木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 大学3・4年の頃、昭和43・44年は、東京大学で始まった全共闘運動が燎原の火のように全国に広がり、国公立・私立を問わず大学の大半が闘争状態・紛争状態に陥った年でもありました。当時人気のあった東映の侠客物をモチーフにした駒場祭の「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」という橋本治さん作のポスターには鮮烈なインパクトを受けて、いまでも記憶に残っているくらいです。私が通っていた同志社大学でも、(後に加藤登紀子さんと結婚した)藤本敏夫さんが反帝全学連の委員長として闘争を主導していました。もっとも3年時には活動の拠点を東京に移しておられたとかで、同じ新聞学の専攻とはいえ、会うことはなかったのですが・・・。学生寮にでも入っていれば、多少は先輩の影響を受けたりもしたのでしょうが、自宅から通い、部活動にも励んでいない仲間とつるんでいた当時の自分にとっては、余り関心を寄せることではなかったように思います。

 一方で京都では、大学生が3人(京都府立医大の北山修・龍谷大の加藤和彦・同志社大のはしだのりひこ)のザ・フォーク・クルセダーズがデビューして「帰って来たヨッパライ」がヒットしたことで、フォークソングブームが起ころうとしていました。深夜ラジオではOBCの「大阪オールナイト」では仁鶴さんが、少し遅れてMBSの「ヤングタウン」では三枝(現文枝)さんが人気を博しつつありました。何かが変わろうとしていたのです。こちらの方は多少惹かれるものがあって、あちこちのホールで開かれるフォークコンサートにも行きましたし、深夜放送もそれほどのヘビーリスナーでもありませんでしたが聞いてはいましたね。多少の動機の不純さも秘めつつ、岡崎の天王町にあったゴーゴー喫茶なんかにも行ったりはしていましたね。まあ結構いいかげんな奴だったんです。

今はもうない、歌声喫茶「炎」。マスターの中山隆さんも2003年に亡くなりました。

 

今も訪ねる西木屋町の「フランソワ喫茶室」

 

橋本治さん作のポスターには鮮烈なインパクトを受けました。

 

ゴーゴー喫茶で踊る人たち

 

ザ・フォーク・クルセダーズの3人。加藤和彦さん、北山修さん、はしだのりひこさん

 

デビューシングル「帰って来たヨッパライ」

 

昭和42年に始まった「ヤングタウン」

司会は斎藤努さんと桂三枝(現 文枝)さん