木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 あり余るエネルギーを解消するかのように、横山さんはマラソンに嵌っていきました。無聊をかこつ身には、ほとばしる己が勢いをぶつける対象が必要だったのです。自宅のある堺市から出演している梅田や難波花月まで、約20~30キロの行程を走っていたように思います。「別府毎日マラソン」に出場すべく、オリンピックランナーの君原健二さんなどにアドバイスを求めていたりもしていたようですが、傷害事件を起こした横山さんには、陸連からのライセンスが下りず、やむなく断念せざるを得ませんでした。次にエネルギーをぶつけたのが、かって、視力検査で落とされ、選手への道を諦めざるをえなかったボートだったというわけです。

 売り出し中のやす・きよコンビがテレビに出られなくなったこともあって、寄席番組では、大御所がたくさんいらっしゃるライバルの松竹芸能が押し気味のキャスティングになっていました。そんな時、ABCホールの楽屋で、当時課長として芸能の現場を牛耳っていた石井光三さんから「これで松竹芸能の勝ちやな」と言われたのです。「くそーっ!」と思いましたね。この悔しさが後々のモチベーションになった気がします。当時のマネージャーのスタイルは、芸人さんと一緒に楽屋で麻雀をしたり、酒を飲みに行って仲良くなり、多少のよいしょもしながら気分よく仕事をしてもらう、この石井さんがその代表格のような人が多かったような気がするのですが、私はギャンブルも知らず、酒も飲めません。心にもないよいしょもできない自分が、そんなスタイルをとったところでしょせん馬脚を現すだけの事、それなら、いっそ「汗と涙とよいしょ」ではなく、頭脳で貢献するマネジメントを目指そうと思いました。同時に当時、西川さんが司会をしていた「シャボン玉プレゼント」に出演する歌手の方々のマネージャーたちのスマートな姿にも惹かれていました。開襟シャツでセンスをパタパタさせながら大阪弁でまくしたてる石井さんを見ながら、これからは「芸人と事務員」という呼び方ではなくて、「タレントとマネージャー」という関係に変えていかなきゃいけないなと思いましたね。

 そう思わせてくれた恩人の石井さんは、のちに松竹芸能を退社され東京へ出て「石井光三オフィス」をつくって、コント赤信号をはじめ多くのタレントを育てられ、昨年83歳で鬼籍に入られました。お礼とともに、ご冥福をお祈りいたします。

恩人の故・石井光三さん

 

松竹芸能の看板「かしまし娘」の皆さん

 

松竹芸能の芸人さんが出演していた角座