木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 うめだ花月シアターでは、6月に専属メンバー名を「ファンキーロケッツ」と決め、8月8日杮落し公演「新版艶豊富彩踊画AHO BOO!」(しんぱんつやムンムンにしきのおどりえアホ・ブー)の準備が着々と進行していました。そしてこの年の5月30日、46歳になった私は取締役になりました。いつもは事前に内示もなく、周囲からの噂で知るばかりだったのですが、さすがにこの時ばかりは内示があったようです。「・・・ようです」というのは、今もって、いったい誰から、いつ聞かされたのか、まったく記憶に残っていないからなのです。ともあれ、肩書は取締役制作部長とはなったものの、相変わらず「木村部長」と呼ばれていたこともあって、心境の変化はなかったように思います。6月26日にNGKで行われた株主総会でも、例年客席側に座っていたものが、ただ壇上に上がったくらいのことと受け止めていたように思います。

 部長になった際に、林専務から「お前もそろそろ、新地に行きつけの店を持て」と言われたこともあって、全く酒を飲めない身でありながら、この頃には、クラブ活動に励んだおかげもあって、新地や祇園、銀座に数軒行きつけの店もでき、カルピスなどをキープするようになっていました。8月に入って、うめだ花月シアターの杮落し公演を終えた後も、変わらず仕事で東奔西走を繰り返すなか、プライベートでは13・14日に、神田川俊郎さんからご紹介を受けた、ファイナンス会社の社長が「連」を出されていた阿波踊りを見るために徳島へ、16日には大文字鑑賞に母親を伴い、家族で丸太町の鱧しゃぶで有名な「多幸金」へと、多忙な日々を過ごしていたのですが、9月に入った途端に、体調に変異を来たしたのです。

 8日、楠葉の実家に帰った途端に吐き気を催し、我慢しきれず、夜中3時頃に近所に住む、姉のご主人の車で救急病院へ連れて行ってもらったのです。注射を打っても全く効き目がなく、夜が明けるのを待って、母のかかりつけの加藤病院で診察を受け、胃カメラを飲んだところ、「十二指腸潰瘍で3週間の入院」と言われてしまいました。父方の祖父を食道癌、父を直腸癌で亡くしていたこともあって、「もしかしたら自分も癌?」と恐れていた最悪の事態だけは免れ安堵しました。昔から、自分が死ぬときは「雪の中で鮮血を吐いて前のめりに倒れて」と決めていたのです。この時期の日本では富士山頂以外、どこへ行っても雪など降ってはいませんからね。おまけに、当時の私に、3週間も仕事から離れて入院することなど、およそ、考えることのできない事でもありました。そこで、院長には「仕事の引継ぎもあるので」と準備する猶予期間をいただき、17日からの入院ということで了解をしていただきました。思えば、はるか昔、幼稚園時以来の入院となるわけです。入院当日、超音波検査を受けながら、院長に「何とか、2週間にまかりませんかね?」と、トランプ流のディールを持ち掛けたのですが、「それは経過を見ないと何とも・・・」と曖昧にしか答えてくれませんでした。でも結果、手術をすることもなく、30日に退院をすることができたのですから、院長はきっと約束を守ってくれたのだと思いますね。

ファンキー・ロケッツ

 

丸太町の鱧しゃぶで有名な「多幸金」

 

加藤病院で入院していた頃

 

雪の中で鮮血を吐くイメージ