系列の同じ時間帯に大阪では「サモン日曜お笑い劇場」という吉本新喜劇の劇場中継をやっていたのです。サモンと付く以上同じ大正製薬の提供であることは言うまでもありません。同じ系列で同じスポンサーが東西で別々の番組提供するなんて稀有の例だと思います。東京・大阪どちらの番組も、地元以外ではそれほど視聴率を稼げなかったのが理由だと聞きましたが、まだまだ東西の「お笑い格差」が大きかったということなんでしょうか。
ウクレレ漫談の牧伸二さんと大正テレビ寄席の台本
ウィークエンダーのリポーターに抜擢された頃の、泉ピン子さん
この原稿を書いている今、迷走台風が明日にも上陸しようとしていますが、台風で思い出したエピソードがあります。大阪のABCと西日本7局が共同制作していた「ワイドサタデー」でのことです。毎週土曜日の午後3時から4時まで、関西と加盟局の2つの地域を結んで多元中継される、当時としては珍しい形態の番組でした。司会はプロ野球解説者の佐々木信也さん、やす・きよさんは中継レポーターとして加盟の瀬戸内各局から出演をするのが常でした。学生時代から旅をするのが好きだった私には楽しい番組の1つでした。
そんな「ワイドサタデー」の本番当日、1回目の出番を終えたやす・きよさんと劇場にいた私に1本の電話が入りました。なんと、天候不順で徳島行の飛行機が飛ばないというのです。飛行機に乗ればたった30分くらいで行ける距離なのに、さて困ったなと皆が思案にくれていると、横山さんが「そんなもん、ボートで直線で突っ切ったらええねん。あっという間に着くがな、間違いない!」とのこと。あまりの断定的な物言いに、皆が一瞬その言葉に引きずられそうにはなったのですが、念のためにと問い合わせると「波が高いから航行は不可能」とのこと。こういう時の、裏付けもないのに決めつける横山さんの発言には気をつけないといけません。でもなぜか変に説得力があるんですよね。「波が高いからダメみたいですよ」と告げるとたった一言「そうか!」で終わってしまうんですから憎めない人ではあるんですけど。
結局、ABCが手配したヘリで中之島のビルの屋上から飛び立ち、吉野川の畔に降り立って事なきを得たのですが、冷や汗ものの1日でした。帰りは飛行機も飛んでいて、無事劇場の2回目の出番にも間に合わせることができました。
放送局へ向かう際、渋滞している高速道路にイライラして、タクシーを降りて放送局まで走ったこともありましたね。本人はマラソンをやっていて平気だったのでしょうが、後を追った西川さんも私も到着した時にはぐったり。ほんとに迷惑な、でも愛すべき人でした。高速道路を走るなんて経験は、そうそう誰にでも経験できることではありませんからね。
ボート通勤をしていた横山さん
自宅から花月まで、20数キロを走って出勤していたこともありました
横山さんに触れたら、西川さんに触れないわけにいきません。というより新人マネージャーの私が、曲がりなりにもこの世界で何とかやって行けるようになったのは、この人のお陰だと言っても過言ではないほどお世話になった人です。「西川さんにはお世話になり、横山さんにはお世話をした」という関係でしたね。この西川さん、高知の生まれだけあって、義理人情に厚く、一本気、新しいことにチャレンジすることを好むという、土佐の「いごっそう」気質そのままの人でした。
世間では横山さんの方が酒豪だと思われていますが、本当に酒が強かったのは西川さんの方でした。四国4県の県民性を、「思いがけない金が入ったら?」徳島の人は「がっちりと貯金する」、愛媛の人は「それを元手に何倍かに増やす」、香川の人は「とりあえず他の何かに使う」、高知の人は「それにいくらか足して酒を飲む」と答えるそうですが、高知生まれの西川さんは、乱れることもなく、本当に酒が強かったように思います。私もよく梅田にある「司」という土佐料理専門店にご相伴をさせて頂いた記憶があります。もっとも、酒を飲めない私は、お茶だけで、ただ「カツオのたたき」をいただくばかりでしたが…
また、この西川さんには「ラストキャッチの西川」という異名がありました。勝負ごとに強く、途中まで負けが込んでいても、最後には必ず勝ってしまうのです。普通なら、この辺で損切りをして、それ以上に負けが膨らまないようにと守りに入ってしまうのですが、この人は「なにくそっ」と思って逆に勝負に出るんです。まあ、それだけ度胸があるということなのでしょう。この度胸があったからこそ、まだ売れない身でありながら、会社の反対を押し切って、新喜劇のスターだったヘレン夫人を娶ることができたのかもしれませんね。
ある時、私も周囲に感化されて、何の知識もないまま競馬をやったことがあります。確か、天皇賞の時だったと思います。セリの時に相場の半額でしか買い手がつかなかったという、小柄なトウメイという馬から、馬連を買ったところ、何とこの牝馬が並み居る牡馬を「ナメたらイカンぜよ」と蹴散らして勝ち、喜んで的中馬券を手に楽屋へ行くと、なんと西川さんもその50倍くらい同じ馬券を買っていてがっくり。資金力・勝負勘、どちらも私の及ぶところではないと思い知らされましたね。今思えば、西川さんは自らの境遇を、このノンエリートの馬に託されたのかもしれませんね。
土佐料理の老舗「司」の鰹のたたき
1971年には牝馬として有馬記念を制覇し、年度代表馬になりました
最後に笑う人
競馬というと、月亭可朝さんとのエピソードも忘れるわけにはいきません。私が制作部に配属されて、間もないころのことです。朝、出勤すると、いきなり先輩社員から「悪いけど、今からすぐ東京へ行ってくれ」とのお達し。東京12チャンネル(現テレビ東京)の「世界ビックリアワー」という番組に月亭可朝さん一家がゲスト出演するので、そのフォローをしろというのです。「い、今からですか?」と聞き返したものの、否も応もありません。「せめて前の日にでも言ってくれれば」という思いをぐっと飲みこみ、矢継ぎ早に段取りを説明する先輩の言葉が途切れるのを待って、「ところで、飛行機のチェックインでどうやればいいんですか?」と聞くのがやっとでした。
何しろ、こちらは飛行機に乗ったこともなければ、東京へも中学の修学旅行以来1・2度位しか行ったこともありません。逡巡する間もなく、「遅れないように早く行け!」という先輩のありがたい言葉に送られ空港バスに乗り込みました。教えられた通りに、チェックインを済ませ、搭乗口で待っていると可朝さんと奥さん・息子さんが現れ、何とか無事に赤坂・ミカドでの収録を終えることができましたが、この時はこちらがフォローしたというより、むしろ可朝さんにフォローしていただいたというのが実感でしたね。
以来、可朝さんとはそれほどご一緒することもなかったのですが、何年かして営業の仕事で久しぶりにお会いしたことがありました。ステージを終えた可朝さんに「お疲れさまでした」と言葉をかけると、可朝さんから「木村君、このまま家へ帰る?それとも○○○ランド(注:ディズニーランドではありません)」へ行く?」と言葉が返ってきたので、「せっかくのお誘いをお断りしても角が立つ」と思ってお受けしたのを覚えています。すっかり夜も更けたので、その日は西宮のご自宅に泊めていただきました。
さあ、これからが大変だったんです。翌朝、お礼を言って帰ろうとしていると、可朝さんに呼び止められて「今日の阪神競馬の○○レースのこの馬券を買っておいて」と言って、5万円を渡されたのです。場外馬券場へ行く道すがらスポーツ新聞を見ると、大穴も大穴、到底来るはずもないような馬券でした。一瞬「呑んでしまおうか?」とも思ったのですが、もし当たれば到底自分で被れるような配当ではありません。そのまま場外馬券場へ行って、言われた馬券を購入したのですが、結果は見事に外れ。後で聞いたところこの可朝さん、過去に競馬で3000万円当てて借金を返したこともあったといいますから、呑まなくて本当に良かったと思います。
心斎橋の事務所を訪ねていただいた時のツーショット
チョビヒゲ、メガネ、カンカン帽が特徴の月亭可朝さん
「ボインはぁ〜赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ〜」で始まる、「嘆きのボイン」は大ヒットしました
1971年に放送開始した「新婚さんいらっしゃい!」の初代司会者を務めた月亭可朝さん。
桂三枝(現・文枝)さんと初代アシスタントの江美早苗さんとともに。
可朝さんが連載をされている新聞記事